八代集その三 詞花和歌集

(朗読1) (朗読2) (朗読3) [Topへ]

はじめての八代集その三 詞花和歌集 (しかわかしゅう)

[朗読1]

 さて、『詞花和歌集』は「金曜の鹿」と唱(とな)えられるように、『金葉集』(三種類あり。1124~27年くらいまで)からさほど時を経ずして、1151年頃に編纂を終え、奏覧(そうらん)された勅撰和歌集です。

 奏覧とは天皇にお見せすることですが、つまりは編纂を終えたものを、勅撰和歌集として認められるものであるか、天皇が判断を下す訳です。けれども歴史上ちょっとややこしいことに、この時代は院政期(いんせいき)と呼ばれる時代であり、すでに天皇の位を譲り、その後見となった院の行うことも、つまりは天皇の承認を得ることになるわけで……

 この『詞花和歌集』もまた、すでに天皇の座を譲っていた崇徳院(すとくいん)(1119-1164)が、1144年頃に藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)(1090-1155)に編纂を命じて、1151年頃に奏覧されたもの。しかし一度突き返され、手直しを加えたものが、もっぱら崇徳院によって承認され、近衛天皇(このえてんのう)時代の勅撰和歌集として、認められたという段取りです。

 1156年、その近衛天皇が亡くなり、さらに崇徳院のひとつ前の天皇、実際の権力者であった鳥羽法皇(とばほうおう)までも亡くなると、政治の実権を握る争いが勃発します。それこそ武士の世を告げる象徴とされる保元の乱(ほうげんのらん)(1156年)で、この争いに敗れた崇徳院は讃岐(さぬき)へどんぶらこと流され、不遇のうちに亡くなる頃、都では平家が武家政権としての野心を高まらせていくという……

 そんな政治的動乱のなかに咲いた、和歌のつかの間の花びらを集めたみたいにして、この歌集は静かに八代集に名を連ねているのかもしれません。

 さて、撰者の藤原顕輔(ふじわらのきよすけ)に注意を向けてみれば、もちろん当時活躍した歌人でした。そればかりでなく、『百人一首』にも、

秋風に
  たなびく雲の たえ間より
    もれいづる月の
  影のさやけさ
          新古今集413

として名を残す、つまりは藤原定家(ふじわらのさだいえ)も認めるくらいの、優れた歌人であった者です。同時にこの時代はすでに、歌人の家柄(後に流派となっていくもの)が宮中に認知されており、彼が撰者となったのは、歌人として知られた父、藤原顕季(あきすえ)の後継者であると認められたという側面もありました。
 実際の実力と、名門の家柄と、
  はたして歌人としての力はどのくらいのものか……
   あるいは撰者としての力量は……

 それはともかく、いまは『金葉集』に続く小粒の和歌集として、さらりと読み解けるような和歌をばかり、軽やかに紹介していくことにしましょう。和歌の総数はわずか415首。650首くらいの『金葉集』よりもさらに少ないものですから、『八代集』へこぎ出すための、地図を持たない小舟には、『古今和歌集』から始めるよりも、ずっと近場のように思えます。
  和歌の並びは、伝統にしたがって、
    まずは「春夏秋冬」から。

春 巻第一

 「四季」にはじまり、もう一つの柱である「恋」とのあいだに、祝賀や別離、旅の思い出やら昇進など、さまざまな和歌を組み込むことが、「勅撰和歌集」の基本方針であることは、ここでも変わりはありません。

ふるさとは 春めきにけり
  み吉野の みかきが原は\を
    かすみこめたり
          平兼盛(たいらのかねもり) 詞花集3

[ちなみに、諸本ごとに言葉の相違がある場合、今はことわりなく「みかきが原は/みかきが原を」の両方が存在する意味で、上のように記すことがあります。]

 さて、まずこの和歌を、

ふるさとは きっと春めいてきたことだろう
  春の遅れがちである 吉野の里の
    みかきが原でさえも
  かすみが立ち渡っているのだから

くらいに解釈して、さりげなく詠み流しても、十分に叙情的であるように思われます。残念ながらこれは、少しくあやまりのある読み方なのですが、だかといって、多少の知識をもとに、正しく読み解けるようになったからといって、和歌から受ける喜びの核心、
     「ようやく待ち望んだ春は来たのだ」
という心は、揺らがないようにも思えますが……
  はたして、本当にそうなのか。
 ちょっと比べてみることにしましょう。

 まずこの「ふるさと」は、「わたしの生まれ故郷」ではありません。もっと文字通りの意味、すなわち「古き里」であり、それは和歌においては、往々にしてかつて都(みやこ)のあった所、あるいは離宮など、天皇(みかど)にこよなく愛された所。かつては華やいだその場所の、今は鄙(ひな)びた姿を、「古里」として詠む場合があるのです。

 ここでも「古里」は、まさに「吉野の里」そのものを指しています。なぜなら「吉野」は、かつては持統天皇を始め、奈良時代(つまり当時の歌人にとっては万葉時代)の天皇たちが滞在した、吉野離宮(よしのりきゅう)が存在し、その離宮の外垣の原は、「御垣の原」あるいは「御垣が原」と呼ばれていたのですから。
 それではこの知識をもとに、
  もう一度和歌を眺めて見ましょうか。

かつての離宮である、
  吉野の里さえようやく春めいてきた。
    「御吉野の御垣が原」と呼ばれていたような、
  鄙びたあたりにさえかすみは立ちのぼり、
遅れがちの春を讃えているようだ。

 いけません、いけません。
  これでは翻訳ではありません。
 単なる解説です、解説です。
この和歌は、決してこのようなことを、くどくどしく述べ立てたものではないのです。なぜなら、当時の人々においては、「ふるさとは」と呈示されさえすればさりげなく、まして「吉野」まで加われば疑いなく、離宮へと思いを馳せるようなシンパシーが、情緒的な概念として浮かんで来るものですから、
     「ふるさと⇒吉野⇒みかきが原」
と焦点を定めるように、自然に離宮へといざなわれてゆくわけで……
 この事を心にとどめながら、
  もう一度この和歌を読み直してみるならば、

ふるき里さえ、ようやく春めいてきたなあ
  かつては吉野に、離宮のあったなごりのような
    このみかきが原さえ
  かすみが覆いつくしているよ

 もはや「ふるき里」と「吉野の離宮」が同じ場所であるという知識は、解説を加えるまでもなく悟らされ、ようやくこの和歌は、おなじ内容を二度、具体的にしながらくり返していることに気づきます。つまりは、
     「ふるさとは春めいてきた」
それを具体的にしながら、
     「みかきが原にかすみが覆っている」
と述べているのです。このようにかつての離宮を噛みしめるような効果から、あるいは、

 春さえ遅れがちな吉野の、かつては離宮のあったみかきが原を、かすみが覆っている。まるでかつての離宮を、覆い隠してしまったかのように……
 あるいはこのかすみの向こうには、かつての離宮がそのままあって、人々は今のわたしと同じように、「ああ春めいてきたなあ」などと感じ入っているのであろうか。

 そんな、いにしえの離宮へのシンパシーが感じられるとき、わたしたちの得た知識は、ようやく情緒的なものと溶け合って、くどくどしい解説など加えなくても、

古里は
  ようやく春めいてきました
    かつては「美つくし」と讃えられた吉野の里
  聖なる垣根につらなるみかきが原さえ
今はかすみに包まれているのです
    (あるいはそのかすみのかなたに
        いにしえの宮はあるのでしょうか)

