八代集その一 金葉和歌集

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はじめての八代集その一 金葉和歌集 (きんようわかしゅう)

はじめに

 和歌を捉えるとしても、さまざまなレベルがあるでしょう。
  言葉の違いやら、社会や慣習の違いから、聞き手と詠み手の心理作用がかみ合わず、まるで異なる感動を覚えたり、あるいは心情の吐露(とろ)が説教に聞こえたり、興の湧かないしがない解説に響いたり……
 ましてかつては、殺し合うことすら茶飯事の、飢餓や疫病にさいなまれ、神仏にすがりつくような時代。そうして都には貴族という特権階級のきわみに、天皇のおわすような世界。私たちとは、おのずから感性も異なり、考え方さえことなるのは避けられません。何よりも、電化と端末を駆使する世のなかと、わずかな灯火にあかりをつなぐ手紙の時代とでは、生活の細事にいたるまで、感性の隔たりは起こるでしょう。

 けれどもあるいは、人の世のよろこび、なみだ、愛情、憎しみといったものの本質は、つらぬき通すDNAみたいにして、単一のプラットフォームに形成される情緒の、G線上のアリアのようなもであるならば……

 かつてのほほえみと、わたしたちの喜びにも、共通点はこもるでしょう。あるいはその共通点の根幹は、時代を超え、民族を越えて、あなたとわたしとのしがらみをさえも、溶かして隔てなくしてしまうもの。誰もが持ち合わせている、情緒という名のプラットフォームには他なりません。そうであるならば、すぐれた詩の本質は、人類の継続するあいだ、たとえば宇宙へ旅立とうと、地底の闇へ落ちぶれようとも、わずかな知識で紐解けば、共通項へと還元されるべき、ゆたかな表情を宿しているのです。そうであるならば……

 和歌もまた詩の一形態であるならば、その価値は、母国の歴史にあるわけでもなく、伝統に引き籠もるのでもなく、ただ伝えられるべき言の葉が、わたしたちの心情へと響き渡り、新たな情緒となってよみがえるからこそ、わたしたちの永遠のバイブルのように、思えてくるものなのかもしれません。

 現在の詩が、さまざまな表現から成り立つように、かつての和歌もまた、捉えやすいもの、難解なもの、素朴なもの、技巧的なもの、宗教のもの、滑稽なもの、社会を讃えるべき歌、個人的なプロフィール、さまざまなものが入り交じっているのは当然です。優れた和歌もあれば、驚くほどの駄歌(だか)もあるのですが、和歌の導入としてわたしはまず、現代語の日常会話くらいの語りと、歌詞にこころを動かされる学生くらいの感性で、たやすく捉えられるような和歌を選び出して、『八代集』の紹介を試みようと思うのです。

 けれども心配はありません。
  そのような和歌は勅撰集のなかでも、
   ユニークな存在などではまるでないからです。
  むしろそんな、捉えやすいくらいのものが、
 いにしへから今にいたるまでの、
和歌のメインストリートではないですか。そのような本質をわきまえず、はじめての人に修辞の極限をめざしたような和歌を、情緒性と技巧性が極限に絡み合うような和歌を、無理して紹介したらどうなります。

 それはあたかも、小学生に『百人一首』を暗記させるようなもの。
  詩のおもしろさなど、分かるはずなどありません。
 せめても『かるた』の道具として、あくせくするのが関の山です。
  それならそれで、ゲームとしてはおもしろいかもしれませんが……

 もとより和歌の愉快さなど、
  捉えようがありません。
   感性の豊かな子どもなら、
  かえって不気味に思うでしょう。
 言葉を修飾にこねくり回して、
感情をもてあそんでいやがる。

 捉えやすいものだってあるのです。
  そこからのぼればいつの日か、
   たどり着く日さえあるのです。
  その過程さえ無視したら、
 かつてのわたしがそうであったように……

 詩としてのどれほどの愉快さも、見いだせなくなるのが当然です。さながら古典を軽蔑して、寄りつかなくなるのが関の山。ただそうさせるためにこそ、果てなき解説におとしめることに、彼らは躍起になっているようにさえ、わたしには思えてならないのですけれども……

 やがては、さみだれの雲のした、
  詩情の欠けらもない野ねずみが、
   理屈ばかりを鳴き叫んでいるような闇の夜に……
    「のぼらない朝日はない」
   そんな希望すらも、
  今はむなしいけれど……

 挫けそうなこころ励まし、
  わたしはわたしのやり方で、
 この紹介を試みようと思うのです。
いにしえより息づくような、
 詩のアンソロジーとして眺めつつ……

  とはいえ『古今和歌集』はつまずきます。
 はじめに見れば興ざめを引き起こすかもしれません。
   そうであるならば……

 和歌の数もお手頃で、日常会話の延長線上に、捉えられそうな和歌も多い集。まずは『金葉和歌集』あたりから、『八代集』を始めては見ませんか。

金葉和歌集について

 さて、白河法皇(しらかわほうおう)(1053-1129)と言えば、天皇の位を譲った上皇が、まるで「父ぎみ」みたいな立場から天皇の政権をサポートし、時にはあやつり、実質的な権力を握り続けるという、あの院政(いんせい)をスタートさせた統治者です。
 その白河法皇が、当時名を馳せていた歌人の源俊頼(みなもとのとしより)(1055-1129)に依頼し、編纂された和歌集こそ、この『金葉和歌集』に他なりません。源俊頼という人は、歌人として優れていたばかりでなく、『俊頼髄脳(としよりずいのう)』と呼ばれる歌学書を執筆し、また同時代の歌人、藤原基俊(ふじわらのもととし)とライバル関係にあって、互いにしのぎを削っていたことが、鴨長明の『無名抄(むみょうしょう)』の逸話にも残されています。

 そんな源俊頼が編纂した『金葉和歌集』ですが、白河法皇が執拗に駄目出しをしたために、今日では三種類の異なった撰集が残されることになってしまいました。それぞれ「初度本」「二度本」「三奏本」と呼ばれていますが、ここではもっとも一般的に『金葉和歌集』として広まった、「二度本」(1125年頃成立)に基づいて、表現の捉えやすい和歌を中心にして、初学用の紹介を加えていこうと思います。
 ちなみにこの『金葉和歌集』、すべての歌数を合わせても650首くらい。非常にコンパクトな和歌集になっていますので、なおさら導入にはふさわしいものと思われます。

春歌 巻第一

[朗読2]

 さて勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)というのは、天皇や上皇の命令により、公的に選ばれた和歌集のことですが、その配列は、はじめの勅撰和歌集とされる『古今和歌集(こきんわかしゅう)』にあやかって、まずは「四季」すなわち「春夏秋冬」から開始することが習わしになっています。
 この「四季」の部に対して、おなじくらいの歌数を誇る「恋歌の部」を設け、「恋」と「四季」二つの柱の間に、旅の和歌、別れの和歌、祝いの和歌、宗教的な和歌、滑稽な和歌、言葉遊びなどを加えてみせれば、勅撰和歌集の出来上がり。
 そう言っては、ちょっと乱暴でしょうか。
カテゴリーに含まれる和歌が少ない場合や、分類のつかないような和歌は、「雑(ぞう)」という名称でまとめられることも多いのです。

 それではまず「巻第一」の春歌から見ていきましょう。ちなみに「巻第一」とあるのは、和歌は和紙で作られた巻物につづられていましたから、巻物の第一番目ということで、「巻第一」と呼ばれているのです。巻数は、フルサイズの勅撰和歌集が全二十巻、ハーフサイズが全十巻と覚えておけばよいでしょう。『金葉集』はハーフサイズですから、全部で十巻に分かれます。

 それではまずはじめに紹介するのは、
  良暹法師(りょうぜんほうし)の和歌です。

梅の花
  にほふあたりは よきてこそ
    いそぐ道をば ゆくべかりけれ
          良暹法師(りょうぜんほうし) 金葉集17

 これは良暹法師という僧が、用事があるのにも関わらず、どこかの屋敷の梅があまりにも美しいものですから、花の咲き誇るあたりにこころ奪われて、ぼうっと見とれながら夕暮てしまい、ようやく我に返って、「しまった」と思って詠(よ)んだ和歌です。

梅の花の
  匂うあたりは 避けてこそ
    急ぎの道は ゆくべきであったなあ

 なんの事はありません、
  つい梅に見とれてしまったので、

「ああこの時期は、梅の花の匂っているあたりは避けて、回り道をしなければならなかったのだ。つい梅の匂いに誘われて、眺めつつ日を暮らしてしまった」

 そんな後悔を、梅の屋敷のあるじに詠み渡したものです。するとこの歌には、もうひとつ別の意味が込められていることになります。それは、

「あなたの屋敷の梅が、
    あまりにも見事なものですから、
  つい見とれてしまいましたよ」

 そんな社交辞令も兼ねる訳ですから、屋敷の主人も悪い気はしないでしょう。和歌の贈答には、このような婉曲(えんきょく)表現、つまり直接伝えるのではなく、それとなく悟らせるような表現もよく似合うものです。

 また最短ルートではなく、回り道をした方が早く着くのだなあ、というようなちょっと知性に訴えたような遊び心も、(頓智が全面に表れてくれば興ざめを引き起こしますが、)歌を読み解いた主人をにやりとさせるような効果があるのではないでしょうか。心情と理性のブレンドが、さりげなく詩興を誘うようです。
 それでは次は、
  池のほとりに柳を眺めるような和歌をひとつ。

