八代集その十一 新古今和歌集 後編

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はじめての八代集その十一 新古今和歌集 (しんこきんわかしゅう) 後編

 『八代集』の紹介も、『新古今集』にいたって風船の膨張してまいりました。今年の一月頃[校訂者注:おそらくは2014年の初めを差すかと思われる]、はじめて八代集の読破を目論んでから、半年あまりがたちますが、いつもながらにわたしの情熱が尽きるのが先か、残りの和歌を紹介しきれるのか、心もとないくらいです。余力のあるうちに、走れるとこまで走ってみましょうか。

恋歌一 巻第十一

 八代集の恋の部は、恋の予感からその成就(じょうじゅ)、逢えないもどかしさ、焦燥(しょうそう)、さらには別れ、未練へといたるような、時系列に仕立てあげられているのですが、まずは恋の初めを告げるような和歌を、ひとつ紹介しましょう。

風吹けば
   室の八島(むろのやしま)の 夕けぶり
 こゝろの空に 立ちにけるかな
          藤原惟成(これなり) 新古今集1010

風が吹けば
  下野の国にある 室の八島の
    夕ぐれの水煙が
   まるで恋を告げるみたいに
     立ちのぼるような気配です

 さて皆さま。
「吉野」といえば聖なる山、隠棲の山、桜の山、春の遅い山といったイメージが浮かびます。あるいは、少し前に見たばかりの、「塩釜の浦」ならば、うら寂しいイメージ。あるいは立ちのぼる、煙のイメージと結びついているようです。
 そのような「(当時の人の)共通のイメージ」と深く結びついた歌枕(うたまくら)、つまり名所としての地名は、実際の地名としてよりも、そのイメージを得るために、利用される場合も多いのです。

 この和歌の「室の八島」もまた、当時の歌人であれば、すぐにピンと来るイメージを宿しているのですが、何も知らない私たちには、
    「なんでいきなり室の八島?」
と戸惑うことにもなりかねません。
 この「室の八島(むろのやしま)」というのは、下野(しもつけ)の国、つまり現在の栃木県にあった膨大な湿地帯と、そこに島のように浮かぶ、丘の総称であったともされています。しかも、和歌でさかんに詠まれた時代、すでにそのような景観は損なわれていて、現実の名所ではなくなっていたという、ユニークな歌枕です。むしろその名称と、「かまどの煙」が結びついて、もっぱら「恋の煙の比喩」として詠まれるばかりの、まぼろしの名所に過ぎなかったのです。
 逆に考えれば、桃源郷(とうげんきょう)のように、現実世界にはあり得ない伝説の名所となったことによって、その名称が、いつまでも抽象的なノスタルジアの概念と結びついて、恋の理想郷みたいにして、利用されていたと見ることも出来るでしょう。

 そんな、和歌で利用されるイメージとしての『室の八島』は、水蒸気が煙のように立ちのぼり、恋する思いを駆り立てるような、静かな情熱をやどした地名として、八代集の時代、しばしば利用されることになりました。そうであればこそ、

風吹けば
   室の八島(むろのやしま)の 夕けぶり
 こゝろの空に 立ちにけるかな

というのは、はなから現実の地理とは関係なく、

「あなたから風が吹いてきたので、まるで室の八島(むろのやしま)に煙が立つように、あなたへの思いが、こころに立ちのぼってしまったのです」

という初恋の思いを伝える和歌として、たやすく捉えらたことでしょう。そうして「室の八島」は、先ほど述べたように、桃源郷と一緒です。実際の光景ではなく、空想の情景として、人々の心に定められてしまっている……

 これは女性に宛てた和歌ですが、受け取った方ももちろん、「室の八島」なんて見たことはありません。ただ水蒸気の立つ名所であり、それが恋に掛け合わされることを知っているから、
    「まあ、わたしに恋をしてしまったのね」
と己惚(おのぼ)れることが出来たのです。

 ですからあなたがたも、島のような丘が取り残された大湿地帯から、水蒸気が立ちのぼるのを、大自然のドキュメンタリー映像でも元にして、大いに空想してごらんなさい。あるいはそのくらいのイメージでもう、当時の人々の「室の八島」のイメージと、それほど隔たりのないどころか、大いにそれを乗り越えたような、空想の歌枕となっている訳です。

 あとは安心して、この和歌に感心するなり、あきれるなり、あなたの感性に委ねてくださったらよいのです。。けれども、「室の八島」が広大な水蒸気の例えであるならば、ちょっと和歌の修辞を込めながら、恋心を詠み流したものとして、あるいは効果的に響くのではないでしょうか。もちろん、執筆者の、勝手な願望には過ぎませんけれども……

 次の和歌は、これより比喩がわずかにお粗末です。
  あるいは女性からの返事を、期待できないかもしれません。

水のうへに
   浮きたる鳥の 跡もなく
 おぼつかなさを おもふ頃かな
          藤原伊尹(これただ/これまさ) 新古今集1021

水のうえに
   浮かんだ鳥の 跡さえ見つからず
 不安な気持ちにかられるこの頃です

 詠み手はむしろ、「謙徳公(けんとくこう)」として紹介されることもあり、『新古今和歌集』においても、謙徳公と記されていますが、歴史向きの名称へと変更しておきましょうか。
 近頃、相手にしてくれない女性に対して、

 あなたは水に浮かんだ水鳥みたいだ。
  近頃はどこにいるかさえ分かりません。
   それで不安な気持ちにかられるのです。
  せめて、お手紙でもください。

そんなところでしょうか。
 わざわざ水に浮かべなくても、鳥ならば羽ばたいてどこへでも行きそうですが、あえて「ぷかぷか」させたところに、浮つく気持ちを込めたものと思われます。このような和歌は、本当に構ってもらえないでいる、しがないフラれ男が未練に詠めば、
    「なんだか安っぽいたとえね、
       もう少し気の利いたことは言えないのかしら」
と、たちまち軽蔑されそうですが、反対に女性が本気で愛している相手が、ちょっと疎遠になったのを言い訳がてらに、送って来ようものなら、
    「わたしが疎遠なんじゃない、
       あなたがわたしを忘れているんだ」
なんて耳もとでささやかれたみたいで、なんだかショコラーデな気持ちになって、つい許してあげたくなるものかもしれません。

 ところで、詠み手の藤原伊尹といえば、政治権力を握った貴族であり、和歌においては『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』の編纂にも関わりのある人物ですから、おそらく「水に浮いた鳥」のようにふらふらしていたのは、送り相手の女性ではなく、詠み手の謙徳公の方であったかと推測されます。

 詰まるところ、和歌が日常生活に生きていた頃は、このように挨拶を掛ける相手や、シチュエーションによって、和歌の印象が大きく変わりますから、必ずしも純客観の美的基準をもって、鑑賞されるべき美術作品ではありませんでした。生活と寄り添ったような、生きた表現であることが、美的基準よりも先に立っていたのです。
 あるいは、生々しい社交から切り離された時、和歌は現実から遊離した、オブジェのように落ちぶれて、その生命力を失ったのでしょうか。体裁ばかりはご立派で、詠み手の思いを表現するという、必然性をすら失ったような和歌が、後の時代には、大量生産されることになりました。

 次の紀貫之のものは、
  もっとダイレクトで、力強い印象で……
 今までの三つの和歌のうちで、もっとも男らしい和歌になっているのは、ちょっとおもしろい気がします。さすが一流の役者は、ある時は女に化けて、『土佐日記』などを記していても、男を演じるときはたちまち力強く、あるいは登山家を演じるときは、マッターホルンを制覇するほどの緊迫感で「架け橋」を渡るなど、見事に演じ分けるものですね。そうかと思えば、白妙の真砂の数に君が代を讃えるほどの「おべっか」をしたりと、ほとんど自由自在です。あるいは大和(やまと)で最初の詩人。それは紀貫之のことでは、なかったかしらん。

あしびきの
   山したしげき 夏草の
 ふかくも君を 思ふころかな
          紀貫之 新古今集1068

あしびきのと讃えられるような山
   その森のしたで繁りあう夏草のように
  深くあなたを思っているのです

 ここでは、序詞(じょことば)というものが使用されています。つまりこの和歌の実体は、下の句の、
    「深く君を思うよ」
に過ぎないのですが、その「深く」の比喩として、
    「あしびきの山の下に茂り合う
       夏草のような深さ」
という上の句が置かれている。この上の句は、直接的には「あなたを思っています」とは関わりの無い表現です。ただ「深さ」をたとえるものとして置かれている。これが序詞と呼ばれる技法です。

 この和歌には、「夏草の深さ」という表現が「恋の深さ」の例えとして、わたしたちに違和感を生じさせないどころか、効果的な例えのように感じられるから、ほとんど直接的な比喩みたいに、ストレートに響いてくる。このような序詞は、生きた序詞であり、生きた技法であるといえるでしょう。もしこれが、

黄泉の国の
   奈落の底の 暗闇の
 ふかくも君を 思ふころかな

 なんて歌われれば、ほとんど呪いの様相ですし、
    「マンホールの底の深くも君を」
なんて詠んだら、一生口をきいて貰えないかもしれません。当たり前のことですが、序詞は一つのテクニックに過ぎませんから、それは詩の価値を、より高めることも出来るし、台無しにもしかねません。紀貫之のこの和歌は、序詞を使用しているから優れているのではなく、優れた序詞を使用しているに過ぎないのです。

恋歌二 巻第十二

 恋歌その二です。恋心をいだいたものの、思いを遂げられずに悩んでいるような気配です。人はそれを「煩悶(はんもん)」とからかうのでしょうか。(いったいいつの時代の人が?)それはともかく、「本歌取(ほんかどり)」の和歌を眺めましょう。。

ながめわび
   それとはなしに ものぞ思ふ
 雲のはたての ゆふぐれの空
          源通光(みなもとのみちてる) 新古今集1106

眺めては侘びしく
  それということもなく もの思いに耽ります
 雲の果てに染まりゆく 夕ぐれの空よ

  まずは「本歌(もとうた)」を……
『古今集』からの引用ですから、もっとも知られた歌集からの引用ということになります。裏を返せば、下手に詠もうものなら、たちまち石つぶてが飛んでくるような、果敢(かかん)な行為とも言えましょうか。

ゆふぐれは
   雲のはたてに ものぞおもふ
 天(あま)つ空なる 人を恋ふとて
          よみ人知らず 古今集484

 あるいは、
  「おや」と首をかしげた人もあるかもしれません。
    『古今集』の和歌の上の句を、
   初句から三句までを並べ替えて、
    「ものぞ思ふ、雲のはたてに、ゆうぐれは」
これに「空」を加えればもう、『新古今集』の和歌の三句目以下、
    「ものぞ思ふ、雲のはたての、ゆふぐれの空」
へと、そのまま置換されてしまうではないか。
 それではこの和歌の着想はただ、
    「ながめわび、それとはなしに」
に過ぎないのか……

  剽窃(ひょうせつ)か!
 さてはアイディア煮詰まって、奥の手を出しやがった。やりやがったな。他人の歌詞をこねまわし、他人のコード進行を盗み取っては、わたしのオリジナル曲を聞いて下さいとは恐れ入った。現代にもあるまじきふるまいだ。もう今日という今日は我慢できない。糾弾への扉は、いま開かれた!