 そんなイメージが、こころに広がっては来ないでしょうか。
  もちろん、そうであるからといって、
   あなたのイマジネーションが、
  特に優れているという訳ではありません。

 軽く聞き流した時には、ただ思いつきにまかせて、
     「吉野の里もかすみがかってきたね」
と詠み捨てたような落書が、実はどれほど豊かな詩情を秘めていて、千年を経て朽ちないほどの、編まれた和歌であったことか……

 それゆえ立ち止まって、しばらく眺めて見ると、豊かなイメージが広がってくるのです。つまりはもともとの、和歌の持つ詩情であって、詠み手である平兼盛の力量には違いありません。

 さて、はじめに詠み流した印象と、真意へ辿り着こうとして、しばしの考察をしたあとの印象と、喜びの核心は同じだったでしょうか。和歌から受ける情緒の豊かさは同じだったでしょうか。むしろ、はじめは軽く捉えていたものが、忘れられないような深みとなって、心に刻まれたのではないでしょうか。
 そうして一方では、詠み手の思いを推し量ろうとするうちに、その和歌がいつしかみずからの言葉となって、それを唱えてみたときに、懐かしいような印象さえ、湧いてくるように思えたなら……

 あなたにとってその言葉はようやく、
   心地よいばかりの流し去る落書ではなくって、
     ふたたび口に出してみたいような、
   かけがえのない詩となったのかもしれません。

 さて、このように対象へ近づこうとすることこそ、
  詩の楽しみであると言えるかもしれませんが、
   ともかく、次の和歌を眺めることにいたしましょう。

まこも草
  つのぐみ渡る 沢辺には
    つながぬ駒も 離れざりけり
          俊恵法師(しゅんえほうし) 詞花集12

 まこも草とは、ウィキペディアには、
   「イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ」
とありますが、ここでは蘆(あし)の芽の並ぶさまを知る人にはそのイメージを。知らない人には、田んぼに植えられている苗が、雑草のように沢の周辺に生えているさまをイメージしていただいても、とりあえず、大枠は踏み外さないかと思われます。(もっとも、検索をして画像を眺めた方がよいでしょう。)

 「つのぐみ渡る」というのは、ようするにとんがって伸びるような葉っぱが、まるで角(つの)でも生えてくるように、ちくちくと伸びてくる印象です。そんな「まこも草」が一斉に芽吹いたさまを、一面に讃えたような表現です。つまりこの和歌は、

まこも草の
  芽吹いて角でも立てるみたいに
    覆い尽くすような沢のあたりには
  その若芽が美味しいものだから
    つながない馬も離れようとはしないのだ

     「餌があるから馬は離れない」
と、当たり前の事を述べているに過ぎないのですが、
 不要な説明をされたような嫌らしさが起こらないのは、
     「つのぐみ渡る沢辺には」
と上の句で詠んでいるからで、これによって一斉に芽吹いた「まこも草」が、先に浮かんでくるからに他なりません。その情景があまり心地よいものですから、馬もまた若葉が瑞々しいのに喜んで、

つながない馬でさえも
  そこを離れようとしないのだ

 そう感じているような、
  錯覚を引き起こすからに他なりません。
   もちろん馬の方では、
  「沢辺の光景より、まこも草」
が美味しいだけかもしれませんが、詠み手の思いが馬へと委ねられつつ、同時に若芽を食(は)む駒の情景もまた、育ちゆく春のイメージを、喜ばしく告げるものですから、聞き手には、
  「餌があるから馬は離れない」
と説明されたのではなく、沢辺の駒を眺めた時の詠み手の心情が伝わってくる。それだから詩興が起こるのです。
   次はさらに分かりやすい和歌。

春くれば
   花のこずゑに 誘(さそ)はれて
  いたらぬ里の
     なかりつるかな
          白河院(しらかわいん)御製(ぎょせい) 詞花集27

 白河院と言えば、あの『金葉和歌集』の編纂を命じた法皇であり、「御製(ぎょせい)」というのは、天皇や院のお詠みになられた和歌に、特別につける敬称のようなものです。万葉集の頃には「おほみうた」とも呼ばれいましたが、それはさておき……

春がくれば
  咲き乱れる花の梢に誘われて
 あの里この里、花を求めて
   訪れることのない里など
     どこにもないでしょう

 春が来たなら、咲き乱れる花から花へと、あらゆる里へ出向いてしまおう。まるで即興的に詠みなしただけの和歌のようですが、その一方で、あらゆる里を訪れるのは現実的には不可能であることから、

わたしが誘われるように
  あらゆるひとが花に誘われるものですから
    この季節に花見の目を逃れた花など
  どこにもないには違いありません

 誰もが花に誘われ、誰もが里を巡るから、花見客のゆかない里などありません。そんな共感を詠んだようにも思わて来るのです。ここまでは作者が誰であっても変わりませんが、さらにこの詠み手が、
   「やまとを治めたまふ白河院」
であることから、もうひとつ、別の意味が加えられます。すなわち、

すべての里を納めるわたくしであればこそ
 思いのいたらない里などどこにもない

 あるいはそんな統治者としての精神が、
  内包されているような印象です。
 この和歌に限らず、院や天皇の詠まれる和歌には、小細工なしに「おほやう」に構えて、それがかえって私たちに、ストレートな表現として、今日風に聞こえて来るものも多いのですが、たとえば同じ春の部には、

わが宿(やど)の
  さくらなれども 散る時は
 こゝろにえこそ まかせざりけれ
          花山院(かざんいん)御製(ぎょせい) 詞花集41

私の家の
  さくらであるのに 散るということは
 わたしの思い通りには 出来ないものなのです

 これは、『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』を編纂させた、花山院(かざんいん)の御製です。和歌にきわめて大きな関心を抱いていた院で、自らも多くの作品を残していますが、ちょうど西暦1000年をまたいで生きた人でもありますから、その名を覚えておいてもよいでしょう。ここでもやはり統治者であればこそ、

わたしの治める国の桜であるのに
  なにゆえ、わたしの思いのままにならないのであろうか

というような、統治者であるゆえの、どっしり構えたような花を惜しむ心が、さりげなく内包されている訳ですが、これをもし、

我が民の
  さくらなれども

なんて読み始めたら、たちまちわずかな含みが表にあふれかえって、尊大な嫌らしい和歌となって響いてくるでしょう。和歌自体はどこまでも、

わたしの家のさくらなのに、
  どうして散ることは、思い通りに出来ないのだろう。

とだけ詠んでいるからこそ、詠み手が院であると聞かされて、その裏に含みがあることを悟っても、「何様のつもりだろう」というような、嫌らしい気分は湧いてこないのです。それは作者が、あくまで名もないひとりの人間の感慨として、この和歌を詠んでいるからに他なりません。それだからこそ、詩情が伝わってくるのです。