風ふけば
  波の綾(あや)をる 池水(いけみづ)に
 糸ひきそふる 岸のあをやぎ
          源雅兼(みなもとのまさかね) 金葉集25

 ここで分からないのは「綾折る」ということですが、つまりは水面の波を綾織物(あやおりもの)の模様に見立てたにすぎません。それは何かと問われれば、今日ではすぐにネットで検索できるのですから、たわいもない時代になったものです。

 さっそく調べてみましょう。
  文字よりはデッサン、デッサンよりは写真、写真よりは実物、眺めるよりは自ら織る方が、より多くの情報を得ることが可能であり、より本当の記憶、自らの知識となるのはもっともですが……
 文字と写真、あるいは動画くらいの情報でも、零よりははるかに豊富なデータには違いありませんから、和歌に近づくための、大きな手助けにはなることでしょう。

 ともかくも、水面(みなも)にはおそらく自然の情景やら、青空やら雲が映し出され、あるいは散らされた花びらや、虫たちの小さな営みさえ顔を覗かせているのかもしれません。けれどもちょっと離れたところから、風に吹かれる表面を眺めていると、そのような対象物は消えてしまい、むしろ細かな波の立つのに光がきらきらと反射して、いち面に広がる綾織物のように見えてくる。すると隅の方で葉を垂らしている柳の葉が、その部分でまさに糸を繰り出して、水の織物を織っているように感じられた。
 あるいはそうではなくて、屏風に描かれた池水のデッサンが、綾織物じみて見えただけかもしれませんが、
   「糸引き添ふる」
という表現には、まさに織り込まれているような臨場感が、見事に詠まれているのです。

 そうして、
   「波は織物のよう、
      青柳はそれを織る糸のよう」
くらいの思いを、さらりと述べたものであるから、着想におぼれたような嫌みにさらされることもなく、詠み手のひけらかしの自我に悩まされることもなく、さらりとこころに響いてくるのです。それだからこそ、「勅撰和歌集」にも撰ばれているのでしょう。
  次の和歌もきわめて簡単です。

吉野山(よしのやま)
   みねのさくらや 咲きぬらむ
  ふもとの里に にほふ春風
          藤原忠通(ただみち) 金葉集29

 吉野山と言えば、高野山も近く、熊野詣(くまのもうで)とも関係のあるくらい神聖なところです。同時に山に分け入るような、春の訪れの遅いところ、白雪の残りがちなイメージも兼ね揃えています。さらには、さくらの名所としても、次第に詠まれるようになってきました。

 なかなか訪れない春を待ちわびるような吉野の里に、ふと春らしい風が吹いてきた。「咲きぬらむ」というのは「咲いているのだろうなあ」という推量を表しますが、ふもとの里であれば桜の開花くらいは知れたものですから、むしろ「ああ、咲いたのだなあ」という、感嘆に近いような響きを持つことになります。つまりは、

吉野山にも
  嶺のさくらは 咲いたのだろうなあ
 ふもとの里にまで 春風が香りを伝えてくるよ

 あるいは桜の様子はまだよく分からないとして、里がこれほど春めいた大気に包まれているのだから、吉野山のさくらもきっと咲いたのだろうと解釈してもかまいません。また本当にさくらの気配が、それは近隣のさくらかもしれませんし、吉野山の方から漂ってきたのかもしれませんが、大気に込められていたのかもしれませんが……

 もしこれを、理屈ばかりに攻めて、
  「里の桜はすでに咲いているのだから、
     その香りが漂ってきたものに過ぎない」
などと注釈すれば、たちまち興ざめを起します。あるいは、ふもとの里まで香りが漂ってくるか研究したからといって、なんの意味もありません。この和歌は、そのような具体的な写実を詠ったものではないからです。
 むしろ春めいた、花咲く頃の大気が感じられたので、自らの経験から、風に花の匂いが込められているような錯覚にとらわれた。そんな吉野の花の頃へのよろこびを、この和歌は宿しているのではないでしょうか。
  さくらの香りを詠んだ和歌は他にも、

こずゑには
  吹くとも見えで さくら花
 かをるぞ風の しるしなりける
          源俊頼(みなもとのとしより) 金葉集59

こずえを見ていると
  吹いているようにも見えませんが
    たださくらの花の
  かおりが伝わってくるのが
    風のあるあかしなのです

 この『金葉集』の撰者である源俊頼の作品ですが、さすがに勅撰和歌集を任される歌人だけあって、delicate な表現をするものです。

 つまりは花の真っ盛り。
  すべてが桜色に染まって、風さえ感じられない花見日和に、散る花びらさえもなくて、屏風絵みたいにとどまっている。ただ薫りが伝わってくるので、風があることは知れるのだけれど、それも疑わしいくらい、桜は静寂のうちに咲き誇っている。
 まるで月の満ちた夜空をシャッターに収めるように、満開を迎えた刹那(せつな)の桜をとらえて、三十一字に封じたような、静止画のような表現になっています。ただそこに、かおりだけがかすかに感じられるものですから、わたしたちの印象もさくらの気配へと、嗅覚のうちに誘われるような気配です。

 これほどデリケートな表現を模索しなくても、もっと日常会話の語り口調で、着想をさらりと述べたようなものにも、優れた和歌はあるもので、

やま里は
  野辺のさわらび 萌えいづる
    をりにのみこそ 人は訪ひけれ
          権僧正 永縁(ようえん・えいえん) 金葉集71

 これは単純に、
   「山里では野辺のワラビが取れるときだけ人は訪れる」
と述べているにすぎません。
   「野辺のさわらび萌えいづる」
はまだしも和歌的な表現ですが、
   「折にのみこそ人は訪ひけれ」
は、ほとんど日常の口調を記したにすぎません。
   「その時だけなんだ、人が訪れるのは」
それがむしろ心地よいのは、それによって詠まれた内容、
   「さわらびの時ばかり人は来る」
という事実が、直接相手から語りかけられた時のように、生き生きと伝えられるからには違いありません。まるで訪問者に向かって、話し相手の出来たのを喜ぶみたいに、語りかけた和歌のように響いてくるのです。
 これをたとえば、

やま里は
   萌ゆるさわらび 訪ふ人も
  なきしのゝめに 鳴くほとゝぎす

などと創意工夫を始めたらどうでしょう。
 はじめの情緒性は損なわれ、くだらない着想を、頭の中にこねまわしたような、感情にそぐわない落書へと落ちってしまうのは避けられません。ここにはもはや、素直な思いである、
   「さわらびのおりにしか人の訪れない山里」
という田舎じみたさみしさ、あるいは春の束の間のよろこびは失われ、なんのために登場したのか分からないような「ホトトギス」が、和歌を仕立てようと必死にもがいている、そのくせ訴えたい思いは四散して、虚飾ばかりが体裁を整えることになるでしょう。
 もうひとつ、
  例をあげてみましょうか。

   「四月の結婚式を待って」
木の芽さえ 咲きだす頃に 妻となる
  あなたのことが 待ち遠しくて……

くらいの、たわいもない思いを、そのまま記せばなんの嫌みもなく、なるほどこの人は季節としての春と、人生の春とを掛け合わせて、結婚式を待ちわびているのだな、とやすやすと伝えられるものを、

木に花咲き
  君わが妻と ならむ日の
    四月なかなか 遠くもあるかな
          前田夕暮 『収穫』より

などと記したら、もう短歌を始めたばかりの学生が、たまたまに思いついた着想をメモ書して、それをすべて込めようとやっきになって、無理に三十一字に押し込んだような、くどくどしい説明に興ざめを起こすばかりです。つまり、
     「木に花が咲いて、
        あなたがわたしの妻となる日のある四月は、
       なかなか遠くにもあるものだなあ」
などと聞かされて、はたしてこの語り手が、心から恋人が妻となる日を待ちわびているように感じるでしょうか。むしろ、
     「花が咲いて、
       あなたが妻となる春が待ち遠しいよ」
と言えば伝わってくる詠み手の思いが、

「花が咲くのは木である」
    ⇒四月の花なら、ことわりがなければ桜と詠みそうな所を、
     殺風景な「木に」花が咲くという説明
「あなたが妻となるのはわたしである」
    ⇒私の妻となることを詠んでいるのが明らかであるのに、
     無駄な「わが妻」という説明
「妻となる日の四月」
    ⇒「花咲き」で十二分に伝わる思いに無駄な「四月」の説明
     日付を指定したいなら「四月を思う」などと題に記せば十分
     しかも「妻となる四月」でもくどいところを、
     「妻となる日の四月」という添削の必要な作文
「遠くもあるかな」
    ⇒「待ち遠しい」とストレートに言えばよいものを、
     わざと客体に記したことによって、
     思いが心情から離れたようないやみたらしい表現

 つまりは、聞き手に興ざめを引き起こさせる着想の舞台裏、より正確に言えば下手なデッサンを、まるで和歌を覚えたての学生ででもあるように、ありったけ込めまくってしまったような不体裁が、この和歌には満ちあふれているのです。そうして情緒的な語りかけとしては、まるでこなれていないようです。
 もし、信じない方がおられるのであれば、素直にこれを十回、実際に口に出して唱えてみるとよいと思います。そうして、結婚を待ちわびる心境で、このような表現をするか噛みしめながら、歌にこころを委ねようとしてみればよいと思います。ポピュラー音楽の歌詞に反応できる程度の、ミニマムな感性さえ持っている人ならば、思わず噴き出すか、あるいは馬鹿にされた気分になって、不快感を起こすのではないでしょうか。

