ふたたびの万葉集 その二

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ふたたびの万葉集 その二

巻第三

 「巻第一」「巻第二」同様、「巻第三」「巻第四」もペアで一つをなしていて、「雑歌」「相聞」「挽歌」を収めています。ただし配分は大きく異なっていて、巻第三に「雑歌」「挽歌」を収め、それだけでなく「相聞」の内部に置かれるのが通常である「比喩歌(ひゆか)」を巻第三に持ち込んで、
     「雑歌」「比喩歌」「挽歌」
として、残りの「相聞」を巻第四が担うという方針になっています。つまり、
     巻第一「雑歌」    ⇒巻第二「その他の歌」
     巻第三「その他の歌」 ⇒巻第四「相聞」
と考えていただいても良いでしょう。

 「巻第一」「巻第二」同様、古いものから新しいものへと配置して行こうという精神は見られますが、実際にいつ作られたのか、必ずしも明確でない和歌が増大。あるいは「巻第一」「巻第二」には日時や詳細がつまびらかなものを収め、残りを「巻第三」「巻第四」の前半に持ち込んだのかもしれません。そうして後半は、いずれのジャンルにおいても、大伴一族の歌集の様相を次第に濃くしていくのは、すでに一周目で眺めた通りです。

雑歌

     『柿本朝臣人麻呂が羈旅の歌』
武庫(むこ)の海 船庭(ふなには)ならし
  漁(いざ)りする 海人(あま)の釣船(つりぶね)
    波のうへゆ見ゆ
          柿本人麻呂 万葉集3巻256 (別本)

武庫の海は よい漁場らしい
  魚を釣る 漁師の釣り船が
    波の上に見えている

 この短歌は実は、256番の「一本に云はく」とある、別バージョンに過ぎませんが、より二周目に相応しいので、こちらを掲載しました。武庫の海は、現在の兵庫県武庫川の河口の先に広がる、大阪湾を思い描いて頂ければと思います。「船庭(ふなにわ)」というのはユニークな表現ですが、船たちが庭のように利用する、漁場くらいで捉えて良さそうです。
 和歌の内容は明快で、

[初めの二句] ⇒推量と心情
[残りの三句] ⇒推量の理由と情景

 実際は、理由をもとに推察が生まれたはずの所を、倒置して上句に置くことによって、推察された内容をもとに、「ああ船にとってはまるで庭なんだな」と、その情景に感興を催すような、詠み手の心情が伝えられます。推量の理由は実際の情景そのものですが、それだけですと、「漁の船が波の上に見える」というありきたりの描写には過ぎません。ところが倒置して冒頭に置かれた「船にとって庭のようなものなんだな」という、ちょっと私たちに身近な譬えが効果的なものですから、今度は倒置された上の句が、下の句の情景を、何か特別の光景のように見せる触媒のようになって、「船が波の上に見えている」という感慨を、素敵なものに思わせることに成功しています。

 それで、比類ない表現とまでは言えませんが、「あのあたりは釣り船が多いけど、いい漁場なんだろうな」くらいの感慨を、日記に取りまとめようとしても、浮かんで来るような内容でもなさそうです。特に「武庫の海は船庭であるらしい」という導入は、恐らくそのままの感慨を述べたなら、もっと間延びしそうな所を、ただ「船庭なるらし」とまとめてしまうことによって、三句目以下を広々と利用していますが、なかなか真似できるものでもありません。

 ただし、この和歌のもとのバージョンは、これよりさらに優れた短歌になっています。まったく和歌の階層は、どれほどの高みにまで連なっているのか、読み解いている方が、驚かされるくらいですが、もとの和歌は、次回「みたびの万葉集」でお送りする予定ですので、お楽しみに……って何周する気?

住吉(すみのゑ)の
  得名津(えなつ)に立ちて 見渡せば
    武庫(むこ)の泊(とま)りゆ 出づる船人(ふなびと)
          高市黒人(たけちのくろひと) 万葉集3巻283

住吉(すみよし)の
  得名津(えなつ)に立って 見渡せば
    武庫の港から 出航する舟人が見える

 さて「古人」と名乗って、後世の研究者を困らせたのではないかと、疑惑のわき起こっている高市黒人の登場です。大阪市住吉区といえば今は内地ですが、当時は湾岸沿いに位置しました。あるいは「得名津」も海岸線上の港の名称かも知れませんが、その住吉の得名津から大阪湾を眺めると、遥か彼方に、武庫の港を出港する船が見えた。それだけの短歌には違いありません。

 それでは何が優れているかというと、それはもう、こちらの港から、湾の彼方の港を見渡すというスケールの大きさと、その彼方の港から、出航する船が見えるという、豆粒のような小さな描写の対比。その着想を、うまくまとめた手際にあると言えるでしょう。

 試しに、これまで何度か試みたように、この短歌を、どこか動かそうとしてみても、なかなか動きません。冒頭の「住吉の得名津に立ちて」ですら、一句にまとめても、効果的な表現は浮かばない。かえって蛇足を加えるようなことになってしまいかねません。つまりこの詩は、優れた表現ではなく、ありきたりの表現ではありますが、同時に無駄がなく、動かせない状態にある。そうしてありきたりの表現のうちに、すぐれた着想を十二分に描き出している。それでこそ二周目です。

 ところで、小学館の『万葉集』の解説に、二つの地点の距離が[18km]は離れているが、古代人の視力ならあるいは可能かと、面白いことが記されていました。あるいは高市黒人は、史上初の、視力検査の短歌を詠んだのかも知れませんね。そう思うとまた、彼に愛着が湧いてくるから不思議です。(くだらない話ですが、講談社の『万葉集』では16kmにされていました。2kmの違いは、少なくはありませんね。)

岩が根の
   こゞしき山を 越えかねて
 音には泣くとも 色に出でめやも
          長屋王(ながやのおおきみ) 万葉集3巻301

巨大な岩の険しくそびえる山を
  越えることが出来ないで
    声を放って泣いたとしても
  心情を表に出したりはしない

 ジャケットを借りる宛てが無いはずの長屋王ですが、これとペアになっている短歌では妻のことを詠んでいますから、おそらくこの和歌の「色に出でめやも」というのも、これからの旅路において、「妻や故郷を思う心情を、おもてに出したりはしない」という意志表明かもしれません。

 冒頭の描写は、人ならざる山を、岩をよじ登って越えているような、たくましいイメージに溢れています。これからの旅路で、そのような険しい山との争いに敗れ、越えられなくて泣くことがあるとしても。と続けますが、ここまで壮大ですと、声を放って泣くことがちっとも情けないことではなく、負けて地面を踏みつけるのさえ、雄々しい響きになりますから、ジャケットの時とは違って、長屋王が急に逞(たくま)しく思えてきます。

 その上で、泣いたとしても、「妻や故郷のことを表に出して、旅を断念したりはしないぞ」という旅立ちの決意表明を行なっていますから、何かどうしても成し遂げなければならない、男の仕事があって、出立するような印象が籠もります。

 それと同時に、「巨大岩のそびえ立つ山を越えられない」ような状況と比べて、泣くか泣かないかを推し量らなければならないほど、実は「妻や故郷の事を表に出して」泣きたくなる気持ちというものは、巨大なものであると白状していることにもなりますから、ようするに心情の振り子の幅が、スケールの大きなものになっている。それがこの短歌の、魅力かと思われます。
 あるいは、ごっつう悪い四兄弟に殺されなければ、
  彼の和歌も、もっと『万葉集』に収められていたのでしょうか。
 なんだかちょっと、無念な気がいたします。

常磐(ときは)なす/なる
  石屋(いはや)は今も ありけれど
    住みける人そ 常なかりける
          博通法師(はくつうほうし) 万葉集3巻308

風化することのない岩屋は
 今もそのままにあるが
  そこに住んでいた人は
   不変では居られなかったようだ

 さて、この短歌は、博通(はくつう)という詳細不明の法師が、おそらく和歌山県美浜町三尾(みはまちょうみお)の海岸にある「久米の岩屋(くめのいわや)」がそれに当たるのではないか、とされる「三穂の岩屋(みほのいわや)」を詠んだ、三首の和歌の一首です。この岩屋は「久米の若子(くめのわくご)」が居たという伝説の岩屋なのですが、その伝説すら、今日となっては詳細が不明であるという。つまりは不明づくしの短歌になっています。このような事例は、『万葉集』の短歌にはよくある事なので、へこたれてはいけません。