 ……どうか落ち着いてください。
  それほどあわてたのでは、早とちりも良いところです。
 たしかにこの和歌は、本歌(もとうた)からの引用に基づいています。けれどもそれは剽窃などではなく、聞き手の関心を本歌へと向けたいがために、これほど大胆な引用をしたのです。こうでもしなければ、いかに和歌の世紀とはいえ、たちどころに『古今和歌集』の「よみ人知らず」の和歌へと、聞き手の関心は向かわない。それを向かわせる為には、どうしてもこれだけの引用が必要だったのです。それから、先ほど述べたこと、

この和歌の着想はただ、
  「ながめわび、それとはなしに」
に過ぎないのか……

 まさにその通りです。この和歌は、その着想を、元歌の感慨と比較して述べることにのみ意義がある。そのために採用されたのが、本歌取という技法であり、しかも、きわめて大胆な引用だったのです。

    (本歌)
夕ぐれになると
  雲の果てのあたりに ものを思うよ
 みずからは 手を差し伸べられない
   天上にいるような
     あの人のことが恋しくて……

 あの頃はまだそうだったけれど、
  いまはもう……

    (今歌)
眺めていても、恋しさよりも
  ただ侘びしさばかりがつのってきて、
    もうあの人を思っているのか、
  それさえ分かりません。
    こうして雲の果てにあるような、
      あの日と同じ、
        夕ぐれの空を眺めていても……

 本歌(ほんか)が明確になってこそ、はじめてもとの和歌の恋煩いが、さらに進んで、どうしようもない侘びしさへと陥ってしまった、そんな現在の心情が、本歌(もとうた)を参照にして推し量られるのです。あれほどの引用を企てたからこそ、ただ、
    「ながめわび、それとはなしに」
と呈しただけで、
  これほど沢山の思いを、
    和歌に込められるという不思議……

 和歌が個人で完結せず、歌人同士の共有財産にされているからこそ、このような技も生きてくる。もしこれを剽窃(ひょうせつ)だとわめき散らして、くだらない着想にオリジナリティーを主張し、互いを糾弾しあうような稚拙な精神へと落ちぶれたなら、もう豊かな表現など、どこにも見られないことでしょう。あるいは感情をもてあそぶようなおなみだ物語が、安いメロディーに乗せられて、たましいを惑わすばかりです。もっとも惑わされる方にこそ、問題はあるのかも知れませんが……

あす知らぬ
   いのちをぞおもふ おのづから
 あらば逢ふ夜を 待つにつけても
       殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 新古今集1145

明日さえ知れないような
  いのちのことばかり思うのです
    生きてさえいればきっと
   逢える夜もあるだろうと
     期待してしまうものですから

 これにも本歌(もとうた)がありますが、先ほどのような時系列の関係になっている訳でもないので、いまは割愛(かつあい)します。ただ「本歌取り」という技法についてちょっと加えるなら、たとえばいにしえの和歌を、今様によく詠(うた)いこなせるのであれば、それを参照することは、安っぽいオリジナルにこだわるよりも、尊いもののように思われます。シェイクスピアが粗野なところがある脚本を、改編して世に残さなかったら、どうして「ロミオとジュリエット」は、あれほど魅力的な瑞々しさを保ったまま、現代にまで残されたことでしょうか。

 この殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)という女性は、当時有名な歌人であり、鴨長明にも讃えられ、『百人一首』の定家にも評価され、新古今時代の花形女流のひとりだった人物です。だから間違っても「たいすけ」なんて呼ばないで欲しいのですけれども……

  失礼しました、和歌の説明をはじめましょう。
 この和歌を取りやすくするために、病気で弱りがちな、ひとりの女性を置いてみるのも悪くはありません。こんな見立ては安っぽく、わたしが俗な男であることをひけらかすようなものですが、それはさておき……
 その女性には恋する人がいて、彼女は病魔と戦いながら、恋しい人のことを思っている。あまりにもメロドラマ風で、興ざめもはなはだしいくらいですが、ありきたりのシチュエーションであれば、おそらくは普遍性もこもるのでしょう。

 明日さえ知れないいのちを、
   燃尽きるような不安にかられながら思うのです。
     震えながら思っているのです。

 続く「おのづから」というのは、
    「ひとりでに」「いつのまにか」
  というような意味ですが、その影には、
     「もし死なずにいられたなら」
   くらいのニュアンスがこもりますから、

もしわたしが死なずにいられたら、
   いつの日かきっと、
 あの人と逢う夜もあるかもしれない。
    そのことを待つにつけても……

 最後の「待つにつけても」には、深い思いが込められているようです。この言葉は初めに回帰するからです。もうおわかりでしょうか。この和歌は、エンドレスに仕立てられた和歌だったのです。つまり、

   「待つにつけても」
またいつの間にか、
   「明日をも知らぬいのちを思ってしまう」
するとまた、あの人のことが思われて、生きていればいつか逢えるかも知れない、そんな期待へとたましいは飛翔する。いつしか逢えることがあるだろうか……
 けれどもはっと気がつくと、消えゆく病床の悲しみが、不意によみがえってくる。また明日をも知らぬ、いのちのことを考え始める。死への不安がこみ上げて来る。するとまた、どうしてもあの人に逢いたくなる……

 この和歌には、終わりがないのです。
  こんな悲しい詩があるでしょうか。
 現代詩の感性すら突き抜けて、人間の不偏性へ到達しているような気配がします。それだからこそ鴨長明も、藤原定家も、なにも女性だからというのではない、あるいは純粋な和歌のライバルとして、彼女を評価していたのかもしれません。

 ちなみに、「あらば逢ふ夜を」には「逢ふ世を」という意味も込められていますが、「逢う夜」でも十分「逢ふ世」は内包されているのではないでしょうか。そんな訳で翻訳には持ち込みませんでしたが、和歌ではきわめて多用する意味の掛け合わせですので、ひと言だけ加えておきました。

恋歌三 巻第十三

[朗読2]

 さて、八代集の歌人を誉めたからといって、すべての和歌が優れていると思ったら錯覚です。紹介すべき詩情を探し出すくらいでも、なかなか骨の折れる作業なのです。歌集の半分くらいは、今日に残されるべき価値が、はたしてあるやらないのやら。中には驚くほど下手な和歌さえ、顔を覗(のぞ)かせるくらいです。いつしか、ゆとりがあれば、八代集の「駄歌集」を編んでみるのが、ひそかな楽しみでもあるのですけれども……

 いまはそれすら、ゆとりがありません。
  わたしは何かに追われているようです。
 さっそく「恋の三」に進みましょう。
現在の時刻は、夜を明かしての八時五分です。

なか/\に/の
   もの思ひそめて 寝(ね)ぬる夜は
 はかなき夢も えやは見えける
          藤原実方(さねかた) 新古今集1158

 「なかなかに」は「それなりに」の意味ではありません。「中途半端に」「なまなかに」「どちらともつかずに」といった表現です。つまりこの和歌は、

どちらともつかないような
   恋の気配を感じながら ねむる夜は
 はかない夢のなかでさえ
   恋人を見ることなど叶いません

と述べている訳です。古語のことは詳細は省きますが、「えやは見えける」というのは、「どうして見ることができようか(いいや、見ることなどできないよ)」というようなニュアンスになります。

  つまり恋もまだはじめの頃。
 好きという思いばかりがあって、相手のことはなにも知らない。まして、顔を寄せたり、抱き合ったりしている訳でもないから、夢のなかでさえ、相手を浮かべることなど叶わない。それなのに、好きという気持ちは確かにあって、どうしてよく知らない相手が好きなのか、そんなのおかしいじゃないか。そうは思っても、なんだか気になってしかたない。そんな矛盾さえ、ちょっと浮かんで来そうな気がします。

 もっとも「恋三」の和歌は、すでに恋人と結ばれてもいますから、恋をし始めた頃、中途半端に相手のことを思い始めてしまったので、眠れなくなってしまい、夢さえ見られないと解釈してもよいでしょう。次は明確に、結ばれた後の思いです。

まくらだに 知らねば言はじ
   見しまゝに 君かたるなよ
  春の夜の夢
          和泉式部 新古今集1160

枕でさえも
  知らないことですから 語ったりはしないでしょう
    あなたは決して
  見たことを語ったりしてはなりませんよ
    春の夜のちいさな夢のことを……

   「枕だけは知っている。
     お前たちの悪事のことを」
 まさかそんなヒーローものではありませんが、恋人たちの夜のいとなみを、枕だけは知っているという俗信が当時にはあったようです。もっとも枕がなにかを語るというイメージは、ごく最近まではあったようで、わたくしなども幼い頃は「枕に尋ねれば」調の子守歌を、よく聴かされたものでした。それは、
   「寝たか寝なんだかまくらに問ふへばよ」
というさみしいフレーズのように、わたしのこころには残されているのですが、それはさておき……

 むしろ、恋は秘めごとというイメージこそ、今なお残される迷信なのでしょうか。あるいはこれは、生物学的に安全な場所で結ばれなければ、無防備に危害を加えられるという本能が編み出した、たましいの幻想なのかもしれません。もっとも、社会的な立場上、ひと目を気にするべき関係であったから、このように詠まれたものには、違いありませんが……

