ふたたびの万葉集 その四

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ふたたびの万葉集 その四

巻第八

 さて、「よみ人の分かる四季」を配置した巻第八は、「春夏秋冬」をそれぞれ「雑歌」「相聞」に分けた計八つに分けられています。よみ人が在るものですから、ある程度は詠まれた年代も分かるのでしょう。それぞれの項目を、なるべく年代順に並べているようです。大伴一味の和歌は、詠み手も由来も、もっとも分かる部類ですので、必然的に大伴家の四季の歌は、この巻に集中して収められることになりました。おかげでまた、大伴一族のアンソロジーを眺めているような気分にも、させられるくらいです。

春の雑歌

うちなびく 春来たるらし
   山の間の 遠き木末(こぬれ)の
  咲きゆく見れば
          尾張連(おわりのむらじ) 万葉集8巻1422

(うちなびく) 春は来たようだ
   山際の 遠くの梢が 咲いてゆくのを見れば

   「花が咲いてきた、春が来たんだ」
くらいの思いをどう表現するか、多用される心情ですから、あらためて眺めてみてもよいでしょう。まずこの花は、桜とされていますので、それに従います。山際に桜を眺めたものとして、
   「山際に桜が咲き出した。春が来たようだ」
くらいを、初めの心情とすることにしましょう。
 もちろん、ほとんど心情のまま表現して、

山際に
  桜の花が 咲き出して
    待ち望んでた 春は来ました

 くらいでも、初歩の短歌としては十分です。
  けれどもある程度、慣れてきましたから、

待ち望む 春は来ました
  山際に 桜の花の 咲くのを見れば

と倒置法を使用するくらいは、
 そろそろ、思いついても良さそうです。
  もちろん、このまま言葉を手直しして、
   完成させればおそらく、
  「はじめての万葉集」で紹介した万葉集の、
 短歌くらいにはなれるかもしれませんが……

  あえて一度、差し戻します。
 どうしたら効果的に思いを伝えられるか、着想を練ってみましょう。すると、ずっと待ちわびていた者の心情としては、咲く間で待って「春になった」では浅いのではないか、ほんの少しの咲き始めを見つけたらもう、「咲き出したようだ、そろそろ春か」と感じるのではないか、と思い当たります。ついでに、山際に咲いて待ちわびる花と言えば、桜には違いありませんから、これは外そうと考えます。このあたりで着想をまとめてみましょう。

山際ではもう花が咲き出したようです。
そろそろ春でしょうか。

 もちろん、
  先ほど倒置したのは効果がありそうですから、
 そのまま利用しまして。

もう春に なるころでしょう
  山ぎわの 遠くの花が
    咲き始めました

 けれども二句目の冗長が気になります。
  そこで覚えたての、枕詞を使用して、

うちなびく 春はもうすぐ
  山ぎわには 遠くの花が
    開き始めて

  頑張りました。
 ただ残念ながら「遠くの花が開き始めて」というのは、
  ちょっと散漫で、また推敲の余地はありそうです。
   それに対して『万葉集』の短歌は、

うちなびく 春来たるらし
   山の間の 遠き木末(こぬれ)の
  咲きゆく見れば

 もう一つ着想を織り込んで、
   「枝の末のあたりの花が」
次第に咲いていく様子まで織り込むことによって、「遠くの花が開き始めて」に見られたような、「動かせそうな」言葉がどこにもなくなっています。決して凝った表現でもないのですが、「動かせそうな」マイナスポイントがないだけで、どれほど短歌が引き締まって感じられるか、しかも「咲きゆく」という表現は、「開き始めて」とは異なり、その瞬間の状況だけでなく、これから期待される、時間の経過を込めています。それでなおさら、花が開いていくような、余韻が残されることになりました。

     『柳の歌』
うちのぼる
  佐保の川原の 青柳(あをやぎ)は
    今は春へと なりにけるかも
          大伴坂上郎女 万葉集8巻1433

のぼっていくと
   佐保の川原の 青柳は
     今はすっかり 春の装いです

 「青柳」が「どうしたこうした」と具体的には言わずに、春の風情になったとだけ説明しますから、かえって聞き手はそれぞれに、自由に青柳の春らしい姿を思い描けます。そのすべてを込めたようなくくり方と、「うちのぼる」と佐保川をさかのぼるような印象を冒頭に提示したところが、この詩の魅力です。

 ただし、「うちのぼる」が川原の状況を述べたものか、自らの行為を述べたものか、すでに定着した枕詞のような表現だったのか、それは残念ながら不明です。不明ですが、どの状況でも、この和歌のすばらしさは解説できるので、私たちは、お好みの解釈を、ポケットに入れて持ち歩いても、良さそうです。

山吹の
  咲きたる野辺(のへ)の つほすみれ/つぼすみれ
    この春の雨に さかりなりけり
          高田女王(たかたのおおきみ) 万葉集8巻1444

山吹の
  咲いている野辺の つぼすみれは
 この春雨のなかに 今こそ盛りを迎えます

 この「ツボスミレ」は今のものと同じようです。低木で黄色系統の花を沢山付け、華やかに咲く山吹と、白から青系統の花を付け、清楚でかわいらしい草である菫(すみれ)の対比は、それだけでもうれしいものですが、それを春雨の中に配した手際は見事です。

 まるで、山吹を眺めに来たものの、春雨に降られ、ふと下をうつむくと、しっとり濡れたツボスミレも、盛りを迎えていたような印象で、特に四句目の春雨に加えられた、「この」という指示語は見事な一手です。必要欠くべからざる指示語として、覚えておかれると良いかも知れません。

