はじめての万葉集 その三

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はじめての万葉集 その三

巻第九

 さてこの巻も「雑歌」「相聞」「挽歌」のすべてを含みますが、初学者に対する特徴を挙げるなら、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の、「浦島太郎」伝説をはじめとする、いくつもの伝説を扱った、物語風長歌が収められていることです。これは大変面白いのですが、先に進まなくなりますので、ここではどのようなものか、わたしが現代語にうつしたもので、ちょっとだけ、紹介するに留めたいと思います。

     「水江(みづのえ)の浦島子(うらしまのこ)を詠む一首」
春の日の 霞む季節に
  住吉(すみのえ)の 岸に向かって
    釣り船の 揺れる様子は
  いにしえを 思い起こすよ
    水江(みづのえ)の 浦島子(うらしまのこ)が
      カツオ釣り 鯛を釣り上げ
        七日まで 家に戻らず
      海のうえ 遠く漕ぎゆく

と始まり、海神の娘と出会っては、老いもせず暮らし、地上に戻って玉手箱を開けるとあら不思議、たちまち月日は流れ、ついに浦島子は死んでしまいましたとさ。と長歌を終えます。そして「愚か者め」と短歌で結ぶという。

 そんな面白いストーリーが目白押しなのが、この第九巻で、それ以外の短歌も質の高いものが多い。なかなか魅力的な巻になっていますから、我慢できない方は、わたしの落書きなどに固執せずに、さっそく『万葉集』に、手を伸ばしてみるのも愉快です。
 それではわたしたちは、
  短歌ばかりを軽やかに流しましょう。

     『舎人皇子にたてまつる歌』
冬ごもり/こもり
  春へ/べを恋ひて 植ゑし木の
 実になる時を かた待つわれぞ
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集9巻1705

(ふゆごもり)
  春を待ちこがれて植えた木の
   さらに実になる時期を
  ひたすらにわたしは待っている

 これも暗示が込められているような和歌ですが、おもての意味は、春になって花が咲くのを待ち焦れて植えた木が、めでたく花も咲き終わったので、今度は実になるのを、わたしは待っているという内容です。すでに花を楽しんだことは、次の段階である「実になる時を」から悟れますが、このように先のことを提示してしまって、聞き手に中間の出来事を悟らせるのも、字数に制限のある短歌では、しばしば利用されるテクニックですので、覚えておくと良いかも知れません。冒頭の「冬ごもり」は、籠もって寒さをやり過ごすイメージですが、春の枕詞としても知られた言葉です。なるほど、お花見が終わったら、次は実を、美味しくいただきたいのはもっともですが……

 収穫を待つ短歌と詠めばそれまでですが、
  もし、恋の喩えと捉えるならば、
   すでに恋人同士にはなれたので、
    今度は結婚する時期を、
     待っているような短歌にもなるでしょうか。
    あるいはまた舎人皇子への歌であることに注目して、
   取りあえず今の役職は得られましたが、
  それが実になる時を待っていますと、
 昇進の催促をしたと捉えても、
  面白いかも知れません。
   お好きなものをお取りください。

     「麻呂の歌一首」
いにしへの
   賢(さか)しき人の 遊びけむ
 吉野の川原 見れど飽かぬかも
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集9巻1725

いにしえの賢人たちが遊んだという
  吉野の川原を見ていると飽きることはない

 ビシッと決まった台詞のようで、「麻呂の歌一首」というのは柿本人麻呂のことかと思いたくなりますが、これは不明です。ついでに『柿本人麻呂歌集』というのは、万葉集でしばしば引用される歌集ですが、はたしてそれが柿本人麻呂の作品集なのか、編纂した集なのか、彼を中心にした歌人集なのか、そのあたりがはっきりしないので、『柿本人麻呂歌集』に納められているというだけでは、柿本人麻呂の和歌とは断定できません。

 短歌の方は、ただ眺めていても飽きない吉野川ではありますが、上の句で「他の人も同じように遊んだろう」と加えることにより、喜ばしい情景が拡張されます。あとは「他の人」を誰に定めるかの問題ですが、ここでは「いにしへの賢しき人」という、誰だかは分かりませんが、歴史的な偉人めいた表現を折り込むことによって、詠み手との時間の幅と、(仮想的な)人格の幅が形成されます。

上句 ⇒[空想][過去][偉人]
下句 ⇒[現実][現在][ただの人]

 これによって、聞き手は目の前の情景だけでなく、読み手の心情、その空想の幅をも共有することになりますから、ただの川原を眺めているよりは、遥かに奥行きの深い、伝説の川原にでもいるような錯覚に囚われてしまう。

 とはいえ、短歌の言葉としては、川原で詠まれたさりげない語りかけのように響きますから、その場で話しかけられたような臨場感と、なんだか深みのある魅力的なことを言われたくらいで、詠み手が周到な戦略を練って、短歌の構成を練り上げたことはちっとも悟れません。