 第三句からの「見しまゝに君かたるなよ」という表現は、まるで和歌を忘れて、素に戻ってしまったような印象です。そのくらいリアルな表現でありながら、その効果まで計算されて置かれている。和泉式部という人は、なかなか優れた歌人なのでした。自由奔放くらいのたとえでは、とても把握しきれるものではありません。

はかなくも
  明けにけるかな
   あさ露の おきての後ぞ
  消えまさりける
          醍醐天皇(だいごてんのう) 新古今集1171

はかないくらいに
  夜が明けてしまった
    朝露の 置かれたあとの
  消えてしまうような 侘びしさはなんだろう

 あるいはそれは、朝の別れの心細さか……
  それは知りませんが、
 これは醍醐天皇(885-930)が、共寝をした更衣(こうい)へ贈った和歌です。四句目の「おきての後ぞ」には、「朝起きて」朝露を眺めればという意味も、重ね合されています。ここでは返歌も乗せておきましょうか。

    「返歌」
朝露の
   おきつる空も おもほえず
 消えかへりつる こゝろまどひに
          源周子(みなもとのしゅうし) 新古今集1172

朝露を
  置いた空のことさえ 考えられません
 ただ消えかるような こころが惑(まど)うばかりです

 男の方が、朝露の置かれた雫(しずく)のような、消えるような気持ちですと訴えると、女性の方は、朝露を置いた空のことさえ、考えられないほどに、消えかえるような気分ですと返している。「消えかへる」にはもちろん、消えてしまった恋人のことが重ね合されていますが、なぜ「空」が登場するかといえば、醍醐天皇の和歌が、
    「はかなくも明けにけるかな」
と空を眺めて開始しているからに他なりません。それにしても、「あっさり明けてしまったものだな」と開始する男性の和歌からは、事終えた後のさばさばした気持ちが、心細さのうちにも、込められているような気配がしますが、源周子のなにも考えられないほどの「心惑い」と比べるとき、男女の性格の違いを見ることも出来るでしょう。
 もちろん、源周子の方は、天皇(みかど)の更衣のひとりに過ぎませんから、自らの置かれた立場と絡み合って、なおさら心細さがつのったものと思われます。つまり周子は天皇のものではありますが、天皇は周子のものではないのです。

待つ宵に
  ふけゆく鐘の 声聞けば
 あかぬ別れの 鳥はものかは
          小侍従(こじじゅう) 新古今集1191

あなたを待っている宵に
  次第に夜更けになるのを告げる
    鐘の響きを聞いていると
  お逢いしてからの名残惜しさに
    別れを告げるような朝鳥の声さえも
      取るに足らないことのように思われます……

 着想もその表現も、かなり凝った内容になっています。

「鐘の声」というのは現代には馴染みませんが、時を告げる鐘の響きをつかみ取るのに、初等以上の教育が必要な訳でもありません。時刻を知らせるための、アラームくらいに考えても、鐘の響きを聞いたときの、心を奪われるような印象は、わずかに想像出来るのではないでしょうか。
 ただそれが、外灯も暇つぶしの娯楽も、端末さえもなにもない、闇をじっと待ち続ける間に、たましいを揺さぶるように、静寂のうちから響いて来るものですから、その心細い印象ばかりは、なかなか経験がないとたどり着けないのも事実です。

 この和歌の主眼は、そんな待ちわびる心細さを闇に揺さぶるような「鐘の音」にくらべたら、別れの時刻を告げる朝のアラーム、もう明るくなった後の、例えば「にわとりの声」などは、「ものの数ではない」と言っているのです。

 ただし、これは決して、物足りない気持ちで別れる朝の方が、はるかにマシであると述べている訳ではありません。むしろ恋人を待つことも、恋人と別れることもつらいけれど、ひと目でも逢った後ならば、まだしも満たされた余韻も残るであろうから、待つ宵の心細さに比べたら、わずかに救いもある。そんな心情を述べているのです。つまり、

    「あかぬ別れの 鳥はものかは」
というのは、
    「物の数ではない」
      「たいした物ではない」
といったニュアンスではなく、
 やはり苦しくてしかたないのだけれども……

 それでも待つことに比べれば、
   取るに足らないことに思われるくらいに、
     あなたを待っている時は、
   淋しさに包まれてしまうのです。

 おわかりでしょうか。この和歌の実体は待つときの悲しみであって、下の句はそれを修飾しているに過ぎません。するともう一つの解釈が生まれます。それはすなわち、単にこの和歌が「待つ宵」に詠まれたから、このように歌ったのに過ぎなくて、「別れの朝」に詠まれたら、
    「待つ宵の鐘などものの数ではない」
と詠んだには違いない。つまり、二つの悲しみを比べて、どちらが上であるかを比較したものではなく、二つの悲しみは、待つ時と別れる時に応じて、その比重が入れ替わる、等価な関係にあるのではないか。
 そんな解釈をしてみるのも、
  おもしろいかも知れません。

 ところで「物かは」というのは、「物のうちに入るだろうか」くらいの表現ですが、この「かは」もまた、学生を古文嫌いに追い詰める、例の反語(はんご)という謎めいた係助詞(かかりじょし)には他なりません。あまり「反語、反語」と責め立てるので、つい改めて、
    「物のうちに入るだろうか、
        いいや入りやしないよ」
などと捉えなければならない、
  特別な表現のように思われるものですが……

 今はただ、「~なのだろうか」「~でしょうか」という、疑問と捉えておけば十分です。それが相手への問いかけであれば、
    「これで大丈夫なのかな?」
つまりは返答を求めた疑問、質問となる訳ですが、
  もし自分自身に問いかけて、
    「これで大丈夫なのかな?」
とすると、すぐさま「大丈夫じゃないかも知れない」というニュアンスが生まれてきます。さらに疑問を強めて、
    「わたしったら大丈夫なんでしょうか?」
と自分で言い切ってしまったら、もうそこには「全然大丈夫じゃないっす」という思いが、明確に込められてしまう。つまり疑問の表現には、はなから反語的な用法が組み込まれているのです。ですから、あまり特別なものと考えずに、訳された現代語から判断して、そこに、
    「~だろうか、いいや~ではないよ」
という反対のニュアンスが込められていれば、ああこれは反語なんだな、くらいの解釈をしておけば、それで十分なのです。
    「こんな説明で大丈夫なのかな?」
      「うーん、大丈夫じゃないかもしれない(反語)」
 ああ、なるほど、そういうことなら、
   一人突っ込み、一人ぼけをしている状況を、
  想像して下されば良いのかも知れませんね。

世のつねの
   あき風ならば 荻(をぎ)の葉に
 そよとばかりの 音はしてまし
          安法法師女(あんぽうほうしのむすめ) 新古今1212

世のなかに よく言われるところの
   秋風であったならば 萩の葉にも
  そよそよと響く 音沙汰はあるでしょうに……

 二句目以下はただ、
    「秋風なら荻の葉に、
      そよそよと音がするだろうに」
と当たり前のことを詠んだに過ぎません。それをあえて、「世の常の」と断ったのは、そんな世間一般の秋風と違う、もうひとつの「あき風」を表現したかったからで、それはなにかと訪われれば、すなはち、
    「飽き風」
のことなのです。

 もとより言葉遊びには過ぎませんが、冒頭にわざわざ「世の常の」と断りを加えたことにより、もう一つの意味、「飽きの風」がおのずからクローズアップされてきます。さらにもとの和歌は、ひらがな書きされているものですから、初めからふたつの意義に捉えやすい。(掛詞などが発達したのも、ひらがな書きであるおかげかもしれません)それでこの和歌の真意は、

秋の風でさえ
  そよぐくらいの便りはあるものを
    わたしに飽きた風のように去って
  あなたはもう「そよ」とさえ
    便りをくださらないのですね

ということになります。秋風ならば誰のもとにも風を届けるが、飽きの風は、わたしのもとから吹き去ってしまう風であるから、わたしのもとには「そよ」とさえ便りがないという趣旨なのですが、冒頭の「世の常の」によって、それを明確に悟らせているからこそ、かえって掛詞(かけことば)が嫌みに響かずに、率直な比喩のように聞こえてくる。なかなかに、効果的なのではないでしょうか。

[おまけ]
 率直ではありますが、この和歌が意義に訴えているのも事実です。もしこれを優れた自然描写のうちに溶け込ませ、ただ情景を詠みなしているようでありながら、その影にまとわりつくような影の意味として、「飽きの風」をにじみ出させることが出来たなら、より優れた和歌となることが出来るでしょう。すると逆に、それを読み解くためには、ある程度の慣れと感性が必要になってくる。わたしが初学用の和歌として、この和歌を提出したのは、もちろんこの和歌に嫌みがなく、一定水準を確保しているからではありますが、受け止めやすいことが大きな理由になってもいるのです。
 つまり、わたしがここで紹介していない外側には、あまたの優れた和歌が星たちのきらめいている訳で……いつしか、そこまで紹介しきれたらよいとは思うのですけれども。

恋歌四 巻第一四

[朗読3]

 さて、結ばれつつ、逢えない思いにさいなまれ、待ちわびながら、やがては音沙汰(おとさた)さえも遠ざかる。そんな恋歌ですが、「その四」にもいたると、待ちわびても恋人はもう来ない。捨てられた者の悲しみが増すばかりです。

ふく風に つけても問はむ
   さゝがにの かよひし道は
 空にたゆとも
          藤原道綱母(みちつなのはは) 新古今集1242

吹き抜ける風に
  乗せては 尋ねようか
    たとえ蜘蛛の 渡った糸は
  空に絶えてしまったとしても

 前にも紹介しましたが、藤原道綱母とは、『源氏物語』にも影響を与えたとされる女性の日記文学作品『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者です。この和歌も、もとはその日記に収められたものでした。

 「ささがに」というのは蜘蛛のことで、和歌ではしばしば登場しますから、覚えておいても損はありません。なにより「蜘蛛」というと「おどろおどろしい」ですが、「ささがに」なんて呼びかけると、ちょっと親しみも湧いてくるのは不思議です。そんな「ささがに」が、糸を伝って恋人のもとにやってくるというのも面白い発想ですが、和歌ではしばしば見られます。