 それではひるがえってもう一度、「山里は」の和歌を十回ほど、口に出して唱えてみてください。めくるめく感動に満たされるほどのことはありませんが、かといってくどくどしい嫌みがあるでもなく、不要な解説に立ち止まることもありません。詠み手のストレートな感慨が、語りのままに伝わってくる。
     「この人は、さみしいのだろうか。
        それで誰かの訪れてくれる春が、
       うれしくてしかたなかったのだろうか」
そんな共感が、自然に湧いてくるようには思えないでしょうか。

 別に古語も現代語も関係ありません。
  一方は詩であり、もう一方は着想を説明書にすべて込めようとして、無理に三十一字に封じたものに過ぎないのです。日常の語りに寄り添うでもなく、それを凌駕する表現へと至らしめるでもなく、しいて言うならば、黙って読むための、意味だけの散文をこねまわしたような印象が、安っぽい失態となって横たわります。散文を三十一字に押し込めたからといって、それは和歌とは言いません。詠み手から聞き手へと伝えられるべき、嫌みのない心情がこもらなければ、それは頓智や駄洒落と同じような、むなしい落書には過ぎないのです。

 おおよそ感じたことを素直に表現したいなら、ありのまま、語るように記すことこそ、きわめて効果的な、失敗しにくい政策であるには疑いありません。たとえば、

やま里の
  そともの小田(をだ)の 苗代(なはしろ)に
     岩間の水を せかぬ日ぞなき
          藤原隆資(たかすけ) 金葉集75

 「外面(そとも)」というのは、山々の群がるところの外側のほう、つまり人里に近いほうを差す言葉ですから、この和歌は、

山間の小さな田んぼに、稲を育てるための苗代があり、
 そこに岩間からもれるようにして山里にたどり着いた水を、
  苗代に注ぎ込まない日はない。

そう述べているにすぎません。

 けれども、
「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月」
などと、花が咲くことを目的としたのだか、妻となることを中心においたのか、四月をこそ述べたかったのか、まるで分からないような、説明さえしくじったような駄散文を、たどたどしくお送りは致しません。もし現代語であれば、

やま里の
  山裾の小田(をだ)の 苗代(なはしろ)に
     岩間の水を そそがない日はない

 その情景のなかで、もっとも心を動かされた対象物に向けて、明確な指向性を持って、ありのままに叙述しているばかり。
     「四月になって木には花が開く頃、
        あなたが妻となるのが待ち遠しいよ」
と素直に語りかければよいものを、卓上に着想をこねまわしたような、
     「君わが妻とならむ日の四月」
といった、先生の添削を要する表現は、どこにも見あたりません。

 もちろんそれは、「山里」の詠み手が和歌の達人であったからではありません。ただ喜ばしい瞬間を、実際に眺めた印象のままに、素直に語り写してるから、聞き手にもその情景が、ありのままに伝わってくる。すると、稲作の始まる山里に、岩間を伝ってきた渓流が、毎日せっせと苗代に注ぎ込まれている光景が、こころに浮かび上がって来ますから、言葉の巧みさではなく、語られた情景そのものから、みずみずしい詩情が湧き起こって来るのです。

 それこそ姿(すがた)にいたるまえの、詩の心(こころ)には違いありません。この和歌はただ、毎日注がれる新田の息吹のような喜び、それを伝えたい思いが、詩の心としてブレないために、率直な描写となって、聞き手にまで詩情が伝わって来るのです。それは和歌の姿、つまり言葉の組み立てが、技巧的ではないにせよ、ありのままの普段着をよく着こなして、滞りなく記しているからでもあるのです。

 一方で、「妻とならん日の四月」では、こころの底から妻を待ちわびているような思いはまるで伝わらず、ただパズルでも組み立てるように、姿だけを不体裁にこねまわした印象が濃厚ですから、詠み手のエゴのようなものが強く感じられて、興ざめを引き起こすのです。

 おおよそ人を、技巧によってのみ感動させることは不可能で、たとえば『百人一首』の撰者でもある藤原定家(ふじわらのさだいえ)の和歌が優れているのは、根底に深い心情が横たわっているからに他なりません。それを悟らずに、耽美主義(たんびしゅぎ)の申し子のように眺めるのは、彼の詩人としての才能の、半分を切り裂いているようなものなのです。

 もっとも、優れた修辞や、技巧の欠けらさえ認められない「木に花咲き」や、当たり前の語り口調さえわきまえず、頓智みたいな知性をひけらかしまくり、詩情を徹底的に貶めた不朽(ふきゅう)の迷作、
     「万緑の中(なか)や吾子の歯生え初むる」
のような俳句に関しては、ほとんどなにも語ることはありませんが……

 脱線しました。ここらで閑話休題。
  なかなか便利な言葉です。
   このように、春の水田を実景に記した和歌は他にも、

荒小田(あらをだ)に
  ほそ谷川を まかすれば
    引くしめ縄に もりつゝぞゆく
          源経信(みなもとのつねのぶ) 金葉集73

荒れた小さな田に
  細い谷川の水を 引き込めば
    田に張った縄を 越えて広がってゆく

 やはり、実景をそのまま写し詠んだような和歌で、しめ縄を今日風に置き換えれば、現代の光景としても差し支えないような、里山の田植えのシーズンです。
 特に冒頭の、
  「荒小田に細谷川を」
によって、平野の豊かな田園ではなく、土地さえ確保するのが困難な、山間に小さな田んぼが並んでいて、そこに頼りないくらいの細い谷川から、水が引き込まれている。そんな頼りない印象が浮かんできますが、これが下の句に入ると一転します。
     「田に張った縄を盛り越えて、
       盛んに水が流れていく」
つまりは、しめ縄が水に浸かって、そこを勢いよく水が乗り越えてゆく光景を目にしたとき、
     「谷川の水は、細くて頼りなさそうではあるけれど、
       その水流は、たくましくも豊かなものであったのだ」
 先ほどまでの頼りない荒小田の光景は、にわかに勢いづいて、春のたくましい息吹のようなものを感じさせることに成功しています。

 はたしてこれは、着想を鍛え上げた結果、文章構成を極めた、職人芸的な表現なのでしょうか。いいえ、まるで違います。そんな優れた表現では全然ありません。ただ、実際の光景を眺めた時に、しめ縄が水に浸かったまま、水が盛り上がるようにして越えてゆくのが、頼りない山間の荒田のイメージを、一転させるような印象を受けたから、その実景をスケッチしたものに過ぎないのです。

 このような情景は、もしこれを空想から引き出そうとするなら、なかなかに労力を要する一方で、実景をそのままに記しさえすれば、もうそれだけで豊かな表現が生まれてしまう。事実から受けた喜びを記したものだから、聞き手にも事実さえ伝えられれば、おのずから喜びが湧いてくるのです。写実やら写生の精神は、このような、現実から演繹(えんえき)される豊かな表現力を、再定義したものに過ぎません。

 ところで、この源経信(みなもとのつねのぶ)(1016-97)という人。この『金葉集』を撰した源俊頼(みなもとのとしより)の父親で、やはり歌人として名を馳せた人物です。つまり勅撰集の編纂を任された源俊頼は、個人の技量だけで名声を博した訳ではありませんでした。はじめから名家の生まれの地位を得て、そこに立脚して名声を確保していった。それは藤原定家(ふじわらのさだいえ)(1162-1241)にしても同様で、このような実力と名声との関係は、もちろん、
  「スポーツ選手の父親が教え込むからこそ、
    二代目がオリンピックに出場する」
といった側面もありますが、もっと強烈に家柄というものが勢力を握っています。もとよりそれは、家柄に安住してさえいれば、名声を博することが可能であるというような、たわいもないものではありませんが……
 さて、社会状況を考察するのが目的でもありませんから、
  さりげなく次の和歌へと、参りましょう。

入り日さす
  夕くれなゐの 色はへて
 山した照らす 岩つゝじかな
          源仲政(なかまさ)女(むすめ) 金葉集80

入り日が差し込み
  夕ぐれの紅(くれない)の空は ますます濃くなって……
    なおさら赤く染められたように
 夕日を浴びて、山のしたを照らし出すような
   そんな岩つつじなのです。

 さて、描写もこのくらい漠然としてくると、写実に優るのか空想から得られたものなのか分かりません。つつじの紅色(くれないいろ)の印象はなかなかに強烈で、こころに浮かべただけでも、このくらいのイメージは浮かんできそうですが……
 もっとも、分からないでも困まりません。
  つまりは和歌として感動できるかの問題です。

 ここでは「色はへて」が、夕ぐれの紅(くれない)と、赤く染まった岩ツツジに重ね合わされています。夕焼けと岩つつじが互いに、紅色を競うようにして、山のふもとを照らし合うように思われた。「荒小田」の実景的な和歌に対して、空想から引き出された幻想光景のようにも思われるくらいで、ディテールを描写した臨場感よりも、シチュエーションの妙にゆだねたような印象です。
 だからといって、同じような現場に立ち会ったからといって、和歌の印象が負けるわけではありません。かえって写実性もこもるものであったかと、新たな魅力に気づかされるくらいのものではないでしょうか。

 写実的描写には写実の良さが、空想的描写には空想の良さがあり、どちらの表現のうちにもめざすべき頂(いただき)と、歌の巧拙(こうせつ)が存在する。どちらか一方が理想であるという訳でもない。そう述べたのは、正岡子規ではなかったでしょうか。それをプロパガンダに利用して、写生主義の申し子のように喧伝(けんでん)して、自らの解説の足場にするような曲学阿世(きょくがくあせい)が、子規の亡き後を彩っているようです。