 さて「常磐(ときわ)」とあると、今日ならすぐに永遠の意味に捉えがちですが、もともとの意味は「トコイワ」で、常に変わらない石のイメージから、永遠を導き出した言葉です。三穂の岩屋を訪れてみると、かつては「久米の若子」が此処に住んで活躍した、神話の時代もあったのでしょうか、今はなんの面影もなく、岩屋だけが殺風景な姿をさらしていた。

 三句目の「ありけれど」が、すこし弱いといえば弱い、動くといえば、動くのですが、永続的な自然と移り変る人間を対置させ、岩屋を住居に住人を配置した、舞台設定は見事です。そこに見所があるかと思われます。これを例えば、

常磐なす
  石屋に生ふる 一つ松
    住みける人そ 常なかりける

などと始めると、確かに動くことは動きますし、いろいろ変化を付けられるものですから、ちょっと短歌も慣れてくると、さまざまな表現を試したくなってきます。もちろんそのような試行錯誤のうちに、成長していくのですから、それはそれで、大いに結構なのですが……

 その作品の完成度という事について考えると、往々にしてはじめは存在したはずの、もっとも大切なもの。心情に結びついた着想のアウトラインが、いびつになって、言葉遊びに陥ってしまう場合も多いのです。この例などは、三句目に新たな構想を持ち込んで、意味は立派になったようにも見えますが、
     「岩屋は今もあるが、住む人は不変ではいられない」
という、語りによって生かされていた、素直な感慨が、単なる思考的なものへと、置き換えられてしまいました。。

 なるほど、よりよい表現を目指すということは必要ですが、
  もっとも大切なことは、言葉と着想の装飾をまとう事ではなく、
   優れた心を損なわないように、(あるいはさらに生かすように、)
    内面からにじみ出た表情を変えることによって、
   姿をいたすことなのかもしれません。
  長歌にまいりましょうか。

     「山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)、
    伊予(いよ)の温泉(ゆ)に至りて作る歌一首 併せて短歌」
すめろきの 神のみことの 敷(し)きいます 国のこと/”\ 湯(ゆ)はしも さはにあれども 島山(しまやま)の よろしき国と こゞしかも 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしゝ み湯(ゆ)のうへの 木郡(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継(つ)ぎにけり 鳴く鳥の 声も変はらず 遠き代(よ)に 神(かむ)さびゆかむ 幸(いでま)しどころ/ところ
          山部赤人 万葉集3巻322

帝(みかど)らは 神の命(めい)にて 治めます 国それぞれに 温泉は 幾つもあるが 「島も山も すてきな国」と 険しげな 伊予の峰々 射狭庭(いざには)の 岡に立たれて 歌を詠み 言(こと)を練られた 湯の上の 木立を見れば オミの木も また茂ります 鳴く鳥の 声も変わらず 未来へと 神々(こうごう)しくも 伝えようこの地

 赤人の「伊予の温泉」の長歌は、「五七」を一つのまとまりに、破格もなく明快に進み、比較的短いものですから、おそらくは皆さまも、あまり困るところはなく、また様式に惑わされることもなく、すらすらと読めるかと思います。辛い時には、わたしが性懲りもなく、現代版の長歌を置いておきましたから、大意をつかみ取ってくだされば、はじめの読解としては十分かと思われます。

 いくつか言葉を説明しておけば、伊予の湯というのは、有名な松山の道後温泉の事で、「射狭庭(いざには)の岡」というのも地名です。「臣(おみ)の木」は有力説はありますが、不明な点もあるので、ここでは放置。全体は、かつて天皇(みかど)が温泉に入られながら、歌を詠まれたこの地は、今もこれからも変わらない。あなたの来られたことを、未来へと伝えましょう。といった内容になるかと思います。

  こうして見ていくと、
 古語はともかく、詩型自体は、それほど難しいものでもなさそうです。よろしかったら短歌の息抜きに、時々は旋頭歌や、長歌も試みてみてはいかがでしょうか。もちろん五七五でもよいのです。なるべく、一つの形式に凝り固まらないようにしてください。『万葉集』の頃でさえ、幾つもの詩型があるというのに、二十一世紀にもなって、じっと同じ詩型に閉じこもるなんて、引きこもりの蟻もいいところです。
 ちょっと口が滑りました。
  オリーブオイルの使いすぎです。
   赤人の反歌を眺めましょう。

     「反歌」
もゝしきの 大宮人(おゝみやひと)の
  熟田津(にきたつ)に 船乗りしけむ
    年の知らなく
          山部赤人 万葉集3巻323

(ももしきの) 大宮人が
   熟田津から 船出をしたという
     年は私には分からない

 もちろんこれは、
   額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ有名な短歌、

熟田津に
  船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
          額田王 万葉集1巻8

にもとずいています。
 実は熟田津という地名は、完全には場所が解明されていないのですが、愛媛県の松山市のどこかであろうとされていて、つまりは道後温泉の近くですから、赤人もまた、ここから船出したのは何時だろうと回想している。すると長歌で、天皇が歌を詠まれていたというのは、おそらく斉明天皇(さいめいてんのう)の事で、長歌が温泉での滞在を詠み、短歌がここからの出発の歌を回想して、全体としてそれらがあったのは、何時のことであろうか、とまとめている訳です。

 短歌について加えるなら、
「船を漕ぎ出したのはいつの日か」とは詠まずに、(「船乗りしけむ」の「けむ」は過去の伝聞ですから、)「船乗りしたと聞いたことはあるが、その年は分からない」と表現している点がユニークです。
 もちろん、それほど昔である、と伝えているには違いないのですが、ただ単に詠み手がおろそかで知らないのか、もう古いことだから、月日には拘泥しないのか、それとも伝説の時代であることを強調したかったのか、なにか完全には説明されきっていないような、含みのようなものが、余韻となって残される。

 もちろん、ちょっと卑怯な方針といえば、卑怯な方針かも知れませんが、うまいはぐらかし方というのは、はぐらかされた方もうれしくなるものです。全体としては、何でもない無骨なくらいの表現に、わずかな巧みがにじみ出て来る。だからこそ、山部赤人だと云えるかも知れません。

 折角ですから、
  長歌をひとつやってみますか。
   うまい下手、出来る出来ないではなく、
  試して見れば、それだけで、
 どのような詩型から分かります。
  それだけでも、十二分の収穫なのですから。

 やり方自体は、簡単です。[五七]をしばらく続けて、[五七七]で締めくくりです。何でしたら、散文で長い日記を記して、それをもとに様式化してみると、すんなりいくかも知れません。もちろんチャレンジャーは、いきなりはじめて見ても良いでしょう。反歌としての短歌は、それはあっても無くても自由です。長い詩になりますから、初めに題名や、詞書きを加えておくとよいでしょう。それではどうぞ。


     「アリネシヤの唄」
アリネシヤ 君の生まれた 風誘う 水の惑星 はじめての 雨の夕べに 触れてみた 花のかおりに おどろいて 君はほほえむ アリネシヤ あなたの胸に ぶらさげた そのペンダント ふるさとの 星のかけらを かなしみの 遠き夜空を 想い出す ことは無くても アリネシヤ お前の親の ふるさとの 星のかけらを なくさずに 生きてください それだけが お前の親の 形見なのだから
          即興唄 時乃旅人

 それで、彼女は誰と尋ねられても、
  即興ですから、答えようがないというオチです。

     『酒を褒める歌十三首のうち一首』
世の中の
  遊びの道に 楽しきは
    酔ひ泣きするに
  あるべかるらし
          大伴旅人 万葉集3巻347

世の中の 遊びの道でも
  もっとも楽しいものと云ったら
    酔って泣くことにこそ
  あるものらしいよ

 さて大伴旅人が大宰帥(だざいのそち/そつ)として赴任したのは、六十歳を過ぎてからであり、当地で妻を亡くしてもいますから、左遷の悲しみになどと、安易に説明されることもありますが、一方では、壬申の乱でも活躍したとされる、父親の大伴安麻呂が大宰帥に就任したのも晩年になってからですし、どちらも共に大納言になっていますから、その人事を左遷だと嘆いたかかどうだか、簡単には結論は出せません。