春相聞

 ないっす。
  というか、紹介があまり多すぎるので、
 消したっす。

 それでは、よろしくないというのなら、
  代わりにノートを取り出して、自分たちで、
   春の相聞を詠んでみましょうか。
  春の中で、相手への思いを述べれば、
 それでもう春相聞です。


     「わたしが先陣やります」
新作の
  映画は春の 話題作
 チケットが二枚 あるのだけれど
          時乃遥

     「どうした遥」
お前には
  チューリップが お似合いだ
    ホラ受け取れよ 口づけ貰うぜ
          いつでも彼方

     「残念でした」
つかまえた
   僕の大切な 金鳳花(きんぽうげ)
 夢から覚めて 絵はがき一枚
          時乃遥

     「楽しそうですね」
春雨は
  シャネル シャガール モジリアニ
    椅子にいねむる
  貴婦人は誰?
          春歌 時乃旅人

夏の雑歌

 夏といえば「ほとゝぎす」、
  「ほとゝぎす」と言えば大伴家持。
    大伴家持と言えば花橘(はなたちばな)。
   かどうかは知りませんが、
  彼の子規(ほととぎす)をどうぞ。

我が宿の 花たちばなを
  ほとゝぎす 来鳴かず地(つち)に
    散らしてむとか
          大伴家持 万葉集8巻1486

私の家の 花たちばなを
  ほととぎすよ 来て鳴くこともなく大地に
    散らしてしまうつもりか

「花たちばな」と「ほととぎす」の組み合わせですが、それを「咲いているうちに鳴け」とか、「散らしてもいいから鳴け」くらいなら想像の範囲ですが、
   「お前の役割は、鳴いては枝移りして、
     花たちばなを散らすことではないのか」
と表現して、喩え花を散らしても構わない、直ぐに鳴き声が聞きたいと表明するのは、なかなかのファインプレーです。これは、自分で考えてみる機会が多い人なら、すなわち自分で短歌を詠んでいる皆さまなら、おそらく実感できるのではないでしょうか。さらりとは浮かんでこないような着想です。

 なるほど、そんな着想がポンポン浮かんで来るような歌い手なら、もう姿を整えることは朝飯前ですから、「心」や「姿」などと、初心者にするような解説も、浅はかに響くのは避けられません。一言だけ付け加えるなら、一見傷でもありそうな「地(つち)に」という表現が、妙にリアルな感慨として、この短歌を成り立たせているという、魅力的な矛盾の事だけです。

我が宿の
  花たちばなは 散り過ぎて
    玉に貫(ぬ)くべく 実になりにけり
          大伴家持 万葉集8巻1489

わたしの家の
  花橘は 散り去って
    すでに五月(さつき)の玉に貫くための
  実をつけてしまいましたとさ

 この短歌は詞書に「橘の花を惜しむ歌」とありますから、あるいは誰かに「花橘」はいかがですか、と尋ねられたのに、返答したものかもしれません。それでことさらに、「もう玉に貫くくらいの実になってますが。なにか?」と冗談を加えたのではないでしょうか。実が大きくなる頃に、花を惜しむというのも、ちょっと時期ずれの感じがしますし、
     「とっくに散って、実がなってます」
などという表現で、
 本気で花を惜しむ歌を詠む人はありませんから。

 むしろ滑稽なのは、このような詠み手の心情を無視して、
  あくまでも真面目に花を惜しんだものとして解釈しようとする、
   詩情に乏しい解説者どもの存在です。
  彼らに掛かったら、あなたが心から愉快に思って、
 冗談で詠んだ不朽のコメディータッチの短歌も、
  詠み手の深い心情を宿したとか、
   悲しみの幻影が底辺からにじみ出てなどと、
    もっとも大切なもの、心的指向性の中心であった、
     冗談を無視して、あるいは軽視して、
    推し量られるには違いありません。
   あるいはそれこそ、あらゆるコントのうちで、
  もっとも悲壮感の漂う、
   コントの北限なのかもしれませんね。

夏の相聞

     『紀郎女(きのいらつめ)に贈る歌一首』
なでしこは
   咲きて散りぬと 人は言へど
  わが標めし野の 花にあらめやも
          大伴家持 万葉集8巻1510

なでしこは
   咲いて散ったと 誰かが言っていましたが
 わたしの占有地の 花ではないでしょうね

 性懲りもなく大伴家持は、また女性と恋のやり取りをしているようです。これは紀郎女(きのいらつめ)宛て。以前紹介した時は、坂上大嬢と同時進行で、恋歌などを交わしていたくらいですが、ここでは、ナデシコが咲いたと思ったら、心変りして散ってしまったと、人づてに聞きましたが、まさかそれは、わたし専用のナデシコではないでしょうね。と意味深なことを述べているようです。
 邪魔しては悪いので次にまいります。

秋の雑歌

     『遅萩の歌』
咲く花も おそろはいとはし/おそろはうきを
  おくてなる 長きこゝろに
    なほしかずけり
          大伴坂上郎女 万葉集8巻1548

咲く花もまた あまり早咲きなのはいとわしい
   遅れて咲くような 気長な精神には
     適わないところがありますよ

「おそろ」は軽率であることですが、早咲きも意味します。「おくて」は今日ではもっぱら遅く刈る稲に使用する言葉ですが、植物の遅咲きを指します。[稲では収穫の早い順に、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)と言う。]それでさっさと咲いて、さっさと散ってしまうようなものは、落ち着きがないものですから、ゆっくり構えた遅咲きの心こそ良いものですよ。あるいは恋にでも掛けたものでしょうか。

