はじめての万葉集 その六

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はじめての万葉集 その六

巻第十七

 十六巻で、その他の歌まで収めて、完了したように思われた『万葉集』は、十七巻からふたたび、大伴家の和歌に戻ってきます。すなわち、以前大伴旅人が、大宰府で梅の宴を開いたことは前に見ましたが、その任を終えて、大納言(だいなごん)となってみやこへ戻るところから、この巻は開始しています。その後、父はなくなり、大伴家持がみずからの詩作と、収集した和歌を、並べているようにも見えることから、これ以降の巻を、「大伴家持の私家集」であると述べる人もあるくらい。

 その私家集のはじめである十七巻は、おおよそ大伴家持が、746年、越中国(えっちゅうこく)の守(かみ)に赴任するまでの、前後の和歌が収められています。守とは国の役人の長官ですから、今の県知事くらいに捉えても、初めのうちは結構かと思います。

 ここでは、その詳細は眺めずに、どのような和歌が収められているか、やはりあまり日常語から離れないような、簡単な叙し方のものばかりを、眺めてみることにしましょう。

 ところで、この巻からは、もはやこれまでのような「相聞」「雑歌」などのジャンル分けはまったく無くなります。その点でも、これまでとは違う、第二部の傾向が顕著です。

大海(おほうみ)の/大き海(おほきうみ)の
  奥かも知らず 行くわれを
    いつ来まさむと
  問ひし子らはも
          (大伴旅人の傔従の一人) 万葉集3897

大海原を
  果てさえ知れず ゆく私を
    いつ帰ってくるのと
  尋ねたあの子は……

「子」はもちろん子供も指しますが、「あの子」で好きな娘を指すように、最愛の人、すでに結ばれた妻も指します。この短歌は、大宰師(ださいのそち/だざいのそち)として大宰府に居た大伴旅人(おおとものたびと)が、730年「大納言(だいなごん)」に任命されて、京(みやこ)に戻る時に、傔従(けんじゅう)つまり従者たちが、大伴旅人とは別に、船で京へのぼるに際して、旅の不安などを詠んだ短歌の一つです。

 以前見た「遣新羅使」の和歌や、あるいは『土佐日記』にも見られるように、当時の船旅は、わずか大阪湾に到着するだけでも、何日も掛け、風にあおられては遭難したりと、大変なものでした。その不安が、「奥さえ分からないような大海原を行くわたしを」という表現になって表れています。あるいは気分的には、風のうちに「本当に帰ってくるの」と、妻にでもささやかれた気持ちがしたのかも知れませんね。

大宮(おほみや)の
  うちにも外(と)にも 光るまで
 降らす/降れるしら雪 見れど飽かぬかも
          大伴家持 万葉集3926

大宮の うちにも外も 光るほどに
  降った白雪は どれほど見ても飽きません

 この和歌は女帝であった元正太上天皇(げんしょうだじょうてんのう)[先の天皇]のところへ、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)を筆頭に、雪かきに出向いて、お礼に酒宴が開かれたときに、元正上皇が「雪で歌を詠め」と言われたのに答えたものです。「大宮(おおみや)」は宮中くらいでも結構ですが、本来は、「神の居られる場所」「天皇の居られる御所」を指します。もちろん今では、埼玉県の大宮も指しますが……

 この時の「雪の歌」は、もちろん何人もの作品が掲載されているのですが、面白いことに、詠んだ筈なのに、和歌を記し残さなかったので、どんな歌か分からなくなってしまった人の名前が列挙してあります。あるいは、そのような時に和歌を記し残すという意識が存在せず、これなどは編者が後から復元しましたが、宴の席に消えてしまった和歌たちが、あまたに存在していたということかも知れません。

 その中には、渡来人であった人に対して、橘諸兄が、「あなたは歌が詠めないでしょうから、お香を提出しなさい」なんてからかった話まで載っていて、ちょっと面白いくらいです。このように、当時の社会状況が分かったり、和歌の詠まれた情況が細かく記されていたり、たわいもない事件が記されていたり、直接の和歌以外にも、読み解く楽しみがあるのもまた、『万葉集』の魅力と言えるでしょう。

 さて、この和歌のすぐ次に、大伴家持が、天平十八年(746年)越中国(えっちゅうこく)[富山県あたり]の守(かみ)[行政官のトップ]に任命され、任地に赴いたことが述べられています。実はこれが『万葉集』の後半にとっては、非常に重要な出来事で、十七巻以降は、おおよそこの越中赴任以後の、大伴家持の和歌を中心にして、さまざまな和歌の紹介を行くことになります。同時に、彼の和歌が赴任先で開花し、変化していく様子をすら、眺めることが出来るくらいです。

 もちろん今回は、細かいことは抜きにして、分かりやすい和歌をピックアップしながら、紹介するに留めようと思います。なにしろ、さらりとした和歌こそが、「はじめて万葉集」のキーワードですから。

ま幸(さき)くと 言ひてしものを
  白雲に 立ちたなびくと
    聞けば悲しも
          大伴家持 万葉集17巻3958

つつがなくと 言い合ったものを
  白雲のように たなびいて行ってしまったと
    聞くことになるなんて悲しい

 赴任した大伴家持は、
  さっそく羽目を外してどんちゃん騒ぎ……
という気楽な乗りでは、もちろんありませんが、赴任先の館で宴などを催して、その時の和歌が収められてもいますが、すぐにみやこから、弟の大伴書持(おおとものふみもち)が亡くなったという知らせが届きます。そうです、あの「巻第八」において、

わが宿の
  花橘(はなたちばな)に ほとゝぎす
 今こそ鳴かめ 友に逢へる時
          大伴書持(ふみもち) 万葉集8巻1481

と詠んだ和歌を紹介した、あの書持です。
 弟の亡くなった悲しみから、家持は膨大な長歌(ちょうか)と、二つの短歌を作りますが、そのうちの一つがこの和歌です。「ま幸(さき)く」というのは、今なら「お元気で」くらいの別れの挨拶ですが、そんな挨拶を交わしたはずなのに、ただよう雲のようになってしまったのが悲しい。「亡くなったなんて悲しい」と主観一辺倒ではなく、「白雲」に委ねているものですから、心のなかに悲しみをかみ締めながら、こらえているようにも響きます。

かゝらむと かねて知りせば
  越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も
    見せましものを
          大伴家持 万葉集17巻3959

こんなことになると
  前から知っていたなら
 ここ越中の海の 荒磯(あらいそ)の波を
   見せてやるのだった

  これがもう一つの短歌です。
 死ぬ前にお前の見たことのない、この地の荒海を見せておきたかったくらいの内容ですが、あるいはどうせ亡くなるなら、この地に連れてきて、自らの側で看取りたかった。そう受け取ることも出来ますし、この地に連れてきたら、あるいは亡くならなかったのではないか、そんな思いを、ゆだねたようにも思われます。その解釈の幅が、簡単ではない詠み手の思いを代弁しているからこそ、魅力的な短歌になっているのではないでしょうか。

 この「かゝらむとかねて知りせば」や「荒磯の波を見せたものを」のように、詠み手が感慨を内に秘めていて、その一部が言葉に表われたような、あまり明快でない内容というものは、複雑な思いを詠み手が抱えているように見せることが出来ますから、もし全体から察知できる心情そのものが、いつわりのものでなければ、解釈仕切れないことが、味わいのようになって、魅力的な短歌になる場合も多いのです。

 もちろんこれは、純粋な言葉足らずや、独りよがりとは、まったく正反対のものです。おおよそ、語らない方が訴えられること、語ると興ざめを起こすようなことは、語らないで悟らせる、というのが優れた詩を詠むときの、重要な指針になりますから、覚えておかれると良いかと思います。

 そのような、当たり前のことが出来ないで、ひたすら自分の思いやら着想を込めまくって、ひけらかしているような短歌は、近代のものにも大分ありますが、あるいは、いにしへの歌の本質を、学んでいないからかも知れませんね。