 もっとも父親の方は、大納言になってから大宰帥を兼ねる形になっていますから、任地には赴かなかった可能性が高そうですが、旅人の場合は赴任した後に大納言になって、都に戻されてからは大納言との兼任という人事になっている。あるいは「赴任後はお前の父の例もあることだし」くらい、口頭で約束があったかもしれませんし、防人(さきもり)の徴兵などを見ても、建設当時の重要性を、おそらくは保っていたであろう大宰府への赴任を、武門の家柄である大伴旅人が、(みやこを離れる人は、例外なく悲壮感に耽りますが、その一般的事象以上に、)悲観したかどうかは、万葉集の和歌を取り出して、安易には求めない方が好いかもしれません……

 そんなことより、
  もっと酒の歌を、楽しもうではありませんか。
   あるいはその方が、彼の思いにかなうものかも知れませんから。
  ところで……

     『新編日本古典文学全集「万葉集一」(小学館)』
世の中の
  遊びの道に かなへるは
    酔(ゑ)ひ泣(な)きするに
  あるべかるらし
          大伴旅人 万葉集3巻347

     『万葉集 全注釈付(二)(講談社文庫)』
世のなかの
  遊(みや)びの道に すすしくは
    酔泣(ゑひなき)するに
  あるべくあるらし
          大伴旅人 万葉集3巻347

 はじめに紹介したものは「角川ソフィア出版」の『万葉集上』ですが、この短歌、知られたものである割には、特に三句目が定まっていないという問題があります。もっとも校注の資料となる原文は、もっぱら「冷者」と漢字で表記され、「すずしきは」あるいは「すずしくは」と読むべきものなのですが、(自分たちの感性に添わないせいもあるでしょうか、)他資料などと重ね合わせて、様々な判断がなされているようです。

「講談社文庫」のものだけは、ちょっと意味が分かりづらいかと思いますが、これは「世間一般の雅の道に進むよりは」といった上の句になるようです。しかし、私たちは研究者ではありませんから、むしろみずからの心に叶うものを、みずからの短歌として、採用してくださっても好いかと思います。
 ただし、もし純粋に閉ざされた短歌の価値、
  ということを考えた場合はどうでしょうか。

 まず(講談社文庫)の「すすしくは」ですと、「進んでいく」ような意味になりますから、上の句は「普通の雅の道に奔走するよりは」となりますから、ちょっと説明がちではありますが、同時に格言めいた格調のあるような表現になるかと思われます。

(小学館)の「かなへるは」は、もっとも無難な選択肢で、上の句と下の句を自然につなぐ表現です。この短歌が凝った表現を求めずに、比較的平坦に詠われたに過ぎないとするならば、これでよいかと思われます。その代り、他の解のように、いくらでも魅力的な言葉を当てはめることが可能ですから、つまりは「動きやすい」表現には過ぎません。後は大伴旅人が、「かなへるは」くらいの表現で満足したかどうかの問題になるかと思います。

 「たのしきは」ですと、
 心から酔い泣きを楽しみましょうよ。といって宴を讃えるような感じになります。あるいは、「酔ひ泣き」を本来の意味と云うより、「酔って泣いたり笑ったり話したりすること」を代表した言葉くらいに、捉えた方がふさわしいかも知れません。ただ「世の中に楽しいことは」くらいが、普通であるところを、「世の中の遊びの道で楽しいものは」という表現には、凝ったところがあり、十分に魅力を有します。しかも「たのしきは」に表明される情緒としては、これ以上動かしても、かえって損なわれる。つまりは完成された短歌になっています。
 ですから、この解を好む人が多いのも、
  自然の成り行きかと思われます。
   そして、「すずしきは」の場合。

     『「万葉秀歌(二)」久松潜一(講談社学術文庫)』
世の中の
  遊びの道に 冷(すゞ)しきは
    酔ひ泣きするに
  あるべかるらし
          大伴旅人 万葉集3巻347

  これだと、katharsis の心境でしょうか。
 まさに「酔って泣く」ことによって得られる心境を表明したもので、「すずしきは」は「清らかである」「さわやかである」といった意味になりますから、
     「もっとも心を清らかにさせるものは」
のようなイメージになるでしょうか。ほとんど通常の「遊びの道」から外れた、「遊びの道」の北限のような様相を呈してきます。

 また、「楽しきは」と言って「あるべかるらし」とまとめると、すでに楽しいのに、「楽しいのは酔い泣きすることにあるようだね」と、わざととぼけたような結句になりますから、さあ飲もうよという風情が湧いてきますから、それはそれで完成されています。一方で、「すずしきは」と言って「あるべかるらし」とまとめると、今まさに「酔い泣き」をしながら、「ああ心が清らかにされるのは、酔い泣きすることにあったのか」と、はじめてそのことを知ったような印象になるでしょうか。やはり効果的な閉ざし方です。

 正当性は脇に置いて、純粋にポケットにしまう短歌としての価値を述べるなら、「楽しきは」なら大勢で宴会でも開く時にすばらしい短歌になりますし、「冷しきは」なら、一人、あるいは少数で、しみじみと語り泣きをするような短歌として、やはり魅力的なものになっているのではないでしょうか。それに対して、「すすしき」は情緒的な面白みよりも、格言めいた風格が増さりますから、酒宴のスピーチでもするときには、効果的な表現かも知れませんし、「かなへるは」には切れはありませんが、日常語に近い、軽い表現としての面白みは籠もります。

 ただもし「冷しきは」と置いたなら、相当のファインプレーで、わたしもここでは取り上げず、もっと後になってから、解説を加えることになったかと思います。何分「楽しきは」かと思い込んで採用したものですから、また解説が長引くような、不始末をさらすこととなりました。

 ところで、以上のように、言葉が変わると、短歌そのもののニュアンスが変わってしまい、また違った魅力が湧いてくるものですから、なかなか今の感覚にもとずいて、正当性を確かめる事などは出来ません。そこでこのような事は、やはり専門家に任せておくのが、一番よろしいような気がします。むしろ皆さまは、一つの表現の違いによって、印象が大きく変わってしまうという、そのこと自体を、ここから学び取っていただけたら、無駄に落書きを長引かせた甲斐も、あるいはあるかと思うわけです。はい。

おほなむぢ/おほなむち
   すくなびこなの いましけむ
  志都(しつ)の石屋(いはや)は 幾代(いくよ)経ぬらむ/経にけむ
          生石村主真人(おいしのすぐりまひと) 万葉集3巻355

オオナムジ スクナビコナの神が いらっしゃった
   この志都の岩屋は いったいどれくらい
 果てしない時を 過ごしてきただろう

「おほなむち」というのは「大国主(おおくにぬし)」の別名です。大国主は、簡単に言えば天皇たちの時代の前の、大和(やまと)を治め整えた神で、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗ってやってきた、「少彦名(すくなびこな)」の神を、まるで補佐官にでもして、その協力のもとに、大和の近代化(といっても古代におけるですが)を推し進めていった神さまです。やがて彼の時代は終わり、出雲大社に祭られることを条件に、天皇の系譜に、国を譲ったとされています。
 「志都の石屋」というのは、島根県大田市にいくつか候補があるようですが、そこに二人が居たという伝説があり、それを回想して詠まれたものです。

 短歌の内容は、二人の神のいた岩屋は、どれくらい年月が流れたろう。というだけのもので、一周目で眺めた、語りかけるような、日記に記すような表現そのままです。二周目は、もっぱらそれ以上のものという視点で、話を進めて来ましたが、当然ながら「語りかける」だけでも、率直に表現するだけでも、十分に詩情を全うするばかりか、存在意義を持つ短歌というものも沢山ある訳で……

 特にこのように、神の名称を二つも提示し、伝説への回想を明確にしているような場合は、ちょっとした思いを委ねるだけで、こだわりの表現になりやすいものです。逆に、余計なレトリックを加えると、素朴な表現でこそ神々を敬うような心情を、貶める結果にもなりかねません。

 ですからこの短歌は、
  これで必要十分であり、
   捨てがたい魅力を備えた、
  詩になっていると言えるでしょう。

家思(いへおも)ふと こゝろ進むな
   風(かざ/かぜ)まもり 好くしていませ
     荒しその道
          筑紫の娘子(むすめ)児島(こじま) 万葉集3巻381