 また脱線しました。
  最後に春をもう一つだけ……
   もっと空想的に、
   (けれども素直に)
  よろこびを記した和歌を。

ぬるゝさへ うれしかりけり
  はる雨(さめ)に 色ます藤の
   しづくとおもへば
          源顕仲(みなもとのあきなか) 金葉集87

ぬれることさえ うれしいものですね
   春雨の降るごとに 色を濃くしていく藤の花
      それを染めるのが春雨の しずくだと思うなら

夏歌 巻第二

[朗読3]

 さて春がうぐいすであるならば、夏はほととぎす卯の花(うのはな)である。そう宣言しても、それほど非難されたものではありません。そんな卯の花の和歌をひとつ。

いづれをか 分きて折らまし
   山ざとの 垣根つゞきに
  咲けるうの花
          大江匡房(おおえのまさふさ) 金葉集99

いったいどれを 折り分けたらよいのだろう
   山里の 垣根に連なって
  咲いているうの花を

 これも、着想をストレートに語ったような和歌です。
  山里では、垣根続きに卯の花が咲き誇り、まるで全体が「卯の花」であるかのように白く連なって、これをどう区別して折り取ったらよいか分からない。
 そう述べているに過ぎません。

  ただ読み解くべきは、「垣根続き」とわざわざ明言している点で、もし桜の花のように総体が桜色(実際は当時のさくらはヤマザクラですから、赤い葉と花が同時に開き、ソメイヨシノとはちょっと印象が違います)で、枝を折り分けられそうもないと解くならば、これは少しく違います。
 そもそも卯の花というものは、若葉と共に栄えるような花であり、桜のようにすべてが渾然一体に、同系色に染まっている訳でもありません。遠くからはもやもやとしていますが、桜のような折れない印象に勝るものでもない。
 それがなぜ折り分けられないのか……
  それは若葉と白い花のハーモニーが、垣根そのものを覆い隠してしまって、家々の境界をなくしているからに他なりません。つまり詠み手は、ある家の卯の花を折り取ろうとしたのですが、垣根の境界も分からず、家の作りも似たり寄ったりで、目的の卯の花を折り分けることが出来なかった。

  「ちょっと遊びにいらして、
  卯の花をひと枝持ち帰りませんか」
なんて誘いに応じた詠み手が、遊びに出かけはしたものの、卯の花の幻想光景のなかに迷い込んで、目的を忘れて惚けているような印象さえ、浮かんでくるような気配です。
  それでは今度は夏を告げる鳥、
   「ほととぎす」の和歌を眺めましょう。

み山いでゝ
  まだ里馴れぬ ほとゝぎす
 旅/うはの空なる 音(ね)をやなくらむ
          藤原顕季(あきすえ) 金葉集104

 さて、ようやく里まで降りてきた時鳥(ほととぎす)ですが、
     「親戚の家にあずけられて、
       ひとりで困っているような」
まだ里に馴染めないホトトギスが、
  定まらない声をして鳴いているという、
 ただそれだけの和歌なのです。

 それだけなのに、ちょっとしたおかしみがあります。
  それは何かと尋ねれば、ウグイスにせよホトトギスにせよ、別に馴れない里でひとりぼっちだから、鳴き声がおぼつかない訳ではありません。鳥には鳥の事情がある訳で、それは当時の人だってちゃんと分かっているのです。だから、「うはの空」あるいは「旅の空」に戸惑って、たどたどしく鳴いているという擬人法は、完全にわたしたちの勝手な推量には過ぎないのですが、それでも聞いていると、どうしても里馴れないようにしか響いてこない。
    「怯えていやがるぜ、
       このホトトギスはよお」
ついそんなことを考えてしまう。それだからおかしみがあるのです。この結論から推し量ると、そのような里馴れない声で鳴く時鳥(ほととぎす)を聞いたことが無ければ、この和歌の本当のおもしろさは、まるで分からないということになるでしょう。

 もしこの和歌を、学校で教えるとします。
  その本質を教えるつもりがあるならば、教師は文法やら擬人法などの修辞をではなく、まずは「うわの空なほととぎすの鳴き声」そのものを悟らせなければ、詩の享受において、なんの価値さえありません。
 それも、たれ流される映像くらいの情報ではなく、山のふもとに、初夏の気配さえ漂いそうな風のなか、しどろもどろに鳴く時鳥の声を、臨場感を持って知らせなければ、どうしてもそれを里馴れないように、擬人法で捉えてしまうこの和歌の面白さなど、まるで分からないということになる訳です。
 まるで分からないものを、まるで分からないままに教えるから、聞かされる方はやりきれない思いにさせられるのです。実際のところ、教えている方からして、その本質的な部分を、まるで会得せずに語っているのですから、知識だけをひけらかすしか道はなく、なおさら屁理屈を並べ立てることにもなるのですが……
 教わる方としては、分からないことを、核心の分からないままに、意味だけで説教させられるものですから、それが詩とは到底思われず、不愉快になって、寄りつかなくなるには決まっています。そんな時、教師たちは、ある種の犯罪に手を貸しているのかも知れません。自らの伝統を滅ぼすための、サラリーマン主義した犯罪に……

 さて、話を戻しましょう。
  この和歌には四句目を、「旅の空」とするものと「うはの空」とするものがあります。当時の書物や和歌集などは、すべて手で書き写されて継承されていましたから、さまざまな事情で、筆写された諸本に、食い違いが生じることはしばしばあるのです。ここでもし「旅の空」が正しいものとすれば、やや理知的な解釈になりますし、一方で「うはの空」が正統であると主張すれば、もう少しホトトギスに対して、私たちの思い入れが勝(まさ)ってくるようです。
     「ひとりにさせられて、
         放心していやがるぜ」
と冷やかすような印象でしょうか。それとも、
     「うんうん、里になれていんだもの、
         ひとりぼっちではさみしいよね」
なんて、同情するような印象でしょうか。
 この二つの表現の違いは、擬人法の反射強度の問題で、擬人法の情緒レベルにわたしたちの心理作用も比例するという……

 やれやれ、初学の内容を逸れました。
  もしホトトギスの声さえ知らない人がいたならば、幸いにも今日では、わずかな検索ワードで、音源にも映像にもたどり着くことが出来ますから、まずはそのあたりから、印象をたくましくしてみることをおすすめします。もちろん実際にその場で耳にしたものとは、こころに刻まれる印象がまるで異なりますが……

 ―これは知覚情報量の違いばかりでなく、人間の持つ、あるいは動物の持つ、実体と仮想を差別する本能的な感受性の違いに基づくものですから、実体を減らして仮想ばかりをもてあそんでも、アルツハイマーを待つまでもなく、人々の情報は次々に抜け落ちてゆくばかりです。残されたものはレディーメイドのお人形?
 あるいはそうかもしれません―

……それでも何も知らないよりは、はるかに優ることは疑いありません。けれどもいつの日か実際に耳にした時は、この和歌の印象も、まるで始めて気づかされるみたいな、よろこびを伴って昇華することでしょう。そのような和歌への近づき方でも、なんの問題もないのです。
 もうひとつ、ホトトギスの和歌を眺めて見ましょうか。

聞くたびに
  めづらしければ ほとゝぎす
 いつもはつ音(ね)の こゝちこそすれ
           権僧正(ごんそうじょう)
            永縁(ようえん/えいえん) 金葉集113

聞くたびに
  めずらしい響きのように思われます
    ホトトギスというものは
   いつ聞いても、はじめて鳴く声のように
      こころに焼き付けられるのはなぜでしょう?

 こんな素朴な疑問さえ、実際に自然のなかに聞き慣れていれば、深く理解できそうな心情である一方、ちょっと音源で聞き流したくらいでは、理屈にしか解釈がつかないものです。

 それにも関わらず、わずかに近づけば近づいただけ、その豊かな詩興には驚かされ、着想のひけらかしパーティーみたいな落書よりも、よほどわたしたちに身近な、詩のようにも思えてくるならば……

 あるいはあなたはほんの少しだけ、和歌の世界へ足を踏み入れたのかも知れませんね。夏の和歌をもうひとつ。

さみだれに
  玉江(たまえ)の水や まさるらむ
 芦(あし)のした葉の かくれゆくかな
          源通時(みちとき) 金葉集137

梅雨の長雨に
   玉江の水こそ 次第に増えてゆくようです
 芦のしたの葉が 次第に隠れてゆくのです

 さてこれは名所の歌です。
  つまり玉江(たまえ)というのは、
 摂津国(現在の大阪市高槻市あたり)にあった芦(あし)の名所で、淀川の流れに横たわる三島江(みしまえ)というところを指すとも、その一部であるとも言われていますが、わたしには詳細は分かりません。
 ともかくも、梅雨の長雨が続くので、玉江の水が少しずつ増さって、それにあわせて蘆(あし)の下葉が、次第に水に浸かってゆくのです。もしこれが発句(ほっく)でしたら、

みづうみの
  水まさりけり さつき雨
      向井去来(むかいきょらい)

くらいの警句でもって、漠然とした印象に葬り去ってしまえるでしょうが、この去来の名句と比べてみても、『金葉集』の方がおもしろ味は勝っているように思われます。

 なるほど、去来の発句(ほっく)はさすが蕉門(しょうもん)の重鎮(じゅうちん)らしく、さみだれの続くばかりに、琵琶湖の水かささえも、次第に増してくるような雄大さはあるのですが、その反面リアリズム、つまり実景の描写にはきわめて乏しく、時間や空間の捉え方もおおざっぱで、よく言えば壮大ですが、悪くいえば繊細な叙情性を断ち切った、抽象的な断言には過ぎません。意地悪く解釈すれば、