 もちろん統治者ばかりが、
  率直な和歌を愛した訳ではありません。
 やはり春の歌に、

ふるさとの
   花のにほひや まさるらむ
  しづこゝろなく
     かへるかりかな/がね
         贈左大臣母 詞花集33

 「しづこゝろなく」とは簡単に述べれば、
   「静かな心なく」「おだやかな心もなく」
  ということですから、この和歌は単に、

ふるさとの
  花のかおりが 勝っているせいなのでしょうか
    落ち着いた様子もないように
      慌ただしく雁が北へ帰ってゆきます

 つまりは北へ帰る雁を、「私たちのように花を求めるから帰るのだ」と、きわめて簡単な擬人法で、描いてみせたばかりです。おそらく今の学生でも、

ふるさとの
  花のかおりが 恋しくて
    鳥は北へと 消えてゆくのか

くらいの着想は、浮かべる人がいるかもしれない。そんな、ありきたりの発想には違いありません。ただ、この和歌をより優れたものにしているのは、「まさるらむ」と「しづこゝろなく」の表現です。

 まず「まさるらむ」ですが、「らむ」は推量の助動詞と呼ばれるものですから、「優っているからなのかな?」という意味になります。もし理屈じみた人であれば、

 おなじ花の薫りに、場所ごとの違いがあるものか。あるいは品種の違いか、それとも栄養の問題なのか。なるほど北の土壌や気候は、南のものとは異なるものだから、ふるさとのにおいというのは、なるほど、花にも違いはあるのかもしれないな。

 こんな病的な人は放っておいてもよいのですが、実はこの和歌もまた、「花のにおいに、それほどの違いは無いはずなのに……」という前提のもとに詠まれています。それなのにどうして、ふるさとの花のにおいが恋しいのか……
 つまりは詠み手が、ふるさとの花の匂いを、特別なものとして捉えていて、雁にもおなじ思いを委ねたからに他なりません。つまりは「まさるらむ」には、
     「雁たちもわたしと同じように、
        やはり勝って感じるのだろうか」
という思いが内包されている訳です。

 また「しづこころなく」とは、「静かなこころがなく」「落ち着いたこころではいられず」といった意味になりますが、このように述べたのは、まさにさくらの花が、ふと満開になったと思ったら、すぐさま散ってしまう花であるから、つぼみの開かないうちに帰らなければならないので、そわそわした印象を表現したものと思われます。つまりはこの和歌は、

ふるさとの
  花のかおりが 恋しくて
    鳥は北へと 消えてゆくのか

のような、単純な思いつきを、そのまま落書したものではありません。もっと言葉を紡ぎ出すような、デリケートなニュアンスを宿していて、

ふるさとの
  花のかおりが より恋しく思われるから
    いつ花が咲いてしまうかと
  いてもたってもいられずに
     雁は帰ってゆくのでしょうか

 そんな風に見える雁たちの行動に、
  わたしのふるさとへの憧れをゆだねつつ、
   詠まれたような和歌なのです。

 ところで、この和歌の結句は、諸本によって「かへる雁かな」と「かへる雁が音(ね)」とがあるようです。もし「かへる雁かな」とすると、より語り口調に近くなり、
     「雁が帰ってゆくなあ」
といった余韻が感じられますし、「雁が音(ね)」とすると、現代語なら「雁の鳴き声」と止めた事になりますから、「体言止(たいげんど)め」の効果を狙ったものと考えられます。今はただ、詠まれてきた情緒性を断ち切って、一枚のスナップへと返すような効果であると、お茶を濁しておきましょうか。

[ 作者についてひと言:
「贈左大臣母」とあるのは、つまり「左大臣を死後に贈与された人物の母」であると言っているに過ぎません。ところが贈左大臣と呼ばれるべき人は複数いるために、私たちには、調べなければそれが誰か分かりません。けれども和歌が詠まれた当時なら、あの人のことかと、すぐに分かったには違いありませんから、そんなところにも同時代人と私たちの、空気の違いのようなものがあるようです。ちなみにこの贈左大臣とは、おそらく藤原長実(ふじわらのながざね)のことで、その母親が詠んだ和歌にあたるわけですが、女性たちが誰々の母とか、女(むすめ)で済まされてしまうのも、今日の感覚とは、ずいぶん違うものかもしれません。]

夏 巻第二

[朗読2]

 やれやれ、間延びした春になりました。
  夏はさくさく抜けましょう。ただ一首のみですが、擬人法というよりは、ほとんど詠み手の思いそのものを、蛍(ほたる)に委ねたものに過ぎません。

なく声も
  きこえぬものゝ かなしきは
 しのびに燃ゆる ほたるなりけり
          藤原高遠(たかとお) 詞花集73

 皆さまはご存じでしょうか。
  蛍(ほたる)は鳴かないということを……
 笑える人はまことに結構ですが、蛍など自然のなかに見たこともない人もある世ならば、せめてもその姿を、動画などでチェックしてみるのも悪くはありません。写真も動画も、実物には遠く及びませんが、見ないよりはるかに勝ること、料理のレシピのごとくです。

 鳴かないゆえに、「なく声も聞こえぬものの」と詠まれる訳ですが、虫や動物の「鳴く声」と、人の「泣く声」が重ね合されることは、和歌の表現の基本中の基本となります。それでこの和歌は、

ないている声すら
  聞こえないものの 悲しみは
 ひそかに燃えているような ほたるなのです

といった意味になる訳です。
 さて、大和(やまと)の蛍のともし火は、うれしくてわくわくとしたイメージよりも、はかなくて、さみし気で、いつくしみをもって眺めたくなるような、ひそかに思いを宿して燃えているような、そんな sentimentalism と結びついています。そのかすかな光が、恋のともし火に重ねられることも、和歌の表現としてはお馴染みです。
 するとこの和歌は、

嘆きすら
  相手に届かない者の かなしみそれは
 ひそかに燃え続ける 蛍のような恋のともし火です

といった意味になるでしょうか。
 ちなみにこの和歌を詠んだ藤原高遠(ふじわらのたかとお)(949-1013)という人、当時としては笛の名手として高い名声を誇っていました。彼に限らず、多芸のなかのひとつの才能としての和歌、というような歌人は、この時代にはきわめて多いのが特徴です。和歌を詠んでいるあいだだけは、誰もが歌人と呼ばれうる、そんなイメージかも知れませんが、それは社会生活の一部であったのであって、そこから離れた趣味であった訳ではありません。

 12世紀頃に華やいだ、フランスのトルバドゥールの音楽が、専業の吟遊詩人の歌ではなく、歌っている間だけは、誰もがトルバドゥールと呼ばれたのと、ちょっと似ているかも知れませんね。

秋 巻第三

 秋になりましたが、センチメンタルにおぼれることのないよう、屹然(きつぜん)としてまいりましょう。そんな時は、統治者のゆとりのようなものの感じられる、花山院に登場して貰うのが一番です。

あきの夜の
  月にこゝろの あくがれて
    雲ゐにものを 思ふころかな
          花山院 詞花集106

  秋の夜の
    月にこころは 魅せられて
   雲の合間にあれこれと
      もの思いをするころになったものです

 ものを思うというのは、なにも恋でなくてもよいのです。あなたにはあなたなりの「もの思い」があって、そんなもの思いに耽りながらも、眺めたくなるような美しい月あかり。そんな状況を浮かべるだけで、詩興も湧くようなような和歌ですが、せっかくですから、すこしばかり知識を加えてみましょう。

 まず「雲居」とは、雲のある空、あるいは雲そのものを指す言葉ですが、これによって晴天ではなく、時には隠され、あるいは現れる月を眺めていることが分かりますから、時間の経過と共に変化するような、もの思いの逡巡とよくマッチするようです。月の光への憧れも加えるなら、なるほど恋のイメージこそ、この和歌によく似合うものかもしれません。