家を恋しがって
   慌ててはなりません
 風向きが 好くなってからになさい
    荒々しい海路ですから

 筑紫の娘子児島(つくしのむすめこじま)という肩書きの和歌は、大伴旅人が大宰府からみやこへ戻る時に詠まれたものが、他にありますから、あるいはこの和歌も、明記されていませんが、同じ時に詠まれたものかも知れません。万葉集の和歌を紐解くと、一週目で見た「遣新羅使」の和歌もそうでしたが、大阪湾から瀬戸内海にかけてを詠んだものが非常に多い。それは瀬戸内海が、重要な海路になっていたからですが、「遣新羅使」が風にあおられて遭難しかけたように、潮の干満(かんまん)によるはげしい海流、灘(なだ)と呼ばれる危険海域、決して穏やかな海路ではありませんでした。それで、せめても、出航の際くらいは、風が良い日を撰んで出航なさってください。そんな短歌になっています。

 何も考えずに、のびのび記せば、
  「荒い海ですから、家を恋しがってあせったりせず、
     風の良いときに出航なさい」
くらいになるでしょうか。
  これを倒置し、かつ文脈を三つに区切り、
     「家を恋しがってあわてないでください」
     「風の好いときに出航なさい」
     「荒い海路ですよ」
と三回言い直すことにより、例えるなら遠足前のお母さんが、あれこれと心配して、「~は持った」「~は大丈夫」「~は忘れてないの」など繰り返すのと同じように、つい心配せずにはいられない、去りゆく人への心情を、うまく表現している。
 さりげなくも、魅力がこもります。

比喩歌

 比喩歌ですから、
  全体が何かを例えています。
   なんだか、そろそろ書き加えるのが面倒です。

     『月の歌一首』
見えずとも 誰恋ひざらめ/ずあらめ
   山の端(は)に/末(ま)に いさよふ月を
  よそに見てしか
          満誓沙弥(まんぜいしゃみ) 万葉集3巻393

見えなくても いったい誰が
   恋しいと 思わないことがあるだろう
 山の端から ためらうように昇ろうとする月を
     遠くからでも見たいものだ

 満誓沙弥(まんぜいしゃみ)というのは、木曽路を開通させた男としても知られる笠麻呂(かさのまろ)[笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)]の、出家後の名称です。出家後、観世音寺(かんぜおんじ)(福岡県太宰府市)に僧として赴任中、大伴旅人と知り合い、例の筑紫歌壇の一員となった。するといつもの流れで、大伴家持の編纂したとされる、『万葉集』のなかに、和歌を残すことにもなる訳で、どこまでいっても、大伴一味の活躍が目立ちます。

 ちなみに、鴨長明の『方丈記』にも登場し、
「もし、あとの白波(しらなみ)に、
   この身を寄(よ)する朝(あした)には、
     岡屋(をかのや)にゆきかふ船をながめて、
   満沙弥(まんしやみ)が風情(ふぜい)をぬすみ」
と歌われています。
 ちょっとマメ知識。

 歌は、冒頭で「見えなくても恋しないことがあろうか」と言っているのは、反語になっていて、誰もが待ちわびる思いを強調しています。「いさよう月」は「たゆたう」しばらく躊躇する意味で、この歌はまるで、満月を過ぎた翌日の月を、なぜ「十六夜(いざよい)」と呼ぶのか、その名前の由来譚(ゆらいたん)のように感じられて、ちょっと面白いくらい。

 「山から躊躇している月であれば、
  躊躇してるからこそ、誰もがなおさら慕うだろう」
くらいの着想に過ぎませんが、反語にして冒頭で大げさに言ったところが、第三者の反応を意識しているようです。それがなぜかと問われれば、この短歌が比喩歌であるから、つまりちょっと恥じらって、出てきそうで出てこないような女性を、チラリズムの勝利ではありませんが、喩えたものだからに他なりません。

 そのために、一人でしんみりと月を待つような風情よりも、「なあ、お前たちもそう思うだろ」と、ちょっと第三者を意識したような、同意を求めるような口調になっているのです。しかも最後に「よそに見てしか」なんて、近づけない女性であることを付け加えていますから、なおさら男性諸君も、うんうんと同意してくれるという仕組みです。

 ただ同時に、夕べよりわずかに遅れた月を、眺めるような叙情性も感じられ、単なるユーモアに終わっていないのは、先ほど「遠くから眺めている」と解釈した結句が、同時に三句と四句にとっては、遠景に眺めるような効果となって、情景を豊かにしているからに他なりません。このように、優れた詩というものは、幾つもの解釈を受け入れるような、表現の幅を宿しているものなのです。

     『坂上家の大嬢(おおいつらめ)に贈る歌一首』
なでしこが/の その花にもが
  朝(あさ)な朝(さ)な 手に取り持ちて
    恋ひぬ日なけむ
          大伴家持 万葉集3巻408

ナデシコの 花であればよいのに
  朝が来るたびに 手にとっては触れて
    愛(いと)しまない日はないでしょうに

 「なでしこ」は、おそらく今日「カワラナデシコ(ヤマトナデシコ)」と言われるもの。おそらくまだ結婚する前に、大伴家持が坂上大嬢に贈った短歌で、呼びかけこそしてはいませんが、ナデシコの花であったらなあと言っていますから、暗示した「比喩歌」というよりは、普通の「相聞」に近いくらいです。

   「ナデシコの花であってくれたら、
     毎日手に持って恋しいと思うよ」
という、分かりやすい発想ですが、二句目の願望の「もが」で、一度文章を切ることによって、もう一度三句目から語りかける間に、恋人を回想するようなため息が込められているに見せているあたり、句切れの効果を熟知した詠み手ならではの、詠み方になっています。あるいは、一度言葉を留めて、相手の反応をうかがい、恋人の瞳に輝きが宿った瞬間を見計らって、改めてその願望について、三句目から理由を説明して聞かせるような、恋人への語りかけの、憎たらしいテクニックを用いているようにも思われます。

挽歌

 せっかくの挽歌ですから、
  柿本人麻呂から紹介しましょう。

     『土形娘子(ひじかたのおとめ)を泊瀬(はつせ)の山に火葬(ひはぶ)る時に』
こもりくの
   泊瀬(はつせ)の山の 山の間に
 いさよう雲は 妹にかもあらむ
          柿本人麻呂 万葉集3巻428

(こもりくの) 泊瀬の山の
   山の合間に ただよっている雲は
     あの娘子(おとめ)なのかもしれない

 さて短歌だけでは分かりにくいですが、
  ちゃんと詞書(ことばがき)で、説明が加えられています。
 注目すべきは、「火葬(ひはぶ)る時」と記されている点で、日本では王族たちの古墳はもとより、庶民に至るまで、焼かずに埋める土葬(どそう)が当たり前だったのですが、この頃始めて、火葬が行われるようになったからです。

  その始まりは、
 遣唐使の一員として唐に渡り、「西遊記」の三蔵法師のもとにもなった、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(602-664)から教えを受けた道昭(どうしょう)(629-700)という僧が、亡くなった時に火葬されたものであると、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に掲載されていますが、さらに持統天皇(645-703)が亡くなるに際して、火葬を行わせたことが、火葬を定着させたと考えられています。それで、奈良県桜井市の泊瀬山は、火葬の葬儀を行う場所となっていた。そこでこの短歌が詠まれるわけです。

  それで内容は理解できるかと思います。
 山間をただよっている雲というのは、火葬の際に立ち上った煙の譬えで、それが逡巡しているのは、彼女の霊魂(たましい)がまだ未練を残しているのだろうか、くらいの解釈になるかと思います。あるいは公的に、和歌を求められて詠んだものかも知れませんが、詳細は分かりません。

     『長屋王(ながやのおおきみ)が死を賜(たまわ)った後に』
大君の みこと畏み
   大殯(おほあらき)の 時にはあらねど
      雲隠(くもが)ります
          倉橋部女王(くらはしべのおおきみ) 万葉集3巻441

天皇の、恐れ多い詔(みことのり)により
  大殯にされるべき時ではないのに
    お亡くなりになられたあなたよ

 これは、藤原四兄弟こと藤原宇合(うまかい)らに屋敷を囲まれて、自害に追い込まれた長屋王(ながやおう)が、亡くなられた後に詠まれた挽歌です。「大君のみこと畏み」というのは、「恐れ多い天皇のご命令により」くらいの意味を表明する、よく使用される常套句で、「大殯(おおあらき)」というのは、当時の有力者の葬儀は「もがり」といって、遺体を長期にわたって仮の安置所に入れて、その後、正式に土に埋めるものでしたから、その期間としての「もがり」のことを指しています。