あかあかと 一本の道 とほりたり
  たまきはる我が 命なりけり
          斎藤茂吉 『あらたま』

 「たまきはる我が命なりけり」という表現が、不自然であるかどうかは置いておくにしても、これまで見てきたように、枕詞というものは、その言葉を日常から遠ざけ、特別なもののように見せると共に、詩の様式を整えるところに、存在意義があるかと思われます。つまり詠み手は、現在で言うならば、
     「聖なる私の命である」
と言っているようなものなのです。
  一体、真っ赤な一本の道を眺めて、
     「これが私の命だ」
というだけでも、ちょっと「命」が唐突すぎて、よほどうまく場景を定めないと、わざとらしい演技に聞こえそうな所を、よりによって、
     「これが聖なるわたしの命である」
と宣言してしまったものですから、自然に存在し、自己を主張せず、ただあるがままに真っ直ぐであるがゆえに美しい、赤く染まる一本の道と、人工的な表現を丸出しにし、果てしなく自己を主張し、あるがままな真っ直ぐさなど何ひとつない、ゆえに嫌らしい、詠み手の安っぽい感慨が対比され、聞き手には、折角の場景に興ざめを起こすような異物が混入しているような、不愉快な気分しか湧いてきません。

 しかも自然の場景にしたところで、「あかあかと」などという、わざと幼くして、場景に寄り添うような台詞を持ち込みましたから、なおさら自らの命を語るような、決めの台詞とは噛み合わず、まずい場景描写の中で、まずい演技をする、ポンチ芝居のような結末を迎えました。

  過去も近代も、そして現代も関係ありません。
 大伴家持の短歌は、聞き手に心情を伝え、共感を得るべき作品、すなわちすぐれた詩になっていますが、何とか茂吉の作品は、詠み手が一方的に自我を主張し、聞き手の共感など知ったことではない、嫌みに溢れた詩になっている。ただそれだけのことに過ぎません。

 何も奥ゆかしいのが良いとか、主張が悪いとかいう問題ではなく、どうして流行歌の歌詞くらいでも当たり前に出来ている事。言うべき事と、言うべきでない事の区別が、頓知会の面々にだけは出来ないのでしょうか。どうして流行歌の歌詞くらいでも、十分詩として生きているのに、品評会の凝りに凝ったはずの作品は、詩ですらない言葉の捏造物に過ぎないのか。わたしはただ、そのことを述べているに過ぎません。

 ですから、皆さまは、皆さまの普通の言語感覚を大切にして、それを変なものにかぶれて、移し替えないようにしてくださったら良いかと思います。恐らくは、カラオケなどでも、沢山の詩を歌っているのですから、その当たり前の表現を思い描いていてくださったら、着想品評会の不可解な表現へと、迷い込むことは無いかと思われます。当たり前の言語感覚を保ってさえいたならば、世俗の歌詞と、文芸の表現は違うなどと、何を根拠にしているのか分からないような蒙昧(もうまい)を、つばを吐き散らしながら、述べ立てるような事にもならないのではないでしょうか。

 それにしても悲惨なのは、このようなまがいものを、芸術作品ででもあるかのように、うなずかされている学生たちです。彼らに少しでも豊かな表現力があったら、生理的に嫌らしい表現であることは悟れますから、要するに短歌などという不気味なものには、二度と関わりたく無くなるには決まっています。そうやって伝統的な詩を捨てさせて、なるべく早く、ビジネスマンに仕立てる事だけが、どうやら彼ら教育者の、生き甲斐には違いありませんから。

春花(はるはな)の
  うつろふまでに 相見ねば
    月日数(よ)みつゝ 妹待つらむそ/ぞ
          大伴家持 万葉集17巻3982

春咲く花が
  散りゆくまで 逢っていないから
    月日を口に出して 数えながら
  愛する人は待っているだろう

 今度は747年5月12日に、大伴家持が妻を思い煩って、詠み上げた長歌と短歌四首の中から一首です。あるいは一つ前に、病になったことが記された和歌がありますから、ちょっと気弱になったことも、このような恋情と関わりがあるのでしょうか。妻の大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)は、赴任先に一緒に来ていないので、このように都に、恋しがる和歌を送りつけているのでした。そんな家持の気持ちからか、前からの決まりだったのかは知りませんが、妻はこの後、越中に遣って来ることになります。もちろんこの和歌で、妻は数えているだろう、という表現が、そのまま自分が指折り数える逢いたさを、裏返したものであることは、言うまでもありません。

わが背子が
   国へましなば ほとゝぎす
 鳴かむ五月(さつき)は 寂(さぶ)しけむかも
     内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ) 万葉集17巻3996

尊敬するあなたが
  国へ帰ってしまったら
    ほととぎすの鳴く五月でさえも
  寂しいことになるでしょう

 今度は、家持が一時都へ戻るときに、
   またもや、別れにかこつけてどんちゃん騒ぎ……
という訳ではありませんが、何しろ役人ですから、必要な宴もあるのです。という事にしておいて、これは家持の部下が、上司に対して捧げた短歌です。まるで妻が語るように「我が背子が」という語りかけは、「親愛なるあなたよ」くらいの敬意を表わすために、わざとそう言ったものに過ぎません。ほととぎすが鳴く五月は楽しいはずなのに、あなたが居なくなったら、寂しいものになってしまう。別れの歌に乗っ取った、そつのない表現になっています。

都辺(みやこへ)に 立つ日近づく
   飽くまでに 相見ていかな
  恋ふる日多けむ
          大伴家持 万葉集17巻3999

みやこの方へ 立つ日が近づいた
  飽きるまで 皆の顔を見てから行こう
    恋しく思う日が多いだろうから

  これも別れの宴での歌。
 お前たちの顔が恋しくなるから、今日の宴は思う存分、顔を見合わせて、思いだすためのよすがとしよう。こちらもまた、立ち去る者の挨拶として、同時に酒宴の挨拶として、手本のようになっています。ところで……

 うたげの場所がいつの間にやら、大伴池主(おほとものいけぬし)(?-757)の館から、大伴家持の館に変わっていますが、まさか二次会では……なるほど、形式だけの酒宴なら、そこまではしないかもしれません……するとやっぱり、どんちゃん騒ぎ?

 ちなみにこの頃、家持の年齢は三十歳くらいです。また、大伴池主という人、越中時代の重要な「歌詠み仲間」で、『万葉集』の中にもしばしば作品が登場しますから、名前を覚えて置いても好いでしょう。

     「婦負(めひ)の郡(こほり)にして、
       う坂の川辺(かはへ)を渡る時に作る一首」
うさか川 渡る瀬多み
  この我(あ)が馬(ま)の 足掻(あが)きの水に
    きぬ濡れにけり
          大伴家持 万葉集17巻4022

うさか川は 渡る瀬が多いので
  わたしの馬の 足さばきによる水しぶきで
    服がすっかり濡れてしまった

  これは家持が「うさか川」を渡ったときの短歌です。
「うさか川」は神通川(じんずうがわ)の古名で、その川は岐阜県から富山県へと流れ、富山平野を流れ、富山湾へとそそぐもの。川幅が広く、渡るための瀬が多いので、馬がさかんに水を蹴る足さばきに、服が濡れたという内容です。その場を詠む臨場感、それは『万葉集』の魅力の一つであると言えるでしょう。

     「うぐひすの遅く鳴くことを恨むる歌一首」
うぐひすは
   今は鳴かむと かた待てば
  霞たなびき 月は経につゝ
          大伴家持 万葉集17巻4030

うぐいすが 今こそ鳴くだろうと
  待ちわびているうちに
    霞はたなびいて
  月日はどんどん過ぎてゆく

 霞もたなびいて、春になって月が過ぎてゆくのに、いつまでたってもうぐいすが鳴かないという、ただそれだけの短歌です。けれども「うぐひすが咲く」と言ってみたり、「わが心の浄化の声よ」などと大げさな芝居をしませんから、聞き手も詠み手の存在を忘れて、自らのありきたりの表現へと移し替えて、共感出来るからこそ詩になっています。

 最後を「月は経につつ」つまり「月は経ながら……」と文章の途中のように留めているので、その先に「どうしてまだ鳴かない」「そろそろ鳴いてくれ」など、何らかの思いが続くように感じる。それが余韻となって残されるくらいで、情緒的にはこのくらいで十分なのです。現代文にすれば、

うぐいすは
  いつ鳴くのかと 待ちながら
   霞はなびき 日は過ぎていく

 いかがでしょうか。
  私たちにも、頑張れば手が届きそうで、
   自分も落書きしたくなるのが、
  万葉集の魅力です。

品評会のお歌

 ところで、大げさな表現とか、頓知や着想のひけらかしと言われても、どのようなものか実感が湧かない方もあるかと思われます。ここでは一つ、皆さまは品評会への提出作品を作るつもりになって、あえて心情よりも、思いついた表現や、謎かけを重視して、うぐいすを題に、短歌を詠んでみるのも悟りです。