 まったく関係のない短歌ですが、
   ちょっとだけ、先ほどの家持の歌への、
     いましめのようにも響きます。
   それで並べて取りました。

うづら鳴く
  古りにし里の 秋萩を
    思ふ人どち 相見つるかも
          (沙弥尼の一人) 万葉集8巻1558

うずらの鳴く
   古きみやこの 秋萩を
 気の合うもの同士で
    一緒に見ることができました

 さて「はじめての万葉集」では、
  おなじところで、

秋萩は さかり過ぐるを
  いたづらに かざしに挿(さ)さず
    帰りなむとや
          沙弥尼等(しゃみにども) 万葉集8巻1559

秋萩は 盛りを過ぎてしまうというのに
   そのままにして 髪飾りに挿すこともなく
  お帰りになってしまうのですか

という和歌を紹介しましたが、これも同じ時の和歌。
 寺に所属する彼女ら、見習い尼の僧坊は、かつて都であった飛鳥(あすか)にあったものですから、明日香川の萩は今日の雨で散ってしまうだろうか、と出席者の丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)が詠んだのに、返答した短歌になっています。

 内容は単純なもので、雨が降るとしても、その前にこの古き里の秋萩を、親しいもの同士で楽しめましたから、良いではありませんか。くらいの内容です。冒頭の「うづらなく」は、「古」に掛かる枕詞ですが、「現実にうずらが鳴く古いみやこ」と、実景に捉えても構いません。

 後は、お暇な方は、
  なぜ二つの「沙弥尼(しゃみに)たち」の短歌のうち、
   一方が「はじめて」の方に、もう一方が「ふたたび」の方に、
  掲載されたかと考えて見るのも、
 お手頃な、暇つぶしにはなるかと思われます。

雨(あま)ごもり
   こゝろいぶせみ 出でゝ見れば
 春日の山は 色づきにけり
          大伴家持 万葉集8巻1568

雨に降られて 家に籠もって
  あまり気が滅入るので 外に出てみれば
    春日の山は すっかり色づいていました

 前にも述べましたが、「雨ごもり」は雨を嫌って家に引きこもることです。甘ったれるなと、お叱りの手紙もあるかも知れませんが、どうやら縁起が悪いような迷信もあったようです。「いぶせみ」というのは「いぶせし」の「ミ語法」で、「気分が晴れないので」「うっとおしいので」といった意味になります。そんな状態になるからには、すぐ止む雨ではなかったのでしょう。あるいは数日くらい、降り続いた雨もかも知れません。

 それでようやく雨が上がったので、外に出てみれば、春日の山は、紅葉(もみじ)がすっかり色づいていた。とは言っても、なにもダイエット用具の、使用前・使用後の写真のように、青い山が、急に赤く変わっていた訳ではありません。色が変わりつつあるくらいは、もとより承知なのですが、まだ黄葉(もみじ)とまでは、表現できないくらいだったものを、毎日雨だったかはともかく、数日間、曇りがちの日々が続いたものですから、久しぶりに外に出た時の、おそらくは雲の晴れ間に、陽を浴びた紅葉が、すっかり色づいて、鮮やかに照らし出されたものですから、あらためてこんな感慨が生まれたものと思われます。

 すると「色づきにけり」の半分は天候のせいとも思われ、すでに色づきはじめていた山を、数日の曇りの後に、晴れ間に眺めれたからこそ、印象としては「春日の山は色づきにけり」と、初めて気づいたように、新鮮な喜びとして、感嘆せざるを得ない。という仕組みです。実はこの短歌は四首がワンセットになって、雨から雨上がりの情景を詠んでいるのですが、数日曇りがちであったとするならば、「色づきにけり」と表現できるのであれば、その日の午後まで雨が降って、西日が沈む前に外に出てみれば、山が西日に照らし出されて、「山は色づいた」という感慨に至り、さらに最後の月の和歌に移れば、最短で、一日の雨でも十分だ、ということになります。
……ちょっと脱線しましたね、
  全部の和歌を紹介しているゆとりはありませんから、
 この和歌の話に戻しましょう。

 この短歌の妙は、前半と後半のコントラストの激しさにあると言えるでしょう。やり方を間違えば破綻しそうなきわどい着想でもありますが、むしろわざと対比を拡大させて、「いぶせみ」などうっとうしさを大いに高めて置いて、わずか三句目の「出でて見れば」で、場景をみずからの足で転換させてしまうような手際の良さは、当たり前の発想のようでありながら、なかなか見事なものです。おそらく「見わたせば」くらいでは、この短詩ほどの、効果的な響きにはならなかったろうと思われます。どうしたら、聞き手の心理を操れるか、確信犯の仕事です。「雨が上がった」とは一言も言わずに、それを分からせる手際もにくいですが、もちろん紅葉の山が、先ほどの雨で光を反射するように、色鮮やかに映し出された点まで、計算されているに違いありません。

 さすが大伴家持、恋愛の最中でも、
  歌のことを忘れちゃあいなかった。
   そんなところでしょうか……

 ただし、この短歌、巻第十に納められた、

もの思ふと
  隠(こも)らひ居りて 今日見れば
    春日の山は 色づきにけり
          万葉集10巻2199

と同一の着想です。
 大伴家持の方が整っていますから、古歌を改変した印象です。これに限らず、万葉集の短歌には、他の短歌や漢書の着想を利用するものも多く、あるいは今日のような個人の所有物としての着想の独自性、というような精神はなかったようにも思われるくらいです。

自ら移動するように詠む

 では、せっかく効果的な方法を見つけましたから、
  私たちもノートを開いて、自らの足で、場所を変えるような、
   短歌を詠んでみましょう。

 もちろんやり方は自由ですが、
  大伴家持のように、三句目に移動を込めて、
   上句と下句の情景を大きく変えるのが、
  もっとも簡単で、しかも効果的なパターンになりますから、
 まずはそれを試して見るのがお奨めです。