 それで裏を読めば、あなたは本来なら「大殯」を許される人であったものを、謀反人にされて、「大殯」も許されない状態で亡くなられた。すると短歌の内容は、「大君の誤った詔(みことのり)[天皇の命令]により亡くなった」と言い含んでいるようにも取れますから、明確な証拠もないまま讒言(ざんげん)で殺された長屋王の事を考えると、この詠み手自身にも危害が及ぶような、きわどい辺りを詠んでいるようにも受け取れます。

 この詠み手の詳細は不明ですが、まるで生命を懸けるようにして、和歌を詠んでいた歌人たちがいた。そんな英雄の時代だったと考えると、なんだかポテチでも摘みながら、のほほんと詩などを詠んでいる、わたしたちの落書などが、だらしなく、甘ったれたものになりがちなのも、なるほど、仕方のないことなのかも知れませんね。

 ところで、そのごっつう悪い奴ら……かどうかは知りませんが、藤原四兄弟、みやこで猛威をふるった天然痘によって、天平九年(737年)、全員が同じ年に亡くなってしまいました。長屋王の祟りだと騒がれたのは、言うまでもありません。

かくのみに ありけるものを
   妹も我(あれ/あれ)も 千歳(ちとせ)のごとく 頼みたりけり
          大伴家持 万葉集3巻470

このようなことに なってしまうとは知らず
  あの人もわたしも 千年でもいられるものと
    うたがいもしなかったなんて

 これは家持が、亡くなった妾(をみなめ)[正妻以外の妻、妻でない愛人という意味では無い]のために詠んだ短歌です。失った彼女を慕う和歌が、幾つも残されている為に、大嬢より前の正妻で、後に大嬢が正妻となったために、「妾」と記されたのではないかとも考えられますが、詳細は不明です。冒頭の二句は、誰かが亡くなった時の、驚きを表明する婉曲表現(えんきょくひょうげん)として、しばしば使用された慣用句で、例えば、
     「まさか、こんなことになってしまうなどとは」
のような葬儀の挨拶の、ルーツではないかとも思われますが、
 下の句まで、そのはぐらかした表現を継承しつつ、
     「妻もわたしもいつまでもあるものと思っておりました」
と述べきったような感じです。

 このような表現は、今日では社交辞令的に貶められてしまいましたが、もともとは遺族を気遣うというよりも、その相手が死んだということを、直接表明して受け入れたら、本当にその相手は、死んでしまうことになるのだという、原始的な恐れのようなものから、生み出されているように思われます。ですから家持の表現が、最後まで婉曲表現のままなのは、最愛の人の死を未だ受け入れられない、自らの心情を、表明しているのだと受け取ることが出来るのではないでしょうか。込められているものは真心です。

巻第四

 巻第三で説明したとおり、全部「相聞」になっています。前半は、「巻第一」「巻第二」と同じくらいの年代のもので、比較的状況が正確でないものを集めたようにも見えますが、次第に大伴家にスペースを奪われ、後半はなんだか大伴家持の恋の記録のようになっている。ちょっとユニークな巻です。

大原の
  このいつ柴(しば)の/いち柴原(しばはら)の いつしかと
    我(あ)が思ふ妹に
  今夜(こよひ)逢へるかも
          志貴皇子 万葉集4巻513

大原のこの繁れる「いつ柴」の、「いつ」かきっと
   そう思っていたあなたに
      今宵ようやく逢えました

 はじめの二句は「いつ」にゴロ合せるための序詞に過ぎないはずですが、柴(低木の雑木)が勢いよく茂る「いつしば」と、しきりに思っている内容である「いつしか」が、意味まで調和しているような錯覚にとらわれ、不思議と融和します。
 もう少し述べるなら、語呂合わせにしても、共に四文字で三文字まで一緒(あるいは「いちしば」と詠ませる場合もありますが、その場合は近似値)、最後の文字が共に「a」の母音ですから、意味の違いよりも、ゴロの類似の方が、勝る傾向にある。さらに、伸びる方に勢力がある言葉と、思う方に勢力が勝る言葉ですので、聞いていると、ゴロ遊びに釣られて、冷静に考えたときほどは、離れて聞こえないようです。
 そうしてこの短歌の魅力は、結ばれているような、結ばれていないような、語呂の良い序詞で「いつしか」を導き出しところに尽きるのではないでしょうか。

 ところで、作者の志貴皇子(しきのみこ)(?-716)は、天武天皇の息子ではありません。天武天皇の兄貴の天智天皇の息子で、動乱の渦に巻き込まれることなく、いくつかの印象深い和歌を残した人物として、もっぱら名を残しているような、『万葉集』の愛されキャラ(?)の一人です。もっとも知られているのは、「巻第八」の巻頭を飾る、

石走(いはばし)る
  垂水(たるみ)のうへの さわらびの
    萌(も)え出づる春に なりにけるかも
          志貴皇子 万葉集8巻1418

岩に跳ね散る
  滝水のほとりの わらびの芽が
    吹き出して春が ついに来ました

かと思われます。数は少ないのですが、印象的な和歌ばかりなのが特徴で、あるいは、この世から消えて亡くなってしまった、あまたの名歌の存在がうかがわれます。

ひさかたの 雨も降らぬか
  雨(あま)つゝみ 君にたぐひて
 この日暮らさむ
          (あるいは大伴家持) 万葉集4巻520

(ひさかたの) 雨でも降らないかな
   雨に引きこもって あなたのそばで
     今日を過ごしたいから

 大伴坂上郎女が、雨が降ると家に籠もってしまうあなたは、昨日、つい雨の中をやって来て、懲りたのではありませんか。という短歌を詠んだものに、贈られた相手とは別の人が、後から答えた和歌という趣向です。「どうせまた大伴家持のしわざよ」と、主婦たちの間では、もっぱらのうわさになっています。(あくまでもうわさです。)

  「雨つつみ」
 というちょっと使ってみたいような響きの言葉は、「雨障(あまさわり)」と同じで、雨のために外出せずにいることです。「たぐひて」というのは「寄り添って」。もう恋人が家に来ているという状況で女性の和歌として、雨さえ降れば、ずっと一緒にいられると詠んで見せたに過ぎません。

いますぐに 雨よ降ってよ。
   あまやどり。
  あなたの横に ずっといたいな。

としたら分かりやすいでしょうか。三句目の「あまやどり」、つまり元の歌の「あまつつみ」は、上下の文脈、もどちらにも付けられますが、句点で区切っても差し支えない、半ば独立した表現になっています。そのため、通常の文章の真ん中に、()付きで加えられた、挿入句のような印象が籠もり、三句目が余韻のように心に残ります。
 このような構造による、豊かな心情の表明は、
  きっと、大伴家持に違いないと……
   あくまでもうわさです。はい。

 それで、内容としては、坂上郎女の和歌に対して、雨の降る前の、彼女の思いに寄り添いながら、同時に、あなたが「ひさかたの雨も降らぬか」と祈って、雨なんか降らせるから、かえって相手の男性に、「もうこりごり」と思わせるようなことになったんですよ。とやさしくからかっている。
 と見ることも出来るかも知れませんね。

 ではチャンスですから、この和歌の「雨つつみ」の、挿入句の効果がどのようなものであるか、皆さまもノートを取り出して、さっそく短歌を詠んでみましょう。初心者のためのコツは、まず、三句目に詠みたい内容のテーマを置いてしまいます。それを取り出して、
     「水遊び」⇒「夏があまり暑いので、服を濡らして遊びます」
のように、残りの四句の着想を描きます、
 この際、前半と後半を、
     「今年の夏は暑い」
     「ずぶ濡れになって遊ぶ」
と、「雨つつみ」の短歌のように、
 文脈を閉ざすようにすると、
  分かりやすいかも知れません。

この夏の 焼け付く暑さ
  水遊び ずぶ濡れになって 遊ぶ子どもら

 またちょっといたずらをして、
     「かき氷」⇒「夏があまり暑いので、服を濡らして遊びます」
などの、類想(るいそう)に委ねると、

この夏の 焼け付く暑さ
  かき氷 ずぶ濡れになって 遊ぶ子どもら

 ちょっとユニークな、
  表現も目指せるかと思います。
   それではどうぞ。


最高の
  シュートを決めるぜ ロスタイム
    あいつの心を 奪ってみせろや
          いつもの彼方

なでてみる
   あなたのことを ぬいぐるみ
  八つ当たりして ごめんなさいと
          時乃遥

こな雪
  ひときわつのる 七回忌
    閉ざす傘した 白髪の人
          課題歌 時乃旅人

 次は、老境の恋。

事もなく 生き来(こ)しものを
  老いなみに かゝる恋にも
    我(あれ/われ)は逢へるかも
          大伴百代(おおとものももよ) 万葉集4巻559

