藤原定家 「近代秀歌」 原文と朗読

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近代秀歌 藤原定家

朗読者注

 承元三年(1209年)は、ウィキペディアより、
「建永の後、建暦の前。1207年から1210年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時」
とあるが、『吾妻鏡』によると、承元三年八月十三日に、内藤知親(ないとうともちか)が京都より戻り、京極中将の藤原定家朝臣に添削をお願いした御歌に採点を加えられたものと、合わせて詠歌口伝一巻が源実朝(みなもとのさねとも)(1192-1219)に献呈されたが、これは六義風体のことを実朝が内々に尋ねたことに答えたものである。というような内容が記されている。この詠歌口伝一巻が、この『近代秀歌』にあたると考えられている。

 後に実朝に送られた初形は改変され、その際、和歌の秀歌例の部分(このコンテンツの下部分の『秀歌例』)が、八代集全体から選抜された八十三首の別の秀歌例に置き換えられた。いわゆる改訂版のようなものだが、ここには初形を記す。八代集版は朗読のみ行うこととする。これは単なる時間の都合である。

近代秀歌 本文

 今は、そのかみのことに侍(はべ)るべし。

[藤原定家の自筆本にのみ存在する一文で、源実朝暗殺の後に記されたもの]

 ある人の、
「歌は、いかやうに詠むべきものぞ」
と問はれてはべりしかば、愚かなる心にまかせて、わづかに思ひ得たることを書きつけ侍りし。いさゝかの由(よし)もなく、ただ詞(ことば)に書き続けて送り侍りし。見苦しけれど、ただ思ふままの僻事(ひがごと)[事実と異なったこと、間違ったこと]に侍るべし。

 やまとうた[=和歌]の道、浅きに似て深く、やすきに似て難(かた)し。わきまへ知る人、また幾(いく)ばくならず[どれほども居ない]

 昔、貫之[紀貫之(きのつらゆき)(868頃?〜945頃?)]、歌の心たくみに、丈(たけ)および難(がた)く、詞(ことば)強く、姿おもしろきさま[興のある姿、つまり優れた姿であるくらいの意味]を好みて、余情妖艶(よじやうえうえん)[歌から想起されるような余情やなまめかしさ]の体(たい・てい)を詠まず。それよりこのかた、その流れを承(う)くるともがら[同輩たち、ここでは者どもくらい。定家は三代集の時代あたりを想定している]、ひとへにこの姿におもむく。

[ここに、和歌を「心」「丈」「詞」「姿」として捉えているが、紀貫之の和歌の性質に対して、余情妖艶の体とは、『古今和歌集仮名序』の、在原業平の評
「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」
とあるを余情と読み、小野小町の評
「あはれなるやうにて強からず、いはばよき女の、なやめる所あるに似たり」 を妖艶[なまめかしくあでやかなこと]と読み、紀貫之の和歌の特質とは異なる、もうひとつのスタイルのことを呈示したもの]

 ただし、世下(くだ)り、人の心劣りて、丈も及ばず、詞も卑(いや)しくなりゆく。いはむや、先にあげた流れを承くるともがらより近き世の人は、ただ思ひ得たる風情(ふぜい)を、三十字(みそじ)に言ひ続けむことを先として、さらに姿・詞の趣(おもむき)を知らず。これによりて、末の世[つまり近来の]の歌は、田夫(でんぷ)の花のかげを去り、商人の鮮衣(せんい)を脱げるがごとし。

[「田夫の花のかげを去り」は、『古今集』仮名序にある大伴黒主(おおとものくろぬし)の批評「薪おへる山びとの、花のかげに休めるがごとし」、「商人の鮮衣を脱げるがごとし」は文屋康秀(ふんやのやすひで)「あき人[=商人]のよき衣(きぬ)着たらむがごとし」による。意味としては、紀貫之がまだ至らない歌い手として、批評した六歌仙の時代と対比させて、末の世の歌は、それよりもさらに低調になり果てて、まるで「花のかげに休むくらいの趣もなく立ち去る田夫」や「よき衣さえ脱ぎ捨てた浅ましい商人のあくせくするような」和歌ばかりが氾濫する。という趣旨である。]