 また詠み手が花山院であることを考慮に入れるなら、「雲居(くもい)」というのは夜空の雲の他に、「宮中」そのものを指しますから、きわめてざっくばらんに、
     「月に見とれながら、
        宮中であれこれと、
       もの思いをする時期だなあ」
と詠んでいるようにも取れるのです。雲居のトップの人でもなければ、なかなかこう鷹揚(おうよう)には詠めないものですが、今日の私たちから眺めると、それが思いをストレートに詠んだような、心地よいフレーズとなって響いてくる。そこにこの和歌の魅力があるのです。

 ちなみに花山院はこの頃出家を控えていて、
  この「月」には、仏教の意味もこめられているといいます……
 それだと恋とはまた、違った憧れや「もの思い」が湧いてくることでしょうが、いずれにせよこの和歌の魅力は、「もの思い」の内容が、聞き手に委ねられていることにあるのであって、これを具体的に定めたような解説は、興ざめを引き起こすには違いありません。

 さて、次は月と共に秋を代表する、「萩(はぎ)」の歌……かと思いきや、似た漢字でありながら、萩よりもすさんだ風景に置かれがちな、「荻(をぎ)」を歌った和歌を眺めることにいたします。

荻(をぎ)の葉に
  こと問ふ人も なきものを
    来る秋ごとに
  そよと答ふる
          敦輔王(あつすけおう) 詞花集117

 「荻」の姿の浮かばない人は、とりあえず「薄(すすき)」を浮かべましょう。また「薄」さえ浮かばない人は、せめてお月見の時くらいは、スーパーやホームセンターの植物コーナーに、顔を覗かせたらよいでしょう。それでも分からなければ、検索にかけるだけのことですが、かけさえすればたちまち、
     「ああ、こんなの見たことあるな」
と思うには違いありません。そこから始めてくださって、いつしか荻を、眺められたらそれでよいのです。とりあえず今は、そんな荻が、雑草のように一面に生えている様子を思い浮かべながら、

こんな荒れた野原の
  荻の葉になにかを尋ねる人など
    ここには誰もいないのに
     (ねえ、どうしてだろう?)
    荻は秋が来るたびに
      風に吹かれながら
        「そうだよ、そうだよ」なんて
      うなずくみたいになびくのでしょうか

 これはただ、荻の葉が秋風に首を垂れたようになびくのを、誰かに何かを聞かれて、しきりにうなずいている様子に見たてたものにすぎません。「そよと答ふる」は「そよそよ」とした風と葉の響きであり、同時に「そうだ、そうだ」という返答を擬人化したものでもある訳です。
 もう一つだけ、
  秋の和歌を眺めてみましょうか。

いづかたに 秋のゆくらむ
  わが宿に 今宵ばかりの/は
    雨やどりせよ
          藤原公任(きんとう) 詞花集139

いったいどこへ 秋はゆくのだろう
   (そうして閉ざされた冬は訪れるのだろう……)
  どうかわたしの宿に 今夜くらいは、
    (やがて来る時雨やあられを避けるみたいに)
    雨宿りをしてとどまっていって欲しい

 藤原公任(ふじわらのきんとう)(966-1041)という人は、『拾遺和歌集』と切り離せない人物ですが、多くの和歌のアンソロジーを生みなし、また『和漢朗詠集』のような漢詩と和歌の撰集を残し、後世に大きな影響を与えたプロフェッショナルな歌人です。けれども彼の和歌は、あるいは紀貫之を讃えても、藤原定家を讃えても、藤原公任ばかりは素通りするようにさえ思われて……

 それは紀貫之や定家の和歌が、表現が華やかでジェスチャーが大きく、つまりは演技派の歌人であるのに対して、この藤原公任という人は、日常のさりげない身振り以上のものを嫌うというか、技巧性を避けたところに真の詩情は息づいているのだ、そう信じ切っているというか、ちょっと詠み流したくらいでは、なんの取り得もないように感じられる和歌をばかり、創作しているからに違いありません。ここでも、

秋よどこへいってしまうのか
  どうか今夜だけでも留まっていて欲しい

 そんな誰にでも浮かびそうな、即興的な思いを、すらすらと書きしるしただけのように思えて、つい詠み流してしまいそうです。けれどもわざわざ「雨宿り」という表現が選び取られていることを悟るとき、それが冬の到来を告げる時雨やあられから、秋をかくまってやりたいという、詠み手の真心が込められていることに気づきます。なかなかどうして、繊細な心づくしのようにも思えてくるのです。
 この和歌を公任卿が作ったかどうかはともかく、このような控えめな表現こそ、彼の好むところであったのは事実ですから、安心して次のコラムをお読み下さい。

実は、この和歌はもともと、

    雨中秋尽といへる事を詠める
いづかたに 秋のゆくらむ
   わが宿に 今宵ばかりは
  雨やどりせよ
          源経信(みなもとのつねのぶ) 金葉集初奏377

として、『金葉和歌集』のうち、始めて帝(みかど)に提出された『初度本』の中に、秋を締めくくるひとつ前の和歌として置かれていたものでした。
 注目すべきは、作者が源経信とされていることです。ところがこの和歌は、世に知れ渡った、二度目の奏覧による一般的な『金葉和歌集』には採用されませんでした。それがどうしてだか、広まることのなかったまぼろしの『金葉和歌集三奏本』では、秋を締めくくる大切な和歌として取り上げられ、

      雨中秋尽といへることを詠める
いづかたに 秋のゆくらむ
   わが宿に 今宵ばかりの
  雨やどりせよ
           藤原公任  金葉集三奏本258

と公任卿の名で登場するのです。そうしてさらに『詞花集』においては、やはり秋を締めくくる和歌として置かれると共に、結句の部分が、
     「雨宿りせで」
に変更されているのですが、それもまた、諸本によって違いが見られます。今回の紹介では「雨宿りせよ」を採用しましたが、最後を「せで」と締めくくると、
     「今宵限りの雨宿りすらせずに、
        秋はどこかへ行ってしまった」
という和歌になり、
  それもまた魅力的なもののように思われますが、
 それはさておき……

 作者が途中で変わったり、その表現が変化するのは、必ずしも情報の未発達や手違いが原因ではありません。当時なりの考証(こうしょう)や、編纂方針に基づいて、明確になされたものも多いでしょう。ただ問題なのは、オリジナルを書き写して継承する間に見られる手違いや、善意の書き換えが、オリジナルの姿を分からなくしていることが、古文においては非常に多く、安易に踏み込める問題ではないのです。オリジナルの言葉が定まり切らないもの、作者が不明瞭なものは、『八代集』のなかでも時折見られ、また柿本人麻呂の作品とされる和歌のように、勝手な推量や思いを委ねるみたいに、作者不詳の古歌が、人麻呂の和歌とされているような例も見られます。これは積極的な作者創作といってよいかもしれませんが、深入りは避けたいと思います。

冬 巻第四

 月は秋こそことにまさりけれ。
  そうであるならば、その影を閉ざそうとする時雨(しぐれ)こそ、冬の到来を告げるものでしょうか。

いほりさす
  ならの木かげに もる月の
 曇ると見れば 時雨(しぐれ)降るなり
          瞻西上人(せんさいしょうにん) 詞花集150

庵へと差し込んでくる
   楢(なら)の木陰から 漏れて来る月の光が
 くもったかと気づけば しぐれが降り始めたのです

 庵(いおり)と言えば、ようやく夜露をしのげるくらいの、粗末なぼろ屋です。人里から離れ、自然のなかにぽつんとある、ちょうどこの作者のような、僧侶(上人とは高僧に付けられる敬称です)の住むあばら屋のようなもの。そんなイメージで、この和歌を眺めて見ましょう。