 だからこそ、この短歌は、優れた短歌なのであって、これが着想や表現の妙を丸出しにして、自分の言葉に酔いしれたような内容であったなら、同じように練り上げたとしても、相手の共感を得られないばかりか、軽蔑されるのがオチということにもなりかねません。つまり、

ほととぎす
  ひとすぢ咲けば 空晴れて
 悲劇の中に たたずむ如し

 なんて、ほととぎすの鳴く実景を前に、誰かから語りかけられたら、こんな素敵な情景を前にして、言葉をもてあそぶことに熱中している、詠み手が穢らわしくて、一刻も早く傍を離れたくなるばかりですが、

いにしへの
   賢(さか)しき人の 遊びけむ
 吉野の川原 見れど飽かぬかも

と、吉野川の川原を前に、誰かに語りかけられても、ただ昔の人も遊んだこの川原という、ありきたりの感慨には過ぎませんから、「ほととぎすが鳴いているけど、なんだかちょっと悲しいね」くらいなら、何の不愉快もなく共感出来るのと同様、シンパシーが湧いてきます。共感出来るとなると、たちまち先ほどの構成が生きて来ますから、傍にいる詠み手の、すばらしい詩的な表現がうれしくて、なおさら目の前の光景が、豊かになるような錯覚さえしてきます。つまりはこれが詩の領域であり、「ほととぎすが悲劇に咲き散る」のが着想品評会の提出物、ということになるでしょう。

 それでは、折角ですから、現在眺めている状況に対して、「過去は~だったろう」という感慨を加えながら、いくつか短歌を詠んでみましょう。このようなパターンを覚えておくと、旅先でとっさに情景を詠むのに便利ですから、練習するのも無駄ではありません。
     [図書館の本]⇒「~の人たちも眺めたのだろうか」
     [賽銭箱]  ⇒「かつて~も投げ入れただろうか」
     「古戦場」  ⇒「~も剣を振るって闘っただろうか」
など何でも良いので、
  ひとつでもふたつでも、ノートに詠んでみるのが向上です。


     「先陣は俺だぜ」
たましいの
  古びたギター かき鳴らせ
    消えたあいつの 歌がかさなる
          いつもの彼方

     「何かいつもと違いますね」
島にはもう
  誰もいません ふるさとは
    かつてほゝえむ 人のすがたよ
          時乃遥

     「普通にするのも大変」
ひとすじの
  風を伝えて ほととぎす
    いつか誰かの 悲しみに鳴く
          改変歌 時乃旅人

 次のは誰だか分からない、
  とにかく石川さんという人の和歌。

なぐさめて 今夜(こよひ)は寝なむ
  明日(あす)よりは 恋ひかも行かむ
    こゆ別れなば
          石川卿(いしかわきょう) 万葉集9巻1728

慰め合って せめて今夜は眠ろう
   明日からは 恋しく旅をするのだろうな
     ここで別れたなら

 「こゆ」というのは「ここから」「ここを」くらいの意味です。冒頭が一緒にいる相手に語りかけるように聞こえますから、全体が台詞のように、臨場感を持って語られる。あとは気障な台詞が、ふさわしい名優かどうかですが……

 実際に共に寝ている以上、すくなくとも相手の女性にとっては、語り手は素敵な恋人に見えている。そんな前提がありますから、聞き手は自分勝手に、理想の恋人達を思い描いて、安心してこの台詞を、心地よく聞いていられる訳です。

 さらに「今夜は共に」「明日からは離れて」と単純な対比によって、詩としてのフォームを定め、冒頭の慰め合ってという表現が、肌感覚の喪失を際だてますから、別離の心情を大きく見せることになる。作詩の基本を押さえてもいる訳です。

 語りかけさえ不自然でなければ、このくらいの詠み方で、もう十分整った詩になる訳ですから……なるほど意味だけを追い求めて、頓知とフィーリングを駆使して、時にはいつわりの古語を持ち出して、不思議な言葉のオブジェをこしらえることが、どれほど詩的表現に乏しいか、その作品を実際に、日常の感慨のなかで使ってみたら、その嫌みがよく分るには違いありません。。

 それに対して、こちらの作品などは、
  そのまま今日のドラマにでも、
 還元できそうなゆかいです。

その後

 「相聞」「挽歌」と続きながら、高橋虫麻呂の作品を中心に、物語風の長歌とそれにたいする反歌が数多く収められています。きわめておもしろい作品が待っていますが、いまは先へと向かいましょう。まだ半分にも達していませんから。