みずうみ全体の水かさが増さったのだから、
  十分壮大な光景は述べただろう。さつき雨。

なんて、名人から頭ごなしに説教され、しぶしぶうなずくような印象さえ、ないとは言えないくらいです。なるほど、警句と詩情のせめぎ合う所に、誹諧的なおもしろみはあるのでしょうが、もし叙情性ということについて考えると、きわめて殺風景で、取り付く島もないような切り捨て方です。

 そんな観念的な切り捨て方はしないで、実際の湖をつぶさに眺め、しとしと降り続くさみだれに打たれながら、とりとめもなく水辺をさ迷い歩き、ふと気がついてみれば、日ごとに伸びゆくはずの芦の若葉が、次第に水没してゆくように思われた時、おもわず、
  「あっ」
と嬉しくなるような瞬間。

 嬉しくなって、毎日眺めていると、芦の若葉は確かに日ごとに伸びている。それなのに水かさがはるかに増してきて、夕べ外にあったはずの葉が、今日はもう水没している。すべて水没するかと思われると、翌日にはまた背丈が伸びている。

 ここには伸びゆく芦の若葉すら、次第に水没してゆくという着眼点の裏に、それでも芦は成長して、やがてはさみだれを過ぎれば、芦の深緑に覆われるに違いない。そんな思いさえ、余韻のように響いているようです。それはわざわざ、
   「芦のした葉の」
と断っているからこそ感じることが出来るのであって、去来の発句が「琵琶湖の水かさが増した」くらいの五月雨であるという以外、なにも述べていないのとは対照的に、繊細な詩情を宿しているのです。

 ところで、このような和歌の表現のすばらしさを伝えずに、枕詞がどうしたとか、掛詞の極致が華やいでいましたとか、四つの縁語を探しましょうみたいな、知識と頓智に過ぎないことを、こころを置き去りに教え込んだらどうなるでしょう。詠み手の心に触れることすらなく、詩情を感じる前に修辞やら文法ばかりをたたき込まれたら、まるで屁理屈のかたまりみたいに思われて、和歌を嫌いになってしまうには違いありません。かつてのわたしがそうであったように……

 ところで、皆さまはお気づきでしょうか。
  これまで紹介してきた和歌には、あの学習要領の嫌らしさが、ほとんど見られないということを。もちろんいにしへの言葉、すなわち古語でありますから、現代語のようにすらすらとは詠めませんが、さりとてわたしのつたない現代語を加えて、意味を推し量れないほど遠いものでもない。枕詞やら、序詞やら、得体の知れないものに惑わされることすらない。ちょっとした喩えや、擬人法なら、小学生でさえ理解出来るものには過ぎませんから、ごくあたり前の表現ばかりが、並べられているのはどうしたことでしょう?

 実はこのような和歌は、
 『八代集』のなかでもきわめてユニークなもの……
  ではまったくありません。
 むしろこのような捉えやすい和歌こそが、『八代集』の主流であるといっても差し支えないくらい、それは至るところに偏在する、和歌の王道に他ならないのです。つまりは、わたしたちの口ずさむ流行歌の歌詞となにも変わらないくらいの……
  きわめて分かりやすい詩の一形式に過ぎないものです。
 それはわたしたちの日常感覚でもって、特別な訓練もなく、純粋に捉えられるものであり、屁理屈を修辞にこねまわしたり、赤点を覚悟しなければならないようなものではありません。それに荷担するもの、まずは文法などと、お受験の贄(にえ)に饗する者どもよ。穢れたねずみは、ここから立ち去るがいい。わたしたちはただ愉快にして、和歌の階梯(かいてい)をのんびりと歩もうではありませんか。

秋歌 巻第三

[朗読4]

 ようやく秋が訪れました。
  あなたの秋はどんなイメージでしょう。
   恋する秋?
    あるいはあきらめの秋?
     それとも健康の秋?
    枯れゆく者の悲しみでしょうか、
   はたまた食欲の秋かしら。

 もちろん秋といっても旧暦の秋です。
  旧暦(きゅうれき)というのは、明治に入ってから1872年に、新暦が施行される以前の暦(こよみ)のことで、太陰太陽暦(たいいんたいようれき)、つまり月の満ち欠けに基づきながら太陽の運行による補正を加えるというものでした。解説だけ読むと難しそうに感じるかも知れませんが、実際は月の満ち欠けを周期とした、三十日をひと月と定めたものと捉えておけば十分です。
 それはさておき……

 つまりは秋といっても、
  今日の九月よりはるかに早い秋の入りです。
 こんなことを述べるとたちまち、旧暦の気候はもはや時代遅れであるとか、お化粧に塗りたくった新暦こそが現代の魅力であるとか、いにしえはもはや蘇らないとか、さかんに気炎(きえん)を上げる人もあるようですが……
 今は詳細は語らずに、
  ただひとつだけを述べておきましょう。
 冬至と夏至、春分と秋分を基点とする立春やら立秋というものは、千年前から今に至るまで、きわめて変動に乏しい定義であり、それは月齢を基とした太陰暦の新年やら、葉月や水無月やらの定義とは、なにも関わりのないものです。だから立春やら立秋を四季の基点に置くならば、いにしへも今もたやすく寄り添うことの出来るものであり、煩悶(はんもん)するほどのこともないのです。
 当時の人にしても、「秋立つ」とか「春立つ」と述べる時には、「冬至」と「夏至」を基点とした、つまりは「二十四節気」的な季節を使用しているに過ぎません。それでいながら、月を基準にした太陰太陽暦も使用していますから、まるで今日の暦(こよみ)の二重生活と同じようなことを、かつての先祖たちもしていたことになります。そうであるならば……

 変動のない軸をこそ、
  共通項に置けばよいのです。
   春が立つのが立春です、
  日長の極みは夏至なのです。
 立秋も立冬もおのずから、
導き出されて来るのです。
 この説を力説したのも、あるいは正岡子規ではなかったでしょうか。わたしはどうやら、彼の書生を標榜(ひょうぼう)するうちに、多大なる影響を彼から被っているのかもしれません。それはわたしにとって、純粋にうれしいだけのことなのですけれども……

 それはともかく、秋さえ立つならば、たちまち立秋と呼ばれ、灼熱の熱帯夜にさえも、しきりに虫は鳴り響き、夜明けのちょっとした風には、わずかな秋らしさの漂ってくるのは、それが最高気温やら最低気温の範疇(はんちゅう)にではなく、次第に日の短くなりゆく状況と、それにともなう植物の営みと、虫たちの変化と、吹きゆく風のうつろいと……
 そうしたものが、かつても今もおなじ流れで移り変わるとき、わたしたちは秋の気配を同じように、立秋の頃から感じ始めているのです。もとよりこんなイメージは、日本列島が消滅してしまうほどの未来には、なんの意味さえなさないでしょう。日本語が消滅してしまうなら、和歌さえ価値をなくすでしょう。さりとて、今日の異常気象にも関わらず、今すぐ捨て去るほどの、気候変動を引き起こしている訳でもなさそうです。そうであるならば、わずかな秋の気配を詠んだ次の和歌にさえ、真実味はなほ伝わるのではないでしょうか。

とことはに
  吹く夕ぐれの 風なれど
 秋たつ日こそ すゞしかりけれ
          藤原公実(きんざね) 金葉集156

いつも変わらず
   吹く夕ぐれの 風ではありますが
 立秋の日にこそ
    涼しく感じられるものですね

 なぜ涼しく感じるのか。もちろんただ、
  「立秋です」
と聞かされたからだけではありません。例えば真夏に、
  「今日は立冬です」
と聞かされたからといって、
  「なんだか寒さがつのります」
とはなかなか答えてはくれません。
  「あなたのおつむは大丈夫ですか」
額(ひたい)に手を当てるのが、
 せめてものやさしさくらいなものでしょう。
  そうであればこそ、
   「立秋です」
  と聞かされて、
   「立秋かも知れない」
  と思うのは、風にひそむほのかな気配、
 時折見せるような涼しさを、
  読み手がすでに感じ取っているからに他なりません。

 そうであればこそ、立秋の日に改めて、
  「立秋です」
と聞かされると、
  「ああ、そういえば、
    近頃は風にさえ、涼しさが感じられたなあ」
と回想され、なおさら立秋の風が、涼しいもののように思えてくる。この和歌は、そんな心理作用を、うまく利用しているのです。

さて、
「秋は夕暮」
  これは誰の言の葉だったでしょう……
 夕暮と同じく秋の風物詩と言えば、台風じみた「野分(のわき)」の風や、秋の花である「オミナエシ」や、はかなく揺れる「萩(はぎ)の花」を押しのけて、鳴く虫の代表「きりぎりす」をこそ、登場させたくなるのではないでしょうか。

露しげき
   野辺にならひて きり/”\す
 我が手枕(たまくら)の したに鳴くなり
        待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ) 金葉集218