     「たまには先陣」
箱庭の
  影の校舎を 逃げ出せば
    日盛りの街 行き交う人並
          思出歌 時乃旅人

     「取りは無理だぜ」
しゃがんでは
   いじけた砂かよ 走り出せ
 砂丘の先の 海に叫べや
          駆け出す彼方

     「押しつけないでよ」
静寂の
  繭(まゆ)に包まれ 生まれ出る
    光におびえて 泣きます坊やよ

     ようこそここへ
        どうぞよろしく
               こもり歌 時乃遥

橘奈良麻呂の乱

     『集宴(しゅうえん)を結ぶ歌十一首より』
手折(たを)らずて
   散りなば惜しと 我(あ/わ)が思ひし
 秋の黄葉(もみち)を かざしつるかも
          橘奈良麻呂(たちばなのならまろ) 万葉集8巻1581

折り取る前に
   散ってしまったら惜しいと
 かねてから思っていた 秋の紅葉を
    こうして折り取ってかざすことが出来ました

 主催者なのでしょうか、
  あるいは父親の後見か。
 橘諸兄(たちばなのもろえ)の息子として、まだ十代後半の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)(721?-757)が、宴の席で挨拶を兼ねた冒頭歌です。なかなか興味深い宴で、大伴家持、書持の兄弟はもちろん、大伴池主なども加わっているのですが……

  まずは短歌を眺めましょう。
  「折らずに散るのが惜しいと思っていた紅葉を、
     皆さまのおかげでかざすことが出来ました」
ちゃんと酒宴の挨拶をまっとうしています。ただ散るのが惜しいではなく、みずからが「手に折らずに」と冒頭に置いたために、宴のおかげで、折り取ってかざせてうれしいと表現がまっとうされますから、冒頭の「手折らずて」は決して悪いものではありません。

 けれども、ここまで一緒に来られた皆さまなら、あるいはお気づきでしょうか。無難な表現はあるけれど、これはむしろ「はじめての万葉集」で紹介すべき短歌ではないかと……

  実はその通りです。
 この和歌は、ようやく思いついた着想を、ただ着想のままに、どうにか描ききったくらいの、つまりは「はじめての万葉集」でめざしていた短歌くらいの、初学上等の作品に過ぎないものです。三句めの「わたしが思っていた」は「我が」が不要で、字数を整えたように思われますし、それ以前に三句全体が無駄に、句を埋めたようにも思われて来る。つまりは、動くことも、外す事も出来そうですし、四句目の「秋の」という言葉は、「黄葉」を詠む短歌として、まったく不要なものです。(もちろん効果があれば、大きな季節感を表明しても問題はありませんが、あくまでもこの場合の話です。)ではなぜ紹介したのか。

 実はこの青年、
  和歌よりも歴史上重要な人物です。
 例の藤原四兄弟が、長屋王の祟りで、737年「なあ皆(737)消えろや」という、怨霊の声を聞いたかは知りませんが、相次いで天然痘に倒れて以来、橘諸兄の勢力が増していたのですが、それに反旗を翻すのが、次の藤原氏を立って立つ男こと、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(706-764)です。

 そしてこの[藤原]VS[橘]の流れの中で、後に、橘諸兄の息子であるこの橘奈良麻呂は、反乱を企て、それが元で死に追いやられる。それを「橘奈良麻呂の乱」(757年)と呼ぶのですが、状況次第では、大伴家持も参加していた可能性も、ないとは言えないのです。そうして、家持の歌友(うたとも)である大伴池主は、この乱に連座して、おそらく獄中で殺されたものと思われます。

 聖武天皇が、みやこを移りながら、東大寺の大仏に願いを託したように、奈良時代というのは、政治的動乱が立て続けに起こった時代でもありました。『万葉集』の世界などと言うと、穏やかであこがれるような人もあるかも知れませんが、なかなか血に染まったような和歌が、収められている集でもあるのです。
 ここらで、ちょっとそんなことも書き加えたくて、
  橘奈良麻呂に登場していただいた。
   ただそれくらいのことでした。
  そろそろ和歌に戻ります。

古語の文法について

こもりくの
  泊瀬(はつせ)の山は 色づきぬ
    しぐれの雨は 降りにけらしも
          大伴坂上郎女 万葉集8巻1593

(こもりくの)
  初瀨の山は 色づきました
    しぐれの雨が 降ったのでしょうね

  この短歌は、家持の「いぶせみ」とは違います。
 静的に語られていますから、上の句では、山が色づいたことに感じ入って「色づきましたね」と述べている。下の句では改めて、「しぐれの雨はすでに降ったのでしょうね」と思いを致しているに過ぎません。つまり家持のと違って、雨上がりになって、はじめて色づいたことに気が付いたのではなく、すでに色づいた山に、しぐれの雨が降って、しっとりと濡れた黄葉が、なおさら「色づいた」感じがしたものですから、
     「ああ、泊瀬の山は すっかり色づいたなあ」
という再認識を込めながら、
     「しぐれの雨が降ったのだなあ」
という感慨を致したものとなっています。

 少しだけ文法について述べるなら、
「降りにけらしも」というのは、「降りにけり」と完了したことを、推量の助動詞「らし」で推し量ったものですから、すでに降ったのを眺めながら「降ったのでしょうね」と、確認を取るような感じになります。最後の「も」は、詠嘆を表現する終助詞ですが、今は言葉を分解して、解剖学にいそしむよりも、むしろ、
    「動詞」+「にけらし」で
      「(すでに)~してしまったようです」
    「も」が加われば、
      最後が「ようだなあ」と詠嘆が加わる
というイディオムがあるくらいで、あまり文法などに、足を捕らわれなくて大丈夫です。