巻第十

 巻第八は、「よみ人の分かる」四季の歌でしたが、
  巻第十は、「よみ人しらず」の四季の歌になっています。
   四季の分類は巻第八と同じで、
     春の雑歌、春の相聞
     夏の雑歌、夏の相聞
     秋の雑歌、秋の相聞
     冬の雑歌、冬の相聞
という括りですが、「よみ人知らず」で占められていた巻第七のように、
    「~を詠む」「~に寄せる」
といった見出しでまとめられているものが多いのが特徴です。また後に勅撰和歌集に採用された『万葉集』の短歌は、この巻から引用されたものが非常に多く、その際に「よみ人しらず」の短歌が、柿本人麻呂や山部赤人のものにされるということが、しばしばなされています。詠まれた内容としては、七夕(たなばた)ブームでも到来したかと思うくらい、七夕の短歌が、数多く並べられているのが特徴です。短歌の密集地帯でもありますから、紹介が多くなりますので、ご注意ください。それでは。

春歌

     『雪を詠む』
梅の花
  降りおほふ雪を つゝみ持ち
 君に見せむと 取れば消(け)につゝ
          よみ人しらず 万葉集10巻1833

梅の花に 降り積もる雪を
  手のひらで 包むようにして
    あなたに 見せようと
  取るたびに 消えてしまうの

 表面上の意味は、
  解説をするほどのこともありません。
 ですからもちろん、実際に雪を手のひらに取って、見せようと思ったら消えてしまって、またつつみ取るような情景を、浮かべて貰って構わないのですが、結句の「消につつ」の「つつ」は反復や継続を表します。実際に消えたら取る、という行為を繰り返すことは、子供ならありそうですが、

「降りおほふ雪をつゝみ持ち」

といった表現が、ある程度の表現力を獲得していないと、詠みこなせないような感じですから、相手を「君」と呼んでいることもあって、どうしても詠み手は、ある程度の年齢に達した女性のように感じられます。

 さらに、溶けないうちに見せられるほどの距離に、相手がいるならば、特にそれが男性であれば、こちらから運ぼうとはせずに、呼び寄せて一緒に見るのが自然です。もとより、身分に関することなどは、これくらいの短歌では、読み取りきれませんから、相手の男性はもっともありがちな、身近な恋人のように響いてきます。すると、一回目で溶けるのは分りますから、すぐ近くにいる恋人に、わざと取っては溶けるという行為を繰り返しているのが不自然で、恋の戯れとも取れなくもないのですが、短歌のしんみりした調子から、ちょっと気持ちに添いません。

 そこが気になって、くり返し唱えてみると、
  ようやく、この短歌に詠まれている相手の「君」が、
 近くにはいないように感じられて来ました。つまりは、そこにいない相手に見せる振りをして、なんども雪をすくい取っては、消えるのを眺めて、「あなたに見せよう」と手にすくい取って、消えるのを眺めて、また「あなたに見せよう」と思って、手にすくい取って、消えるのを待って眺めているような……

 ひとり恋人ごっこではありませんが。
  心のなかに恋人を見立てながら、
 実際には逢いたくても逢えない相手のことを思いながら、ひとりで詠まれているようには感じられないでしょうか。さらに、梅の花を「降り覆う雪」という表現も、大切なものを包み込んでいるようなイメージで、全体のトーンがしんみりとしていますから、なおさらそのように感じられる。それで表面上の内容が簡単な割には、しみじみと心に残るような、忘れがたい短歌になっているのではないでしょうか。

 このような、
  あまりにもさりげない、
   聞き流しそうなありきたりの表現のうちに、
    噛めば噛むほど味わいが表われて、
   ついには忘れられない、
  優れた作品のように思われて来る和歌を、
   「するめ歌」と呼びます。
    もとよりわたしの造語には過ぎません。

     『雪を詠む』
君がため
  山田(やまだ)の沢に ゑぐ摘むと
 雪消(ゆきげ)の水に 裳(も)のすそ濡れぬ
          よみ人しらず 万葉集10巻1839

あなたのために
  山田の沢で えぐを摘むと
 雪解け水で 裳の裾が濡れました

「えぐ」というのは、カヤツリグサ科の多年草「クログワイ」のこととされています。湿地に生える植物で、今日では水田の雑草として、その凶暴性が知られていますが、地下に茎を持っていて、花を付けるための花茎(かけい)を、細い棒のように地表に立てまくるやんちゃものです。地下には塊茎(かいけい)[茎が固まりになった芋状のもので、ジャガイモも同じ]が形成され、それが食用にされていたようです。ただし、中国料理で俗に「クログワイ」と言われるものは、「シログワイ」を栽培したもので、これとは違うとか……
 はて、何の話でしたか、
  ずいぶん脱線しました。