 コツは、これまでやってきたような詩作。夕日を眺めて美しいと思う、という心情から出発して、その思いをどう表現しようかと、まとめていくのとは異なる事をすれば良い訳です。そこで、わざと思ってもいないような、頭のなかで拵えたような対象物を持ち出して、「ミジンコのような美しさ」と讃えて見せたり、あるいは「うぐいすが咲く」ような、わざと不自然な表現を探して、心情の素直さをよりも、表現のユニークを追い求めて、わざと他の人が言わないように、描いてみせれば良いのです。

というと、かえってややこしいでしょうか。
 うぐいすを素材に、伝えたい輪郭が出来たら、それを素直に伝えるのを止めて、自らのフィーリングに任せて、なるべくユニークな表現を目指してください。その際、表現が心情に対して誠であるかどうかの判断を、わざと無視してください。言葉を着飾ることを目的において描いて見せたなら、きっと初心者の皆さまでも、(あるいは初心者の皆さまだからこそ、)たやすく品評会の作品のようなものが、生みなせると思います。
 それではどうぞ。


     「勝手なことを言いやがるぜ」
うぐいすめ
  崖の淵から 飛び降りて
    怪我でもしたか 早く来やがれ
          いつもの彼方

     「要するに出鱈目でいいのよ」
うぐいすの 花咲き袖を 待つとみせ
  ひそかな夢は 虹のつばさへ
          時乃遥

     「出鱈目でいいなら楽ですね」
空一輪(くういちりん)
  梅一尺の 竜笛(りゅうてき)を
    待ち尽くしては うぐいすの調べ
          手抜歌 時乃旅人

 このような作品は、詠み手の心情の正当性も、聞き手の共感も、考慮に入れる必要がありませんから、どのような対象物でも、十分もあれば五首も六首も、たちどころに生まれてしまいます。あるいはまた、詠み手の情感が乏しくても、知恵だけで拵えられることも可能です。それを詩でないとは言いませんが、優れた詩を指標とするならば、階段の一歩目を履き違えて、別の小さな丘に向かってしまった所にある、数歩で登り尽くせるような、小さな頂には過ぎません。皆さまにはそんな丘くらいのものに登って、満足して欲しくは無いものですから、わたしははじめの一歩目のところで、このような話を、くどくど繰り返しているのです。
 ただそれくらいの、
  おせっかいには過ぎませんでした。

巻第十八

 大伴家持の越中赴任時代。
  その中期とでも言えましょうか。
   近くにいた大伴池主が、越前[福井県東部]の方へ赴任して行きますが、
  その後も和歌の贈答が続いていきます。

奈呉(なご)の海に 舟しまし貸せ
  沖に出でゝ 波立ち来(く)やと
    見て帰り来(こ)む
       田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ) 万葉集18巻4032

奈呉(なご)の海に 舟をちょとと貸してください
   沖に出て 波が立って来ないか
     眺めて帰ってきますから

 まずは巻頭の短歌。
「奈呉の海」というのは、現在の伏木富山港(ふしきとやまこう)(通称「富山新港」)のところに、昔放生津潟(ほうじょうづがた)という湾がせき止められた湖があって、それを「奈呉の海」と呼んだようです。それで、言葉の意味自体は明らかで、すらすら記された「はじめての万葉集」にはかなうものですが、内容がちょっとピンと来ません。詠み手が物珍しげに海の風情を楽しみたがったものだと、いくつか調べると説明されていますが、はたしてそれだけなのでしょうか。

 むしろ、沖に出て、波が立っているか見て返ってくる、というのはこの奈呉の海の、特殊な状態から詠まれたもののように思われますが、残念ながらそれ以上は、わたしには明示しかねます。

 ところで、この作者、「巻第六」で名前だけ記しておいた、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)と同一人物です。この人は、造酒司(さけのつかさ)という、まことにありがたい役所に勤めていた人物で、この和歌は、時の左大臣である橘諸兄(たちばなのもろえ)(684-757)の使いとして、大伴家持のところにやって来た時の短歌。彼の和歌は『万葉集』に四十四首取られ、「田辺福麻呂歌集」の存在まで知られますが、やはり彼も、大伴家持と親しい間柄にあったようです。
 せっかくですから、もう一首くらい、
  彼の作品を眺めてみましょうか。

布勢(ふせ)の浦を 行きてし見てば
  もゝしきの 大宮人に
    語り継ぎてむ
       田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ) 万葉集18巻4040

布勢の浦へ 行って眺めたら
 (ももしきの) 大宮人たちに
   語り伝えよう

 布勢の浦は、富山県氷見市にかつてあった湖の浦のことで、そこに明日出かけようという話がまとまったので、うれしくなって詠まれた和歌です。みやこに戻ったら、この景観を伝えてやりたいという、きわめて分かりやすい内容ですが、「皆に伝えよう」ではなく、枕詞を込めて「ももしきの大宮人に」としたところに、簡単ではありますが、様式化が果たされています。それで散文の感想ではなく、短歌として読まれる訳です。

浜辺(はまへ)より 我が打ちゆかば
  海辺(うみへ)より 迎へも来ぬか
    海人(あま)の釣舟(つりぶね)
          大伴家持 万葉集18巻4044

浜辺を伝って 我らが行ったら
   海辺から 迎えでも来ないかな
     漁師らの釣り船が

 それでこちらは、
  日が変わって実際に、
   布勢のみずうみに行く途中の歌。
  わざわざ詞書きに「道中馬上に口号(おら)ぶ」と説明してあり、
 海岸沿いを馬を走らせながら、
  仲間に向かって叫ぶような感じです。

木の暗(くれ)に なりぬるものを
  ほとゝぎす なにか来鳴かぬ
    君に逢へる時
          久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな) 万葉集18巻4053

木のしたが 暗くなる時期になったものを
  ほととぎすよ どうして来て鳴かないのだ
    せっかくあなたに逢えた今こそ

 今度は、久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな)の館での宴。ここでも田辺史福麻呂(たなべのさきまろ)が一緒で、これは主の広縄が、福麻呂に詠んだ和歌になっています。「木の暗(このくれ)」あるいは「木の暗茂(このくれしげ)」とは、「木下闇(こしたやみ)」あるいは「木の下闇(このしたやみ)」のことです。

  なんてというと、
 一方を調べたら、もう一方の説明に送られる、無間地獄の辞書みたいですが。つまりは、木の下が葉の茂りで暗くなる、あるいは闇になるという意味です。歳時記なら夏の季語で、葉が深緑に茂る時期。「かすみが立ったのにうぐいすが鳴かない」と同じパターンで、「木下が暗くなる夏になったのに、時鳥(ほととぎす)が来ない」と嘆いている。

 ただ最後に、
   「あなたに逢えたこの時」
と付け加えることによって、あっけなく相手への賛辞へと移しかえていますが、このようなありがちな表現は、あるいは宴の席などで、即座に短歌で相手を讃えるための、お決まりのパターンとして存在していたのかも知れません。つまり同種の趣向が沢山見られるような短歌は、誰かが誰かを真似たようなものではなく、一つの定型として、誰もが利用できたからに過ぎない、と言えるかも知れませんね。

をり明かしも 今夜(こよひ)は飲まむ
    ほとゝぎす
  明けむ朝(あした)は 鳴き渡らむぞ
          大伴家持 万葉集18巻4068

夜を明かしても 今夜は飲み続けよう
  ほととぎすが 明ける明日には
    きっと鳴き渡るから

「居り明かす」は「ここに居て明かす」つまり眠らずにということです。この和歌は、わざわざ説明書きが加えられ、明けた明日は立夏(りっか)にあたるので、ほととぎすが鳴き渡ると言ったと示されています。もちろんこの短歌が、夜通し飲みまくるための、言い訳であることは、言うまでもありません。さすが大伴家持、ツボを心得ていますね。それでこそ酒飲みです。

 それは冗談としても、喜ばしい気分の所に、喜ばしい期待を込めているだけですから、立夏を意識した知的な表現も、ちゃんと喜びに還元されています。ですから、知性で解釈しないと、解き明かせないところは、なるほど頓知歌と同じような気がしますが、こちらは別に解き明かされなくても、夜が明けたら時鳥の声が聞こえるには違いない、とただの期待のように響きますから、なんの嫌みも湧いてきません。そこが大切かと思われます。