 庵の近くには楢(なら)の木があって、色づいた葉を辛うじて残したようなあたりから、月の光が差し込んでくる。それが窓からなのか、壁や天上の隙間なのか、それは分かりませんが、それが詠み手の床のあたりを照らしだし、冷たい風に震えるような楢の梢に合せて、不安定にうごめいていようです。通り雨には風が寄り添うものですから、時雨を前に、わざわざ梢を通して眺めた月の光には、そのような印象が籠もります。その月影が途切れたと思って、はっと見上げたら、たちまち冬のにわか雨、すなわち時雨(しぐれ)が降ってきた。そのような構図です。

 さてこの和歌は、言葉においては、
  上の句で静的な状態を呈示していますが、
   それが下の句に入るや否や、
    「曇ったと見えたら時雨が降りだした」
と動態(どうたい)へと導かれます。しかも上の句は、描写に遠近法を駆使して、デッサンの構図も複雑です。この静的描写、時のない状態から、時間と事象が動き出し、降り始めた時雨を描き出す締めくくりへの、クライマックスの形成は見事です。

  ゆっくり眺めて見ましょうか。
   まずこの和歌は、庵に差し込んだ月影と、
  それを眺めているわたくし。
 もちろん直接見ていてもよいのですが、四句目にはっと気づかされた印象と共に、「曇ると思って眺めれば」というニュアンスがこもりますから、おそらくは、詠み手の視線は床のあたりにあって、寒さに震えながら、物思いにでも耽っているように思われます。その情景のまま膠着(こうちゃく)して、それは上の句では動きません。その叙し方、
     「庵に差し込んでいる楢の木蔭から
        漏れ来る月の光」
という描写のしかたも、すでに分かっている事実を、静的に説明したような印象ですから、ますます詠み手が床の一点でも眺めながら、さみしさでも噛みしめているように思われて来ます。なるほど風はあるのかもしれませんが、それもまた、和歌の言葉からは伝わって来ないものですから、聞かされた印象としては、音声もない静寂の、すなわち一枚の殺風景なスナップが、上の句のイメージを支配しています。

 この静的な状態が、月影が消える時、一気に動き出します。まず詠み手の視点が、おそらくは「あっ」と思った瞬間、月のあった方を眺めたように思われ、それと同時に時雨が降り始める。それまで感じられなかった音声も、雨の響きとなって導入されたように感じられます。一枚のスナップに、事件が持ち込まれ音声が導入されることにより、時が動き出す。劇のような生きた情景となって、私たちのイメージに刻み込まれる。それが、この和歌の最大の魅力です。

 けれどもそれだけではありません。
  ここには、先ほど見た詠み手の視点とは別に、和歌を聞いている側のもうひとつの視点があって、それが先ほどの詠み手の視点とは、異なるフォーカスを宿している。つまりは、フォーカスの二重性があるのです。
 つまり、これを聞かされる私たちは、

庵⇒その外にある楢の木⇒その向こうにある月

という視点の移動が、提出された順番に遠方へと向かい、下の句では近景へとフォーカスを戻しながら、その月が手前の雲に隠されて、さらには時雨が降り始めた庵へと、文脈どおりの視点移動を行うのですが、それが詠み手の視点と異なっているために、外へ広がっていくような描写の雄大なイメージと、庵の中でじっとしている詠み手の侘びしい思いとが複雑に絡み合い、不思議な余韻を残しているように思われます。

 それではこれほどまでのフォースを操った瞻西上人(せんさいしょうにん)といのは、言葉の魔術師でもあったのかと言えば、全然そんなことはないのです。そうではなくて、実際にそのような情況に置かれていたから、ありのままを描写したにすぎません。現実から得られる圧倒的な描写力のことを、人はリアリズムと呼ぶようですが、このような空想からではなかなか導き出せないような情景も、実景のうちには、たやすく見いだすことが出来るのです。彼はその時に感じた心情を、どうしたら効率的に聞き手に伝えられるか、それだけを思いわずらって、この和歌を記したのではないでしょうか。そうだとしても、この和歌の見事な表現力には、なにも減ずるところなどないのです。

 もうひとつだけ、
  冬の歌を見ましょうか。

おく山の
  岩がきもみぢ 散りはてゝ
 朽葉(くちば)がうへに 雪ぞつもれる
          大江匡房(おおえのまさふさ) 詞花集154

けわしい奧山の
  岩場の紅葉さえ散り果てて
    朽ちたような枯れ葉のうえにも
  静かに雪は降り積もる

 「岩垣紅葉(いわがきもみじ)」とは、岩が垣根のように覆っているあたりの紅葉(もみじ)といった意味で、つまりは山間の岩なすあたりから生えている木々の、紅葉(こうよう)したさまを述べたものですが、「岩垣」と定めることによって、私たちの浮かべるイメージも、険しい奧山へといざなわれるようです。
 それが雪に閉ざされてゆくような、
  分かりやすい和歌には過ぎませんが、
 実はこの和歌は、

おく山の
   岩がきもみぢ 散りぬべし
 照る日のひかり 見るときなくて

          藤原関雄(せきを) 古今集282

という『古今和歌集』の歌に基づいていて、
   「照る日のひかりを、
      見ることもなく散った岩垣紅葉にも、
     今は雪が降りつのります」
と詠まれたものなのです。『古今和歌集』は、和歌をたしなむ人であれば、誰もが目を通すほどの重要な歌集ですから、参照された本歌(もとうた)のことを知らない人はまずありません。
 するとこの和歌は、まず本歌の光景が思い起こされて、そのような岩垣紅葉さえ、ついに雪に閉ざされるという情景が、よりゆたかに描写されるという効果を狙って、わざと本歌を参照したものであると考えられます。
 このようなやり方は、実は和歌の技法として知られたものでした。これを「本歌取り(ほんかどり)」というのですが、それについては後ほど、詳しく眺めることもあるかと思われます。

賀(が・いわい) 巻第五

[朗読3]

 賀歌の基本戦略は長き歳月を表して、とこしえに変わらないことを喩えることです。たとえば次の和歌も、

ひとゝせを
   暮れぬとなにか 惜しむべき
  尽きせぬ千代(ちよ)の 春を待つには
          藤原公任(きんとう) 詞花集168

ひとつの年の
  暮れることをどうして 惜しむことがあるだろう
    尽きることのない幾代もの
  春を待つ者にとっては

 これは、年の終わりを描いた屏風絵に添えた和歌で、間接的に持ち主の長寿を讃えたものです。千世や千歳(ちとせ)は、長い歳月の例えでありますから、具体的に「千年もの」と述べている訳ではありません。つまりは、
   「あなたの春は何度でも訪れるのですから、
      この暮れを惜しまなくてもいいのですよ」
と言っただけのことですから、たとえば相手が上司であろうと、あるいは友人であろうと、今の私たちの詩としても、ほとんど差し支えが無いように思われます。それでいて、間接的に長寿を祝しているために、あからさまに持ち上げたような、嫌みも感じられません。あらたまって「君が御代は」などと言われたら、それを心に響かせるためには、ちょっとした知識や準備が必要になってくるには違いありませんから。