 そもそも、私たちが言葉を話せるようになったのは、文法を学んだためではありません。同じような表現に何度も接することにより、次第にそのニュアンスが、蓄積されていったからに過ぎません。その蓄積された表現もろくにない段階で、文法などにいそしむのは、心情の宝庫であるはずの古典を、意味で飼い殺しにするような愚鈍(ぐどん)[頭の働きが愚かで、行動が間抜けで、のろいこと]です。

 それよりむしろ、お気に入りの歌があったら、どんどん口に出して唱えることをお奨めします。覚えられたらなおさら結構です。自分の心情に添うようなシチュエーションで、そっとつぶやいてみるのが詩興です。表現のニュアンスがおのずから、身についてゆくと思われます。

 そうすれば、いつしか、おのずから文法への関心も生まれるでしょうから、その時になって改めて、少しずつ覚えて行くのが素敵です。教育システムの愚かさは、その言葉の蓄積もない段階で、文法の生け贄に、古典を貶めている所にあるのではないでしょうか。だからせっかく古文を教えても、その心情を伝統と心の糧にするのではなく、よく出来ました君のパズル遊びに、高得点をめざすようなものになってしまうのです。

高円(たかまと)の 野辺(のへ)の秋萩
   このころの あかとき露に
  咲きにけむかも
          大伴家持 万葉集8巻1605

高円の 野辺の秋萩は
  近頃の あかつきの露に
    咲き始めたのではないだろうか

 高円山は春日山のすぐ南で、春日山は東大寺のある奈良公園の東で、奈良公園は奈良駅の東で、奈良駅は平城京の宮の跡の東です。といったら、あまりにもいい加減なので叱られそうですが、そんな高円山あたりの秋萩は、この頃の朝露で咲いただろうかと言っている。「あかとき」というのは、八代集の時代には「あかつき」と呼ばれるようになる、夜明け前のことです。正しくは、夜更の次に来るくらいの、空の色が変わるより前の、「夜の明け始める直前」頃を表現した言葉ですから、「朝露」とは言っていませんが、その露にそそのかされて、ようやく萩は咲いただろうか。
と実際には、ただの推察ではなく、
 萩が見たいという期待が込められた短歌になっています。

 先ほど文法について話しましたが、
この作品の「咲きにけむ」などは、「けむ」が「過去の推量」を表わしていることが分かれば、自分は見ていない事に対して「きっと咲いたのだろう」と推量し、次に、疑問を伴う詠嘆の「かも」によって、「きっと咲いたのだろうかなあ」と、わざと曖昧な表現をしたことが分かります。それで、すぐには確かめられない、ちょっと遠くの場所について、思い計っているのではないか、という気分が湧いてきます。

 このように品詞(ひんし)などは、知っていれば便利なものでもあるので、勉強しようなどとは考えなくても結構ですから、ちょっと分かりづらい所や、興味の湧いた所から、例えば検索サイトを利用して「かも 古語」などと検索して、調べてみるのもお勧めです。いずれにせよ、すべて解剖しながら、読み解いていく必要はありません。だんだん興味が高まれば、自然に解剖も出来るようになって行きますから。

秋の相聞

我が宿の 秋の萩咲く
  夕影(ゆふかげ)に 今も見てしか
    妹が姿を
          大伴田村大嬢(たむらのおおいらつめ) 万葉集8巻1622

わたしの家の 秋萩が咲きました
  この夕日のなかで
    今すぐ見たいものです
  あなたの姿を

 田村大嬢が異母妹(いぼまい)の坂上大嬢に贈った短歌です。この人の和歌は、妹に贈られたものしか残されていませんが、妹よりうまい短歌が多いように思われます。この短歌もさりげないものではありますが、こうして咲いた萩をあなたと一緒に見たい。この妹はもちろん、実際の妹の意味ですが、和歌の常套手段として、恋人に見立ててもいるのでしょう。夕日のなかで相手のことを思いながら、ひとりで眺めている姿が、浮かんで来るようです。気持ちとしては「今も思い描いていました、あなたの姿を」くらいの方が、現代語には相応しいかも知れませんね。

冬の雑歌

 ここではまた、和歌の紹介の代わりに、
  冬の雑歌を詠んでみましょう。
   雑歌といっても、相手への心情を表明した、
  相聞以外のすべてを含みますから、
 皆さまは恋歌を作らないようにすれば、
  それで十分かと思います。
   題に困った時は、
    定番の雪をお使いください。
     ではどうぞ。


     「やっぱ先陣が落ち着くぜ」
ざこ犬に
   雪を当てたら キレられて
 逃げまくる俺の 足の速さよ
          課題歌 いつもの彼方

     「寒菊はいかが?」
雪一輪
  一輪差しの ビードロは
    サファイア色した 夢かまどろむ
          課題歌 時乃遥

     「無題」
小雪降る
   京の小橋の 外灯を
  川辺に巡る 影ぼうしかな
          即興歌 時乃旅人

冬の相聞

わが背子と
  ふたり見ませば いくばくか
    この降る雪の うれしからまし/うれしくあらまし
          光明皇后(こうみょうこうごう) 万葉集8巻1658

親愛なるあなたと
  ふたりで見たなら どれほどか
 この降る雪は うれしいことでしょう

 光明皇后は藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘で、聖武天皇の妻として、始めて王族以外から「第一の妻」になった人物で、701年に施行された「大宝律令」に基づいて「皇后(こうごう)」と呼ばれました。東大寺や国分寺の建設は、むしろ彼女の方が、熱心に夫に勧めたものであるとも言われ、仏教の支持者でもありました。そんな光明皇后が、夫である聖武天皇に贈った短歌です。