 ところで、立夏なんて、別にあたり前の事のように感じてしまいますが、二十四節気(にじゅうしせっき)に基づく立春、立夏、立秋、立冬をベースとする暦感は、ちょうど大伴家持の頃になって、ようやく和歌の中に顔をのぞかせ始める、人々の意識としては、最新の、同時にちょっと人工的な季節感であったようです。知性派の彼は、それを利用して、酒宴に機知的な愉快さを持ち込んでいるのかと思われますが、『古今和歌集』の頃になると、もう当たり前の感覚として、季節を定めるものとして詠まれている。明治維新頃に、西暦という新しい暦が入ってきて、流通していった頃の人々の意識と、今の私たちの感覚を、比べてみるのも面白いかも知れませんね。

 さて巻第十八の後半は、長歌と短歌のペアが、数多く収められていますが、わたしたちはこれくらいで、十八巻はお腹いっぱいなのではないでしょうか。軽やかに次へ参りましょう。

巻第十九

 この巻は、大伴家持の越中時代後期から、少納言となってみやこに戻るまでを収めています。全体の質がきわめて高いのが特徴で、おそらくこの巻だけを独立させてアンソロジーにしても、これほど優れた撰集は、なかなか見つからないくらいです。巻第二十になると、かなりのスペースを防人の歌が占めますから、大伴家持の和歌としては、この巻第十九が、白眉(はくび)かと思われます。
 残念ながら今回は、最高の作品を紹介することを目的としていませんが、すらすらと記したもののなかにも、なかなか魅力は籠もるかと思われます。それではどうぞ。

     『大伴家持が館(たち)にして宴(うたげ)する歌』
今日のためと 思ひて標(し)めし
   あしひきの 峰(を)のうへ/への桜
     かく咲きにけり
          大伴家持 万葉集19巻4151

今日のためにと思って
   しめ縄をはって守って置いた
 (あしひきの) 峰の上の桜は
    これほど見事に咲きました

 いろいろな見方が出来るとは思いますが、勝手に咲いている峰の桜の誇らしげなのを、わざと自分の専有物のように語りかけ、今日皆さまのためにわざわざ守り抜いた桜が、見事に咲きましたよ。と述べることによって、わたしがあらゆる準備を尽くした、とっておきの宴ですよ、さあ飲みましょうよ。と主催者側の挨拶を述べたものとするのが、もっとも妥当なように思われます。

 ところで、小学館の新編日本古典文学全集の『万葉集四』の解説によると、初句の字余りの「と」は、「言ふ」「思ふ」などア行で始まる音が次に来る場合、次の句の上に移して例外となされるそうです。ついでに詠まれた日が、太陽暦の4月17日にあたるとも。おまけとして、ここに記しておきます。

     『世の中の無情を悲しぶる歌のうち短歌』
うつせみの 常なき見れば
   世の中に こゝろつけずて
  思ふ日そ/ぞ多き
          大伴家持 万葉集19巻4162

人の世の 常でないことを知れば
  世俗の事柄に 執着するのではなく
   (無情のことを) 思う日が多くなります

 この和歌は、無情を歌った長歌の後に置かれた、ペアの短歌の二つ目です。ですから全体をまとめて、世俗のことについてあれこれ考えるのではなく、長歌で詠んだような、無情について、あれこれと思っている日が多いよ。なぜなら現世が、常のないものだということを、あまりにも見てきたものだから。という結論を歌っています。それでいて、

この世の、常でないことを知れば
  世の中に、こころをとらわれずに
 思うことが多いよ

と言ったに過ぎませんから、全体を背負っているとは言っても、その叙し方は簡単なものです。ただ、世の中のことに捕らわれて思うのが普通であるところを、「世の中に心付けずて」思う日が多いと述べることによって、それとは別のことを思っていることを聞き手に悟らせ、それがつまりは、長歌に述べたようなことである。とまとめる方針は巧みです。

 ところで、『古今和歌集』以降の和歌に慣れている方がいらっしゃったら、「うつせみ」が「この世、現世」や「この世の人」を表わすのが、ちょっと不自然に思われた人もあるかもしれません。この言葉は「空蝉(うつせみ)」と書いて「蝉の抜け殻」を表わし、そこから「魂の抜けた」様子を表わすのではなかったかと……
 これはどうやら、「現実世界」や「生きている人」を表現した「うつせみ」という言葉を、万葉集で「空蝉」「虚蝉」のように借用漢字で表現したのが、後にその表記から、誤解を生じたのが原因のようです。

 このような勘違いから生まれた表現は他にもあり、たとえば『万葉集』に詠まれた「すがる」というものが、いつの間にやら後で「鹿」になったりしています。それでは「すがる」が何かというと、一応ジガバチという、だろうという事になっていますが、それもまた絶対とは言えないらしく……
 そうそう「あやめ草」もこの時代はショウブ科のショウブだったものが、後年ハナアヤメに取って代わられてしまった名称です。後、鳴く虫の名称も、調べると大変な事になりますので、あまり深入りはしない方が好いかも知れませんね。
 以上、脱線コラムでした。

 万葉歌人自体がそうですが、
  大伴家持も「不如帰(ほととぎす)」が好きですね。
   よく詠まれています。

     『ほとゝぎすの暁(あかとき)に鳴かむ声を思ひて作る歌二首』
つね人も
   起きつゝ聞くそ/ぞ ほとゝぎす
  このあかときに 来鳴く初声(はつこゑ)
          大伴家持 万葉集19巻4171

ただの人でさえ 起きないで聞くんだぞ
  ほととぎすよ 立夏の夜明けに
    来て鳴くその初声を

 この短歌は、明日が暦の上で立夏になるという夜に詠まれたものです。それで、日頃は不如帰(ほととぎす)など気にも留めないような、普通の人たちだって、私のように待ちわびているんだから、来て鳴けよと詠んでいる。

 軽い冗談のように聞こえるかも知れませんが、待ち人が来てくれなくて、もう少し、もう少し、とそこから離れられず、いつまでも待ってしまうような気持ち。まるで恋人に対するような思いを、当時の人は抱いていたのかも知れません。(もっとも、それは和歌内部での話で、やはり日頃は、そこまで思い詰めていなかったとも考えられますが。)

 いずれにせよ、お決まりのパターンに過ぎないとは捕らえずに、少なくとも私たちよりは、真摯(しんし)に焦がれていたからこそ、多くの和歌が詠まれたと考えるほうが、ずっと彼らの詩に、近づけるのではないでしょうか。

     『ほとゝぎすの暁(あかとき)に鳴かむ声を思ひて作る歌二首』
ほとゝぎす
  来鳴きとよめば 草取らむ
    花たちばなを 宿には植ゑずて
          大伴家持 万葉集19巻4172

ほととぎすが来て
  鳴きしきるようになったら
    草を取ろう
  花橘を 家には植えないで

 さて、「うつせみ」の変遷ではありませんが、文章は簡単でも、当時の風習などが分からずに、意味がつかみ取れないものも、万葉集には時々見られます。これもあるいは、当時の人なら、当たり前のように理解できたのかも知れませんが、今となってはなんで「草を取る」のか、「花橘を家には植えないで」とはどういう意味なのか、いまいち判然としません。そんな和歌もあるのだと言うことを、お知らせしたくて、ついでに先ほどの和歌とペアになっているこの和歌を、続けて掲載してみただけのことです。

 それにしても、農事の草取りでは、四句結句との繋がりが不自然だし、花橘を植える代りに、餌でも遣ろうというなら、意味だけは分からなくもないけれど、草を食べる訳でもなさそうだし。そもそも和歌の価値を落としそうだし。知られた逸話なり、このような内容の歌詞でもあって、当時は知られていたようにも感じますが、わたしの知識では、考えるだけ無駄そうですので、次に行きます。

長歌を一つ

 ここらで、本格的な長歌にチャレンジしてみましょう。大伴家持が、越前判官(こしのみちのくちのじょう)大伴宿禰池主(おおとものすくねいけぬし)に対して送った霍公鳥(ほととぎす)に寄せる歌。「旧交を懐かしむ気持ちを抑えきれずに、思いを述べる」というのが、はじめの詞書きの内容です。後はわたしが長歌のまま、現代語に訳してみますから、それでおおよその詩型と語りの調子を、掴んでいただけたらと思います。