露の降りつのるような
  野原でするのと同じように きりぎりすが
 わたしの眠れずにいる
   手枕の下から鳴いているのです

 当時の「きり/”\す」がなんであったか、
  それは今日のキリギリスとは異なるものであるようですが、
 たやすくは解決のつかない問題です。
もとより和歌においては、秋に鳴く虫たちを代表させたような名称ではありますが、具体的には「コオロギ」を指したとも言われています。しかも、美しい響きをするエンマコオロギを「キリギリス」と詠んだならまだしも、それとはまた違うコオロギだという……
 なるほど時代が変遷すると、どのような詩文も当時のままには、捉えきれなくなるもののようです。

 けれども、少なくともこの和歌においては、「キリギリス」を「虫の鳴き声」にしたからといって、内容の破綻はきたさないようであります。わたしたちはむしろ、「わが手枕(たまくら)」と表現されているところにこそ、注意を向けるべきかもしれません。和歌における露は、なみだを暗示するということは、ほとんど決まり事のようになっていますが、あるいはこの和歌は、次のような意味を宿しているかもしれないからです。

秋の野に置かれる露は、
  虫たちのなみだとも言われます。
 そんな虫たちのなき声が、
   わたしが恋人の手枕を思いながら、
  自らの手で誤魔化している床の下から、
    しきりに響いてくるのです。
   虫たちがしきりに鳴くから、
     わたしの袖が濡れるのでしょうか。
    それともわたしの袖が濡れるから、
      それを秋の野の霜と勘違いでもして、
        虫たちはしきりに鳴いているのでしょうか。

 なるほど生活環境は異なり、
  虫の名称すら変わってしまいました。
 けれどもまた、手枕(たまくら)は恋人に委ねられたいものではあります。ひとりでする手枕、それはわびしい手枕です。泣き寝入りするような手枕です。ぐっすり眠るための腕まくらではありません。安らかに眠れずに、悲しみに疲れた頭の、かりそめの置きどころ。なみだのいつしか露に濡れるような、そんな手枕には違いないのです。

 涙の手枕がまるで露に濡れたようなので、キリギリスはさかんに鳴くのでしょうか。それともキリギリスがさかんに鳴くから、彼らの涙で袖は濡れるのでしょうか。つのるのは私の思いでありながら、キリギリスを主体に詠んだために、私が泣いているのか、それともキリギリスが鳴いているのか、主意の定まらない二重の意味が、螺旋のようにひとつの和歌を形成しています。それによって眠れない詠み手の嘆きのようなものが、恋の悲しみみたいに、わたしたちにも伝わってはこないでしょうか。もしそうであるならば、この和歌は今日においても、なお詩としての魅力を保っているのです。それはもちろん、あなたの受け取り方次第なのですが……
 せっかくですから、「機織り虫(はたおりむし)」も眺めて見ましょうか。

さゝがにの
  糸引きかくる 草むらに
    はたをる虫の 声ぞ聞こゆる
          顕仲卿女(あきなかきょうのむすめ) 金葉集219

ささがにが
   糸を引きかける 草むらから
  機織り虫の 声が聞こえてきます

 先ほどの和歌の次に置かれた和歌です。
  「ささがに」とは「蜘蛛」のことです。
 虫の鳴き渡るシーズンは、特にはじめの頃は、なかなかに蜘蛛のはびこる季節でもある訳で……
 野辺の状態やら蜘蛛の生態系によっては、白い蜘蛛の巣が、びっしりと露をしたたらせているような光景さえ、眺めることがあるくらい、いろんな草むらはあるものです。

 ともかくも、待ち構えるような蜘蛛の巣の下に、美しくもはかないような「機織り虫」の声が響いてくる。この和歌の主眼は、ただこれだけのことですが……
 実はこの「機織り虫」こそ、今日の「きりぎりす」であるとも言われているからややこしいものです。
     「こら君、さっきはコオロギとキリギリスが、
       入れ替わったと言ったではないか」
そんな非難さえ聞こえてきそうですが、どうか落ち着いて下さい。名前が入れ替わったというのも、ほんの一説には過ぎないのですから。
     「なんだと、鳴き声さえ分からないのでは、
        詩情など分かりようがないではないか」
  お叱りさえ響いてくるようなたそがれ時です。
 はたして、わたしたちが詠み取ったつもりになっている和歌も、当時の思惑とはまるで違う、勝手な解釈には過ぎないのでしょうか……

 けれどもこの和歌の核心は、キリギリスか、ハタオリ虫かということにはありません。今をしきりと鳴いてはいるものの、やがては消えゆく秋の虫の、美しくもはかないような響きが、蜘蛛の巣の下から聞こえている。あるいは次の瞬間には蜘蛛糸に絡められてしまいそうな、危ういような美的感覚のうちにこそ、和歌の本質はあるように思われます。

 もしあなたが自然のなかで、軽やかに踊る蝶が、ぱっと鳥についばまれたり、葉をもてあそんでいたはずの虫が、池に落ちて魚に食われるような情景を、はかない思いで眺めたことがあるならば、この和歌の本質は、たやすくつかみ取れるのではないでしょうか。

 逆にこの和歌が、例えばブリューゲルの寓意画のような、情緒にではなく知性に訴えるような、理屈じみたものに感じられるとすれば、それはあなたにこの情景を浮かべるだけの経験がないために、自然の光景としてこの和歌を感じることが出来ず、まるで風刺画でも見るように、この和歌を眺めているせいかもしれません。

 つまりはこの和歌もまた、自然界のあたりまえの風景から演繹されたものには過ぎないのですが、それに共感するだけの経験がなければ、まるでアレゴリー、つまり寓意でもってお説教でもすような、嫌みな和歌にも捉えられかねないという……

 悲しくもあたり前の事実ですが、
  参照されるべき経験や社会環境、幼い頃から育てられた感受性などすべてのものが、詠み手の思いを解釈する、私たちの拠り所となってしまうことは避けられません。ある時は、知らないゆえの障壁である場合もあり、逆に時代を超えて共感出来るような、豊かな武器となることもあるのですが……

 それでもわたしは、今なお人のこころに、共感出来る詩情を宿していると信じるからこそ、こうして『勅撰集』の和歌を紹介している訳です。

冬 巻第四

 どうやらおしゃべりが過ぎるようです。
  冬と言えばこそが、時雨(しぐれ)やら年の暮にもまして、不偏的な風物詩のように、和歌の世代には思われたには違いありません。それは今でも変わらないものかもしれませんが、ここでは一首だけ、冬の和歌を紹介してみることにいたしましょう。

道もなく
 積もれる雪に 跡たえて
  ふるさといかに
 さびしかるらむ
          肥後(ひご) 金葉集292

道もなくなって
  積もる雪に 人跡(ひとあと)さえ絶えてしまい
    ふるさとはどれほど
  さびしいことでしょう

 そのままに捉えて差し支えありません。
  行き交う道も雪に閉ざされた、
   さみしいふるさとの光景です。
    それを思いはかって詠んでいるのです。

   ここにいる私でさえも、
  寂しさのつのる冬であるのに、
 まして雪に包まれたような、
  ふるさとはどれほどさびしいだろう。
   けれどもそう推し量ることが、
    かえってわたしの寂しさとなって、
   跳ね返ってくるようにも思われて……

   それでこの詩のイメージは、
  十分不偏的であるように思われます。
 それにしても、これほどわたしたちに寄り添うような、今にもそのまま通じるような和歌たちを遠ざけて、ただお受験よろしく、枕詞やら序詞やらを頓智問答に抜き出して、その詩興さえ分からないままに、いきなりディテールを解剖させて、まるで美しい花をデッサンさせるかわりに、雄しべと雌しべの構造を描かせるような、訳の分からない芸術作品のご教授は、まるで感性を豊かにするための音楽を、絶対音感の頓智でも当てるみたいにして、拍手喝采へと駆り立てる、お猿の曲芸じみた末路をさえ、私は感じるくらいなのですけれども……
   (現にお塾の講師とやらは、
      じつに嫌らしい声をして、
     皆さまをお受験へと駆り立てているではありませんか)
 そのような精神こそ、かつては和歌や古文のおもしろさを、わたしから徹底的に奪い去り、まるで言葉をもてあそぶような、汚らわしいもののように思い込ませた原動力。感性がなくても推し量れるところだけのもので済ませようとする、口先だけの俗物根性には違いないのですけれど……
 けれどもあなた、わたしの紹介している和歌はきっと、あなたの考えているよりもっと分かりやすくて、もっと素敵で、もっと情緒的で、ありきたりの喜怒哀楽で推し量れるようなものなのです。もし好奇心があるならば、もうしばらく付き合ってはみませんか?