 天皇や皇后といった、国のトップの人の和歌は、屈託のなくおおらかなものが(比較的)多いのですが、これもほとんど語り口調で、「あなたがいれば」と詠まれたものに過ぎません。ただ調子に陰りがなく、「二人で見たら」とわざわざ加えているところから、大勢で見るのではなく、「二人だけで見れたら」という思いが込められているように思えます。あるいは二人だけで、しみじみとする時間など、あまりなかったのかも知れませんね。

 ついでに、動かすということについて言えば、実は冒頭の「わが背子と」という呼びかけも、全体の呼びかけと、二句目へ掛かる大切な表現になっていますから、この短歌は、簡単な表現ながら、動かすべきところはありません。あまねく完成された短歌になっています。

巻第九

 この巻は「雑歌」「相聞」「挽歌」からなる、よみ人の分かる歌を収めていますが、むしろ眺めてまず感じるのは、朝廷の正式な行事などとは、あまり関係が深くなさそうなタイプの、長歌の占めるウェイトが高いという事かも知れません。

 その中でも、ちょっと異質なのは、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)が詠んだ、伝説を元にしたいくつかの長歌ですが、それ以外の作品も、短歌を含めて、作品の質が保たれていて、おすすめの巻になっています。なにより長歌のせいで、総和歌数が少ないのも、はじめて眺めるのには最適ですので、あるいはこの巻から、万葉集の読破を、めざしてみるのも良いかも知れません。

雑歌

風莫(かざなし/かぜなし)の
  浜の白波 いたづらに
    こゝに寄せ来る 見る人なしに
          長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ) 万葉集9巻1673

風莫の浜には 白波が
   むなしくここに寄せています
  見る人がいる訳でもないのに

 この短歌は、山上憶良が編纂した『類聚歌林(るいじゅうかりん)』という歌集(現存せず)によれば、先の天皇である持統太上天皇(だじょうてんのう/だいじょうてんのう)と文武天皇(もんむてんのう)(在位697-707)が共に紀伊国(きいのくに)、今なら和歌山県の方へ行幸(ぎょうこう)[天皇が外出すること]した際に、作られた短歌の一首です。(一方で、柿本人麻呂歌集に納められているらしく、柿本人麻呂の作品の可能性もあります。)

 ところで、太上天皇(だじょうてんのう/だいじょうてんのう)というのは、天皇が亡くなる前に、次の天皇に位を譲ってしまい、自分は「先代」として、引退後の生活を楽しむもよし、今の天皇を影であやつるもよし、やはり権力を保って存在している場合が多いようです。後には「上皇(じょうこう)」という表現が、もっぱら使用されるようになります。

「風莫(かざなし)の浜」というのは場所が分かっていませんが、紀伊国のいずこかの浜なのでしょう。「風莫の浜に白波が寄せているな」くらいの心情を、「見る人もいないのに、ここに寄せてくるよ」くらいに軽く膨らませて、人気のない浜と、今そこに自分がいることを、悟らせようとしたのが着想です。

  あとはこれをどう表現するかの問題ですが、
 せっかく名称に「風莫の浜」とあるのを利用して、風莫の浜なら波も立たないはずなのに、そのうえ見る人もいないのに、無駄にせっせと白波を立てている。という意味を三句目の「いたづらに」に込めて、全体をまとめようと思いつきます。それで出来たのがこの和歌です。もちろん「見る人なしに」とあるからには、自分もまた、すぐに立ち去ってしまうのだからという心情も、込められているかと思われます。

  どうでしょうか。
 何気ない感慨を、その場で偶然に吐いたように見えながら、これくらいの着想と様式化を、済ませてから短歌を詠んでいる。それで、さりげないようでありながら、どこかを変えようとしても、込められたものが崩れるばかりで、つまりは、動かすことが出来ない、まとまった作品になっているのです。

 あとはこのプロセスを、どのくらいの早さで、頭の中でこなせるかで、即興的な名歌というものは、詠みなせるものかと思います。おそらく詠(うた)い慣れた一流の万葉歌人であれば、考えたとも悟られないくらいのスピードで、まとめ上げて口に出すことも、あるいは可能だったのかも知れませんね。

 ところで、実際の創作において、着想と様式化というのは、ほとんど同時進行に行われるようなもので、このようなプロセスを経て、最終的な形にまとまるというものでもありませんが、私たちの短歌の向上のためには、分かりやすい見取り図になりますし、解説には便利なものですから、今はしばらく、説明のために、あえて、
     [心情]⇒[着想]⇒[様式化]
を定められたプロセスとして、
 話を進めていこうかと思います。

高島の 安曇川(あどかは)波は 騒(さわ)けども/くとも
  我(あれ/われ)は家思ふ 宿り悲しみ
           (柿本人麻呂歌集) 万葉集9巻1690

高島の 安曇川の波は 騒がしいなかに
   私は家を思いだす 旅の宿りの悲しみに……

「安曇川(あどがわ)」は京都府から滋賀に向けて流れ、琵琶湖の西の突き出た先に(どんな表現だ)流れ出る川で、高島はその河口の地にあたります。そこの波が騒がしいなかに、家が恋しくなった心情を、「安曇川の波は騒がしい。わたしは家を思って悲しい気分になった」くらいの着想でまとめようというものです。

 簡単な方法としては、まず「悲しい」と始めて、理由を説明するのか、あるいは最後を「悲しい」とまとめるのか、いずれにしても「騒がしい」と「悲しい」をスポットに、二つを対比させながらまとめるのが、もっとも無難な、ありがちな、したがって安定したやり方であると思われます。