 閑話休題。
  服装の方へ移りましょう。
 「裳(も)」は服の上に、腰から下に巻き付ける、ひだひだの長いスカートのようなものです。女性は「裳」を、男性は代りに「袴(はかま)」を付けるのが、万葉人の着こなし術だったようです。そんな服装で、湿地にゑぐを摘みに行ったら、裳の裾が濡れるのは当然のような気もしますが、それが「雪解けの水」であると断わることによって、春のよろこびを表現してる……

 深読みをすると、この和歌は、
  あるいは「雪解け水」を表現したいために、
   見立てられたものに過ぎないのかもしれません。
  けれども、あなたのためという表現も加わって、
   わざと裳の裾を濡らして見せたような、
    喜ばしい短歌に仕上がっています。
     ところでこの和歌、

君がため
   春の野にいでゝ わかな摘む
 わがころも手に 雪はふりつゝ
          光孝天皇 古今集21

  この『古今集』の短歌を思い起こさせます。
 万葉時代の短歌は、おなじようなパターンを、言葉を移しかえて詠むことが、当たり前のようになされていましたから、直接この短歌から、着想を得たものかどうかは分りません。ただ、万葉集のものは、上の句の結果として、当然起こりそうな下の句を詠んでいるのに対して、光孝天皇のものは、「春めく期待」の一方で、「わたしの袖に雪が降っている」と、対比すべき状況を詠んでいます。春への期待と、なかなか冬から抜けきらないもどかしさを表現したものとして、万葉集のものよりはちょっと繊細な、古今和歌集時代の短歌として、比べてみるのも面白いかも知れません。

     『花を詠む』
うつたへに 鳥は食(は)まねど
    縄(なは)はへて
  守(も)らまく欲しき 梅の花かも
          よみ人しらず 万葉集10巻1858

別に鳥が食べる訳でもないけれど、
   しめ縄で結界でも作ってやって、
 守ってあげたい梅の花、なんてね。

 話が間延びしたので、
  今度は軽やかな冗談を。
 「うつたへに」というのは、多く「うつたへに~せず」など、下に打消しや反語を伴って、「必ずしも~ではない」「別に~ではない」くらいの表現になります。「縄延へて」は、鳥除けの縄としても構いませんが、飛ぶ鳥には効果のなさそうな、神域などを示す(あるいは自分の占有地などを示す)縄を張っている、と捉えると、

守るべき必要もないのに対して、
  守るべき必要もない方法まで持ち出して、
    守ってやりたい梅の花

 ちょっとしたコミカルな情景に、梅に対する愛情が内包されるという、まるでシェイクスピアの喜劇めいた表現が感じられ、つい自分たちが梅の花を見つけたときでも、(あるいはそれを好きな人に見立てて、)縄を張って守ってやりたい気分にさせられます。それにユーモアが籠もります。

     『川を詠む』
今ゆきて
   聞くものにもが 明日香川(あすかがは)
 春雨(はるさめ)降りて たきつ/たぎつ瀬の音を
          よみ人しらず 万葉集10巻1878

今いって 聞けたらいいのに
   明日香川に 春雨が降って
 はげしくほとばしる 川瀬の音を

 はじめのうちは、
  「もが」という聞き慣れない表現が、
「もがもが」とあがくようで、言葉に引っかかりますが、これはより多くは「もがも」「もがな」という表現で、「~だったらなあ」というような願望を表現する終助詞(しゅうじょし)です。

 飛鳥川は、大和川の支流で、明日香村を抜けて奈良盆地の方へ下ってゆきますが、その上流は渓谷をはげしく流れます。春雨が降って、なおさらはげしくなった川瀬の音を、聞きたいという短歌ですが、
   「今行きて」
 つまり雨の音の中で、川瀬の音を聞きたい。という趣向に、もっともらしくこしらえた短歌とは異なる、詠み手のリアルな情緒が込められているようで、新鮮に響くのではないでしょうか。

 つまり、散漫な感想を述べたような、冒頭の二句が、実はこの和歌を、魅力的なものにしている。実際に話しかけるような、簡単な言葉だからこそ、続く情景描写の内容にまで、つい聞き入ってしまうという訳です。これを例えば、
   「たとえ流れに飲まれてもいい、
      いますぐ聞きたい!」
などと大げさに唱えたら、「本当に思ってもいないエセ芝居だ」、とすぐに悟られてしまいますから、本当に思ったところだけを、描いてみせることの大切さの、この和歌はよい手本になっているようですね。

 それではせっかくですから、またノートを取り出して、冒頭には自らが行なおうとしている行為を、下の句側にはその状況を、描いて短歌を詠んでみましょう。内容は、ここにあるような、
     [今すぐ~がしたい]⇒[その内容]
でもよいですし、
     [飯を食いに行こう]⇒[その内容]
     [全力で走った]  ⇒[そのルートや状況]
など何でも構いません。とにかく、願望でも決定事項でも、自らの行なう行為を提示して、後ろにそれを説明していれば良いことにします。それではどうぞ。