 蜘蛛の糸の結びつきも途切れてしまい、あなたからの音沙汰もないけれど、せめて吹く風にゆだねても、あなたに問いかけたいと思います。なぜわたしのところへ来てくださらないのかと。

 散文にすれば、そのような内容になるでしょうか。ふたりを結ぶ糸が途切れてしまっても、せめて風に問いかけましょう。そのようなイメージを、「ささがにの糸」に委ねたところが、ちょっとチャーミングです。

 けれども、蜘蛛の糸を切ったものが風であるとしたら、なかなかに深い思いが、込められているのではないでしょうか。はたして、二人の糸を切った風は、飽きの風なのでしょうか、あるいは流言のようなものなのでしょうか。それが分からないから、風のうわさにせめて訊ねてみるのでしょうか。などと、いろいろ想像力も膨らみますが……
 この時代の秀歌は、実に周到に言葉を撰び取ったもので、
  フィーリングに身をやつしたりはしないようです。

[この和歌において、もっとも優れた表現はなんであるか。とたずねられれば、あるいは結句の「空に」のひと言にあるのではないでしょうか。]

こぬ人を
   待つとはなくて 待つ宵の
 ふけゆく空の 月もうらめし
          藤原有家(ありいえ) 新古今集1283

来ない人を
 待つのではないと思いながら
  待ってしまっている宵の
   更けてゆく空の
  月さえうらめしいよ

 二句目の「待つとはなくて」に、
  うらはらな思いが込められています。
 頭では、もうあの人は来ないのだから、待ったりなんかするものか。わたしは決して、あの人を待つために月を見ているのではないんだ。ただ純粋のお月見に過ぎないんだ。そんな考えがあるのですが、実際は、月を見ている時点でもう負けなのです。だって、こころのなかには、いつしかまた……
 気がつけばあの人の影がちらついて、もしかしたらあの人が、このような月の美しい晩には、ひょっこり訪れるのではないか。そんな淡い期待が広まって……
 ふと我に返ってはまた、
  「違う、違う」と自分に言い聞かせながら、
     「あの人を待っているんじゃないんだ」
なんて強がってみせる。
 それをずっと繰り返しているような、
  やりきれないジレンマに、
 この和歌はとらわれているようです。

 「更けゆく空の月」
という下の句の表現もさりげなく絶妙です。
 それほど長い時間、詠み手は月を眺めていた。待っているのではないと首を振りながら、期待する思いと葛藤(かっとう)していた。つまり、結局のところは、ずっとあの人を待ってしまっていたのです。「待つとはなくて待つ」という表現には、そのような思いが込められている。

 これは当時の歌人たちの、言葉への真剣な態度を示すもの……
という訳では必ずしもありません。もともと、情緒と言葉というものは、そのくらい緊密に結びついていて、「心と姿」のように切り離せないものであったのではないでしょうか。それをファッションみたいにして、着飾るための道具とみなしたとき、人のたましいも以前よりか、汚れっちまったのかもしれません。

わすれなば
   生けらむものかと おもひしに
 それもかなはぬ この世なりけり
          殷富門院大輔 新古今集1296

あの人を忘れたならば
  生きてゆけるだろうか
    そう思っていたのですが……
  忘れることすら叶わないような
    この世の中なのでした

 この表現はきわめてデリケートで、まさに『新古今集』ならではの洗練を極めています。冒頭の「わすれなば」は、「忘れてしまったならば」の意味ですが、もちろん詠み手である、わたくしの行為であり、これを、
    「恋人がわたしを忘れたら」
と訳すのは、原文を蔑ろにした逸脱には過ぎません。けれども……

 わたしが「あの人を忘れられたなら」というのは、つまりは二人がすでに疎遠になったことを表わしていて、しかも詠み手の方が未練を残しているものですから、そこで間接的に、
    「恋人がわたしを忘れて去っていった」
つまりは、わたしから離れていったという状況を、冒頭の「わすれなば」は知らしめてもいるのです。続く二句目の「生けらむものかと」は、「生きて行くことが出来るだろうか」といった意味になりますから、上の句の思いとしては、

あの人がわたしを忘れてしまってからも、
  わたしはずっとあの人のことばかり考えて、
    死んでしまいたいような悲しみに捕われているのです。
  もしあの人を忘れることが出来たならば、
生きて行くことが出来るでしょうか、
  そうも思うのですが……

 対して下の句は、「それすら叶わない」と詠んでいるのですが、上の句が、「忘れてしまえれば生きていけるだろうかと思うのですけど」と詠んでいるのですから、もちろん「それ」の指す内容は、「忘れてしまうこと」に掛るわけです。
    「忘れてしまうことすら出来ないのが
       わたしのいる世のなかなのです」
 つまり、詠み手は「死んでしまいそうなかなしみに」とらわれ続けている。極端な言い方をすれば、「生きていないような」思いにかられながら、肉体だけは生き続けている。というのが、この和歌の詠み取り方になるでしょう。結句が「この世なりけり」と締めくくられていることも重要で、この世にある限り、決して忘れることなど出来ない悲しみを、抱えていることを表現しているように思われます。

 ところで、「それ」の指すべき言葉を、あやまって「生けらんものかと」に捉えると、文脈の関係からそこを反語として、「死んでしまうだろう」と解釈しなければならなくなり、するとまた文脈の関係から、冒頭の「わすれなば」を唐突に「相手が忘れたら」と解釈しなければならなくなりますから、非常にややこしい事になってしまいます。もちろん、そんな頓智問答みたいなことは、彼女は詠んだりはいたしません。

 さて、『新古今集』の和歌は、ちょっと簡単な和歌のように見えても、言葉や文脈を、技巧的に詠みこなしたものが多いのが特徴です。この和歌にしても、婉曲(えんきょく)に過ぎて、しかも「それもかなはぬ」が何を指し示すのか、しばらく立ち止まって考察しなければならないくらいです。それだからこそ、いきなり『新古今集』から始めるには、ハードルが高いようにも思われるのですが……
 簡単に言うと、ストレートに心情に響いてこないものですから、あれこれと考えを挟まされることが、かえって言葉をもてあそんでいるような印象へとつながりかねないのです。デリケートな表現には、聞き手にすら、なかなかの読解力が必要とされる訳で……
 けれども、分かりやすいものから、てくてくと階段をのぼってきた皆さまには、心情を表現へと移しかえる巧みのうちには、揺るぎない精神が宿っていることくらい、あるいは理解出来るのではないでしょうか。わたしはそんな期待を胸に、落書きを進めているのですけれども……

うとくなる
   人をなにとて 恨むらむ
 知られず知らぬ をりもありしに
          西行法師 新古今集1297

すっかり来なくなってしまった
   あの人をどうして 恨んでしまうのでしょう
 まだあの人に知られていない
    わたしもあの人を知らないでいた
      そんな時も、あったはずなのに……

 先ほどのものは、間接表現を極めながら、思いを噛みしめるような和歌でしたが、西行法師は男でもあり、坊さんでもあるものだから、先の和歌よりちょっと理屈っぽく、しかも直球で攻めてきます。けれどもやはり「うらむらむ」の表現に、どうしても「うらんでしまう」わたしの思いが横たわっているからこそ、共感を覚えることが出来るのです。。

 さて、いまさら初歩のおさらいですが、この和歌のように、
    「知りも知られもしない時もあったのに、
       遠ざかるあの人を、どうして恨んでしまうのだろう」
という本来の文脈を、わざと前後を入れ替えるような技法のことを、倒置法(とうちほう)と呼びます。これはわたしたちが日常会話でもしばしば使用するくらい、あたり前の表現方法にすぎません。

びっくりしたなあ、
  車が急に飛び出してくるんだもん。

 もうこれだけで倒置ですから、たわいもないものです。この場合、「びっくりした」という心情こそ、もっとも訴えたい思いとして、はじめに語られているのです。

[ただしこれは、
    「車が急に飛び出してくるのでびっくりした」
という表現を、置き換えて発言したものではありません。語りとしては、情緒的な思いを述べた後で、その内容を説明するというのは、きわめて一般的に使用される表現で、むしろそちらの方が常態だと言えるでしょう。ただ、それをあらためて、説明的文章(筆記的文章)に書き下ろすと、あたかも倒置されたように見えるというだけのことなのですが、この考察はまた本文からの逸脱を試みるものなので、まあ、酔っぱらいの戯れ言とでも聞き流して下さい。]

恋歌五 巻第十五

 恋も五まで来れば、もうあの人は帰ってきません。
  そんな和歌を続けていくつか紹介しましょう。

今こむと
   いふ言の葉も かれゆくに
  夜な/\露の なにゝおくらむ
          和泉式部 新古今集1344

今から行くよ
   そんな言葉さえ 離れてゆくのに……
  もし言の葉が 枯れてゆくならば
    夜ごとに流す涙のような
      露はどこに置いたらいいのでしょうか。

「言葉が離(か)れてゆく」と「言葉の葉が枯れてゆく」とを掛け合わせて、夜ごとの涙を露に見たてながら、あなたの言葉が枯れ果ててしまったら、ながす涙さえどこにも置きようがありません、露を置くための言の葉がもうないのですから。と訴えているのです。つまりはいまさら報われようのない、完全な失恋に泣き濡れるばかりです。
 心情の吐露が強すぎて、「葉が枯れて露の置き場がない」という見立ては、リリシズムとは関わりのない、借用の様相が濃いですが、おそらくそのようなことは、詠み手も十分に承知かと思われます。あるいは和歌の時代なりの、主観主義とでも言えましょうか。
 次はもともと『伊勢物語』に収められた和歌。

憂きながら
   人をばえしも 忘れねば
  かつ恨みつゝ なほぞ恋しき
          よみ人知らず 新古今集1363

憂いに閉ざされながら
   それでもあの人をどうしても忘れられない……
  それで、こうして恨みながらも
      やはり恋しくてしかたがないのです

  恨みながらも恋しくてしかたがない。
 自分を振った相手など、自分を捨てたというその事だけでも許せない。許せないのにどうしてもあの人が忘れられない。声を掛けられたら、寄りを戻してしまいそう。わたしを捨てた相手なのに……