  そこで、川の騒がしさから始めることにします。
 場所や対称を導入するのに、地名を持ち込んだり枕詞を使用するのは、ターゲットとなる言葉に、焦点を定めるように、聞き手の関心を引きつけるような効果があるのも、大切な理由かと思われます。またいつも和歌で使用されている表現ですから、冒頭で「高島の安曇川」と導入さえすれば、たちまち様式化された短歌らしく響くのは、私たちがその定型を、パターンとして認識しているからに他なりません。そこで、

高島の 安曇川の川波は 騒がしいが
 私は家を思う 旅の悲しさに

と、おおよそ様式化されたアウトラインが出来上がりました。なんだか、川波の騒がしさが、事実としての叙情性だけでなく、賑やかさの中にあってと言うニュアンスを、帯びてきたようにも感じられ、なおさら結構な気がします。

 あとは、言葉を整えて、場合によっては修辞法を用いて、様式化を果たせば良い訳ですが、例えば二句目などは、「安曇川」と「川波」を結ばせても、意味が通じないどころか、かえって凝った表現になりますから、「安曇川波は騒けども」とすることにします。あとは結句を、日常語のままではなく、詩的表現をめざして「宿り悲しみ」と置いたところが、この短歌の、修辞上の特質かと思われます。

ぬばたまの 夜霧は立ちぬ
   ころも手(で)の/を 高屋(たかや)のうへに
  たなびくまでに/たなびくまてに
           舎人皇子(とねりのみこ) 万葉集9巻1706

(ぬばたまの) 夜霧が立ちのぼる
   (ころも手の) 高屋の上に たなびくほどに

 舎人皇子(とねりのみこ)(676-735)といえば、天武天皇の皇子のなかで、もっとも遅くまで生き抜いた人物ですが、『万葉集』にも和歌を三首残しています。これはそのうちの一首。「高屋(たかや)」は場所の名称かもしれませんが、ここでは屋敷の高楼(こうろう)くらいで眺めることにしましょう。

  「高屋の上にたなびくほど、夜霧が立ったなあ」
くらいの所を、「夜霧は立った」と倒置させて始めるくらいの着想ですが、「夜霧は立った。高屋のうえに」の両方に枕詞を使用して、様式化してやろうというのがこの作品です。その結果、「ぬばたまの」によって夜霧の闇が強調され、たなびく霧には、まるで巨大な腕をした神が、「ころも手の」裾をなびかせるように、黒い霧でも覆い被さるような印象が生まれ、それが当初の意図だったかどうかは分かりませんが、「闇の幻想」を宿したような作品になっているかと思われます。もちろん現代人のわたしの感想には過ぎませんが、あるいは詠み手も、ただの枕詞としてではなく、そのような印象を、封じ込めたかったようにも思えるのです。

 ここらでちょっと一休み。
  たまには、長歌を眺めましょう。
   現代語は散文で、
  お送りするほうが明快です。
 ひるがえっては手抜きです。

     「検税使大伴卿の、筑波山(つくはやま)に登りし時の歌一首 併せて短歌」
ころも手(で) 常陸(ひたち)の国の ふた並ぶ 筑波(つくは)の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かきなけ/嘆き 木(こ)の根取り うそぶき/うそむき登り 峰(を)のうへを 君に見すれば 男神(ひこかみ/をのかみ)も 許したまひ 女神(ひめかみ/めのかみ)も ちはひたまひて 時となく 雲ゐ雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして/照らし いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば うれしみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ うちなびく 春見ましゆは 夏草の 茂き/くはあれど 今日の楽しさ
          高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ) 万葉集9巻1753

(ころもで)常陸国に、二つの頂に並ぶ筑波山を、見たいと思って、あなたが来られたので、暑いなかを汗をかいてはうめき、木の根をつかんであえぎながら登り、頂を見せてさしあげる。すると、一方の頂である男神も、許しを与え、もう一方の頂である女神も、ご加護を与え、いつもなら雲が覆い、雨が降る筑波嶺(つくばね)を、はっきりと日のもとにさらし、知りたかった国の絶景を、思う存分見せてくださった。それで、うれしくて服の紐をゆるめて、家にいるようにくつろいで遊びます。(うちなびく)春に眺めるよりは、夏草が覆い茂っているけれど、今日であればこそ楽しめるのです。

 常陸国は、今の茨城県あたりで、そこにある筑波山は山頂付近が、男山と女山の二峰に分かれています。「君来ませりと」とあるので、大伴卿を山に登らせて、自分が案内しているという設定です。高橋虫麻呂との関連から、大伴卿は、大伴旅人か大伴道足(おおとものみちたり)か不明のようですが、取りあえずは馴染み深い大伴旅人卿を念頭に、読んでみるのも悪くはありません。

「うそぶく」は、今なら、すっとぼけて大きな事を言うような言葉ですが、これは単に大きく息を吐くような意味。「ちはひたまひて」というのは「霊力を与えて守る」「ご加護を与える」ということです。「いぶかりし国のまほらを」は「はっきりと分かっていなかった国のすばらしい所」の意味で、「知らなかった国の有り様」くらいで構いません、それを「つばらかに」つまり詳細に示してくださったというのは、もちろん大伴卿が勝手に登って、勝手に眺めている山頂の絶景を、神々が好意によってお見せ下さったものと、詠んでいるという内容です。

 それで羽目を外して、上着など脱ぎ捨てて、その辺に腰を下ろしたら、夏草が刺さって「あうちっ」……という訳でもないでしょうが、草が茂って、登るのも休むのも大変だったけれど、それを打ち消すような絶景だったという内容です。
 それでは短歌。