 もっともこれは、屏風絵に書かれた和歌ですから、あるいは松などが描かれたのに合せて、「春を待つ」に「松」を掛け合わせたのかも知れません。それならそれで愉快に感じられるのは、この和歌が和歌自身で、詩情をまっとうしているからに他なりません。掛け合わされた言葉遊びや、謎解きばかりが全面にあふれかえったならば、いくら掛詞や序詞を駆使していようが、それは嫌みにあふれた駄歌(だか)には違いないのです。

 ところでこの公任卿の和歌。
  はじめは採用するつもりもありませんでした。
 つまりは素通りして、気づきもしなかった和歌なのですが、あらためて賀歌を比べてみる時になって、ようやく『詞花集』の賀歌の中でも、もっとも優れた和歌であることに気づかされました。前にも見ましたが、この人の和歌は、紀貫之や藤原定家のような華はあまりなく、このような実直な和歌を美徳とする傾向があり、ちょっと詠み流してしまうと、その味わいにすら気がつかないものが多いのです。それでいて、よく吟味して、噛みしめれば噛みしめるほど、他のどの和歌よりも、味わい深いところが表れてくるもので……

 わたしはこのような和歌を、噛めば噛むほど味の出る、「スルメ歌」と呼んでいます。これは冗談のように見えながら、なかなかの誉め言葉のつもりです。このような和歌こそが、大和歌(やまとうた)の王道とされるべき、誠の和歌なのかもしれません。

別(わかれ) 巻第六

 次は「別れ」の和歌からひとつ。

とゞまらむ
  とゞまらじとも おもほえず
 いづくもつひの 住みかならねば
          寂照法師(じゃくしょうほうし) 詞花集181

留まろう
  留まるまいとも 思うことがあろうか
    どこにあっても 生きているあいだは
      すべてが仮の住まい
    永遠の住みかなど ないのだから

 寂照法師は、俗名を大江定基(おおえのさだもと)といって、妻を捨てて駆け落ち(という訳でもないかもしれませんが)した恋人に死に別れ、出家をしたという逸話を残す仏僧です。そんな彼が、唐土(もろこし)つまり中国へと渡ろうとしたときに、とどめられて詠んだ和歌がこれだとされています。

 仏教の教義などを持ち出さなくても、わたしたちの生命がはかなく移りゆくように、現世に安住の地などないことは、震災の皆さまを待つまでもなく、私たちの誰もが、つかみ取れるくらいの情緒に過ぎませんが、それを住まいに委ねた、分かりやすい比喩によって、
     「現世のいのちなど、仮のいのちに過ぎない」
と説教するような、宗教臭さがそぎ落とされる一方で、特に上の句は、語りかけるような表現により、
     「留まろう、留まらないとも思いません」
と述べ立てることにより、唐土(もろこし)へ行くなと諭す相手に対して、
     「わたしは唐土に向かうだろう」
という返答を、きわめてやわらげた表現で返しているあたり、即興的に生みなされたような臨場感が、宗教的な教義より、別れの情景へと、わたしたちをいざなってくれるようです。つまりは、挨拶のような即時性(そくじせい)が、この和歌の魅力でしょうか。これを例えば、

ふさとの かすみを捨てゝ ゆく雁の
  いづくもつひの 住みかならねば

などと読んだなら、着飾った着想の方が膨らみ過ぎて、いさめた相手も、詠み手の思いをまるで推し量れないのではないでしょうか。すくなくとも、いさめた相手の真心に、真摯に答えているようには思われず、軽くあしらわれたような気分です。つまりは体裁(姿)はよろしくても、心は十分ではないのです。
 それでは次は、
  恋の和歌へと移りましょう。

恋上・恋下 巻第七・八

 『詞花集』の恋は、上下に分かれています。恋ばかり四つも五つも部立てしている勅撰和歌集が多い中で、きわめてコンパクト。わたしもまた、コンパクトに恋歌を、ひとつだけ紹介して過ぎ去ります。恋への関心がないという訳ではありませんが、四季に比べていくぶん詰めの甘い和歌が多いのも、必然的な事実です。
  さて、恋と言えば女性歌人。
 女性歌人と言えば、小野小町(おののこまち)、伊勢(いせ)、あるいはその娘である中務(なかつかさ)、それとも和泉式部でしょうか。

竹の葉に
  あられ降る夜は さら/\に
 ひとりは寝(ぬ)べき こゝちこそせね
          和泉式部(いずみしきぶ) 詞花集254

 この和歌の肝(きも)は、一見取るに足らない、三句目の「さらさらに」にあるかと思われます。全体の意味は現代語にすれば、そのまま受けられるほど率直であり、

竹の葉に
  あられの降る夜は
    ひとりでは寝られるような
  気持ちがいたしません

と言っているに過ぎません。
 それなら三句目の「さらさらに」は何かと言えば、いわゆる「雨がしとしと」「風がざわざわ」というようなオノマトペ(フランス語)と呼ばれるもので、「犬がワンワン」と鳴くように、鳴き声や響きを、人間の音声に当てはめたり、「雪がしんしん」と降りつのるような、こころのイメージを音声化したりするのを、擬声語(ぎせいご)とか擬態語(ぎたいご)と呼んでいるに過ぎません。
 これらの表現は、もともとが人間の精神により音声化されたものですから、その移し替えられた表現は、たちまち私たちの心に、直接訴えてくる効果を持っている。そのため詩において、しばしば効果的に使用されているものです。

 ここでも、上の句の情景の呈示
  「竹の葉にあられが降っている」
から、下の句の心理状態の呈示
  「さみしくてひとりでは寝られない」
へと橋渡しする中間地点に「さらさらに」が置かれることによって、一方では竹の葉の触れ合うような心のざわつきが加えられ、もう一方では「なおさらに」といった意味の「さらに」を掛け合わせることにより、先ほどの現代語訳では、説明ばかりが優位に感じられたものを、

竹の葉に
  あられの降る夜は さらさらとした音が気になって
    なおさら ひとりきり
  寝られるような気にはなれなくて……

 情緒的な表現へと、
  舵を切るような効果があるのです。
 かみ砕いて述べるなら、
     「竹の葉の触れ合う」
では、ただの説明や解説に過ぎませんから、
  すなわち客観性に勝り、
     「竹の葉のさらさらと触れ合う」
ならば、心理作用と結びついた「さらさら」というオノマトペによって、はるかに心情に寄り添った表現、すなわち主観性に勝るのです。その効果にさらに、反復される「さら、さら」(母音で「aaaa」)というリズム遊びが加わることにより、なおさら説明ではなく、心情を語りかけたもののように響いてくる訳です。するとたちまち、

(こうして起きて、
   あられの響きを聞きながら
  さみしく震えているのです)

 情緒的に捉えたために、和歌の記されていない領域、すなわち余韻のようなものが、ほのかに伝わってきて、それが読み終えた後にまで、相手の気持ちを推し量ろうとするのですが……
 和歌ではこの作用のことを、
  余情(よじょう)などと呼ぶようです。

 それにしてもこの和歌は、
  どうして「恋」に収められているのでしょうか。
 確かにひとりでは眠れない思いなら、相手が欲しいと類推がつくものですが、実はこの和歌の場合、もっと確実な拠り所があるのです。すなわち和歌の前に記された、詞書(ことばがき)の説明に、