[もうひとつ、紀貫之のスタイルの後継者たちがそのような状況へと陥ったという著述と合わせて考えると、紀貫之のスタイルを大伴黒主や文屋康秀の性質的傾向に認め、それを高見へと昇らせたものであるという暗示を含んでいる。それに対して、紀貫之のスタイルとは別のスタイルがあって、それは在原業平や小野小町のスタイルから導き出される余情妖艶の体であり、ここから今日の新しい風は吹き込んでいるのだという趣旨である]

 しかれども、大納言経信卿(つねのぶきやう)[源経信]その子、源俊頼朝臣(としよりのあそん)・左京大夫(さきやうだいぶ)藤原顕輔卿(あきすけきやう)・その子清輔朝臣(きよすけのあそん)、近くは亡父卿(まうぶきやう)つまり亡き父藤原俊成、すなはち、その亡き父がこの道を習ひ侍りける藤原基俊(もとゝし)と申しける人。このともがら、末の世の卑しき姿を離れて、つねに古き歌をこひ願へり。この人々の、思ひ入れて秀(すぐ)れたる歌は、高き世[歌の高かった頃、理想の古典時代]にもおよびてや侍らむ。

[一見、高き世とは、紀貫之のスタイルに対して、それ以前の六歌仙のうち余情妖艶の体の歌い手の時代を指すように思われるが、この本文の内容においては、定家は必ずしも紀貫之を否定してはいない。彼は、 「歌の心たくみに、丈および難く、詞強く、姿おもしろきさま」 を好んだ紀貫之の影響力があまりにも大きかったために、後世の詠い手たちが、そのスタイルへ染められたこと、しかし時代を経て、もはや紀貫之の巧みには遠く及ばないことを述べているのであって、つまりは、そのスタイルが余情妖艶の体の反対側に立つ、もうひとつの柱であることを認めている。ただし定家が理想とする余情妖艶の体に対して、その紀貫之のスタイルは、むしろ大伴黒主や文屋康秀の傾向から導き出されたものであるとして、自らの所信表明をしてはいるものの、紀貫之のスタイルを否定しているわけではない]

 今の世となりて、この卑しき姿をいさゝか変へて、古き詞(ことば)を慕へる優れたる歌、あまた出で来たりて、僧正遍昭と言われる花山僧正・在原(ありわらの)業平(なりひら)中将・素性(そせい)法師小野小町が後、絶えたる優れたる歌のさま、わづかに見え聞こゆる時今に現れ侍るを、物の心さとり知らぬくらいの愚かな人は、優れた和歌の伝統に立ち返ったのではなく、新しきこと出で来て、新奇ばかりを求めるように歌の道変はりにたりと、申すも侍るべし。

[現代の末裔たちのルーツとなった紀貫之のスタイル、さらにその源泉ともなった大伴黒主や文屋康秀、それとは異なるもう一つのスタイルがあり、それは六歌仙のうち、残りの、小野小町、在原業平、僧正遍昭、喜撰法師らの伝統から導き出され、今日の新しいスタイルとしてよみがえったのだと宣言している。ただしわずかに一首しか和歌を残さなかった喜撰を、僧正遍昭の子であり古今和歌集にも36首を収める、素性法師へと置き換えている。彼らの伝統を継承した、源経信・源俊頼・藤原顕輔・藤原清輔・藤原俊成・藤原基俊らがようやく新古典主義とでも言うべき新風を打ち立てたのであり、これに対して紀貫之こそがピークであり、その後衰えていくばかりの、紀貫之の後継者たちが、その新古典主義を眺めては、「歌の道が変わってしまった」などと騒いでいるに過ぎないと述べている。エッセー全体の印象としては、
「歌の心たくみに、丈および難く、詞強く、姿おもしろきさま」を好んだ紀貫之のスタイルを認めつつも、我らの新風はそれとは異なるもうひとつの伝統的流れから継承され、それは紀貫之のスタイルに勝るとも劣らないものであるという意識が、強く根底に流れている]