今日の日に いかにかしかむ
  筑波嶺(つくはね)に 昔の人の 来けむその日も
           大伴道足か? 万葉集9巻1754

今日の日に どうして及ぼう
  筑波嶺に 昔の人が 来たというその日も

 ここは男女が歌を掛け合いながら、結ばれたり結ばれなかったりする、歌垣(うたがき)の地として知られ、前にちょっと出てきた宮廷の歌垣も、このような庶民の歌垣が、中国の行事と結びついて、宮中に取り込まれたもののようです。もちろん、それ以外にも東国の名所として、いろいろな人が登っていましたから、そんな人たちが眺めた風景も、今日の絶景には及びませんよ。くらいの和歌になっているようです。

 ただし、何か特定の誰かを指すようにも感じるのですけれども、完全にわたしの領域を離れますので、このくらいで、お茶を濁しておこうかと思います。実は歌垣についても同様です。あしからず。

 そういえば、長歌の最後の部分に、
     「うれしみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ」
というのは、歌垣にかけて、さあ恋人を見つけようというような、たわむれが込められているようにも感じられますね。

相聞

     『娘子(おとめ)、紐児(ひものこ)をめとりて作る歌』
かくのみし 恋しわたれば
  たまきはる いのちも我(あれ/われ)は
    惜しけくもなし
           抜気大首(ぬきけのおおびと/ぬきのけたのおびと) 万葉集9巻1769

このように 恋し続けているので
  (たまきはる) いのちもわたしは
     惜しいとは思わない

 そのままの語り口調では、ありきたりすぎて、短歌の存在意義は弱くなる。まして「かにかくに」「かくのみし」などの曖昧な表現は、自らの主観に依存するので、様式化された和歌としては、まだ動かすことの出来るような、傷を残すことにもなりかねない。わたしは説明しました。けれどもそれは、逆のことも意味します。

 つまり、ただありきたりの思いを、率直に伝えたい、ということが目的である場合には、様式化された和歌などを描いても、そのままの語りなら伝えられる、ダイレクトな心情がはぐらかされて、ストレートには伝わらない。そんな、馬鹿馬鹿しい事実です。

 それはありきたりのストーリーの、日常的なクライマックスに置かれた、プロポーズの言葉が、「好きです結婚して下さい」なら、その言葉自体は、ありふれた陳腐なものであったとしても、効果的に表現をまっとうできるものを、「あなたのような素敵なバラの花を一輪、ずっと身につけて、傍に置かせてください」などと表現されたら、(よほど特殊なシチュエーションを設けなければ、)女性に嫌われる前に、視聴者にチャンネルを変えられてしまうようなものです。

 この短歌も、確かに「かくのみし」に弱みはあるようですが、同時に「こんな風に」という完全に主観任せに語りかけたことによって、短歌の全体が心情の吐露(とろ)のように響きますから、妻を娶った喜びが伝わって来て、悪いものではありません。

 なるほど、もし『万葉名歌百首』などに撰ばれていようなら、その判断基準を糾弾も致しましょうが、4500首以上の和歌の中に収められていると、たまには胸のすくような、単純な表現というものも、またうれしくなるものです。「たまきはる」は「命」に掛かる枕詞で、「大切な命でも」のような印象が生まれますから、真実の語りを、蔑ろにすることなく、わずかに短歌を、様式化するのに役立っています。二句目の「恋し渡れば」もまた、「恋しくは」などよりも表現に勝りますので、語り口調とは言っても、実際は一週目の和歌よりは、様式的な短歌が、明確に意識されているのも事実です。
 だから、「ふたたび」に紹介してみました。

挽歌

     『紀伊(き)の国にして作る歌、四首のうち一首』
もみぢ葉の
   過ぎにし子らと たづさはり
  遊びし磯を 見れば悲しも
           (柿本人麻呂歌集) 万葉集9巻1796

(もみじ葉の)
   過ぎ去った妻と 手を取り合って
  遊んだ磯を 見るのは悲しい

   「あの人と一緒に、遊んだ磯を見るのは悲しい」
だけでも、ぼんやりと意図は伝わりますが、様式化を兼ねて、「過ぎる」の枕詞「もみじ葉の」から導いて、「紅葉のように散り過ぎて、むなしくなってしまったあの人」と詠みますから、はっきりと、亡くなった人を偲(しの)んでいることが分かります。

 あとは遊んだ状況を、どのように表現するかによって、詩の価値も定まりそうですが、ここでは「たづさはる」[互いに手を取る、連れ立つ]という言葉を使用して、触れ合う印象を持たせました。今日でもビーチでカップルが、手を繋いだり、肌を寄せ合って歩いていますが、まさにそのような感覚で、遊んだあの人が消えてしまったのが悲しい。そう詠んでいる訳です。

 先ほどの、「かくのみし」の率直とは違い、水面下で構築された、様式の整った短歌ではありますが、こちらの場合はそのためにかえって、悲しみがにじみ出てくるようには、感じられないでしょうか。このように、一定水準に達した短歌の価値というのものは、簡単には優劣が定められないものなのです。

 だからといって、優劣がないという訳ではありません。やはり「かくのみし」の方は、率直に語りすぎたのが仇となって、構造と密度に、弱いところが残ります。それに対して、この短歌は、構築された構造そのものが、心情を豊かに表明するための、骨格となって生きています。それで優劣を付けるなら、こちらの短歌に白星が付くことになるでしょう。

 逆に一定水準以下の作品は、
   解釈を加えようとすると、
     荒ばかりが目に付きますから、
   勝ち負け以前の問題には過ぎません。

               (つゞく)

2016/05/10
2016/06/14 改訂

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