何事もなく 生きてきたものを
   寄せる老いの波の頃
  このような恋に 逢うことになろうとは

 大伴百代は、大伴旅人と共に大宰府にあり、例の「梅の宴」でも和歌を詠んでいる人物です。巧みな短歌というよりは、心情に勝るものとして、この短歌は価値を持っているかと思われます。冒頭の「事もなく生きて来たものを」という言葉には、これまで無難に生きて来たのにという、うろたえるような思いと、今までを無為に過ごしてしまったような遣り切れなさ。あるいは、今更恋なんてという心情。ようやく恋人に逢えたという期待。それらを、過ぎゆく時の中のあきらめで濁したような、複雑な思いが込められているようです。

 詩情の干からびた枯葉であれば、醜い日常のガサガサしたものをひけらかして、それが終末のまことの表現などと、思い込むような醜態を見せるものです。しかしこの短歌では、次第に迫るような老いを、波に喩えて、「老波(おいなみ)」などと表現するのもユニークですが、それを四句目へつないで、「老の波に掛かる」と伝えながら、「かかる(このような)恋にも」と掛詞を使用して、さりげない修辞をはかり、様式としての品位を保っている。もとより大層なものではありませんが、控えめに織り込まれた修辞と、和歌で伝えたい思いとが、うまく調和しているように思えます。
 もっと分かりやすい表現で言い直すなら、修辞は言葉遊びに陥ってないし、主観的表現は詩情を損なうほど、露骨になってはいない。くらいのところでしょうか。

  ところでこの短歌、
 大伴百代の四つの恋の歌の一つですが、その直後に何の説明もなく、大伴坂上郎女の歌が二首収められ、あるいは大伴百代に対する返答ではないかとされています。それは坂上郎女の一首目が、あまりにも紹介した短歌と親和性が強く、返事としか思えないような和歌になっているからです。有名な歌ですから、ついでに紹介しておきましょう。

黒髪(くろかみ)に
   白髪(しろかみ)まじり 老ゆるまで
 かゝる恋には
    いまだあはなくに
          大伴坂上郎女 万葉集4巻563

黒髪のなかに
   白髪がまじって いつしか老いるまで
 このような恋には 出会ったことはありませんでした

 もっとも二人とも、短歌から受ける印象よりは、おそらくずっと若いはずです。坂上郎女については、まだ四十歳にすらなっていませんから。でも、現在の私たちでも、ちゃんと耳を澄ませている人たちには、四十歳よりも前から、老いの悲しみというものは、心にはっきりと、にじみ出てくるものには違いありません。あまり寿命の差などを引き合いに出して、今の還暦が当時の40歳などと、適当なことをのたまう者どもの、浅はかな精神構造が、心配になるような臨床心理士(りんしょうしんりし)です。
 ところで、黒髪と白髪と言えば、

黒髪の 少しまじりて
  白髪の なびくが上に
    永久(とは)のしづまり
          土屋文明 「青南後集」

「永久のしづまり」なんて表現が、ナチュラルなものかどうかは、横に置くとしても、言葉に対する感受性の乏しくなった年配者が、往々にして、浅はかな知恵をひけらかしたり、自らの時代はなどと説教をする時の、興ざめするほど安っぽい提言に、よく似ています。四句目までを聞かされた人は、イメージとして自然に、ほんの少し黒髪を残して白髪になった老人が、うすうすと風に靡く頭髪を想像します。ほとんど散文の拙い描写にしても、この「上に」が頭の上でなく、空や天上や、あるいは精神世界を表わすとは、聞いている方は受け止められません。イメージとしては髪を歌っているのですから、老人の頭上以外の何物でもありません。

 そこにいきなり、
     「永久(とは)のしづまり」
という結句が提示されるのは、普通の文章としても不自然で、というより言葉が足りませんから、構想として、頭の中でこしらえた感じが濃厚です。それで「はてな?」と腑に落ちないことになってしまう。なぜなら、なびいている髪の毛も動ですし、なびかせている頭上の風もまた動であるにも関わらず、「しずまり」とはどういう事なのか。

 あるいは、その情景でさえも、もはや一枚のスナップであるという意味なのか。四句目までが状況描写で、「永久のしづまり」だけが、取って付けたように、観念的な事なのか。それならなぜ、「髪がなびく上のしずまり」のような、表現の先生から添削されそうな、拙い持って行き方をするのか。あるいは、もはや、散文すらきれいにまとめられなくなった老人の、悟りでも開いたような醜態を、わざと演出して見せたのか。

 など、その表現から自然に導き出される解説ではなく、表現の不十分から来る、詠み手の意図を推し量らなければならないような不愉快が、常につきまとうものですから、なるほど、相手に不快感という情緒を与えるための、ある意味、心を揺さぶるすばらしい詩である。というのなら、それはそれで、結構ですが……

 わたしにはどうして、
  相手を不愉快にさせなければならないのか。
   あるいはそれが、最後に残された、
    自分が自分であるという証ででもあるのか。
   なんだか、ちっとも理解出来ないのでした。
  けれども、皆さまが尋ねればこう答えます。
 品評会とは、このような作品を、
  互いにたたえ合う、奇妙な場所を指すのだと。

韓人(からひと)の
  衣染(ころもそ)むといふ むらさきの
    こゝろに染(し/そ)みて
  思ほゆるかも
          麻田陽春(あさだのやす) 万葉集4巻569

韓の人が 布を染めるというむらさき
  そのむらさき色のように 心に染み渡って
    あなたのことが 思いだされます

 これは大伴旅人が、大納言になって、
  みやこへ立つときの、餞別の和歌です。
 はじめの二句が序詞として、紫根染(しこんぞ)めの「紫」に掛かります。当時の正装は、位階に応じて色が定められていましたから、紫色というのは、大伴旅人の正装の色でもありました。すばらしい色だから高貴な人の色なのか、染めるのが難しいから評価が上がるのか、高貴な人が着るから、すばらしく感じるのか。当時の人の感覚として、紫色というのは、ちょっと特別な色だったようで、この短歌の意味も、あなたのむらさき色に、染められて馴染んでしまいましたから、心に染み渡るような気持ちで、分かれ行くあなたのことが思われてなりません。
 相手を慕うような心情を、
  表明したものではないでしょうか。

 ここでは「紫」であることに必然性が籠もりますから、序詞の内容が詩と絡み合い、表現自体はむしろ簡単なものですが、様式的な詩と心情との調和が、計られているように思われます。表現としては、ありきたりでありながら、すべての言葉が生きていて、動かすべき揺らぎは存在しません。まったく無関係の感慨を、最後に付け加えたばかりに、どのようにでも動かせるような、失態を演じたりはしないものです。

  どうか、皆さまも、
 ファインプレーや、凝った表現を目指すのではなく、まずはすべての表現が、在るべき所に置かれ、効果的に活躍して、それらが心情を豊かに表明するための、装置として機能しているような、それでいながら、さらりと読み流したら、あるとも気がつかないくらいの修辞を、まずは目指して欲しいと思います。

 わたしが今紹介している和歌は、
  ありきたりの表現よりは様式化が果たされ、
   効果的な詩へと研ぎ澄まされたものですが、
  同時に自然な語りかけとしての効果を、
 持ったものばかりですから、
  ぜひ何度も口に出して唱えて見たり、
   あるいは冗談でも構いませんから、
    それを現代語に移し替えて、
   遊んでみるのが上達です。

 ところで(小学館)の解説によると、「韓人(からひと)」とある「韓(から)」は、もともとは朝鮮半島の国々を指した言葉だそうです。それがやがて、「唐(とう・から)」と混同されて使用されるようになったとか。紫に染める技術も、朝鮮半島から渡来したものだそうです。

 次のも同じく、
   大伴旅人が、大宰府を離れるに際しての短歌。
  餞別の宴かなにかでしょうか。

月夜(つくよ)よし
  川の音清し/川音清(かはとさや)けし いざこゝに
    行くも行かぬも 遊びて行かむ
          大伴四綱(おおとものよつな) 万葉集4巻571