     「四月三日に、
        越前の判官大伴宿禰池主に贈るほとゝぎすの歌。
      感旧(かんきう)のこゝろに勝(あ)へずして、
        懐(おもひ)を述ぶる一首 并(あは)せて短歌」
わが背子(せこ)と 手携(てたづさ)はりて 明けくれば 出で立ち向かひ 夕されば 振(ふ)り放(さ)け見つゝ 思ひ延(の)べ 見なぎし山に 八つ峰(やつを)には 霞たなびき 谷辺(たにへ)には 椿(つばき)花咲き うら悲(がな)し 春し過ぐれば ほとゝぎす いやしき鳴きぬ ひとりのみ 聞けば寂(さぶ)しも 君と我(あれ)と 隔(へだ)てゝ恋ふる 礪波山(となみやま) 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめ草 玉(たまぬ)貫くまでに 鳴き響(とよ)め 安寐寝(やすいね)しめず 君を悩ませ
          大伴家持 万葉集19巻4177

君と二人 手を取り合って 夜明けには 外へと出かけ 夕暮れは 空を仰いで 気晴らしに 眺めた山の 峰々は かすみたなびき 谷間には 椿が咲いて もの悲しい 春を過ぎれば ほととぎす しきりに鳴くよ ひとりして 聞けば寂しい 慕(した)い合う 二人をへだつ 礪波山(となみやま) 飛び越えて行け 夜明けには 松の枝々 夕べには 月に向かって あやめ草 玉に貫(ぬ)くまで 鳴きしきれ 眠らせないよう 彼を悩ませよ

  先に長歌を説明してから、
   短歌を眺めましょう。
 まず冒頭は懐旧の思いを述べています。あの頃は手を取り合って、朝は外に、夕暮れには眺めたあの山に。そこから時間が動きます。やがて霞がたなびき、椿が咲いて、と春の描写をしながら、その描写を移しかえて、春を過ぎ去らせ、ほととぎすがしきりになくと説明する。このように普通の文脈なら、一端区切って次に向かうところを、ある言葉を基点に時間を移し、場所を移し、次の内容へと作り替えていくのも、長歌の特徴と言えるでしょう。
 そしてほととぎすが鳴くところが今で、ここからは今の感慨を歌います。ひとりで聞けば寂しいから、別れてしまった君の居るところまで、邪魔する山を越えていけ。そして鳴きまくって、君を困らせてやれ。そんな長歌になっています。

 一つ分かりにくいのは、
「あやめ草を玉に貫く」という表現で、以前「あやめ草」は菖蒲(しょうぶ)であるとお話ししましたが、そのあやめ草で、五月五日の端午の節句に、邪気を払うために何らかの飾りなり、行為をする。それを「あやめ草玉に貫く」と言っているようです。花橘と一緒に詠まれることがあるので、組み合わせて使うのでしょうか。薬玉(くすだま)を造ることかともされますが、定説になっているのやら、ちょっと心もとない気がします。

 いずれにせよ、言いたい内容は、この長歌が作られたのはまだ端午の節句のひと月くらい前なので、端午の節句が来るまで、ずっと鳴きまくってやれ。そんな長歌になっているわけです。

われのみに/われのみ/われのみし
  聞けば寂(さぶ)しも ほとゝぎす
    丹生(にふ)の山辺(やまへ)に
  い行き鳴かにも
          大伴家持 万葉集19巻4178

わたしだけで
  聞けば寂しいから ほととぎすよ
 丹生の山辺へも 行って鳴いてやれよ

ほとゝぎす
   夜鳴きをしつゝ わが背子を
 安寐(やすい)な寝(ね)しめ ゆめこゝろあれ
          大伴家持 万葉集19巻4179

ほととぎすよ
   夜通し鳴いて 大切なあの人を
 眠らせるんじゃないぞ くれぐれもこころせよ

 それに対して短歌は、一方では私だけで聞くのは寂しいから、あの人のところでも鳴いておくれ。という親愛の念を込めたものを。もう一方では、鳴いて鳴いて鳴きまくって、ノイローゼにでもしてやれ。という冗談の短歌を。それぞれ長歌から抜き出して、まとめている。

 コミカルなものと、シリアスなものが、対置され、短歌が二首置かれている理由も、きわめて分かりやすくて、しかも効果的です。この長歌は、「巻第十九」の中では、むしろもっとも素朴なものですが、それでも侮れないような構成になっている。それでいて、その語り方は明快で、わたしが現代語にちょっと移しかえたくらいでも、十分に意味は通じるのではないかと思います。
 このようなものが、すばらしい詩であると言えるでしょう。

     『入唐使への餞別の宴に』
天雲(あまくも)の
  行き帰りなむ ものゆゑに
    思ひそ/ぞ我(あ)がする
  別れ悲しみ
          藤原仲麻呂(なかまろ) or 藤原豊成(とよなり) 万葉集19巻4242

(あまぐもの)
   行けば帰ってくる ものだとしても
     思い乱れてしまいます
   別れの悲しみで

 入唐使(にゅうとうし)とあるのは、つまり遣唐使(けんとうし)のことで、その餞別の宴で、詠まれた和歌です。詠み手は藤原仲麻呂か、兄の豊成で、仲麻呂だとすると、この人物は、大伴家持とも関わりが大きく、歴史上のいくつかの乱に関わり、日本史に登場するような人物ですが、今は無理して覚えず、けれども気が向いたら、名前だけ留めておけば十分です。それよりも……

 三句目の「ものゆゑに」を、小学館の『万葉集』では「逆説の接続助詞」と言い切って、講談社の方は「順接」と言い切っていますが、誰もが何冊も書籍を比べる訳でもないので、曖昧なところは「どっちも可能」くらいにして置いた方が、好かろうと思うのですけれども……

     『久米広縄(くめのひろつな)が任を終えて、越中に戻る時に、
         越前の大伴池主(おおとものいけぬし)の館で酒宴。
        もちろん家持も一緒さ。広縄が萩の花を見て作る歌』
君が家に
  植ゑたる萩の はつ花を
    折りてかざさな
  旅別るどち
          久米広縄 万葉集19巻4252

あなたの家に
  植えてある萩の はじめて咲いた花を
    折って髪にかざしましょう
  これから旅に別れるもの同士

     『家持がそれに答える歌』
立ちて居(ゐ)て
   待てど待ちかね 出(い)でゝ来(こ)し
 君にこゝに逢ひ かざしつる萩
          大伴家持 万葉集19巻4253

立ったり座ったりしながら
  帰るのを待っていましたが
    待ちきれずこうして出てきたところで
   ここであなたにようやく逢えて
     かざしていますこの萩を

 いよいよ大伴家持が、少納言に任命されて都に戻るとき、もう越中に戻るはずの久米広縄を待っていたが、待ちきれずに旅立ち、越前まで足を伸ばし、大伴池主のところで別れを済ませようとすると、広縄がやって来ました。それで、あなたがちょうど来てくれて、こうしてあなたに勧められるまま、萩をかざしているなんて、本当に逢えて好かった。もちろん事前に連絡して、落ち合ったのかも知れませんが、和歌の世界では、これで好いのです。
 そして大伴家持は、
  みやこへと戻っていくのでした。
   めでたし、めでたし?