 四季が過ぎれば、次は「恋の歌」。
  なるほどそれはメインディッシュかもしれませんが、
 その前には、antipasto もあるのです。

賀歌(がのうた・がか) 巻第五

[朗読5]

 祝賀に関する和歌の典型は、たとえば天皇や院(先の天皇)を讃えるもの。あるいは生誕や長寿を祝うものなどがありますが、末永く栄えることを願うために「松」「鶴」などを引き合いに出し、あるいは砂浜の砂の数さえ、あなたの年齢には叶わないと讃え、流れる水の水滴よりもあなたの治世は果てしないと祝福するような誇張こそ、祝賀のイメージには相応しいようです。
 あるいはもっとダイレクトに、
  「千代(ちよ)」「八千代(やちよ)」
  「千歳(ちとせ)」「万世(よろずよ)」
などを折り込むことも多く、逆に不吉な言葉は、避けるのがならわしです。今日であれば、たとえば「四」は「死」を連想するとか、火の表現は剣呑(けんのん)[あやういこと]であるとか……
 こうしたことは、呪術時代の迷信のようにも思えますが、言葉でもって祝福を表現している最中なので、言葉によって逆のことは表現しないという、きわめて合理的な精神とも受け取れます。ここではひとつだけ、賀歌(がのうた・がか)とはどのようなものか、眺めて見ることにいたしましょう。

音たかき
   つゞみの山の うちはへて
 たのしき御代と なるぞうれしき
          藤原行盛 金葉集313

 天皇が毎年行う収穫の祝を、新嘗祭(にいなめさい)と言いますが、なかでも天皇が即位の際に行う大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)は国をあげて盛大に行われる、一大イベントでした。これはその大嘗祭の時に詠まれたものです。

 ところでこの和歌には、和歌に対する説明書が、和歌の前に記されています。そのような説明書のことを、詞書(ことばがき)と言うのですが、これは簡単な場合には、
  「~の題目で詠んだ和歌」
といった主題の呈示や、
  「~の歌合で詠まれた和歌」
と詠まれた状況の説明を述べたものもあり、一方では、
  「ある時、何々があって、
    どうこうなって、これこれしたときに、
   かなしみに暮れながら詠んだ和歌」
と物語風に状況を説明したものまで、さまざまです。

 この和歌においては、
     「大嘗祭主基方、辰日参音声に鼓山を詠める」
という大変分かりにくい詞書きが記されているのですが、「主基方(すきかた)」とは、稲を納めるために選び出された斎国(いつきのくに)の一方であり、また「参音声(まいりおんじょう)」とは、楽人や舞人が所定の位置につくまでの音楽であるから、この和歌は大嘗祭で実際に歌われるために詠まれた和歌である。さらには、鼓山(つづみやま)とはどこにあり、なぜここで引き合いに出されたのか……

……などと、諸処の事実を究明して、この和歌を改めて捉え直すことが出来れば、この和歌をより深く理解することは出来るでしょう。けれどもなにもはじめの一歩から、そのような解説に邁進するような方針は、わたしにはむしろ誤りであるようにすら、思われてならないのです。なぜならこの和歌の本質はただ、

「鼓の高らかに鳴り渡るような鼓山のように、
  よろこびに充ちた御代となることがうれしい」

と言っているに過ぎないからです。
 そうして「御代となる」というからには、天皇の即位を祝ったものであることは、おのずから折り込まれているのだし、鼓を思わせるような鼓山のうち渡る響きから、即位の祝賀的なイメージは、天皇など額縁の象徴のようにしか感じない私たちにすら、一つの時代の幕開けの喜びみたいにして、カウントダウンのわくわくする気持ちのように、十分に伝わってくるのではないでしょうか。

 そうであるからこそ、この三十一字はニュースではなく、つまりは時事や解説とは関わらず、祝賀のイメージをそのままに保ち続けている。わたしたちの心に、ダイレクトに訴えて来るもの、喜ばしい詩だということにもなるのです。

別離歌(べつりのうた) 巻第六

 別離(べつり)、あるいは離別(りべつ)とは、つまりは「お別れ」のことです。なかでも遠くへ旅立つ人との別れと、さらには死にゆく者との別れは、別離の双璧であるようにさえ思われます。ここでは、少しばかりの修辞法を使用した、見立ての和歌を眺めてみましょうか。

秋霧の
  立ち別れぬる 君により
 晴れぬ思ひに まどひぬるかな
          藤原基俊(もととし) 金葉集345

秋の霧の立つ頃
  立ち去って分かれてしまう あなたのせいで
 わたしは霧の晴れないような思いに
   迷い込んでしまったようです

 和歌では、情景を詠みながら、同時に情景に委ねるようにして、自らの感情を詠んでいる。つまりは情景と心情の二重の意味を持たせたものがきわめて多いのですが、秋のところで眺めたキリギリスの和歌なども、まさにそのような和歌でした。これもその一つです。

 情景としては、別れたときの実景(実際の景色)を眺めたもので、
   「秋の霧が立つなかであなたと別れてから、
     いまだ霧が晴れないで、迷っているように感じられる」
つまりは別れの日の、秋霧の深さを呈示したものに過ぎません。

 けれども、もう一方では心情として、
   「秋霧のなかで、あなたと立ち別れて
       わたしはいまだ晴れない思いのまま、
     その霧の中をさ迷っているようです」
と実際の情景を、さ迷う心の比喩として詠み込んでもいるのです。

 この二つの印象が、ほとんど渾然一体として、どちらが主であるかも分からないように、一つの文脈となって絡(から)みついてくる。ついにはどちらも真実のように思われる頃には、この和歌の不思議な魅力から、逃れられなくなってしまう。技術的な側面は記しませんが、今はただこの二重螺旋のような、「現実と心情の結びつき」を、味わって頂けたらよいと思います。

 さて、この藤原基俊(ふじわらのもととし)(1060-1142)という人。この勅撰和歌集、つまり『金葉和歌集』の撰者である源俊頼(みなもとのとしより)(1055-1129)と、まるでひと昔前のアニメみたいにして、紅白を分けたライバル関係にあったことが、鴨長明の記した『無名抄(むみょうしょう)』に記されています。そのなかでは、そのうっかりぶりがクローズアップされて、
     「冷徹の俊頼、うっかりの基俊」
などと揶揄されるほどの不始末ですが……
 けれどもこの人の和歌には、奇抜さや斬新より、おだやかなやさしさのようなものが感じられることが多く、おそらくは穏和な人柄さえも、その和歌から伝わってくるような気配がします。せっかくですから、源俊頼と藤原基俊、このふたりの名称を、覚えておいても損はないでしょう。大丈夫、スポーツ選手の名は、ニュース一つで覚えてしまうではありませんか。これは学業ともつかない、ほんの好奇心の問題には違いありません。

 さて、そんな二人が活躍する『金葉和歌集』を編纂させたのは、院政の開始者とも喩えられる白河法皇(しらかわほうおう)ですが、間もなく次の時代には、今様を歌いまくる平安のロックンローラー、後白河法皇(ごしらかわほうおう)さえも登場して、源氏と平氏が雌雄を決するような、武士の乱世がやってくる。そう思いながら眺めてみると、この『金曜和歌集』も、にわかに活気立ってくるから不思議です。いよいよ「恋の歌」を眺めましょうか。。。

恋歌上・下 巻第七・八

 さて、きらゝめくような、
  恋の世界を想像した皆さま……
   ご苦労さまでした。
  まだまだ八代集は序の口です。
 ここでは、勅撰和歌集において『恋の歌』こそが、「春夏秋冬」すなわち『四季の歌』に対する、もう一つの支柱に他ならないこと、そうであればこそ、眺める機会はいくらでもあることをのみ記して、『金葉集』の「恋歌」に関しては、渓流の軽やかさで流し去ろうと思います。
 慌ててはなりません。
  なにしろ先は長いのですから。

のちの世と
  ちぎりし人も なきものを
    死なばやとのみ 言ふぞはかなき
          藤原成通(なりみち) 金葉集400

 ここでは一例に、
  わたしの解釈を記しておきましょう。

  恋人でありたいと
    約束を交わすほどの
  恋すら知らないあなた……

 ただ口先ばかり
   死んでしまう、死んでしまうよなんて
     まるでイミテーションみたいに
   言うのは、はかないものですね。

 それにしてもこの藤原成通という人。
  きわめて芸能多才の人で、
 しかもハンサムで蹴鞠(けまり)の名手。
もっとも蹴鞠というと、乏しい認識を欲しいままにして、お優しゅうたわむれながら、鞠など蹴り遊ぶようなイメージを浮かべるひとも、二十一世紀になっても絶えないらしいのですが……
 あえて極論を述べれば、今日のサッカー選手などを想像した方が近いくらい。そればかりでなく、成通に限らず、この時期の貴族と武士との境界線は、きわめて曖昧なものでした。ひ弱な貴族さまの「ほほほ」と遊ばされるような印象とは、ほとんど正反対のイメージです。(そういう貴族さまも、ないとは限りませんが。)
 後白河院が戦乱のなかを生き抜き、後鳥羽院が承久の乱を起こした事は、さまざまな思惑以前に、むしろ武士と貴族の、渾然一体とした世界を連想した方が、当時の状況を捉える、感覚的な拠り所になるくらいですが、それはさておき……

 まるで在原業平(ありわらのなりひら)みたいな、活力のあるプレイボーイが、真実の愛について、語りかけるように和歌を詠んでいる。そう思って眺めると、この和歌も安っぽい格言や、老人めいた説教ではなく、今を恋に生きる若者の、みずみずしい響きが込められているように聞こえてきます。
   「賽(さい)は投げられた」
そんな、ばくち打ちの親分みたいな言葉さえ、カエサルが軍の筆頭で宣言すれば、たちまち英雄伝説の幕開けとなるのです。この和歌もまた、すこぶる格好(かこ)いい男を想像すると、びしっと決まるような和歌ではないでしょうか。

 もう一つだけ加えておきましょう。
  平安のロックンローラーとして、
   「今様の歌いまくり live」
    (あるいは生きることと歌うことを掛け合わせたものか?)
をつらぬき通した後白河法皇は、今様の達人であったことが知られていますが、この成通もまた、なかなかの今様の歌い手であったようです。一方では「梁塵秘抄」のような流行歌を歌いまくっていた歌手が、同時に和歌の巧みでもあった。そのように眺めると、ますますこの和歌もおもしろく詠まれるのではないでしょうか。