 ただし、この頃の後学末生(こうがくまつせい)、この新風こそがまことに歌とのみ思ひて、実際はそのさま知らぬにや侍らむ。だから表層的に真似をしては、ただ聞き難(にく)きを事として、やすかるべきことを違へては難しく表現し、離れたることを無理矢理に続けて、似ぬ歌[本当の新風には似てない歌の意味か、あるいは似せただけの歌の意味か]をまねぶと思へるともがら、あまねくなりにて侍るにや[広くひろまって一般化してしまったの意]

[この意見に拍手喝采、継承されるべき古典もろくに知らず、見よう見まねで、言葉をこね回して、浅はかな歌を詠いまくるような連中というものは、いつの時代にも多数派として存在するもので、そのような俗物に陥らないように釘を刺している。わずかここまでの文章で、和歌の歴史認識、スタイル認識、新しい流れ、そして自らの芸術表明を済ませ、教育者としての後継者への注意を与えて、一区切りを付けるこのエッセーの密度は極めて高く、それでいて佶屈ごう牙(きっくつごうが)なところがどこにもない洗練性は、随筆文学としても価値を有するものに思われる。ここまでが一区切りであり、続く部分は一見「本歌取り」の説明へと続くように思われるが、そこにも実はからくりがあって、このエッセーの後半部分はある種、和歌の心得の本質を、伝授している様相である]

 ところでわたしは、この道を詳しく悟(さと)るべしとばかりは思うたまへながら、わづかに重代(ぢゆうだい)の名[つまり代々和歌に知られた家柄であるということ]ばかりを伝へて、あるいは用ゐられ、あるいはそしられ侍れど[下注]、もとより和歌の道をこのむ心[情熱]欠けて、わづかに人の許さぬことを[ただただ人々の認めないような新しい和歌のことを]、申し続くるよりほかに、和歌について腰を落ち着けて習ひ知ることも侍らず。

[父親の名声のもとに歌人として活躍を始め、寿永元年(じゅえいがんねん)(1182年)には堀川院題百首を詠んで人々に絶賛されたものの、やがて新しい読み口を「達磨歌(だるまうた)」として非難され、後鳥羽上皇に見いだされて、歌人としての活躍を見せるなどの浮き沈みを言っている]

 おろそかなる[いい加減にしていて辛うじて受けた、くらいの現代語的解釈の方がしっくりいくか]親の教へとては、
「歌はひろく見、遠く聞くことによって学ぶ道にあらず。むしろ自らの心より出でて、やがては自ら悟るものなり」
とばかりぞ、申し侍りしかど、それを真(まこと)なりけりとまで、たどり知るまで突き詰めることも侍らず。いはむや近頃は、老いにのぞみて後、病も重く[三十代後半から病勝ちであったという]、憂へも深く沈み侍りにしかば、詞の花(ことばのはな)[華麗な和歌の詞]、色を忘れ、心の泉[つまり和歌の心]、みなもと枯れて、物をとかく思ひ続くることも侍らざりしかば、いよ/\跡かたなく、和歌の道を究めること、思ひ捨て侍りにき。ただ、この愚かなる心に、今こひ願ひ侍る歌のさま[現在あるべき姿として願っている歌のさま]ばかりを、いさゝか申し侍るなり。