 頼みとする男を、今こそと待っている時、
   眺めている竹の葉に、あられの降りかかるのを、
     聞きながら詠んだ和歌 (現代語訳)

と記されているからこそ、恋歌に分類されている訳です。

雑上 巻第九

 さて、恋に続くのは『雑(ぞう)』の部です。
  その中から、今回は詞書の面白さも紹介しながら、
 いくつか眺めてみようかと思います。

 まずはじめは、先ほどの和泉式部(いずみしきぶ)と同じように、女流歌人として知られた赤染衛門(あかぞめえもん)の和歌。
 現代語訳した詞書を添えて。

 思うことあって、横になっても眠れないので、夜通し眺めていたら、澄みわたるような月は、夜明けの雲にかき消されて、不意に冬のにわか雨(しぐれ)が降り出したのを見て詠む

神無月(かみなづき)
   ありあけの空の 時雨(しぐる)るを
 また我ならぬ 人や見るらむ
          赤染衛門 詞花集324

神無月に
   夜明けの空の しぐれる様子を
  あるいはわたしではない
     誰かも、同じように見ているのでしょうか

 神無月というと語意から、「神の居ない」という意味を連想したくなりますが、ここではあえて「無月」(月のない)という意味を込め、かき消されて月のない様子を暗示しながら、陰暦十月の冷たく刺すような夜明に、時雨(しぐれ)を詠みなしているあたり、さりげなく技巧をこらしています。(あるいはこれは、うがちすぎかもしれませんが。)ただし全体の調子は、詞書のイメージにしたがって、

「もしかしたら、わたしでない誰か、
  (あるいはあなたなのかな……)
    同じように、眠れない夜を明かして、
  この時雨(しぐれ)を見ているのでしょうか」

 まるで時代錯誤のハイカラさんじみた、女学生の日記帳みたいに、ひそかな思いをしるしてみたまでのこと。和泉式部の和歌とは違って、詞書にすら恋愛の情景が描かれていないから、「雑(ぞう)」の部に納められているのですが、まるで恋の和歌として、たやすく捉えられるのではないでしょうか。
 もっとも、おなじ月を眺めても、

 筑紫(つくし)から帰って来て、かつては住んでいた屋敷の、同じものとは思われない荒れようを目にして、月ばかりがそこを、明るく照らすのを眺めて詠んだ和歌 (現代語による詞書)

つく/”\と
  荒れたる宿を ながむれば
 月ばかりこそ むかしなりけれ
          藤原伊周(これちか) 詞花集308

むかしの感慨に耽るみたいに
  荒れ果てた屋敷を、眺めていると
   ただ月の光だけが、今でも
  むかしのように照らし出すのです。

 赴任先から戻ってみれば、かつての住みかは荒れ果て、月ばかりがむかしのままであったというのが、詞書を含めた和歌の内容なのですが、和歌を眺めただけで、その精神をつかみ取れるくらい、ありきたりの表現で詠まれています。ちなみにここでも、冒頭の「つくづくと」という表現が、
     「はるか懐かしい
       いにしへの感慨に
      いつまでも耽るような」
荒れたる宿を眺める時の、
  その場のため息のような臨場感を演出していて、
     「荒れた宿を眺めれば、
        月だけが昔のままであった」
という無個性的な感慨を、
 詩情へと高めているようです。
  もっとも、オノマトペなどは諸刃の剣で、

つく/”\と
  つく/”\として 眺むれば
 荒れたる宿の 月はかはらず
          駄鹿乃守(だかのまもる)

などと安易にくり返せば、広瀬惟然(ひろせいぜん)(1648-1711)じみた俗調へといたり、やがては種田山頭火(たねださんとうか)(1882-1940)のある種の稚拙へと、陥ってしまうことは避けられません。(もっとも彼らに対して、わたしは好意を抱いているくらいのものですが。今は深入りせずに……)
 まして、

つくづくと
  つくつくづくと つくづくと
    つくつくぼうし つくづくと鳴く

などと極めれば、誰しも思いつきそうな言葉遊びを、園児の唱えてはばからないような、マンネリズムの堆積平野へとなだれ込むばかり。あそび歌としては面白いかもしれませんが、心情など取りどころもなくなってしまうでしょう。
 そうではなくて、
  冒頭ばかりを「つく/”\と」として、
 後はただ、

荒れた宿を眺めれば
  月だけは昔のひかりであった

と衒(てら)いのない、ありきたりの描写に委ねることによって、主体(しゅたい)と客体(きゃくたい)のバランスが保たれている。さながらそれは、感情的表現と、理知的表現のバランスとでも言えましょうか。

 さて、率直な表現さえすれば、
  優れた和歌となる訳ではありません。
 やはり雑上の和歌に、

いとひても
  なほ惜しまるゝ わが身かな
    ふたゝび来べき この世ならねば
          藤原季通(すえみち) 詞花集346

 なるほど下の句の、
    「再び訪れることの出来る
      この世ではないのだから」
という表現は、格調高く響きます。けれども上の句の、
    「いとわしいけれど
       それでも惜しいと思う
      わたしのいのちです」
はいかがでしょうか。「惜しいなあ」といった、思ったままの感慨が、突き放したような下の句を、貶(おとし)めているようにも思われます。

いとわしいけれど
  それでも惜しいような いのちだなあ
    再び訪れることの出来る
      この世ではないと思えば

 なによりも、「惜しい」という思いが前面に表れてくるものですから、冒頭の「いとひても」まで軽くさせられてしまい、
     「ちょっといとわしいところもあるけれど」
くらいの思いを加えたような、深みの無い言葉のように響いてしまうのです。けれどもこの和歌の精神は、
     「厭わしいとは思っても、
        二度と戻れないのであれば、
          どうしても捨て去れない命」
ということにあって、「厭わしさ」と「命を惜しむ気持ち」はどちらもおなじくらい深いものでなければ、着想を結晶化させたものとはなりません。つまりは、アンソロジーの秀歌とするには、ちょっと躊躇するような、安っぽさをぬぐい去れないのです。
 ところがこの和歌は、
  次の『千載和歌集』に、二句目を、
   「なほしのばるゝ」
と置き換えたものが掲載されているのですが、
 もしこれが「偲ばるゝ」となると、
  詩のイメージは大きく変わってきます。

いとひても
  なほしのばるゝ わが身かな
    ふたゝび来べき この世ならねば
          藤原季通(すえみち) 詞花集346

 自らを大切にする主観があふれた「惜しむ」ではなく、影にひっそりと堪えるような「しのぶ」を加えたことによって、冒頭の「いとひても」の厭わしさが真実味を帯びてくる。「惜しまるる」と「しのばるる」の違いには過ぎないものを、いくぶん甘さのあった和歌が、ひと言も変えようのない、言葉の結晶として響いてくるのは却って不思議なくらいです。