ぶん殴る
  出かけた夜の 鏡には
    ハロウィンみたいな お化けの顔だぜ
          いつもの彼方

     「弱っ」
花を買う 支度をすれば 花瓶には
  咲き残ります 何の花かな
          時乃遥

今すぐに 走り出せたら
  ふるさとを 君は離れる 待合の駅
          時乃旅人

春の相聞

かすみ立つ
  春の長日(ながひ)を 恋ひ暮らし
    夜もふけゆくに 妹も逢はぬかも
     (夜のふけぬるに 妹に逢へるかも)
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集10巻1894

かすみの立つ 春の長い一日を
  恋しく思いながら暮らし
 ようやく夜になって
   その夜も更けてきたのに……
  あの子に逢いたいなあ

 この「逢はぬかも」というのは願い求める表現です。()で括った方は、講談社文庫の『万葉集(二)』のもので、「妹に逢へるかも」でしたら、ようやく逢えたという内容になります。つまり正反対の意味になってしまう。このような例も、万葉集には、なかなか多いのですが……
 今は特に気にせず、
  両方ひっくるめて、
   話を続けることにいたします。

 この和歌の魅力は、
   「かすみの立つ春の長い一日を恋暮らしては夜も更けて」
と、おそらくは「朝霞」のところから長々と、夜が更けるまでを記述している点に尽きると思います。ちょうど、

あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の
  長々し夜を ひとりかも寝む
          よみ人しらず 万葉集11巻1802(別本にいはく)

という、後に柿本人麻呂の名作として、『百人一首』に掲載される和歌が、上の句の、のたくるような長々しい尾の表現自体から、「長々しい夜」を長々しく感じさせるのとを同じように、この短歌も、朝からの恋い慕う様子を、春の一日の長々しく、伸びきったように語ることによって、結句の思いを高めている。

 それでようやく恋人に逢えたなら、ハッピーエンドですが、さらに逢いたいと終わらせると、また待たなければならなくなりますから、四句までの長々しさがより生きてくるかも知れません。ただ「逢えない」にせよ「逢える」にせよ、それぞれ面白みがあるものですから、専門家でもない私たちは、お好みの方を取って、楽しんでいるのがよいかと思われます。

     『鳥に寄する』
春されば
   もずのかやぐき/草ぐき 見えずとも
  我(あれ/われ)は見やらむ 君があたりをば
          よみ人しらず 万葉集10巻1897

春になればモズが草に隠れて
  見えなくなってしまっても
 わたしは眺めていましょう
   あなたのいるあたりを……

 「百舌(モズ)の草潜(くさぐき)/かやぐき」というのは、春から夏にかけてモズが山に移動して、人目に付かなくなるのを、草の中に隠れたもののように、表現したと辞書には説明されます。それでいながら、平気で「秋の季語」とされていますが、あるいは秋になって、ふたたび人里へやってくる時期を、ゆだねたものでしょうか。同じく「秋の季語」である「百舌の速贄(もずのはやにえ)」と、混じり合ったとも思われますが……脱線しますので深入りはしません。

 モズに喩えられるのは、さかんにさえずる女性ではないかとも思われそうですが、「君」と呼びかけているのと、詠み手が待って眺めている他に、手立てがなさそうな所から、やはり女性が男性に対して、しきりに見かけていたあなたが、近ごろはちっとも現われませんが、と読み解くのが相応しいかと思います。

 あなたのあたりを見ていますなんて、一途に過ぎて、生真面目が過ぎて、ちょっとストーカーじみた気配も無きにしもあらずですが、それだけに相手を思う気持ちは、しっかり伝わって来るのではないでしょうか。

夏の雑歌

ほとゝぎす いとふ時なし
   あやめぐさ かづらにせむ日
      こゆ鳴きわたれ
          よみ人しらず 万葉集10巻1955

ほととぎすよ
  お前をいとわしく思うときなどない
    菖蒲を髪に飾る端午の節句に
  ここに鳴きわたってくれ

 アヤメ草なんて聞くと、美しい花を想像しますが、これは今日のアヤメ科のアヤメでも、同じくアヤメ科のハナショウブでもありません。「あやめ」「はなしょうぶ」「かきつばた」はアヤメ科の、美しい花の三姉妹として讃えられますが、こちらはショウブ科の「ショウブ」で、花もねこじゃらしみたいな、鑑賞するよなものでもないのです。それをなぜ鬘(かずら)、つまり髪飾りにするかと言うと……