[はなはだしい謙遜にも思え、同時に十分な名声を得た者のゆとりある謙遜のようにも受け取れるが、おそらくこのへりくだりは最後の部分に掛かっていると思われる。それはすなわち、
「他家の人の説、いさゝか変れること侍らじ」
であり、この部分、自らのことを述べた説明は、同時に外の歌人たちのことを述べたものでもあるという構成になっている。つまり自分を批判すると同時に、外の歌人たちというもの、総体についても批判し、もっともらしいことを述べるすべての先達というもの、そのすべては、わたしと同じように、
「あるいは重代の名ばかりで浮き沈み、学ぶことに十分ではなく、誰かに対する批判などで名声を得たり、誰か(ここでは親)の教えにさえも、真実を見極めようともしない」
ものたちが、何かの拍子に名声を確立しては、もっともらしい説を述べているのに過ぎないのだから、わたしがこれからひとつの例として述べる、具体的な説明についても、それ以外のことに付いても、安易にそれを信じるのではなく、本気で吟味して自らの歌を見いだしなさい。という枠構造が成り立ち、これこそが定家が実朝に伝えようとしたことの、本体かと思われる。さらにその指標として、自らが父親から受けた言葉、
「歌は広く見、遠く聞く道にあらず。心より出てみづからさとるものなり」
というひと言を忘れないで欲しい、という趣旨を見いだすことが出来ると思われる。それでいながら、次の「本歌取り」の方法は、実際に古歌の中から、新しい歌を見いだす方法として、具体的な和歌の指導として、詠み流せば隠された意図に気づかずに、すらすらと読み流せるような謙遜的な文章に過ぎないのであるから、きわめて驚異的な随筆構成法と語り口ではある]

 詞(ことば)は古きを慕ひ、心は新しきを求め、およばぬ高き姿を願ひて、寛平以往(くわんべいゝわう)の歌[下注]に習はゞ、おのづからよろしき事も、などか侍らざらん[おのずと好い歌へとおもむくと言うことも、どうしてないとは言い切れましょうか、くらいの意味]

[寛平は、ウィキペディアによれば、
「寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。」
とあり、905年に『古今和歌集』が奏上された、延喜以前(直前ではないが)に立ち返れば、という意味。つまりは『古今和歌集』のうちの六歌仙の時代のうち、紀貫之の見放した?、余情妖艶の体の伝統として、立ち返るべき時代とでも言えるか。これを懸命に学び吸収することによって、好い歌を生みなすことが出来るでしょうと指導している]

 古きをこひ願ふにとりて、昔の歌の詞(ことば)を改めず、詠み据ゑたるを、すなはち「本歌(ほんか)とす」[=本歌取り]と申すなり。

[ここでも、なぜ本歌取りばかりに固執するかと思われるが、そうではなくて、古き歌を学ぶに際して、模倣から創造へといたるためには、このような作法で過去の表現を学ぶことが、はなはだ有用であること。さらに、ここには挙げられていないが、これによってひとつの着想からは起こりえなかった、特殊な表現へと至ることも可能であるような所から、特に重んじたものと思われる]

[⇒そうではなくて、実朝があまりにもむやみに古歌を模倣するので、規範を与えたのだという説あり]

 かの本歌を思ふに、たとへば、上の句について五七五の七五の字を、さながら[そのまま]置き、一方では下の句の七々の字をおなじく続けつれば、剽窃(ひょうせつ)に近くなり新しき歌に聞きなされぬところぞ侍る。特に冒頭の五七の句は、やう[元歌の詞の様、スタイル]によりて取らずに去るべきにや侍らむ。

 たとへば、「いその神ふるきみやこ」「ほとゝぎす鳴くや五月(さつき)」「ひさかたのあまのかぐ山」「たまぼこのみちゆき人」など申す一般的な表現に類することは、いくたびもこれを詠までは、歌出(い)で来(く)べからず。したがって取るのにも差し支えがない。

「年の内に春はきにけり」「袖(そで)ひぢてむすびし水」「月やあらぬ春やむかしの」「桜ちる木のした風」などは、本歌の作者の着想として、その歌の心を表現するために生み出された、つまりその本歌をこそ想起させるような表現であるから、新たな歌のこころとはなり得ず、したがって、詠むべからずとぞ教へ侍りし。

 次に、今の世に肩を並ぶるともがら[同世代の歌人たちのこと]、たとへばすでに世になくとも、昨日今日といふのが相応しいような最近ばかり出で来たる歌は、一句(ひとく)も、その人の詠みたりしと見えんことを、かならず去らまほしく思うたまへ侍るなり。