月はすばらしい
  川音は清らかだ
    さあここで 行く人も留まる人も
  遊んでから別れましょう

 楽しそうな短歌ですから、放って置いても差し支えないくらいですが、あるいは「いざ」という予備があるとはいえ、「行くも行かぬも(遊びて)行かむ」というのは、言葉のリズム遊びにしても、ちょっと拙いように感じる人もあるかも知れません。おそらく、その見解は正しくて、この短歌は屈託もなく、喜ばしいものですから、傷など気にしなくてもよいくらいですが、傷があるといえば、確かに傷がある。それをなぜ、二周目で取り上げるのだろうか。

 実はそこには、
  『万葉集』は実際はすべて漢字で記されている。
という事が関わってきます。他の和歌でも例があるのですが、実はこの「行」と表わしたのは、現代語訳に直されたものには過ぎなくて、原文を見ますと「行」「去」「帰」と、それぞれ違う漢字を使用している。つまり「表記の遊び」を兼ねているという事になります。「表記の遊び」を兼ねるというのは、もちろん記述の際に加える場合もあるでしょう。これなどは、どちらであるか、判断が付かないくらいですが、短歌によっては、はじめから漢字の遊びを考慮に入れて、つまり「記述」と「詠む」という、二つのことを同時に考えながら、詠まれたものもある訳です。

   語りかけるということが、
  詩にとって大切なものですから、
 万葉集の和歌を、即興で詠むことばかり強調してきましたが、実際はすでに書き記す事によって推敲をおこない、豊かな表現にするような、つまり私たちがするのと同じような方法も、当時はすでに行なわれていました。また口頭で済ませるにしても、使用する和歌をあらかじめ練っておくのが、むしろ普通なくらいで、もちろん一方では、その場で即座に詠む機会も、今では考えられないくらい多かった筈ですが、公の場で詠む場合には、徹底的に推敲を行うのが当然でした。そう考えると、私たちがその場で短歌を口に出せなくても、それほど落ち込むことはないのかも知れませんね。
 ですが、もし、さらりと口に出せたら、
  すてきなことだとは思います。
   いつか、目指してみましょうか。
  けれども今は、ちょっと一休み。
 短歌の落書きでも致しませんか。
  題目は、何もありません。
   ただの一休みですから。


ぶらんこの
  靴投げ遊ぶ 夕暮に
    ふと見た校舎 セピア色して
          時乃旅人

鍋つかみ
  そこね火傷の 特典は
 あなたのやさしさ 家事のおろそか
          時乃遥

 じゃあ、俺様が本文担当だ。
   いよいよ旅人の、都へのご帰還だぜ。
          いつもの彼方

こゝにありて 筑紫(つくし)やいづち
  白雲の たなびく山の
    方(かた)にしあるらし
          大伴旅人 万葉集4巻574

ここからだと 筑紫はどちらだろう
  白雲が たなびいている山の
    かなたにあるだろうか

 こうして大伴旅人は、奈良の都に帰り付きました。
   この短歌は筑紫にいる、沙弥満誓への返信です。
  ところで、この短歌。

こゝにして 家やもいづち
   白雲(しらくも)の たなびく山を
 越えて来にけり
          石上卿(いそのかみきょう) 万葉集3巻287

ここにあって
   ふるさとの家は どちらの方角だろう
  あの白雲の たなびく山を
    越えては来たけれど

 という、「万葉集あるいは短歌の作り方 その二」で眺めた短歌ときわめて似た表現になっています。どちらかが、どちらかを参照したかと思われるくらいですが、石上卿の短歌は、越えて来た山を眺めているのか、家の方角を求めて姿勢を変えているのか、詠み手の視点が定まらないために、「ここにして」という表現が、漠然としていて、聞き手のこころに浮かんで来る情景が、ぼんやりしたものになってしまいます。

 それに対して、旅人卿のものは、筑紫は白雲のたなびく山の方にあるのかと詠んでいますから、みやこに戻ってからの短歌と知らなくても、筑紫の方角にある白雲のたなびく山を眺めながら、さらにその遠方にある筑紫を思っている。詠み手の視点が定まっていますから、どんな情景を浮かべるかは、聞き手それぞれですが、石川卿のものよりは、情景が浮かびやすくなっています。それで、よく似た表現ではありますが、旅人卿のものは「ふたたび」の方で、石川卿のものは「短歌の作り方」の不十分な例として、それぞれ取り上げられることになったという訳です。

ますらをも かく恋けるを
   たわやめの 恋ふるこゝろに
      たぐひあらめやも
          大伴坂上大嬢 万葉集4巻582

ますらおと讃えられる、立派な男でも
  こんなに恋しがってはいますが
    恋する乙女の繊細な心に
  叶いっこありませんわ

 別にうまい短歌という訳ではありません。
  むしろ拙いところが残りますが、
 ただ、この歌は、後の妻となる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ/だいじょう)が、大伴家持の恋歌に対する返信として詠んだ、四首のうちの一首なのですが、大嬢はあるいはまだ十歳くらいではないかというので、十歳の和歌としては、面白みがあるということで、取り上げてみたに過ぎません。

 純客観の判断基準などをほざいてみても、
  これほど短い詩だと、
 どうしても、作られた状況や詠み手のことが、一緒にまとわりついて、作品の評価に絡まってしまうのは避けられません。それでこの短歌も、恋しさを歌う家持の和歌に、答えたものなのですが、だからといって初めから、十歳を意識した現代語訳を、試みた訳ではありません。ただ下の句のトーンが、どうしても「か弱い女の恋の苦しさは」などは感じられず、何度か書き直しているうちに、一番しっくり来たものが、この現代語だったというだけの話で……

 考えて見れば、「ますらおだって、こんなに恋しがるのに」という冒頭の調子からして、比喩としては単純で、「ますらをもかく恋ひけるを」「たわやめの恋ふる心に」という対句(ついく)の「恋ひ」「恋ふ」は、効果的であるというよりは、比較の仕方も単純に過ぎる嫌いがあります。

 それによって、まだ恋愛を十分に理解していない、観念的なとらえ方をするような少女が、習得した対句を、きわめて素直に描いて見せたような、むしろ普段の語りに近いような、軽快さが籠もりますから、それをしっとりとしたものに翻訳したら、この和歌の妙に生き生きとした快活なところが、損なわれてしまうにはちがいありません。

 つまり、わたしには何度読み返しても、下の句が「乙女心に勝るものなし」とはっちゃけてみせるくらいにしか、響いてこないのですが、実はその無邪気なトーンそのものが、この短歌の魅力ではないでしょうか。

 もちろんうるさいママが、
   横で添削してる可能性は、
     大いにありそうですね。

 それにしても大伴家持、この頃は、十代半ばになりますが、自分が相手に出した和歌は掲載せず、恋人の返歌だけ乗せるなんて、よほど若気の至りで、恥ずかしくなるような短歌を、詠みまくっていたのでしょうか。そういえば、笠郎女(かさのいらつめ)の短歌も、自分の短歌だけを、破棄したような形跡が見られます。もちろんそれは、編者の特権には違いありませんが、どれだけ恥ずかしい短歌だったのか、つい気になってしまうのもまた、ゴシップの無くならない二十一世紀、人の世のことわりなのかも知れませんね。
 (……それは、あなたの品性の問題では?)

 では、話題も出ましたところで、
   万葉時代の和泉式部こと、
  笠郎女の短歌へ移りましょうか。
    十歳には太刀打ち出来ない見事さです。

闇の夜に
  鳴くなる鶴(たづ)の よそのみに
    聞きつゝかあらむ
  逢ふとはなしに
          笠郎女(かさのいらつめ) 万葉集4巻592

闇の夜に鳴く鶴を 遠く聞くように
   遠くから うわさを聞くばかりです
  実際に 逢うことはなくて

 紀友則(きのとものり)(?-905頃)の「闇夜の不如帰(ほととぎす)」ではありませんが、心の闇から源泉を得たような、闇の霊感とでも言うべき短歌になっています。この序詞はそもそも、彼女のオリジナルなのでしょうか。ただ「外(よそ)のみに」聞こえてくる闇夜の鶴の声が、単なる序詞を越えて、詩の全体に浸透してくる。まるで闇の中で、あの人のことを考えながら、こんな短歌を口ずさんでいるようで、なんだかぞっとするくらいリアルな情景が浮かんで来ます。

 おそらく、うわさ話を聞くばかりで、お逢いできません。という着想からは、どれほど手直しを加えても、このような表現にまでは、たどり着けないかと思われます。どうやらわたしは、これを紹介する場所を間違えたような気がします。
 でもせっかくですから、
  霊感にそそのかされたような秀歌というものを、
   ここに残しておくのも良いかもしれません。