 もとより原作者の思惑は、分かりませんが、
  言葉の扱い方について参考までに、
   ちょっと考察を加えてみたまでのことです。

雑下 巻第十

 一方こちらは、
   いのちは惜しくないという和歌。

かはらむと
  いのるいのちは 惜しからで
 さても別れむ ことぞ哀しき
          赤染衛門(あかぞめえもん) 詞花集362

代わって欲しいと
  祈るこのいのちは 惜しくもありません
 ただ別れるという ことが哀しいばかりです

 これは赤染衛門が、息子の大江挙周(おおえのたかちか)が危篤になったときに、神に祈って回復を願った和歌です。
     「どうか息子の病気をわたしに変えてください。
        わたしは死んでも構いませんから」
そう祈る上の句は、いつの世も変わらない母の思いには違いありません。それに対して下の句は、
     「もし願いが叶っても
       息子とは会えなくなってしまう
         いのちは惜しくはないけれど
       ただそのことが哀しいのです」
そんな思いを語っているのです。

 なるほど、やはり生きていたいという本性を、わずかに言い訳したような印象もこもりますが、必ずしもそうではありません。息子が死んでも、母親が死んでも、いずれにしても二人は逢うことはかなわない、その悲しみの本質をこそ、この和歌は詠んでいるからです。

 もし安いメロドラマなどで、
   「息子の代わりに私を死なせて」
と母親が叫べば、それこそ息子への愛情の結晶などと、拍手喝采が湧き起こったりするかもしれませんが、はたしてそれが真の愛情なのかどうか。代わりに母親が死んだとしたら、残された息子は、やはり悲しい思いをするのではないか。自らの代わりに犠牲になったのかと、罪悪感にさいなまれるのではないか。そこまで推し量ることこそ、あるいは真の愛情なのかもしれません。
 ここには、主情におぼれたようなドラマの台詞とはまるで異なるもの、盲目の溺愛のさなかにその情景を引いて眺めるような客観性が、却ってリアルな人間性を醸し出していて、息子を願う母親の思いに、真実味を与えているように思われます。そうしてその核心には、
     「わたしを代わりに死なせて欲しい」
ではなくて、
     「ふたりを引き離さないで欲しい」
という祈りのようなものが、私たちに切実と感じられて来るのです。つまりは、この和歌の正体は上の句の、
     「息子と病気を交換してください」
にあるのではありません。そうではなくて、ただ、
     「息子と引き離さないでください」
という願いにこそ、
 祈願の本質、あるいは母親の思いはあるのです。
  けれども、それさえかなわないなら……

 せめても、
   「わたしを代わりに死なせてください」
 ありきたりにおなみだを誘うような、溺愛ヒステリーとはまるで異なる愛情、刺された刹那にすら子どもを思うような親心が、そこには委ねられているのかもしれません。

 さて、詞花集の「雑」はコンパクトなわりに、さまざまな様相を呈しています。こんな切羽詰まった生死の和歌があるかと思えば、一方では、

大原や
  まだ炭窯(すみがま)も ならはねば
    我が宿(やど)のみぞ
  けぶりたえたる
          良暹法師(りょうぜんほうし) 詞花集367

こんな、滑稽な和歌も収められているのです。
  これは良暹法師が、知人のもとへ送った和歌ですが、

出家して 大原に住みましたが
  まだ炭窯の扱いさえも ちゃんと習っていなかったので
    どうしたことでしょう、わたしの庵だけ
  火が消えて、煙がとだえてしまいましたよ

 この頃の大原はすでに、出家した人、世捨て人のプチリゾートとなっていました。つまりはみやこを捨てた人々や、仏僧などの庵があちらこちらに、もちろん豊かな都の風情とはまるで異なるものの、別荘の代わりにあばら屋などを並べ、そこからは炊飯の煙が立ちのぼっている。
 なかなかに活気があるのです。
  ああ、それなのに、それななのに……

 田舎暮らしのノウハウを知らないばかりに、炭窯の扱いさえもろくに分からずに、どうしたことでしょう、この詠み手の庵ばかり、炭窯の煙が途絶えてしまったというのです。

 そんな滑稽な情況を、まるで四コマ漫画みたいに、表わしてみたのがこの和歌です。このような、直接愉快に触れるような和歌も、そのあるものは俳諧歌(はいかいか)とも呼ばれますが、しばしば勅撰和歌集に納められているのです。
 それにしても、さすが歌人として知られた良暹法師です。滑稽を優先して、和歌の体裁を崩すような不手際はしていません。それどころか、この和歌の裏には、たんなる滑稽どころか、

大原の暮らしになれていないので
   炭窯で炊くべき食料品が
      まるでなくなってしまいました
   どうか煙が絶えないくらいの
      食べものを恵んではくださらないでしょうか

 この和歌の贈り手への切実な願望、生活援助の思いが、さらりと込められているのです。あるいはモーツァルトが和歌の技法を知っていたなら、その豊かな表現力と、叙情性にのめり込んで、プフベルクに対して、このような和歌を送っては、借金のおねだりをしたかもしれませんね。フリーメイソンの活動のために……

 閑話休題。
  次の和歌は、遠く離れた友人に贈った手紙に添えて、

思ひかね
  そなたの空を 眺むれば
    ただ山の端に
  かかる白雲
          藤原忠通(ただみち) 詞花集381

思あふれて
   あなたの住む方を 眺めれば
  ただ山の端には 白雲がかかっているばかり

「かなたの空」と詠みそうなところを、わざわざ「そなたの空」と詠んだのは、「あなたの方の」という意味を掛け合わせているからに過ぎません。ああ、それなのに、眺める先には山の端が広がっていて、ふたりの場所を隔てている、それで山の端に掛かる雲に、思いをゆだねてみたのです。

 白雲よ、お前だけは、あの人の居場所を知っているだろうか。なぜならお前だけが、あの人のところへも、わたしのところへも、たやすく訪れることが出来るのだから。

 けれども白雲はただ、山の端に掛かっているばかり。委ねようとしたわたしの思いさえ、自然の光景へと消えてしまうような……
 そんな印象の和歌になっています。

  さて、情景に思いを委ねるばかりではありません。
 和歌のバラエティーは豊かです。『詞花集』の最後に、宗教的、あるいは観念的な和歌をひとつ紹介して、お別れの挨拶に代えさせていただこうと思います。

人を弔(と)ふ
   鐘のこゑこそ あはれなれ
 いつかわが身に ならむとすらむ
          よみ人知らず 詞花集406

 この和歌は、「四十九日」の弔いに際して、声に出して経(きょう)を読み上げるべき、誦経文(じゅきょうもん・ずきょうもん)のうちに書きしるされたものです。つまりはお経の代わりに、あるいはお経と一緒に、口に出して唱えられた和歌ということですが、

人を弔(とむら)う
  鐘の響きこそ 哀れに思えます
 いつかわたしの身にも
   鳴り響くことはあるのでしょう

 これくらいの感慨は、弔いの鐘の響くとき、誰でも浮かべるような感慨には過ぎません。特に「よみ人知らず」の和歌には、語りかけるような、日常会話くらいの表現を、ストレートに詠んだものが多く、この和歌もまた特定の誰かが、特別な着想を詠みなしたという印象よりも、人々の口承にかたちを整えていったような、素朴な歌詞のようにして響いてくるようです。
 そうであればこそ、誰の思いにもたやすく寄り添う、着飾った嫌みのない和歌となって、こころに響いてくるのです。わたしたちの情緒に触れ、わたしたちもそっと唱えてみたくなるもの。それこそ和歌の神髄(しんずい)ではないでしょうか。わたしたちは引き続いて、『千載(せんざい)和歌集』において、それを眺めてゆくことにいたしましょう。

           (をはり)

2014/07/12 改訂掲載
2014/11/26 再改訂+朗読掲載

[上層へ] [Topへ]