みやこに戻って後

     『橘諸兄(たちばなのもろえ)の家に宴する時の歌』
むぐら延(は)ふ いやしき宿も
   大君(おほきみ)の 座(ま)さむと知らば
  玉敷かましを
          橘諸兄 万葉集19巻4270

むぐらのような 雑草の覆い茂る
   こんな粗末な あばら屋であっても
  偉大なるあなたが いらっしゃいますならば
    あらかじめ 玉を敷き詰めておきましたのに

  なんだか大した事になっています。
 こんな最大級のおべっかを使うほどの相手はどなたかと言うと、なんたることか、宴の席に聖武天皇(しょうむてんのう)が、あの東大寺の大仏を造りまくってしまった聖武天皇が、ただし今は天皇は引退なされて、上皇(じょうこう)となった聖武太上天皇(だいじょうてんのう)が、橘諸兄ごときの粗末なあばら屋に、左大臣である橘諸兄の、まるで豪邸のような粗末な宿に、足をお運びなさってくださったのです。あまりありがたいものですから、短歌の方も、最高の賛辞で讃えまくっているという訳です。。

 この手の短歌を、昔は身分制度がどうのこうのと説明する人もおられますが、どこかのサラリーマンの、ほとんど自覚症状無しのこび、へつらい、追従(ついしょう)、従順。いったい何か違うというのでしょうか。なるほど、確かに、違うところもあります。左大臣は和歌という様式化された詩型の中で、相手を讃えているに過ぎませんが、彼らにはそのような気の利いたことは出来ず、日常会話の中でへらへら笑いながら、相手をおだてるのが関の山です。
 なるほど、なかなか大した違いかも知れません。

 ところでこの橘諸兄(たちばなのもろえ)(684-757)という人、わたしの解説の中でも、おそらく何度か登場していると思いますが、大伴家持と親しい関係にあり、あるいは『万葉集』の編纂に、何らかの関わりがあったのではないか、ともされる人物です。そして日本史においても、藤原仲麻呂を押さえて政権の中枢を握りますが、晩年孝謙天皇(こうけんてんのう)の即位と共に、藤原仲麻呂の勢力が増し、失意の内に亡くなったとされています。そして彼が亡くなったのち、さらにまた政治上の争いが繰り広げられ、彼の息子は亡くなって、権力を得た藤原仲麻呂もまた、次の時代には謀反のかどで討伐される。奈良時代はなかなかに、激動の時代であったようです。

 それでは、せっかくのチャンスですから、
  私たちもノートを取り出して、
   ちょっと相手を讃えるような短歌を、
  いくつか詠んでみるのも成長です。

  コツは簡単で、相手をより良いものに見せればOKです。
 その方法には二つあります。つまりは尊敬語的用法と、謙譲語的用法です。尊敬語的用法は、尊敬語と一緒で、相手を「天上の住人のようだ」「オリンピックの選手のような腕前だ」と、実際よりさらに高めて表現すればよいのです。逆に謙譲語的用法は、橘諸兄の「むぐら延ふいやしき宿」や、「働き蟻のような自分」のように、自分を低く描いて、それによって相手を高めます。もちろん両方が絡み合っても構いません。使い慣れると、ちょっとした時候の挨拶にも、友だち以上の人に、短歌を添えるときに便利ですから、今のうちから、かじっておくのも有用です。


     「腰弁賛歌」
昇進の
  遍歴重ねた わたくしの
    ひざまづきます あなたの威厳に
          おべっか歌 時乃旅人

     「上下関係なら得意だぜ」
神々の
  黄昏みてえな 俺の歌を
    奏でてやるぜ 聞けや羊ども
          いつもの彼方

     「……上下が逆ですけど」
街かどの
  花屋のさきの バラの花
    そんなあなたに ちょっと焼きもち
          日常歌 時乃遥

 やれやれ、見習えるのは
  遥さんの短歌くらいのようですね。

「何だとコラ」

     わっ、本文に登場しないでください。

  いや、失礼しました。
 何でもありません。
  気を取り直して次の短歌です。

     『大雪に』
うぐひすの
   鳴きつ垣内(かきつ)に にほへりし
 梅この雪に うつろふらむか
          大伴家持 万葉集19巻4287

うぐいすが
   鳴いていた垣のうちに あざやかに咲いていた
  梅はこの雪に 散ってしまっただろうか

 さてこの「にほふ」は「香り」ではなく、もっぱら「色が鮮やかにはえる」「はなやか」「つややか」など、花の盛りの様子を表現しています。それに対して「うつろふ」はその状態が変化して、花が盛りを過ぎて、散ってしまったことを表わしています。梅は万葉集に詠まれたものはもっぱら「白梅」で、「紅梅」は勅撰和歌集の時代になってからとも言われます。

 春のよろこびを告げるうぐいすが来て、花が盛りを迎えていたはずの梅の花が、冬へと引き戻すような雪に降られて、散ってしまっただろうか。枝には雪が、梅の代りに咲いてはいるけれど。

 そんな意味を込めているかと思われますが、視覚的な梅の盛りを、おなじく春を告げるうぐいすの音声をもって導入し、しかもその声につられて覗き込んだように、垣のうちにフォーカスを定め、咲き誇る梅を提示するくらいでも、手が込んでいるのに、さらに、それを過去への回想へと押しやり、現在の雪が降っているという情況と対比させ、最後に心情を取りまとめる。

 その間には、「にほへりし梅」と続く文脈を、わざと三句と四句に分断させ、少し前までの状況を描いた上句の梅と、現在の状況の主語としての、下句の梅を橋渡す。なるほど、序詞ではありがちな方法ではありますが、ここではそれを単なる比喩でもなければ、梅を導き出すための序詞でもなく、過去の状況から現在の状況へと橋渡す、連続的な表現として使用しています。

 しかも「梅」と体言止めして、あらたに「この雪に」と始めますから、上の句の文脈の途切れが、下の句のはじめにまで掛かって、わざと短歌の句切れと、文脈の途切れを、はぐらかしたような印象になる。なるほど、内容は明快で修辞上ちょっと凝ったところは、今述べたところくらいなものですが、なかなかどうして、構造的に仕組まれていて、私たちが自分の日記を手直ししたくらいでは、表現できないような詩になっています。

 このくらいの優れた詩を、
   いつか作れたら好いとは、
     思いはしないでしょうか。
  日常の語りからずれた、
    なぞの提出物などではなく。。

巻第二十

 みやこへ戻った大伴家持は、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)六年(754年)、軍事をつかさどる兵部省の次官である、兵部少輔(ひょうぶのしょう)に任命されました。大伴家はもともと武門の家系なので、何らかの感慨もあったろうと思われますが、翌年755年、難波[取りあえず、今の大阪湾くらいで好いでしょう]に向かい、ここから防人(さきもり)を大宰府へ送り出すための、監督を行っています。そこで、ついでといっては失礼ですが、防人たちの短歌が採取され、この巻の前半部分に、まとまって残されることになりました。

 その後、みやこで様々な政変などがあって、その中で、大伴家持は758年に因幡守(いなばのかみ)[今の鳥取県東部]となって、翌年の正月、赴任先で『万葉集』最後の歌を閉じています。では、さっそく眺めてみることにしましょう。

防人の歌(さきもりのうた)

八十国(やそくに)は 難波(なには)につどひ
   船(ふな)かざり 我(あ)がせむ日(ひ)ろを
  見も人もがも
          上丁丹比部国人(じょうちょうたじひべのくにひと) 万葉集20巻4329

国々の兵は 難波につどい
  出航準備を わたしがする日に
 見てくれる人があればなあ

「見む人もがも」が「見も人もがも」と訛っていたり、各地(もっぱら東国)から集められた兵ですから、方言や訛りのある短歌が多いのも、「防人の歌」の特徴です。その点で、前に見た「東歌(あずまうた)」とよく似た側面がある。和歌の内容は、大阪湾から北九州の大宰府へと出発するところを、見てくれる人がいたらという、簡単な感慨です。

 防人は、遠く663年、朝鮮半島への出兵に敗れた、「白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い」に際して、唐からの侵略を恐れてもうけられたのが始まりの、徴兵制による、国土防衛軍とでも呼ぶべきものです。その内容は、当初は東国からの徴収でしたが、様々な変遷があり、大伴家持が難波に赴いたときは、しばらく停止されていた東国からの徴兵が、また再開された頃でした。その後ほどなくして、757年から、東国の徴兵は停止され、その後、徴兵が九州でなされるようになりますから、あるいは防人たちの短歌も、「万葉集」のために採取したのではなく、東国兵の実情を知らせる資料の一つとして、集められたのかもしれませんが……
 そんなややこしいことは、
  残念ながら私には分かりかねます。

我(わ)ろ旅は 旅と思(おめ)ほど
   家(いひ)にして 子持(こめ)ち痩(や)すらむ
  我(わ)が妻愛(みかな)しも
          玉造部広目(たまつくりべのひろめ) 万葉集20巻4343