 またしても、中国の伝統で、
  端午の節句(菖蒲の節句)と一緒に、
 縁起物として、邪気を払うような効果で、使用されたからです。「こゆ」というのは「此処を行く」くらいに捉えてもかまいませんが、「ここを経過して行く」という意味です。
 わざわざ「いとふ時なし」と言ったのは、なにか含みがありそうですが、あるいは菖蒲を使用して、邪気(じゃき)[病気などを引き起こす悪い気]を払うような行事だが、お前を追い払うためのものではない、だからどうか来ておくれ。そんなニュアンスかも知れません。

     『花を詠む』
野辺見れば
   なでしこが/の花 咲きにけり
 我(あ/わ)が待つ秋は 近づくらしも
          よみ人しらず 万葉集10巻1972

野辺を見ると
  なでしこの花が 咲いている
    わたしの待つ秋が 近づいて来たようだ

「なでしこ」と言えば、大伴家持が好んだ花としても知られますが、万葉集では「カラナデシコ」を指すのか、「ヤマトナデシコ」を指すのか、ややこしい話もあるようです。みなさまは、あまり深く関わらず、自分の知っているナデシコを、浮かべてくださればよいかと思います。

  「~が咲いた。もう~の季節だ。」
いつの時代にもありそうな、詩の定型ですが、それだけに屈託もなく、さらりと寄り添うことが出来るのです。これを「秋が咲きました」などともてあそび始めると、なかなかうまくやらないと、かえってこの短歌から得られるような、素直な心情を遠ざけることもあるから、注意が必要です。

夏の相聞

 軽やかにスルーです。
  それでは申し訳ないので、
   ノートを開いて、先ほどの季節を表明する、
  短歌の定型を詠んでみることにしましょう。

「~が咲いている」「~が鳴いている」「雲や霞が立っている」などと前半で提示して、「~の季節です」「~の季節は来たようだ」などとまとめるものです。先ほどの「なでしこ」の和歌を参照にして、春夏秋冬で一つづつ、詠んでみるのはいかがでしょうか。


ベーグルに
  トマトバジルの さわやかさ
 挟むハムして 夏はすぐそこ
          食欲歌 時乃遥

叩け叩け
  サンドバッグが 汗を吸う
    がむしゃら熱いぜ 真夏参上
          いつでも彼方

夕べより
  ヴィオラの弦の 軽みして
    ブラームス弾く 初夏の当来
          時乃旅人

秋の雑歌

     『七夕』
わが背子に
   うら恋ひをれば 天の川
  夜舟(よふね)漕ぐなる 楫(かぢ)の音聞こゆ
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集10巻2015

あの人を こころうちに
  恋しく思っているうちに
    天の川から
  舟を漕いでいるのでしょう
    楫の音が聞こえてきます

 「うら恋ふ」というのは「こころのうちに恋慕う」という意味です。彦星がやってくるのを待っていると、楫の音が聞こえてくる。ここで「夜船を漕ぐなる」の「なる」は間接的な推量ですから、そのきめ細かい言い回しを解くならば、

 高鳴りそうな気持ちを抑えて、表情に出さないように、こころのうちで恋しさをこらえていますと、天の川から、まだ遠くてはっきりとは分らないけど、まるで夜船を漕ぐような、そう、あれは間違いありません。楫の音が聞こえてくるのです。

 ただ「あなたを思っていると楫の音が聞こえました」
くらいの着想を、さらさら記したように見えて、きめ細かい心理状態が、描き出されていることが分ります。また楫の音で判断していることから、夜が暗いからだけでなく、しばしば天の川に歌われる、霧が立ちこめているとイメージしてみるのも、悪くはありません。

     『七夕』
彦星(ひこぼし)と 
  織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふ
 天の川門(かはと)に 波立つなゆめ
          よみ人しらず 万葉集10巻2040

彦星と 織り姫が 今宵逢う
  天の川の 川門に
 波よ立つなよ 決して

「川門」は川の狭く、あるいは浅くなっているところで、最後の「ゆめ」は「ゆめ~するな」のような文脈においては、「絶対に」「決して」など強い禁止を表します。ここでは「ゆめ波立つな」を倒置させて、あえて一番最後に「ゆめ」と置いていますから、「波よ立つなよ、絶対だぞ」と禁止を強めるような印象です。

 その結句だけが、ちょっとしたこだわりですが、全体は一つ前の短歌と比べても、非常に分りやすく、彦星と織り姫について記すなら、誰でも思い描けそうな落書きが、偶然字数にはまったくらいのものですから、はじめて三十一字を試みる人たちには、もちろん『万葉集』に足を踏み入れる人にとっても、うってつけの手本かと思われます。