朝に日(け)に
   色づく山の 白雲(しらくも)の
 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
          厚見王(あつみのおおきみ) 万葉集4巻668

朝ごと 昼ごとに 色づいていく山に
  たなびく白雲が 過ぎるように
    愛しさが 過ぎてしまうなんて
  そんな風に あなたを思ったことはありません

  上の句は序詞で「過ぐべき」に掛かります。
 ただ雲の過ぎゆくのに、掛け合わせたようにも思われますが、「朝と昼」「色づく黄葉(もみじ)」「移りゆく白雲」と、どれも移り変わりをイメージさせて、「過ぐべき」を強調します。そんな自然の移り変わりはあっても、あなたへの思いが、時間の経過に合せて、過ぎ去ることはありません。なかなか効果的な序詞なのではないでしょうか。せこせこしないで、雄大なところも好印象です。

鴨鳥(かもとり/どり)の
  遊ぶこの池に 木の葉(このは)落ちて
    浮きたる心 我(あ/わ)が思はなくに
          丹波大女娘子(たにわのおおめのおとめ) 万葉集4巻711

鴨たちの遊んでいる
  この池に木の葉が落ちて
    ふらふらしているような
  そんな浮ついた心を
わたしは持ってはいません

 これも序詞ですが、ただの状況説明ではなく、「鴨が遊んでいるところに木の葉が落ちる」という動的な序詞になっていますから、「わたしは思いません」という結句まで、内容が提示されたというよりは、内容が進行していくような感じを受けます。「この池」という表現は、ちょっと動きそうに感じますが、実際口に出してみると、「この池にこの葉」という短い「この」のくり返しが、リズミカルで、全体の動的傾向を高めていることが分かります。「木の葉が落ちて」「浮く」という対比も、ちょっとした明るい機知のように作用します。

 このように、内容が進行していくような短歌というものは、静止画を見るよりは、動画でも見ているような、時間の経過が感じられますから、ちょっとした物語的好奇心を、聞き手に与えることが可能になります。その上で、この短歌の場合は、それを浮気心に差し替えて、心情の表明にまとめている。

 このような動的傾向と、リズミカルな口調によって、全体のトーンが軽妙ですから、深い思いを込めたしっとりとした短歌というより、陽気なところの増さった短歌になっています。めでたし、めでたし、と言って過ぎ去りそうですが……

 けれども何度も唱えていると、それとは反対のものも、次第に現われてきます。恐らくそれは、鴨たちが皆で泳いでいる印象に、皆からはぐれてただ一人、木から落ちた木の葉が、鴨たちの揺らす水面にあって、当てもなくゆらゆらとする、その心もとない印象が、動的な口調の裏から、次第ににじみ出てくるからかと思われます。

 するとまるで木の葉は、相手に対する浮気心ではなく、詠み手の浮くような気持ち、陽気な心を暗示していて、むしろ愁いに沈みがちな心情を、織り込んでいるようにも思えて来ますから、軽やかな冗談のように思われた語り口から、沈んだしっとりとした心情が、見え隠れするような気配です。

 さらにこの短歌は、実際は三首一組になって詠まれたものとして、万葉集では紹介されていますから、それらと一緒に眺めた時は、また新しい印象が生まれてくるには違いありません。

 これまでも見てきましたように、優れた詩というものには、幾重もの解釈の幅を持っているものが、少なからず存在します。そのような詩は、人によって受け止められ方に違いが生じるばかりか、只今眺めたように、初めの印象が、何度も読み返すうちに、次第に変わっていくような場合もあります。そうしてその幅を悟れば悟るほど、完全には解き明かしきれないその詩の魅力に取り付かれて、詠むたびに感心させられる。

 前にもお話ししましたが、一見さりげない落書きのように書かれていながら、そのくせ詠むほどに深みが現われて、忘れられないような詩へと変わっていくものを、わたしたちは「するめ歌」と呼んでいます。この短歌もまた、素敵な「するめ歌」のひとつのようです。

生ける世(よ)に 我(あれ/われ)はいまだ見ず
   言(こと)絶えて かくおもしろく 縫(ぬ)へる袋(ふくろ)は
          大伴家持 万葉集4巻746

生まれてこの方
  わたしは見たこともない
    言葉では表現できないような
  こんなに素敵に 縫われた袋は

 さて、そろそろ未来の妻とも、本格的に恋愛開始といった所でしょうか。巻第四の終末は、大伴家持と大伴坂上大嬢の和歌が並んでいます。これもその一首ですが、どのようなものか分かりませんが、大嬢が家持に「おもしろく縫われた袋」をプレゼントした。それに対して家持が、「こんな素敵な袋は見たことないよ」と和歌で返した。

 それだけの事なのですが、三句目の「言絶えて」というのが、含みがありそうで気になります。あるいは、返信の言葉も絶えたと思っていたら、こんなものを縫ってくれていたのか、という意味でしょうか。あれこれと推察を加えると、確たる証拠もありませんから、余計に分からなくなってくる。それで、つい一緒に送られた他の短歌を眺めて、つじつまを付けたくなってしまう。
  どんな袋なのか気になって眠れない。
    まさか、そこまで思い詰めたりはしませんが……

 つまりこの短歌の価値は、表現がうまいとか、下手だとかいう所には無く、もっと素朴に、当事者たちにしか分からない何かを、含んでいるように感じられるものを、含んでいるものは当事者たちにしか分からないという、はぐらかされた所に存在するようです。

 普通ならそんな短歌は、物足りなくなって、がらくた扱いになるものですが、あまり屈託もなく、詠み手の策略によって、はぐらかしているようにも感じられませんから、なんだか偶然となりの人の会話を聞いてしまい、「生きてる世で見たこと無いよ」とか「言葉がなくなって」とか、ささやいているものですから、何だか分からないけど素敵な袋のように思われて、ちょっと気になってしまうような、そんな魅力とでも言いましょうか。

 なるほど、技巧性とか、すぐれた発想とか、
  自立的な価値観が存在するとか、
   純粋な作品など叫んでも、
    万華鏡のように移り変る価値観の、
   一側面には過ぎないのかも知れませんね。
  だからといって、優劣が、
 存在しないのでは、もちろんありません。

ひさかたの 雨の降る日を
  たゞひとり 山辺(やまへ)に居れば
    いぶせかりけり/いぶせくありけり
          大伴家持 万葉集4巻769

(ひさかたの) 雨の降る日に
   ただひとりで 山辺にありますと
     気が滅入ってなりません

 あんなに、袋のことではしゃいでいた家持ですが、いったいどうしたのでしょうか。実は政乱や疫病により、時の天皇である聖武天皇(しょうむてんのう)(在位724-749)が、都をあちらこちらに移動する、「動く朝廷の時代」[そんな日本史の定義はありません。念のため]を迎えていましたので、それに合せて恭仁京(くにきょう)という所へ、平城京に坂上大嬢を残したまま、赴任させられていたようです。したがって、恋しがりやさんな短歌を、何首も大嬢に送っていますが、これは紀女郎(きのいらつめ)に宛てた短歌。大嬢宛とはトーンが違うようです。

ぬばたまの 昨夜(きぞ)は帰しつ
   今夜(こよひ)さへ 我(あれ/われ)を帰すな
      道の長手(ながて)を
          大伴家持 万葉集4巻781

(ぬばたまの) 昨夜は帰された
    今夜まで わたしを追い返すな
      この長い道のりを

 これも紀女郎(きのいらつめ)に宛てたもの。この時期、大嬢以外の女性とも、恋歌風の応答がありますが、もとより詳細は不明です。内容としては、具体的な対象としての「道の長手」を結句に置いて、はじめの一二句が前日の「事実」、つまりは「過去」を、三四句が今夜の「願望」を、つまりは「未来」を示し、その合間に詠み手の今が存在している。それがどちらに向かうか分からない、道半ばの印象を兼ねて、結句にまとめられている。

と行きそうですが、一番最後の説明は、ちょっとこじつけがましいから、遣らない方が好いかも知れません。冒頭に枕詞を配置して、今日は帰さないで欲しいと、その場で訴えただけのような印象でしたが、短歌としての様式は、見事に整えられているという、まあ、いつものパターンです。

               (つゞく)

2016/05/08
2016/06/12 改訂

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