俺の旅は 旅と思ってあきらめるが
  家で子供を抱いて やせ細っているだろう
    妻がいとおしくてならない

 我が身はあきらめるが、妻が哀れでなりません。つたないくらいの落書が、そのまま短歌になったくらいです。それでいて、心情は籠もりますから、私たちがまず見習うのに、最適なくらいですが、ただでさえ古い言葉なのに、訛りが加わっているものですから、もし口で唱えられても、注釈がなければ何の事やら、分からないくらいかもしれません。
 かといって、皆さまが地方の出身なら、
  自分の使っている方言を、そのまま使用しても、
   なんの差し支えもないものですから、
  方言の使える方は、さっそくノートを開いて、
 また落書きしてみるのが愉快です。


 かといって、方言は語れませんので、
  宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』の中から、
   鹿たちの方言短歌でも紹介しましょうか。
  実は宮沢賢治という人、
 かなりの数の短歌を残している歌人でもあります。

はんの木の
  みどりみじんの 葉の向(もご)さ
    じゃらんじゃららんの
  お日さん懸(か)がる
          宮沢賢治

ぎんがぎがの
  すすぎの底(そこ)で そつこりと
    咲ぐうめばぢの 愛(え)どしおえどし
          宮沢賢治

 では万葉集の防人歌に戻りましょう。

忘らむて
  野行き山行き われ来(く)れど
 わが父母(ちゝはゝ)は 忘れせのかも
          商長首麻呂(あきのおさのおびとまろ) 万葉集20巻4344

忘れようとしながら
   野を行き 山を行き 俺は来たが
 俺の父母のことは やっぱり忘れられない

 小学館の『万葉集』だけ結句が「忘れせぬかも」になっていますが、漢字のまま詠むか、他の歌の同様の表現に合せて、方言のように読み解くかで、解釈が異なっているようです。短歌については、私たちでも勝てそうな気すらしてしまうかも知れませんが、ちゃんと「野行き山行き」「父母」という同型のくり返しを行なっていて、「われ」と「わが」、「忘らむて」「忘れせの」が表現のくり返しを行なっています。これだけくり返しが重なる上に、全部で四句「わ」で始まりますから、口に出してみると、リズミカルで、心地よく、なかなか短歌らしく整えられていると言えるでしょう。

百隈(もゝくま)の 道は来にしを
  またさらに
    八十島(やそしま)過ぎて 別れか行かむ
          助丁刑部直三野(じょちょうおさかべのあたいみの) 万葉集20巻4349

百曲がりもの 道は来たけれど
  これからまた 多くの島々を過ぎて
    遠くへ別れゆかなければならないのか

 曲がり道を乗り越えて、陸路を通って難波に来たけれど、これから船に乗って多くの島を越えてゆかなければならないのか。遣り切れないような、長旅の気持ちを歌っています。「百隈(ももくま)」の隈(くま)はもともとは見えにくい場所を指しますが、そこから曲がりくねった道などを表わします。

 単純な表現ですが、「またさらに」を分岐点として、「過去の陸路」と「未来の海路」を対比させ、「百隈」「八十島」という数を含んだ表現から、それぞれを開始するなど、様式的に整えられていますから、学ぶべき点は大いにあるかと思います。

大君の 命畏(みことかしこ)み 出(い)で来(く)れば
  我(わぬ/わの)取りつきて 言ひし子なはも
          上丁物部竜(じょうちょうもののべのたつ) 万葉集20巻4358

天皇の 仰せに従い 出てくれば
 俺に取り付いて わあわあ言っていたあの子よ

 素朴な歌ですが、
  「わたしに取り付いては、言っていたあの子」
と何を言っていたかを省略することによって、短歌自体から推し量らせるという、レトリックを使用しています。もとより大したものではありませんが、上の句の状況説明から、嘆き悲しむような事を言ったことが分かります。このような省略法は、短い詩型のうちに、十分に思いを語るための方法として、もちろんこれまでにも何度も見たやり方には過ぎませんが、使ってみるのがお奨めです。

……使ってみますか?
 では興味のある方は、ノートを開いて、
  例えば「雨の中で泣いていたあの子は」
   など相手の行為だけを記しておいて、
    言った内容や、泣いた理由などは記さずに、
   あとは周囲の状況だけを記して、
  その理由を悟らせるような短歌を、
 詠んでみるのも上達です。
  もちろん難題に思えたら、
   スルーしても良いのです。


公園で
  折れたバットを 叩きつけ
    笑ってやがった あの野郎だけは
          いつもの彼方

     「なんか怖いっす」
身に疲れ
   よれた背広を 乗り出して
 橋から闇を 見下ろすのは誰
          時乃旅人

     「もっと怖いっす」
ふやけてた
   かさぶたむしる ひとりきり
 紅色なみだ 手のひらにじませ
          時乃遥

……なんだか負の連鎖反応が。
 気を取り直してまいりましょう。

防人(さきむり)に 立たむ騒(さは)きに
  家(いへ)の妹(いむ)が 業(な)るべきことを
    言はず来(き)ぬかも
          若舎人部広足(わかとねりべのひろたり) 万葉集20巻4364

防人に 撰ばれたどたばたで
  妻が俺の代りに やっておくべき仕事のことを
    言わずに来てしまった

  こちらは随分具体的で、リアルな感慨です。
 詩と言うよりは、たまたま口にしたことを、採取したら三十一字であったような語りですが、実際は騒ぎの内容も、なすべき事も具体的には記さず、そう詠めば伝わるであろう、ぎりぎりのラインを責めているあたり、先ほどの短歌と同様、最低限の詩としての手続きを、済ませてはいるようです。
 また真似をして、なにかを詠んでみるのも良いでしょう。

秋刀魚(さんま)を 取られた騒ぎに
  サンダルを はくのも忘れて
    飛び出す主婦かも

 なんでも良いのです。
  とりあえず、遣ってみることが大切です。
   はじめから、遣っていた人はいざ知らず、
  ここから、はじめて見るのも愉快です。
 もうすぐ終わりだなんて、
  気にする必要はありません。

ふたほがみ 悪(あ)しけ人なり
  あたゆまい 我(わ)がする時に
    防人にさす
          上丁大伴部広成(じょうちょうおほともべのひろなり) 万葉集20巻4382

フタホガミは、悪い奴だ
  病気に 俺がなっている時に
 防人なんかにしやがって

  こっちはむしろ、ただの語りです。
 ただし「ふたほがみ」「あたゆまい」には、ちょっとゴロを合せたような、表現の面白さが籠もります。二句で述べたい事実を先に提出して、改めてその理由を三句目から説明していますから、構造的にはそつがなく、語り口調でありながら、短歌らしくも響きます。

 実際は不明なところが多いのですが、内容がユニークなものですから、しばしば引用されてもいる短歌でもあります。詠み手は那須(なす)の郡(こおり)の出身なので、「ふたほがみ」というのは下野国の国守(こくしゅ)の事ではないかともされますが、あくまでも一説に過ぎません。「あたゆまい」というのも何らかの病気とされますが、「急病」だの「熱病」だの、逆に「仮病」であるという説まであるそうです。本来、このような「分からないところの目立つ」短歌は採用しない方針を採っていますが、おおよその意味だけでも面白いので、ここで取り上げてみました。

 それにしても、謎の「ふたほがみ」「あたゆまい」に助けられて、魅力を醸し出してはいますが、内容としては詩と言うよりは、偶然愚痴が三十一字になったような気さえしてきます。これを採用した、大伴家持に感謝と言ったところでしょうか。実は不採用になった短歌も結構あることが、万葉集には記されていますから。

係長 嫌な奴です
  期限切れ 書類の束を 目の前で破く

 私たちには、
  かえってありがたいサンプルです。
   このくらいのスタートラインで、
    大いに結構かと思います。
   次は送り出した、妻たちの短歌。

くさまくら
  旅ゆく背(せ)なが 丸寝(まるね)せば
    家(いは)なる我(われ)は
  紐(ひも)解かず寝む
          妻(め)の椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ) 万葉集20巻4416

(くさまくら) 旅を行くあんたが
   服を着たまま ごろりと眠るなら
  家にいる私も 紐を解かないで眠りましょう

くさまくら
  旅の丸寝(まるね)の 紐(ひも)絶えば
    我(あ)が手と付けろ
  これの針持(はるも)し
          妻の椋椅部弟女(くらはしべのおとめ) 万葉集20巻4420