[これは近頃の歌はもと歌の影響力が強いからとも説明されるが、定家の実朝に対する思いの本質としては、本歌取りの技法にかこつけて、相手の歌を安易に剽窃する、いわゆる安易な盗作というものについて、もっぱら戒めたものであると思われる。ちょうどエッセーの前半の締めくくりの部分「この頃の後学末生」以下の部分に対応する]

 ただこの趣(おもむき)を、わづかに思ふばかりにて、おほかたの悪(あ)し良(よ)し、歌のたゝずまひ、さらに習ひ知ることも侍らず。いはむや、難義(なんぎ)[分かりにくい意義、ここでは歌の言葉や解釈の事]など申す事は歌の名家ごとの家々に習ひ、ところ/”\に立つる筋[その家々ごとに立てる筋道]、おの/\侍るなれど、自分自身は父親からさらに伝へ聞くこと侍らざりき。わづかに弁まへ知りて申す事も、人々の書き集めたる物に、変りたることなきのみこそ侍れば、はじめて記し出だす[書物から分かることを改めて記し出すこと]に及ばず。もつとも他家の人の説などとは言っても、実際の所このわたしの状態と、いさゝかか変れること侍らじ[この部分、あるいは「侍るらし」]

[前に記した通り、この取りまとめは、随筆の後半部分の初めの部分を受けている。冒頭にあれだけスタイルについて述べているからには、
「おほかたの悪し良し、歌のたゝずまひ」
などは解した人物の書であると読み取れば、裏として、
「おほかたの悪(あ)し良(よ)し、歌のたゝずまひ、さらに習ひ知ることも侍らず。たゞおのれにて知りけり]
と読み取ることが出来。次のように解釈することも可能かも知れない。]

[一般的な和歌の良し悪しや、歌のたたずまいといったものについては、教わって知るものではない。まして難義(なんぎ)などといって歌人、あるいは流派ごとに、解釈などを相伝したりしているが、わたしはそのようなものを父から受け継いだものではない。ただわたしが父から受け付いたのは、
「歌は広く見、遠く聞く道にあらず。心より出てみづからさとるものなり」
というその精神だけである。なぜと言えば、わたしの知っていることも、すでにある歌論書に記されていることに過ぎないのだから、それを読み解けばよいのであるし、実際は難義などをかざす歌人たちについても、わたしの持っている知識と何ら変わるところのないものを、和歌の良し悪しやたたずまいとは関わりのないところで、牽強付会(けんきょうふかい)に説をこじつけて、もっともらしいことを述べているだけなのである。そのような言葉を追い求めて、たとえばわたしを師として言葉を求めるようなことが、和歌の習得に有益であるなどと安易に思い込まないで、また外のものを師として言葉を求めるようなことが、有益であるなどと思い込まないで、ただ、わたしの父がわたしに伝えた言葉のように、
「心より出てみづからさとるものなり」
ということをこころに刻み込んでいて欲しい。ただせっかくわたしに意見を求めてきたのであるから、あなたの、
「歌はいかやうによむべきものぞ」
という問いに対して、父の言葉を残すと共に、わたしはわたしの意見として、 余情妖艶の体を模索する新しい和歌のスタイルが、実際は新古典主義に他ならないと言うことと、具体例として「本歌取り」のやり方を述べてみたまでのこと。さらにまとめるならば、先ほど述べた、
「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、およばぬ高き姿を願ひて、寛平以往の歌に習はゞ、おのづからよろしき事も、などか侍らざらん」
というひとことを、わたしの言葉としてあげておこうか。
くらいの集約になるかもしれない。]

[注意
朗読時の思いつき書きなので、改まることあるかもしれず。今は歌論の取り込み中につき先へ進む]

秀歌例  (近代六歌仙)