 そんな内容の和歌ですが、「えしも忘れねば」という表現は、「え忘れねば」が「忘れることが出来ないので」という意味で、挟まる「しも」はそれを強調している。つまりは、
    「どうしても忘れることが出来ないから」
というニュアンスです。
 そのため、さまざまな恨みに毎日さいなまれながら、失恋の悲しみにしずんでしまう。初句の「憂きながら」がちょっとした気分ではなく、憂いに満ちた日々があまりにも続いたために、こらえきれずに述べたような印象が籠もるのは、それが冒頭に置かれているからでもありますが、二句目以下の思いを、私たちが受け止めるからには違いありません。
    「恨みながらも恋しい」
というありがちな表現を、苦しみに悶えるさなかのつぶやきのように、うまくまとめています。

逢ふとみて
   ことぞともなく 明けぬなり/にけり
 はかなの夢の わすれがたみや
          藤原家隆(いえたか) 新古今集1387

逢えたと思ったら
   なにもなかったように 明けてしまった
 なんてはかない 夢の忘れ形見なのだろう

 「夢の忘れ形見」
とは、夢に残されたあの人の面影を表現したものです。「忘れ形見」とあるからには、相手とは別れてしまって、その形見がシルエットとして、夢のうちにそっと残されていた。ところが、夢のなかでさえも、もはや愛を交わすことは叶わずに、ようやく会えたかと思ったら、もう夜が明けて目を覚ましてしまったというのです。
    「夢のなかでさえ、あの人は振り向いてくれなかった」
そのくらいの思いを知る人であれば、誰でも共感出来る和歌なのではないでしょうか。

 ところでこの和歌は、『古今和歌集』の恋歌より、

秋の夜も
   名のみなりけり 逢ふといへば
 ことぞともなく 明けぬるものを
          小野小町 古今集635

を本歌(もとうた)に詠まれたもので、本歌を知っているものには、
    「秋の夜長もあっという間に過ぎてしまう」
ような、ふたりの逢瀬(おうせ)の幸せを過ぎて、今はそれさえ夢へと去ってしまったのかと、ふたつの和歌における過去と現在に思いをはせながら、この和歌を聞くことが出来るという仕掛けになっています。
 次のは切なさよりも、
  滑稽味にまさる和歌。

床(ゆか)近し
   あなかま夜半の きり/”\す
 夢にも人の 見えもこそすれ
          藤原基俊(もととし) 新古今集1388

床に近いのか
   ああうるさいなあ 夜中のこおろぎどもよ
 せめて夢のなかだけでも
     あの人が見えるかもしれないと思っているのに
   これじゃあ眠れないじゃないか

 「あなかま」というのは、うるさいので「静かにしなさい」と制止する言葉ですが、騒がしい床に向かって「ああ、うるさい」とヒステリーでも起こしながら、とうとう横になっていられなくって、むくりと起きあがるような印象です。下の句は、
    「せめて夢の中だけでも、
       あの人を見ようと思っていたのに」
といった内容ですが、そこから推察されることは、「きり/”\す」の声があろうと無かろうと、この人は恋人への思いにさいなまれて、おそらくは眠れずに、床をごろごろ転がっているのではないか。すると、眠れないときの秒針みたいに、虫の音も床下に鳴り渡るようなものではなく、遠くから聞こえているに過ぎないのではないか……

 この和歌のユニークなところは、みやびに抽象化された世界ではなく、実際悩みにのたうち回りながら、虫の声にいらいらして、ついには「うっさいなあ」と起き上がって、八つ当たりをするような、誰にでもありがちな臨場感が、「あなかま」という語り口調で表現されているところです。
 そうしてその状況は、当人こそムキになっていますが、はたからみれば、「あらあらすねちゃって」と、ちょっとからかいたくなるような構図です。そこに滑稽味(こっけいみ)があるのです。もしこれをきまじめに、

ああ床の近くでなくコオロギたちよ、
  どうかしずかにして欲しい、
    せめても夢のなかだけでは、
  あの人のすがたをみたいから……

などと、訳したらどうでしょう、
 その滑稽味は損なわれ、ほとんど身も蓋もない和歌になってしまいます。詩情を移し換えるのが翻訳であるならば、こんなものは、現代語訳とは言いません。その精神を伝えきれないなら、紹介したことにすらなりませんから、訳さない方がマシなくらいです。

[ゑひの落書]
・この和歌の解説で「眠れないときの秒針みたいに」という表現をわたしはしましたが、これを実際の経験として持っている人も、次第に少なくなりつつあるのかもしれません。「眠れないときの雨音」すらも、現在の住宅では、それほどやりきれないものではない方も、多いのではないでしょうか。それにも関わらず、これらの言葉が今でも人々のイメージの共通項として、当たり前に利用できるとしたら……
・いつしかその言葉は、もはや現実を描写したものではなく、ある種の心象に訴えるためのお決まりの表現として、継承されてゆくのかもしれません。
・実は、和歌の時代にも、かつての表現が、ある種の概念を表わすための、お決まりの定型句のようにして、あるいは単語として、後々まで使用されているような例があるものですから、ちょっと参考のために、落書きを加えてみました。

思ひいづや
  美濃(みの)のをやまの ひとつ松
 ちぎりしことは いつもわすれず
          伊勢 新古今集1408

覚えていますか?
   美濃の聖なる山の あの一本松のことを……
  ふたりでかわした約束を
     わたしはいつまでも忘れません。

 冒頭の「思ひいづや」は、「思い出すこともありますか?」くらいの表現ですが、私たちには「覚えていますか?」くらいのニュアンスで十分伝わるかと思われます。
    「公園の木の下で約束したよね」
くらいの詩情ですから、受け止めやすいのではないでしょうか。ただこちらの方は、おそらくは願掛けの松で、神のもとに誓い合ったような内容になっています。

 つまりこの松は、美濃国の南宮山にあった一本松のことですが、それにふたりのなかを約束したというシチュエーションです。「松」には「待つ」の意味が含まれ、「永続的なイメージ」のある松に願いを掛けるというのは、昔から変わらないものらしく、まして神社とも関わりのある南宮山の松であればなおさらです。
 初句の「思ひいづや」には、でもあなたはきっと、思い出すこともないのでしょう。そんな寂しさが宿っているようにも響きます。
 一方、在原業平(ありわらのなりひら)の場合は、
  もっとぶっきらぼうです。

出(い)でゝ去(い)にし
   跡だにいまだ かはらぬに
 誰(た)がかよひ路と
    今はなるらむ
          在原業平 新古今集1409

立ち去った
   跡さえ未だ 変わらないその門は
  誰の通うための路へと
     今はなってしまったのだろうか

 取られたもとの『伊勢物語』では、冒頭が「出でて来し」となっていて、数日訪れなかった女の家に、他の男が通っているのではないかと疑ったような和歌になっています。それを『新古今集』では、
    「立ち去ってもうもどらないあなたの家に、
       いまは誰が通うのであろうか」
と回想する和歌として、「恋五」に置かれているのです。
    「跡だにいまだ変わらぬに」
には、足跡さえそのまま残されているような、臨場感が込められていますが、在原業平の和歌は、自らの行動に対して主体的で、仮に恋に破れても、いさぎよさのようなものが感じられ、ここでも、
    「誰が通っているのだろう」
というような、恨めしい煩悶よりも、
    「今は誰を恋人としているのだろうか」
というような、かつての恋人への、
 純粋な回想へと昇華しているあたり、要するに、
    「もてる男の持つ包容力」
にあふれています。先ほど見てきた、家隆、基俊の和歌と三つを並べて、その人柄について思いを膨らませてみるのも、ちょっとおもしろいかも知れませんね。

 それでは門(かど)を離れたところで、私たちも、恋の和歌から逃れることにいたしましょう。次は雑(ぞう)の和歌ですが、『新古今集』の「雑」は「上中下」に別れ、歌数も『詞花集』全体よりも多いくらい。きわめて膨大なものです。

雑歌上 巻第十六

[朗読4]

うめの花 なに匂ふらむ
   見る人の 色をも香をも
  わすれぬる世に
          大弐三位(だいにのさんみ) 新古今集1446

 大弐三位という人は、紫式部と藤原宣孝(のぶたか)の娘のことです。梅の和歌がどうして「春」でなく、「雑」に収められているかというと、この和歌の主眼が、梅の花を愛でることにあるのではなく、自らが使えていた藤原彰子(しょうし)が出家したことを詠んでいるからに他なりません。つまりは、

梅の花よ なにを匂っているのでしょう
   もうあなたを愛でるべきあの方は出家してしまい
 女性としての色やかおりのことすら
    忘れてしまった世であるというのに……

  (いまさらどうして
     梅の花よ、あなたは色や香りに満ちて
    そうして咲き誇っているのでしょうか)

 梅の花に対して、
    「あの人はもう色や香を忘れたのだから、
      咲き誇っても愛でてはもらえませんよ」
と諭しているようでもあり、また、
    「あの方が色や香を忘れたのだから、
      不謹慎にも色や香をちらつかせて、
       咲き誇らないで欲しいのだけれど……」
と咎めているようでもありながら、根底には、
    「人の世の移り変わり」
     「変わらず訪れる季節の巡り」
その対比が横たわっていて、梅の花よりも美しかったようなあの方も、いつしか境遇が変わってしまったというのに、梅の花は今も変わらず咲き誇っている。そんな感慨が静かに横たわります。そこにちょっとした余韻が生まれるのです。