 ……もう一つだけ、
  恋の歌を眺めてみましょう。

たまさかに
  逢ふ夜は夢の こゝちして
 恋しもなどか うつゝなるらむ
          よみ人知らず 金葉集459

 ここではすでに、古文解釈のための、それなりの知識が必要になってきます。これはわたしたちの異文化コミュニケーションにおける、言語の壁よりはマシなものかもしれませんが、なかなかの障壁(しょうへき)となって、読み解く作業が必要になるかもしれません。けれども……

 とりあえず細かいことは抜きにして進みましょう。
「などか」は疑問、最後の「らむ」は推量する気持ちが込められますから、ありのままに現代語に翻訳してしまえば、むしろ日本語としての継続性のほうが、はるかに優るくらいです。

久しぶり(たまさか)に
  逢う夜は夢のような 気分がしているのに
 恋しさはどうして 現実(うつつ)のようなのでしょうか

 あとは現代文の捉え方の問題に過ぎません。

久しぶりに
  逢う夜はまるで 夢のような気分なのに
 恋してく待ちわびる思いはどうして
    リアルにわたしを苦しめるのでしょう

 ちょっと分かりにくい古語を解釈しさえすれば、すぐに読み解けるような現代文となってよみがえります。もちろん、読み取る私が優れているのではありません、この和歌がはじめから、

久しぶりに逢っていると、まるで夢みたいだね。
  恋しさはいつもリアルに苦しいのに……

という思いを、そのまま表現したものに過ぎませんから、古語を現代語に改めさえすれば、わたしたちに direct に伝わってくるのです。今の私たちと、なにも変わらないような思いそのままに……

 それだからこそ詩なのです。
  伝えるべき詠み手の思いがあって、
   共感すべき聞き手の思いがあるならば、
  そこに共鳴が生まれます。
 ただそれだけのことなのです。

 枕詞(まくらことば)やら掛詞(かけことば)やら、それらは修辞(しゅうじ)に過ぎません。心情を詩情へと移すためのレトリックであって、無意味に言葉を着飾るだけの、頓智やパズルではないのです。それを頭でっかちに教えるから、詩情はずたずたに切り裂かれ、下手な散文に解説まで混ぜ込んで翻訳をし損ねるから、詠み手の思いはしゃぼん玉のはじけて消えてしまうのです。teacher どもの給料と引き替えに……

雑上・下 巻第九・十

[朗読6]

 最後に『雑(ぞう)』の和歌を紹介して、
  金葉和歌集を離れることにいたしましょう。
 雑というのは、要するに『その他』くらいの、大きな枠組みには違いありません。メインの部立てである「四季」や「恋」、あるいは「離別」や「祝賀」、時には「神祇(じんぎ)」や「釈教(しゃっきょう)」といった、一巻をあげて区分するほどもないものを、まとめた巻に過ぎないのです。そうであればこそ、そこには滑稽な和歌や、物名(もののな)と呼ばれる言葉遊びや、一方では昇進の懇願やら、当時のニュースに絡んだような、時事的な和歌さえ収められることもある訳で……
 つまりは、優れた和歌を眺めるばかりではありません。
  時には歴史的なおもしろさ、
 当時の和歌の使われ方や、余興としての和歌のあり方、人々の日常にまつわる和歌の営みなども、四季や恋よりはっきりと、眺めることが出来るのが愉快です。心情の共鳴ばかりではありません、そのような楽しみ方もまた、詩的共感が得られる限りにおいては、理知的な楽しみとして、大いに尊ぶべきものなのですから。

 たとえば『金葉和歌集』には、
  雑の部に次のような和歌が納められています。

いさぎよき
  空の景色を たのむかな
    我まどはすな つくよみの神
           僧正行尊(そうじょうぎょうそん) 金葉集628

 この行尊という人は、わずかな期間ではあるものの、天台宗のトップにも昇り詰めたほどの高僧なのですが、むしろ『百人一首』(by 藤原定家)にも名を残す歌人としてこそ、今日では知られている人物です。けれども、その精神はどのあたりにあったものか……

なにものにもわずらわされない
   空の風景をこそ わたしは頼りにして
 生きて行こうと思うのだ
   どうかわたしを迷わせないで欲しい
    (月のひかりより手招きして、
       美しいものへと憧れさせるような……)
     月の神、ツクヨミよ

 つまりは「つくよみの神」とは、和歌の詩情世界の象徴でもあり、同時に月の神そのものでもある訳で、それに対して、
   「我を惑わすな」
と詠む行尊の心は、一見、
   「いさぎよき空の景色をたのみとするのだ」
と、仏教の教義に邁進する高僧のようでもありながら、
   「どうかわたしを惑わさないで欲しい」
という下の句のホンネによって、風雅(ふうが)[雅なこと、風流なこと]に憧れてしまう世俗の心との葛藤(かっとう)、悟りきれないもどかしさ。そんな思いが露呈(ろてい)して、千年を超えた私たちの心にさえ、たちまち響いてくるのは愉快です。

 もちろんこの愉快は、爆笑の愉快ではありません。
  ほほえましさへいざなう共鳴のようなもの。
 だって、ツクヨミの神に惑わされたからこそ、彼の和歌は今日にまで伝えられたのだし、わたしたちの時代には、宗教家としてよりも、かえって歌人として知られてしまうような結果ともなった。そんな矛盾まで込められているから、詠み手の思いはなおさら、悟りきれないもどかしさの勝利みたいに、私たちに響いて来るのです。観念的な覚悟でないから、隣人のように共感出来るのです。それだから愉快なのです。

 ところで宗教家の歌などというと、つい身構えてしまいがちですが、当時の僧侶というものは、きわめてモダンで、俗世間的であり、それでいて宗教家であり、すなわちは現実主義者でもあったようです。それどころではない、武器を片手に振りまわす、荒くれ者さえ多かった。解脱しきれていないと言えばそうも取れますが、悟りとも形骸化ともつかないような、社会から乖離(かいり)しているような坊さんの、呪文じみたお経ほどみじめな遊離、すなわち、現実と向き合わない心はないと考えるならば、そのようなものとはまるで異なる、世俗にまみれたような宗教家だと言えるでしょう。それだからこそ、あるいは宗教も生かされるのかも知れません……

なぎなたで
  つきくふ僧や
 かゞり笛

 ……失礼しました。
  ちょっと酔っぱらっているようです。

 さて「雑(ぞう)」の部立が自由である以上、そこには和歌以外のものすら、時には含まれることすらある訳で……
 たとえば万葉集時代にさかのぼるような、「旋頭歌(せどうか)」「長歌(ながうた・ちょうか)」といった形式、すでに盛んにおこなわれていた、即興的な「連歌(れんが)」まで、数こそわずかなものではありますが、時には収められることがありました。もちろん『勅撰和歌集』のコンセプトは、当時の詩を網羅するものではありませんから、後白河法皇のこよなく愛した『今様(いまよう)』などは、勅撰和歌集に持ち込まれることはありませんでした。滑稽な和歌も収められていますが、そこには厳重な採用基準が定められている。
 それだからこそ逆に、
  一定の水準を保っているのかもしれませんね。

 金葉和歌集にも『連歌(れんが)』が収められていますから、最後にこれをひとつ紹介して、次の勅撰集に移りたいと思います。連歌というのは、一方の人が上の句を詠むと、それに答えて別の人が、下の句を詠む。それで合せて一つの和歌になるのですが、同時に上の句と下の句が、それぞれ独立した文脈の傾向を見せている。この時代にはまだ、それくらいの簡単なものでした。

 この上の句と下の句の応酬が、くり返されながら独自の形式を獲得するのは、もっと先のことになります。ただ、ここに連歌が含まれるということは、宮中においても連歌というものが、ある程度の地位を獲得していたことを、はからずも示しているのではないでしょうか。これが『百人一首』でお馴染みの、藤原定家(ふじわらのさだいえ)(1162-1241)の晩年の頃になると、
  「この頃は連歌ばかりがはやる」
と愚痴に沈むくらいの流行を見せることになる。和歌の時代から、連歌の時代への移り変わりの悲しみのうちに、彼は亡くなってゆくのかもしれません。

  『桃園の花を見て』
桃園の
  桃の花こそ 咲にけれ
          頼経法師(よりつねほうし)

梅津(うめづ)の梅は
      散りやしぬらむ
          大江公資(おおえのきんより) 共に金葉集649

 つまりは頼経法師が、上の句を、
    「桃園の桃の花は咲いたぞ」
と呼びかけると、それに対して大江公資が、
    「桃の花が咲く今ごろには、
       梅津の梅は散っているのでは?」
と下の句でたわむれてみた、ただそれだけのことであり、外にはなんの意味もありません。ただ、
    「咲くものあれば、散るものもある」
という季節ごとの花の移り変わりを、こうしてからかって述べたまでのこと。「咲いた」と主張する相手に、「散った」と反対の意見を並べ立てるような精神は、遠く誹諧連歌(はいかいれんが)の精神へと、連なっているようにも思えます。また、どこの梅でもよかろうものを、わざわざ「梅津」の梅と断ったところにも、ちょっとした洒落(しゃれ)が効いています。

花散りて
  筆の折れたる 画帳かな

 やれやれ、酔っぱらいにも困ったものですね。
  これで『金葉集』の紹介は終了ですが、次回は改めて三十一字の詩型について、古文と現代文を並べて、本日のおさらいに代えたいと思います。それでは皆さま、お疲れさまでした。

          (をはり)

2014/04/15頃
2014/06/10 改訂掲載
2014/07/7 再改訂
2014/11/10 朗読

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