大納言経信

夕されば かど田の稲葉 おとづれて
  あしのまろ屋に 秋風ぞ吹く

君が代は 尽きじとぞおもふ 神風や
  みもすそ川の 澄まむかぎりは

沖つ風 吹にけらしな 住吉の
  松のしづえを あらふしら波

俊頼朝臣

山ざくら 咲き初(そ)めしより ひさかたの
  雲ゐに見ゆる 滝のしら糸

落ちたぎつ 八十(やそ)うぢ川の はやき瀬に
  岩こす波は 千世(ちよ)の数かも

これは晴の歌、秀歌の本体と申べきにや。

うづら鳴く 真野(まの)のいり江の 浜風に
  尾花(おばな)波よる 秋の夕ぐれ

ふるさとは 散るもみぢ葉に うづもれて
  軒のしのぶに 秋風ぞ吹く

これは幽玄に、面影かすかに、さびしきさまなり。

あすも来む 野路(のぢ)のたま川 萩(はぎ)こえて
  色なる波に 月やどりけり

おもひ草 葉末にむすぶ しら露の
 たま/\来ては 手にもたまらず

これはおもしろく、見どころあり。上手の仕事と見ゆ。

憂(う)かりける 人をはつせの 山おろしよ
  はげしかれとは 祈らぬものを

[ここに、次の和歌の含まれる伝本もあり
   とへかしな 玉ぐしの葉に みがくれて
     鵙(もず)の草ぐき めぢならずとも
  ただし、下の解説は前の和歌にこそ相応しく、不審である]

これは心深く、詞(ことば)心に任せて、学ぶとも言ひ続け難く、まことに及ぶまじき姿なり。

顕輔卿

かづらきや 高間(たかま)の山の さくら花
  雲ゐのよそに 見てや過ぎなむ

秋風に たなびく雲の 絶え間より
  もれいづる月の 影のさやけさ

[原文「もりいづる月」だが、一般的な詠みに従う]

高砂(たかさご)の 尾のへの松を 吹く風の
  音にのみやは 聞きわたるべき

清輔朝臣

冬枯れの もりのくち葉の 霜のうへに
  落ちたる月の 影のさやけさ

君来(こ)ずは ひとりや寝なむ さゝの葉の
  み山もそよに さやぐ霜夜(しもよ)を

なには女(め)の すく藻(も)たく火の 下焦(したこ)がれ
  上(うへ)はつれなき わが身なりけり

ながらへば またこの頃や しのばれむ
  憂しと見し世ぞ 今は恋しき

先人 俊成卿

またや見む かた野のみ野の さくら狩り
  花の雪散る 春のあけぼの

世のなかよ 道こそなけれ 思ひ入(い)る
  山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

すみわびて 身をかくすべき 山ざとに
  あまり隈(くま)なき 夜半(よは)の月かな

なには人 あし火たく屋に やど借りて
  すゞろに袖(そで)の しほたるゝかな

[これ無い伝本もあり、元々あったものかも不明瞭とか]

立ちかへり またも来てみむ まつ嶋や
  雄島(をじま)のとま屋 波にあらすな

おもひきや しぢのはし書き /\つめて
  百夜(もゝよ)もおなじ まろ寝せむとは

いかにせむ むろの八島に 宿もがな
  恋のけぶりを 空にまがへむ

基俊

あたら夜を いせの浜荻(はまをぎ) 折しきて
  妹恋ひしらに みつる月かな

契おきし させもが露を いのちにて
  あはれ今年の 秋もいぬめり

 このうちに、
「み山もそよに さやぐ霜夜を」
「すく藻(も)たく火の 下焦(したこ)がれ」
「しぢのはし書き」
「いせの浜荻」
かやうの歌を本歌(ほんか)に取りて、新しく聞ゆる姿に侍るなり。これより多く取れば、我が詠みたる歌とは見えず、もとの人のまゝに見ゆるなり。

 また、分かりやすき事を違へ、続かぬような表現を無理に続くとは、「風降り」「雲吹き」「うき風」「はつ雲」などやうなるものを、見苦しい表現であるとは申すなり。

 ただ今、きと[ちょっと]おぼゆることを書き付け侍れば、無下に型通りのやうに侍れど、片端(かたは)にて[つまり気がついたことだけを述べたので、不完全であるということ]それでもなお、心はおのづから見え侍りなむ。

2013/6/7作成
2013/6/11朗読掲載

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