[つかの間コラム]
 ところで大弐三位の仕えていた藤原彰子という人は、小学生でも不真面目でなければ名前だけは知っているという、一大権力者、藤原道長(ふじわらのみちなが)(966-1028)の娘です。
 上東門院(じょうとうもんいん)という名称でも知られますが、彼女を中心に、紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢といった、名だたる女流歌人が活躍し、あたかもルイ王朝のサロンのような煌(きら)めきであった……かどうかは知りませんが、和歌も女流文学も、大いに栄えることになったわけです。
 いまはただ、道長も彰子も、それから『源氏物語』の作者である紫式部も、恋する歌人和泉式部も、あるいはもしかしたらこの大弐三位すらも、(おまけに我らが?公任卿も、)みな西暦1000年をまたいで生きた人物であったと言うことを、覚えておくとよいでしょう。1008年にはじめて文献に登場する『源氏物語』も、おおざっぱに1000年頃生まれた文学作品であると考えておけば、ことの初めはまことに結構かと思われます。
 おおよそこの1000年を軸に、平安時代の摂関政治(せっかんせいじ)は最盛期を迎え、続く院政期へと移りつつ、源氏や平家の活躍する武士の世のなかへと移り変わるまで、日本の文化はひとつの最盛期を迎えたような気配です。承久の乱(1221年)に後鳥羽上皇が敗れるまで、その最盛期が継続したとするならば、実に八代集の第三集である『拾遺集』からこの『新古今集』にいたるまでの和歌集は、実はこの間に生まれた作品にすぎないのです。(念のために加えておきますが、この捉え方は、初心者向けに仕立てられたものに過ぎません。)
 そこには、院政期のロックンローラーこと後白河法皇の残した今様集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』も収められ、数多くの絵巻や草子もまた院政期のたまものでした。あるいはきわめてユニークな文学作品、『方丈記』を記した鴨長明という人物も、この院政期の人物には他なりません。
 ちなみにこの時代、中国は五代十国と呼ばれる時代を過ぎて、宋(そう)王朝の支配する安定期を迎えていました。平家が貿易をおこなったのも宋ですし、鎌倉時代にモンゴルが攻めてくるのも、宋を滅ぼす勢いに乗ってのことなのです。(同時代、勢力を誇っていたイスラーム圏も、同じようにモンゴルによって後退しました。)
 またこれらの時代、我が国では篳篥(ひちりき)や笛の名手が、しのぎを削りあって、やがては琵琶の流行が『平家物語』などを生み出してゆくのですが、1000年を越えてから始まった西欧のトロバドゥール、トルベールなどの吟遊詩人たちの活躍と、その文化を比較してみるのもおもしろいかも知れません。さらに彼らの歌詞と、同時代の中国の歌詞と、我々の大和言葉の和歌の歌詞と、対比してみるような論文も、おもしろいかとも思いますが、言語のリズムと結びついた歌詞やフレーズを、浅はかに優劣をつけるのだけは避けたいものです。それでは同じ頃、アメリカ大陸はどうだったのか、アフリカ大陸は?
 そのような比較は、地球全体の歴史をながめ暮らすには、是非とも必要なことです。ついでにその時の気候は、南極大陸にはペンギンがぷかぷか笑っていたのだろうか。などと、馬鹿らしいことまで考える頃には、1054年に超新星爆発を起こしたことにより、メシエ番号の栄えある第一番を冠する「カニ星雲」。その夜空の星を眺めたのは、はたして藤原定家であったのか、中国の天文学者たちであったのか、それともアメリカ大陸の何とか文明の末裔であったのか、それともペンギンたちであったのか、あるいは全員であったのか、なかなかおもしろいことも浮かんでくる訳で……

 わたしは冗談でなく述べるのですが、もし好奇心の旺盛な人は、この超新星爆発を眺めた、別の星の文明についても、本気で考えて見たらいかがでしょうか。
 彼らははたして音楽をたしなむのでしょうか。わたしたちと同じように、情緒と結びついた言葉の行列を、詩として楽しむのでしょうか。あるいは情緒というものは、他の知的生命においても成り立つものなのでしょうか。和歌というものを紹介したとき、伝わるものはあるのでしょうか。そのようなことを、考えているうちに夜も更けて……

 わたしはまただらしなく、焼酎の香りをたしなんでいるのでした。
  ずいぶん脱線しました。わたしは要するに、和歌というものを読み解くとき、狭い世界へと閉じこもらず、さまざまな事を考えながら、詠んで欲しいと願っただけなのかもしれません。そろそろ話を切り上げましょう……
 次は『新古今集』時代のヒーロー。管贈太政大臣(かんぞうだじょうだいじん)こと、菅原道真(すがわらのみちざね)(845-903)の和歌をどうぞ。

道のべの
  朽ち木のやなぎ 春くれば
 あはれむかしと しのばれぞする
          管贈太政大臣 新古今集1449

道のべにある
  朽ちかけたような柳でさえも 春が来ると
    (枯れ果てたと思われたその柳から
       芽吹くみどり葉は青々しくて)
   ああ、むかしはさぞ豊かな柳であっただろうと
      忍ばれもするものだけれど……

 かなりの意訳が入っています。
  それはなぜかと問われれば、詠み手の思いがあふれてくるからであり、藤原定家が八代集のアンソロジー(『定家八代集』)において、菅原道真の和歌をしきりに取り上げたのも、和歌の姿ではなく、心に引かれてのことかと思われます。

  難しいところはありません。
 これまで眺めてきた『新古今集』の和歌からすると、あまり分りやすくて、ありがたいくらいのものです。その内容はただ、朽ちた柳でさえ春が来れば、わずかばかりの葉を付けて、命のあることを知らせてくれる。むかしはどれほど立派な柳であったことかと、栄華(えいが)の頃が忍ばれもするよ。そんな意味に過ぎません。

 加味されるべき歴史的事実も、よく知られた日本史の範疇(はんちゅう)です。太宰府に左遷させられた菅原道真が、みやこで活躍していた頃に思いを馳せながら、朽ちかけの柳にみずからを見立て、栄えた昔をしのんでいるです。

 もちろんそこには、ふたたび緑豊かによみがえりたいという思いが強く込められているのですが、同時に朽ちかけの柳であることから、境遇と年齢が入り交じったような、
    「もう昔には戻れないのだ」
という、あきらめの侘びしさも感じられ、
 なかなか、味わい深い和歌になっているようです。
  次のものは、言葉であそんだ歌。

うちわたす
   おちかた人に こと問へば
 答へぬからに しるき花かな
          小弁(こべん) 新古今集1490

眺め渡して
   遠くの人に 尋ねれば
  答えがないから 知った花の名でした

 それでは、なぜ分かったのかといえば……
    「答える口のない花」
それは「クチナシの花」だったというオチです。
 実はこの和歌は、古今和歌集の旋頭歌(せどうか)というものを本歌(もとうた)にしています。旋頭歌というのは、短歌が三十一字(みそひともじ)であるのに対して、それとは異なる形式を持った和歌で、今日では[五七七]を二回くり返したものとして定義される、万葉集の時代に使用された形式です。そんな変わった形式ですから、本歌の内容は、かなり知られていたと思われますが、それは次のようなものでした。

うちわたす 遠方人(をおちかたびと)に もの申す我れ
  そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも
               よみ人知らず 古今集1007

 ようするに、眺めて遠くの人に語りかけるには、「我よ(お前よ)」そこに白く咲いている花はなんの花であるか。そう尋ねただけの旋頭歌で、詩としてそれほど価値のあるものでもありません。

 この和歌の呼びかけに対して、遠くの人に尋ねれば、答えなど返ってこないものだから、その花は「クチナシ」には違いない。小弁の和歌は、そうたわむれたに過ぎませんが、
    「答えがないのでクチナシだと分かったよ」
という小さな虚偽が、軽やかな冗談めかして、
 本歌よりもほほえましいくらいです。

 続いて、月の歌を三つほど取り上げて、「雑上」を切り上げましょうか。月は四季を通じて昇りますから、それを秋とばかり定義するほど、おろかなことはありません。

ありあけの
  月のゆくへを ながめてぞ
    野寺の鐘は 聞くべかりける
          前大僧正慈円(じえん) 新古今集1521

夜明け近くの
  月の傾く西空を 眺めてこそ
    野寺の鐘の響きは
  聞くべきものであったようだ

 「べかりける」というのは「すべきものであった」といった意味です。実際に鐘の響きを聞き終えて、その余韻に耽りながら、「やはり聞くべきものであったか」と感嘆していると思って結構ですが、あるいは、聞くべきものであったことに、今ごろようやく気がついて、

ああ、夜明けの野寺の鐘は、
  西へ傾く月を眺めながら、
    聞くべきものであったのか。
 ようやく分かったよ。

 長年の僧としての修行の果てに、悟りに達したような印象が込められている。そう捉えると、深みが増すかもしれません。もとより西は、死後に向かうべき、西方浄土を指しています。だからといって、この和歌の詩興が、わたしたちのもとに届くのは、それが教義であるからではなく、夜明け前に傾く月を眺めながら、寺の鐘が響きわたるような情景を、私たちも思い描くとき、心が動かされるからに他なりません。つまり詠み手は、天台宗の高僧であると同時に、一流の歌人であった。教理と詩的表現のきわを、わきまえていたと言えるでしょう。

あかつきの
  月みむとしも おもはねど
 みし人ゆゑに ながめられつゝ
          花山院 新古今集1527

夜明けへ向かう空の
   月を見ようとなどは 思わなかったのに
  かつて一緒に見た人のために
     眺めつづけてしまったのです

 「かつて一緒に見た人」のために見ていたというのは、もちろん頼まれた訳ではありません。月を見上げると、かつて共に眺めた相手のことが思い起こされて、あれこれとこころをさ迷うみたいに、眺め続けてしまったのです。それならなぜ「夜明けの月」かといえば、相手のことを考えて、眠れなかったからに他なりません。

秋の夜の
   月にこゝろを なぐさめて
 うき世にとしの つもりぬるかな
          藤原道経(みちつね) 新古今集1538

秋の夜の
  月の美しさに こころを慰められながら
 憂き世も捨てずに 歳をかさねてしまったなあ

 世を捨てるというのは、
  出家するという意味ですが、ここでは今日風に、
    「世俗のなかにまみれたまま、
       年を重ねてしまったなあ」
くらいで受け取ってもかまいません。
 「月に心を慰めて」の捉え方も、人によっては、
    「月があまりにも美しいものだから、
       慰められるように眺め暮らすうちに」
月影からついに逃れられなかったという、
 美への憧れのようなニュアンスさえ、感じるかもしれません。
  その場合、月を風流の比喩と解釈して、
    「和歌というみやびに引かれ続けて」
というような思いを込めると、
 世俗に歳を重ねてしまった理由すら、
  あるいはもっともなことのようにすら、
 思われてくるから不思議です。