(くさまくら)
  旅先に着たまま横になる
    あんたの服の紐が切れたなら
 わたしの手だと思って付けてよ
   この針を持って行って

  どちらも待つ妻の短歌。
 おなじような着想ですが、一方はわたしも紐を解かずに眠ると詠んで、もう一人は紐が切れたら、この針を私だと思って自分で縫うのよ、と気遣っています。どちらも語りが優位すぎて、かえって冒頭の「草枕」という旅に掛かる枕詞が、添え物のようになってしまっていますが、それでもなお、短歌という様式へと留める役割を、懸命に果たしているように思われます。

 次は、昨年の防人の歌を八首、渡されたうちの一首。あるいは優秀作品として残しておいたものでしょうか、次の短歌などは、これまで挙げた「そのまま歌」より、ずっと凝った作りになっています。最優秀賞といった所でしょうか。

笹(さゝ)が葉の
   さやぐ霜夜(しもよ)に 七重着(なゝへか)る
 ころもに増せる 子ろが肌はも
          (昨年の防人の誰か) 万葉集20巻4431

笹の葉が さやさやと音を立てる
   霜の夜に 七重に重ねて着る
  服よりも勝るもの 愛する人のやわ肌よ

 冒頭の「笹の葉がさやぐ霜の夜」などという効果的な情景描写。「七十着る衣に勝る」などという凝った比較。なかなか下級兵士に詠めそうな内容ではありません。ある程度は、短歌の詩作を心得ているもののしわざです。

その他の歌

 巻第二十の後半は、「防人」を離れて、また大伴家持の周囲の和歌を収めます。次の和歌は、橘諸兄(たちばなのもろえ)が、天平元年(729年)の班田(はんでん)の業務にたずさわった時のもの。実は以前お話しした、過労で亡くなった丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)に対して、大伴三中(おおとものみなか)が長歌を詠んだというのは、この時の班田での一エピソードになっています。

  『班田の時に橘諸兄が、
     薜妙観命婦等(せちみょうかんみょうぶら)に贈る歌』
あかねさす 昼は田賜(たゝ)びて
   ぬばたまの 夜のいとまに
      摘める芹(せり)これ
          橘諸兄 万葉集20巻4455

(あかねさす) 昼は班田に精を出し
   (ぬばたまの) 夜ちょっとした暇を見つけて
       摘んだ芹(せり)ですよこれは

「あかねさす」は「昼」「日」などに掛かる枕詞。「ぬばたまの」は「夜」「黒」などに掛かる枕詞で、ここでは二つの対比を、それぞれ枕詞を掲げて行っているので、それだけで短歌に、非日常的な風格が籠もります。

 昼の間は、人々に田を分かち与えるための業務で、寸暇(すんか)[わずかな暇]を惜しんで働きづめなので、夜にようやく暇を見つけて、あなたのために芹を摘みましたよ。といって芹のお土産に添えた短歌になっています。細かいことですが、
     「(あかねさす)昼」 ⇒不特定の人々、分かつ作業、忙しい
     「(ぬばたまの)夜」 ⇒特定の人々、集める作業、暇を見つけて
ときめ細かい対比がなされていて、結句を導き出しています。贈った相手は、天皇に仕える命婦(みょうぶ)たちくらいで好いでしょう。そのうち、詞書の名称の命婦が、返事を送ってきたという趣向で次の和歌。

     『答え』
ますらをと 思へるものを
  大刀(たち)はきて かにはの田居(たゐ)に
    芹そ/ぞ摘みける
          薜妙観命婦(せちみょうかんみょうぶ) 万葉集20巻4456

「ますらお」と 讃えるような人物と
   思っておりましたのに 大刀を取り付けて
  可尓波(かには)の田んぼで 芹なんか摘んで入らしたの

 可尓波(かには)は、今日の京都府木津川市山城町綺田(かばた)で、蟹満寺(かにまんじ)という寺があり、国宝が収められていて有名です。だからという訳ではありませんが、「可尓波」に「蟹」を掛けて、「ますらお」かと思ったら「蟹」みたいになって芹なんか摘んで、とからかったともされています。ただしこれは確証がある訳ではないようですが、ユーモアとしては、
   「ますらおのくせに、田で芹なんか摘んでるの?」
でも、十分通じるかと思います。

「ますらお(ますらを)」という言葉は、万葉集ではしばしば登場する呼び名です。もともとは、屈強の勇ましいような男を指す言葉だったものが、健康優良な男性、健全な官人、くらいで使用される、一般的な通称へと移っていた模様ですが、短歌においてはこのように、「ますらお」である筈なのになんでか駄目な男のような、詠まれ方をするものが少なくありません。

 この言葉は後に、賀茂真淵(かものまぶち)(1697-1769)が『万葉集』は「ますらをぶり」の歌集であるとして、後の『古今和歌集』の「たをやめぶり」つまり女性らしさと対比したために、めでたく学校でも覚えさせられる言葉になっていますが、必ずしも『万葉集』が「健全な強い男」の要素の強いアンソロジーではないことは、これまで眺めてきた実例を見れば、お分かり頂けるかと思います。
 以上、おまけのコラムでした。

 次の短歌は、中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろのあそみ)の屋敷で、宴会が開かれた時の短歌。

梅の花 香をかぐはしみ
  遠けども こゝろもしのに
    君をしそ/しぞ思ふ
          市原王(いちはらのおおきみ) 万葉集20巻4500

あなたの屋敷の
  梅の花の 香りが慕わしいので
    遠くはありますが
  こころから あなたを思っています

「心もしのに」は、「しなる」「しんみりと」などで説明される方が優位ですが、小学館の「万葉集」の解説は、徹底して「しきりに」「頻繁に」と説明しています。今は煩わしいので、「こころから」くらいで済ませておきましょう。詩の内容は、私の家まで、あなたの屋敷の梅が香って来ますから、随分遠い距離にはありますが、それでいつも、あなたを慕っているのです。という、現実の距離感と心の距離感を対比して、相手に敬意を表する短歌になっている訳です。

 けれども実は、
  「遠けども」という無駄な説明が、
    思いを込めると同時に、
   この短歌の傷にもなっています。

  わたしたちは、これまで、
 さらりと詠まれたものばかりを眺め、『万葉集』の短歌が、どれほど私たちの、何気ない語りや落書きと、変りのない表現でなされているか、その延長線上のことに過ぎないのか、自分たちも短歌を作ってみるという視点を通して、全巻を眺め切った事になります。

 けれども容易く作れるということは、容易く理解し、容易く寄り添うのには相応しいものではありますが、もし詩の価値ということになりますと、そうでなければならない、必然性に乏しいと言うことにもなりかねません。

 『万葉集』の作品などは、それがわたしたち日本人の、最初の詩集であることから、どのような作品もまた、それだけで価値を有するものには違いありませんが、今私たちが詩を詠むという事を考えれば、取りあえず、自分の思いを伝えるような短歌は作れるようになった。ではそれをどうしたら、自分にとっても、第三者にとっても、作品として評価されるべき必然性をもった、優れた作品にしていくか。
 そこに次のステップに踏み出すべき、
  必然性が残されているようです。

  この短歌も、なるほど悪いものではありませんが。
 ほんのちょっとの手直しをすれば、もっと良くなる可能性があるならば、私たちはさらなる向上を目指して、もう一度はじめから、短歌を作るということを目標に掲げて、『万葉集』を眺めてみるのも、楽しいのではないでしょうか。

新(あらた)しき
   年のはじめの 初春の
  今日降る雪の いやしけ吉事
          大伴家持 万葉集20巻4516

 新しい年のはじまりの初春を迎えた今日、降ります雪のように、ますますしきりに積もりましょうよ、良きことごとよ。『万葉集』全二十巻は、この大伴家持の、赴任先の因幡国で詠まれた和歌をもって、静かに閉ざされることになりました。
 これをもって、「はじめての万葉集」の、
  解説を終わりにしたいと思います。

後書

 以上で、『万葉集』全二十巻を、ひと通り眺め終わりました。
  けれども万葉集の和歌というものは、悲惨なものから最高の作品まで、様々な階層に分かれていて、私たちの眺めたものは、日常の語りからちょっと踏み出したくらいの、第一階層の佳作(かさく)には過ぎません。

 もし『万葉集』に、そして短歌というものに興味が湧いて来た方がいられたら、ぜひさらなるステップと、万葉集へ近づくことを目指して、ふたたび万葉集へと、足を勧めて欲しいと思います。私たちはまだ、グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)のファーストステップを踏み出したばかりなのですから。

               (をはり)

2016/05/02
2016/06/10 改訂

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