 何しろ誰でも思いつきそうなことを、創意工夫もほんのわずかに、書き流したくらいですが、聞き手がつまづくような、鼻に付くところはどこにもありません。これを例えば、

草づたふ 朝の蛍よ
  みじかかる われのいのちを 死なしむなゆめ
          斎藤茂吉 『あらたま』

なんて言われたら、
 たちまち詠み手の嫌みが鼻について、
  そこから逃げ出したくなるのではないでしょうか。

 素直に考えて見ましょう。
   朝に草の所を這っている蛍を見つけたとします。
  それを眺めていた、知人が、

草をつたう朝の蛍よ
   短くあるお前のいのちを
  死なせるなよ決して

と語りかけたとします。
 その時あなたは心から、
   「なんて素敵な感性なんだろう」
と感心したりするでしょうか。
 私にはそうは思えません。そもそも、素直な語りかけであるなら、はじめに蛍に語りかけておいて、もう一度「お前の」などと繰り返すのは、芝居がかっていますし、「長からぬ命」とか「短き命」と言うならまだしもですが、蛍に対する語りかけの中心である、三句目以下において、つまりみじかい命であることは、分かっていて語りかけているはずの相手に対して、「短くあるお前の命」なんて、くどくどしい事実の説明を加えたら、ナチュラルな語りとは思えなくなります。

 しかもそれは、みじかい命の蛍に生きて欲しいと願う、という詩の前提条件の説明に過ぎませんから、その前提条件のもとで歌っている、自然な一場景の役者の台詞としては、完全に破綻しています。その上、普通なら「死ぬなよ」と言えば済むところを、最後まで「命を死なせるな」という、芝居にしても添削を要するような、自然に芝居が進行しないような、嫌みに溢れた表現を加えましたから、

短くあるお前のいのちを
 死なせるなよ決して

 まるで、拙い翻訳で無理矢理日本語に置き換えた、海外文学の失敗作のようになってしまいました。こんな表現で、蛍に語りかける人を見て、あなたは本当に、「なんて素敵な表現」と感心するのでしょうか。

 しかも不愉快なことに、何度も言いますが、蛍がみじかい命であることは、はじめから分かりきっている事です。それでも生きて欲しいというなら、「今夜もまた光ってくれよ」とか「しばらくでも生きていて欲しい」と言えば済むことです。それを、わざわざ相手に対して、「現実としては短くあるお前の命であるが、死なせるなよ決して」と、さも、もうすぐ死ぬことを悟らせたいような解説口調で、どうにか理解させようとする。例えば、患者さんが手術前に、

短くあるお前のいのちを
 死なせるなよ決して

なんて言われたら、ショックを隠せなくなるのと同様です。この言葉は、心から蛍の長生きを望んだ言葉ではありません。とても死んで欲しくないと、思っているように阿感じられないどころか、事実として死ぬのは分かっていながら、所詮相手は虫けらだと思って、まるで上から目線で、死を思いはかる表現に酔いしれる、エゴに溢れた詠み手の姿しか浮かんでこないのです。そんな自らを美化するだけの、わたくしの一人芝居に、嫌々ながら付き合わされて、この蛍は、自らの一生はなんであったのかと、詠み手を恨みながら、亡くなっていったのではないでしょうか。

 つまりこの短歌には、蛍の立場に思いを委ねたり、愛情を注ぐのとは正反対のもの、どこまでも上から目線で、蛍を軽蔑し、その死を悟らせながら、なおかつ表面上は、蛍のみじかい命を推し量って、自らの精神の美しさに変えようとする、自己顕示欲にまみれた、詠み手のエゴ以外何も浮かんでは来ないのです。それに対して、万葉集の和歌は、

彦星と 織り姫が 今宵逢う
  天の川の 川門に
 波よ立つなよ 決して

 別に、七夕に対して、何の尊大な口調もありませんし、そもそも自らの表現をひけらかしたくて、「短いお前の命を死なせるなよ決して」などと、仰々しい台詞を吐く、詠み手のエゴのようなものが、まったく見られません。それだから、万葉集のものは、決して優れた短歌ではありませんが、アンソロジーに乗せて、未来に残されるだけの詩になっている。対して茂吉のものは、詩が死んでいるどころか、はじめから詩にすらなっていない、ただのエゴに溢れた、字数の合っただけの駄散文には過ぎないものです。

     『七夕』
天の川 渡り瀬深(ぜふか)み
  舟浮(う)けて 漕ぎくる君が
    楫(かぢ)の音聞こゆ
          よみ人しらず 万葉集10巻2067

天の川の 渡り瀬が深いので
  舟を浮かべたまま 漕いでくるあなたの
    楫の音が聞こえます

「渡り瀬」は、普通なら渡れるくらいの瀬を指しますが、それが深いとわざわざ断わっていますので、水量が増していることが分ります。これは別に、危機感をあおっている訳ではなく、おそらくは夏の天の川の豊かさと、七夕の逢瀬の困難から、七夕の頃には水量が増している、という印象が詠み手にはあって、