雑歌中 巻第十七

おきつ風 夜半に吹くらし
  なには潟 あかつきかけて
 浪ぞよすなる
          藤原定頼(さだより) 新古今集1597

沖では風が
  夜更けになって吹いているようだ
 難波潟(なにわがた)には
   夜明けにかけて
  浪の寄せる響きがする

 夜も更けてあたりは真っ暗です。宿を取っているのか、舟のうちかは知れませんが、ただ浪の音ばかりが聞こえてくる。「らし」とは推量の助動詞ですが、わざわざ「吹くらしい」と推量に委ねたのは、
    「沖の風というものは、
      夜半に吹くものらしい」
と気象を判断したのではなく、
    「夜半になって、沖では風が吹いているようだ」
と推し量った。つまり、風の音など聞こえないような、静かな夜であるからかと思われます。おそらくは蘆(あし)などの草すら、あまりざわつかないくらい。それでいて、波の打ち寄せる音だけがしている。

  これで作者の狙いは、分かるかと思います。
 この波は激しい波ではないのです。もっとおだやかで、単調に寄せてはかえす、それでも耳もとには確かに響いてくる。そんな波なのです。すると「あかつきかけて」のひと言が生きてきます。

 つまりこの作者は眠れないでいるのです。
  雨粒が気になってしかたないような。
 羊を数えれば、メエメエと鳴き出してやりきれないような。だからといって、あきらめて起き上がるでもなく、睡眠と覚醒(かくせい)の狭間をただようみたいに、単調な響きばかりがやりきれなくて、
    「ああ、どうして眠らせてくれないのだ」
そんなシチュエーションを詠んでいるのです。

わかの浦を
  松の葉ごしに ながむれば
    こずゑによする
  あまのつり舟
          寂蓮法師(じゃくれんほうし) 新古今集1603

和歌の浦を
  松の葉ごしに 眺めれば
    梢に寄ってくるように見えるのは
  かなたの漁師の釣舟なのです

 和歌の浦は、和歌山県の北西部から淡路島や四国を眺めるような湾ですが、瀬戸内海を行き交う釣舟を、松の木ごしに眺めてみたのです。するとまるで釣舟が、松の葉っぱのように思われてきて、それが梢に寄ってくるのが、愉快に思われて詠んだのです。
 子どもの頃、親指と人差し指で、遠くのものをつまむようにして遊んだことがある人なら、もうこの和歌のおもしろさは、それに尽きるといってよいでしょう。
 これをもし、和歌の浦なら、和歌の上達を祈願する玉津島神社もあることだし、梢に寄せるのもあるいは「言の葉」のたとえか、それが松に寄せるのは、願掛けの意味でもあるのか。などと邪推しはじめたら、せっかくの視覚的なおもしろさも、かえって興を削ぐくらいです。

 おなじくおもしろみのある和歌でも、
  在原業平のはもっと雄大です。

時知らぬ
  山はふじの嶺(ね) いつとてか
   鹿(か)の子まだらに
  雪の降るらむ
          在原業平 新古今集1616

時を知らない
  山は富士の峰であろうか
    いったい今をいつだと思って
  鹿の子のまだら模様に
    雪が降っているのだろうか

 富士山の残雪が、夏もまだらに残っているのを詠んだ和歌です。「鹿の子まだら」というのは、鹿の子どもは茶色っぽい背中に、白い斑点をぽつぽつとつけているのを、ひとつの模様に見たてたものです。
    「君は季節さえ分からないのか」
とざっくばらんに、富士山に語りかけるようなマブダチぶりと、一方では時間さえ我々とは異なる山として、富士を崇拝するような畏敬(いけい)の念と、それらが無頓着に融合して、富士山に向かって贈答歌でも送りつけているような、なかなか大胆な和歌だと言えるでしょう。

 業平でもなければ、
  こんな着想をばっさりと詠んだりは出来ません。
   もっと修辞を気にしながら、
  繊細にまとめてしまうことでしょう。

山深く
  さそふこゝろは かよふとも
 住まであはれを 知らむものかは
          西行法師 新古今集1632

山の深くへと
  あこがれるような思いを 通わせるとしても
 どうして住まないで
   そのおもむきを 知ることが出来るだろうか

 別に西行法師のように、出家を夢みなくてもよいのです。しがないサラリーマンの生活をしていて、田舎の生活にあこがれなどを抱いて、居酒屋でべらべらとそれについて語っていても、どうして住まないものに、本当のおもむきが分かるだろうか。そういう和歌です。あるいは、
    「その口先だけのいかさまぶり」
を糾弾していると捉えることも可能かも知れませんし、
 ただいざなっているだけのようにも聞こえます。
  次の慈円の和歌は、ちょっと逆の発想。

やまざとに
  ひとりながめて おもふかな
    世に住む人の こゝろづよさを
          前大僧正慈円 新古今集1658

山里から
  ひとりで眺めては 考えることは
    世のなかに住んでいる人たちの
  こころの強さということ……

 慈円が天台宗のトップにつくほどの高僧だからといって、「心強さ」とは「無粋」な気持ちを表したものであるとか、「無常を知らぬもの」を喩えたに過ぎないなどと、屁理屈を申さなくてもよいのです。
 慈円は一流の歌人でもありましたから、詩の表現についてよくわきまえていました。この「こころづよさ」は、そんな特定の方向へ偏った、教義めいた「心強さ」ではありません。
    よく言えば「たくましさ」、
     悪くとらえれば「無粋」、
つまりはすべてを内包して、
 荒波のような世俗にもまれて生きる人を、
    「こころ強いものである」
と述べたばかりです。

 それよりむしろ上の句の、
    「山里からひとり眺めていると、
      こう思われるものだなあ」
という詠み手のゆとりに着目して欲しいと思います。詠み手は世のなかの人を「こころ強く」思っていながら、みずからを「こころ弱く」みなしている訳でも、侘びしさにうちひしがれている訳でもない。ただ超然としたゆとりをもって、世俗の営みを、
    「こころ強いものだなあ」
と眺めている。仏僧である彼には、「強いこころ」もまた悟りきれない状態が生み出した、煩悩(ぼんのう)に過ぎないことが分かっているから、それを「たくましい」とは思ってみても、「うらやましい」とは思わないのです。

 だからといって、教義めかして、
    「世に住む人たちの煩悩の強さ」
を軽蔑している訳ではありません。
 和歌として感じ取れるのは、
    「しかし自分にはそのような、
      こころ強さは必要ないものである」
というような、悠然(ゆうぜん)とした態度だけです。そのゆとりが、この和歌を詠ませてもいるのですが……けれども教義のことはおもてには表わしません。なにしろ、説教臭が漂ってきたら、もうこの和歌は『嫌みの塊』に落ちぶれて、詩情の欠けらもなくなってしまいますから……
 結論を述べるなら、
  「こころづよさ」という表現は、
    なかなかに選び取られたものなのです。

雑歌下 巻第十八

[朗読5]

 雑歌下でユニークなのは、その冒頭に菅原道真(すがわらのみちざね)(845-903)の和歌が、十二首連続で並べられていることです。『八代集』において、ひとりの作者がシリーズものとして並ぶのは、後にも先にも、ここしかありません。しかも、採用すべきほどの和歌とも思われないものも含まれ、彼が悲劇のヒーローとして祭り上げられていた、時代の風潮を感じることも出来るでしょう。
 それは、「管贈太政大臣(かんぞうだじょうだいじん)」という名称にも表れています。なぜなら、彼は生前に太政大臣になったことはなく、死後九十年も過ぎてから、太政大臣の位を贈られた。それで「管原の後に贈られた太政大臣」と呼ばれているのですから。

 そんな道真のシリーズものから一首、お題は「雪」です。

花と散り
   玉とみえつゝ あざむけば
 雪ふるさとぞ 夢にみえける
          管贈太政大臣 新古今集1695

花のように散り
   玉のように見えながら わたしをあざむくので
  まるで雪の降るころのふる里
    きらびやかなみやこへ戻ったような
      そんな夢を見たのでした

 太宰府に左遷させられ、その地に降る雪を眺めていると、まるでみやこで見た雪のように降りつのってくる。そればかりではなく、花には華やかなイメージが、玉にはきらびやかなイメージが重ねられて、春を謳歌していた頃の、みやこの屋敷が思い起こされる。
 あるいは、庭先の花や敷き詰められた石、宝玉みたいなイメージさえ重なるのかもしれませんが、ともかくも、雪がわたしの心を欺くので、その夜は「雪の降る、ふるさと」のことを夢に見たというのです。
    「あざむけば」
という表現に込められた詠み手の思いは、
 浅からぬものがあるようです。

 四句目の「雪の降る」と「故郷」の「ふる」は、異なる意味を掛け合わせているので、掛詞(かけことば)になっていますが、詠んでみると、二重の意味が同時に伝わってくることと思います。このような掛詞は効果的な用法として、詩興を高めるのにひと役買っていますが、もし失敗すれば、下手な駄洒落のようになってしまうことは、言うまでもありません。。

いのちだに
   あらば見つべき 身のはてを
 しのばむ人の なきぞかなしき
          和泉式部 新古今集1738

いのちさえ
  あるなら見ることになるであろう
    わたしのおわりの時を
   しのんでくれる人など
     どこにもいないことが悲しい……

 「雑歌」も「下」まで来ると、人生の終末も近づいてきます。残された命をまっとうして最後の時を迎えても、もうわたしをしのんでくれる人など、どこにもいないことが悲しい。こらえきれない侘びしさがあふれてくるようです。ただそれだけの和歌なのです。

来しかたを
   さながら夢に なしつれば
 覚むるうつゝの なきぞかなしき
          藤原実資(さねすけ) 新古今集1790

人生はつかの間の夢と言いますが
  もしこれまで歩んできた道のりを
    まるで夢のようだと捉えたとしても
      夢から覚めたあとに歩むべき
     現実の未来などもう残されていない
       ただそのことが悲しいのです

 これまでの人生を、夢のようなものと回想したならば、夢から覚めたあとには、新たな一日が始まるのだろうか。けれども、今のわたしには、もうそのような未来は残されていない。それが悲しいと言っているのです。

 「未来を夢みる」
という言葉がありますが、その未来をいつしか、「過去の夢として」眺めるしかなくなった頃……それはもはや、夢を現実とする時代も、現実に打ちのめされる時代も疾(と)うに過ぎ去って、侘びしい現実すらあまり残されていない、終末の悲しみには過ぎないのです。去りゆく者の、不偏的な観念を描きながら、

来たほうを
  すべてが夢だと したのなら
 覚める現実の ないのがかなしい

 その場のため息みたいな、かたり口に委ねているからこそ、聞き手は読み手の思いに、共感を覚えることが出来るのです。もし「覚めて後なき邯鄲(かんたん)が夢」などと言われたのでは、「吾子の歯」と一緒で、相手を軽蔑するばかりです。そのあたりが、詩と屁理屈の分岐点だと言えるでしょう。

[おまけ]
・念のために述べておきますが、「覚めて後なき邯鄲が夢」という表現自体は、使い方によってどうにでもなるものです。ただこの和歌の詠まれた心情とシチュエーションと、三十一字の形式から、おなじ状況を詠んだ場合、詩興を催さないだろうと言っているに過ぎません。たとえば初めから、漢語調の詩として構成し、その一部にこの表現が組み込まれたとするならば、それは内容次第では優れた表現にもなるのです。

こがらしの
   風にもみぢて 人知れず
 憂きことの葉の つもる頃かな
          小野小町 新古今集1802

今はもう秋
  木枯らしの風に 枯らされながら
    人にも知られずに
   憂いに満ちた言の葉ばかりが
     落ちては積もるシーズンです

 「わたしの憂いに満ちたつぶやき」
 枯れゆくシーズンの思いを、「憂き言の葉」にゆだねて、それがまるで木の葉のように、冷たい風に染められては、人知れず散り積もる今日この頃です。そう詠んでいるのです。
 枯れたもみぢの散り積もる情景と、人生の終末のイメージとが結びついて、ぶれるところがありません。『百人一首』にも採用された有名な、「花の色は」の和歌もそうですが、情景を詠んでいるのか、心情を詠んでいるのか、見分けのつかなくなるくらいの「景」と「心」の融合は、小野小町の和歌の特色なのかもしれません。
 また、「人知れず」には、わたしを覚えている人もなく、という流行を過ぎた人の感慨ばかりではなく、「もうわたしを知る人もいない」といった印象も込められ、「憂き事」の「言の葉」には、あるいは多くの死別の悲しみなども含まれているのかもしれません。

 人としては忘れられても、残された作品だけは、はるか未来まで伝わってゆく。そんなイメージもまた、当時の歌人たちにはありました。次の和歌は藤原俊成が、『千載和歌集』を編纂しているときの作品です。
 かつての歌人たちの作品を詠みくらべながら……

ゆくすゑは
   我をもしのぶ 人やあらむ
 むかしをおもふ こゝろならひに
          藤原俊成 新古今集1845

はるか遠い未来には
   わたしのことをしのんでくれる人があるだろうか
  わたしがむかしの詩人たちに思いをはせながら
     こうして和歌を詠んでいるのと同じように……

 はたして今の世に、彼の思いはどれほど伝わってるのか。
  それはおそらくはきっと、確率や統計の問題ではありません。
   ただあなたの心の、捉え方に委ねられているのかもしれません。
  なぜならこの和歌は、あなたに向かって詠まれたものなのですから。
    ……ちょっとセンチメンタルが過ぎました。
        最後は慈円に締めくくってもらいましょうか。

いつかわれ
  み山の里の さびしきに
   あるじとなりて 人にとはれむ
          慈円 新古今集1835

いつしかわたしも
    深山の里のさびしさのなかで
  あるじとなって、なんの憂いもなく
    慕う人々から、訪問されるような
      そんな立派な人になりたいものだ

 もちろん彼にとって「立派な人」とは「悟りの人」を意味しますが、悟りに興味が無くても、そのニュアンスは十分に伝わるのではないでしょうか。三句目の「さびしきに」には、「深山の里の寂しさをも心におさめるような、そんなあるじとなって」という、自らの悟り向かうべき、心情の到達点のようなものが、そっと込められているように思えます。
 また、初句の「いつかわれ」と結句の「人にとはれむ」によって、「そのような人になりたいものだ」という心情が、枠構造を定めているところ、宗教家らしい観念的な言い切り方をうまく表現していて、求道者のこころ強さのようなものが感じられます。
 それがきわめて心地よく、ちっとも嫌な気分にさせられないのは、きわめて簡単なことで、「いつかそうなりたいのだけど……」という、希望を表現しているものですから、上から目線で語られたのではなく、友人から未来への願望を語られたような、共感を覚えるからに他なりません。それでいて、人を突き放したような力づよさもありますから、観念めいた印象と心情を語りかけたような印象のバランスが保たれていて、なかなか優れた和歌になっているようです。
 それでは、これをもって、
  「雑歌」を終わりたいと思います。

神祇歌 巻第十九

 人生の最終章を奏でたような「雑歌下」を過ぎれば、最後に控えるのは救済。すなわち神仏の和歌に他なりません。特に大和の神を讃えた神祇(じんぎ)の和歌には、賀歌のようなめでたいイメージが込められますから、「巻第十九」は、まるでフィナーレに向けて、人生の終わりの悲しみを歌った雑歌の後半から、長調へと回帰するような印象です。

をく霜に
   色もかはらぬ さかき葉の
  香をやは人の 求(と)めて来(き)つらむ
          紀貫之 新古今集1869

置かれた霜にさえ
  色も変わらないような
    永遠(とわ)のみどりをほこる榊葉の
  みずみずしい葉のかおりをこそ人々は
    求めてやってくるのであろうか
      (永遠であれよと、願いながら)

 神楽(かぐら)とは、神に奉納される歌と舞と音楽のことですが、この和歌は神楽を描いた屏風絵に添えられたものです。(正しくは月次屏風歌「十一月神楽」として詠まれたもの)神楽に使われる榊葉(さかきば)の、永遠(とわ)のみず/”\しさを求めて、人々は神楽を見にやってくるのだろうか。まことにめでたく、悲しみなど欠けらもない、祝祭のイメージにあふれています。口直し……といっては失礼ですが、暗いイメージから逃れるには、ちょうどよい和歌であると言えましょう。

すみよしの
  浜松が枝に 風吹けば
    波のしらゆふ
  かけぬまぞなき
          藤原道経(みちつね) 新古今集1913

住吉神社の
  浜松の枝に 風が吹いたなら
    波がまるで白木綿(しらゆう)を
  絶えず枝に掛けているようです

 白木綿(しらゆう)とあると、「白いもめん」のように思われがちですが、もともと「ゆふ」というのは「楮(こうぞ)の木の皮」から作られた白い布のことを指し、神事にはこれが使用されました。
 住吉神社はもとより、全国の住吉神社の総本である、大阪の住吉大社のことです。そこのめでたい浜松の枝には、波が神を讃えるようにして、絶えることなく白木綿(しらゆう)を掛けてくれるという、まことに憂いのない祝賀の和歌になっています。
 もっともこのような和歌は、あまり多く並んでいると、ごちそうさまな気分にさせられるもの。そろそろ最終巻へと向かうことにしましょう。

釈教歌 (しゃっきょうのうた) 巻第二十

 さて釈教とは釈迦(しゃか)の教えで、釈迦とはガウタマ・シッダールタが悟りを開いて、仏教の開祖となったものですから、仏教の和歌を納めたものには、さすがに教義めかした和歌も多いわけです。なかには、「不コ(この「コ」は漢字で[酉+古])酒戒(ふこしゅかい)」などという、看過(かんか)[見逃すこと、大目に見ること]できない和歌まで納められ、
    「酒の売買を戒めるだと、
       そっだなこと、許されてたまっか」
     「アメリカ、黄金の二十年代の再来か。禁酒法反対!」
なんて、プラカードでもかかげて、
 『新古今集』のまわりをぐるぐると回りたいほどの、
  衝動にさえ駆られるくらいですが……
 よく眺めて見れば、何のことはありません、

花のもと
   露のなさけは ほどもあらじ
 酔ひなすゝめそ 春のやま風
          寂然法師 新古今集1964

花のしたで飲む 酒のしずくの
   露の間の喜びなど
 ほどなく 消えてしまうものだから
   どうか 酔うことをすすめないでください
     春の山風よ

 どうしたって負けています。
  「酔ひなすゝめそ」のひと言で決定的です。
    「どうか酔いをすすめないでね、
       またお酒を飲んでしまうから」
 そう言いながらも、春風が花を連れてきたら、また飲んでしまうような私たちの感覚[校訂者注。あるいはこれは「わたし」の間違いではないのか]は、この和歌からも明らかです。なにしろ、風や花が「酔いをすすめている」という感覚がすでに、圧倒的に酒を欲しているのですから……
 つまりは、アメリカの禁酒法がザル法であったように、この戒めも、「ザル戒(かい)」には過ぎなかったのです。さすがは寂然法師、宗教家とはいえど、すなおな心情を、取り繕ったりはしていません。
 ようやく安心して、締めくくりへと向かいましょう。

むかし見し
   月のひかりを しるべにて
 こよいや君が 西へゆくらむ
          瞻西上人(せんせいしょうにん) 新古今集1977

 詞書きから、「昔見し月の光」とは、
  法華経(ほけきょう)の教えそのものを指しますから、

以前に受けた教えを
   まるで月の光の道しるべみたいにして
  今宵あなたは 西へと向かうのだろう

 もとより西は、死者の魂の向かうべきところであり、ここでは西方浄土を指すものですが、死者のたましいが夕月と共に消えてゆくと、浄土も信じずに捉えても、寄り添うことは出来るでしょう。
 それでは、『新古今和歌集』の最後の一首を紹介しながら、八代集最後の勅撰集に別れを告げようと思います。長らくのお付き合い、ありがとうございました。

闇晴れて
   こゝろの空に 澄む月は
 西の山辺や 近くなるらむ
          西行法師 新古今集1978

闇が晴れて
   こころのなかに 澄みわたるような月は
  西の山辺へと 近づいてゆくのだろうか

           (をはり)

2014/06/07
改訂 2014/08/11
再改訂+朗読 2015/01/17

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