水量が増しているものだから
  普段ならもう逢える筈なのに、あなたは
    まだ舟なんか漕いで
  こちらにたどり着こうとしている

 まさか「ちまちま漕いでんじゃねえよ」と、織り姫が叫ぶ訳でもありませんが、待ちきれないじれったさ、それをなかなか近づいて来ないという、視覚に閉ざすのではなく、一定の調子で響く、まるで時計の針のちこちこちとじらすような、楫の音に喩えて締めくくっているのが見事です。

 その上、蛍いじめの短歌と違って、語りかけに何の不自然もないばかりか、詠み手は自らの思いに夢中になって、聞き手のことなど意識していないようにすら感じられます。そのような所に、嫌みなど沸き起ころう筈もなく、さりげないながらも、なかなか侮れない短歌になっています。

     『花を詠む』
ことさらに 衣(ころも)は摺(す)らじ
    をみなへし 佐紀野(さきの)の萩(はぎ)に
   にほひてをらむ
          よみ人しらず 万葉集10巻2107

わざわざ服を 摺り染めにはしません
  「おみなえしの咲き野」 なんて讃えられる
 佐紀野の 萩のなかに入って
    萩の色に 染められていようから

 女郎花(おみなえし)と萩で、ちょっと欲張りな気もしますが、この女郎花は、実は佐紀野の枕詞になっています。ですから、三句目を修飾くらいに捉えると、「服を染めなくても、萩に染まっていればよい」という分りやすくも、ユニークな発想が、さらりと受け取れると思います。もちろん萩に踏み込んだからって、衣摺りの代りにはなりませんが、むしろ余計な色彩をまとって踏み込んで、萩の美しさに対して、調和を乱したくないから、と考えると、なかなか味わい深く、奥行きも増すのではないでしょうか。

     『花を詠む』
白露(しらつゆ)に
  争ひかねて 咲ける萩(はぎ)
    散らば惜しけむ
  雨な降りそね
          よみ人しらず 万葉集10巻2116

白露に抗しきれずに
  咲きます萩の花が
    散ってしまうのは惜しいから
  雨よ降らないでください

 白露の置かれる頃に咲く萩を、白露にうながされて咲く花として、それを「とうとう抵抗しきれずに咲いてしまった」と詠んでいる。つまり上の句は、萩を人に見立てたもの。擬人法(ぎじんほう)になっています。

 その擬人化された、登場人物としての萩を、さらに外から眺めるわたしは、「散るのが惜しいから、どうか雨は降らないでください」と祈っている。もちろん萩の擬人化は、見立てには過ぎませんが、フォーカスが二段階に設定されていて、心的に空間のある和歌になっているようです。

 ところでこの、「白露に抗(あらが)えずに咲く萩」というのは一つの着想ですが、それが他の人にとっても、「白露の頃に咲く花だから、白露に咲かされたと詠んだのか」と、自分たちの経験から、すんなり受け取れるものであるからこそ、この着想は詩として生きている訳です。けれどもたとえば、
     「太陽に抗(あらが)えずに咲く萩」
と言われれば、ヒマワリならまだしもですが、ちょっと詠み手の意図を推し量るのに、知恵を持って、解釈を巡らさなければならなくなってくる。さらにこれが、
     「春風の忘れ物して咲く萩」
などとフィーリングまかせに、あるいはひねった着想を持って詠みなしたなら、もう聞き手はその内容を、ある思いを伝えようとして、生みなした着想とは感じられず、魅惑の発想とやらに取り付かれたか、知恵と知識を動員して、読み解くパズルでもあるように感じてしまいます。すると、その瞬間に読み手の、「ほらこれが僕の立派な作品だよ」というような、嫌みな表情を読み取って、きわめて不愉快な印象しか、和歌から受けない結末を迎えます。
 (もっとも上の例は、上の句をあげただけですから、
   下の句のとりまとめによっては、
    その着想を効果的に生かせる可能性は、
   まだ残されていますが……)

     「なんでわたしが」
春の陽の
  忘れ物かな 萩の花
 やわらかそうな 風のささやき
          臨時歌 時乃遥

……やっぱりだまされてるような、
   気持ちはぬぐい去れませんが、
    いえ違います、ごめんなさい、
   あなたのせいじゃないんです。。。

     『蝉を詠む』
夕影(ゆふかげ)に 来鳴(きな)くひぐらし
  こゝだくも 日ごとに聞けど
    飽かぬ声かも
          よみ人しらず 万葉集10巻2157

夕焼けに 鳴き出すひぐらしは
  これほど毎日 聞いているのに
 その声に 飽きることはない

「影」というのはもともと、光に映し出されるものではなく、光そのものを指しました。だから「月影」は「月の光」であり、「夕影」なら「夕日」になります。「ここだく」は「ここだ」と同じで、「こんなに多く」「これほど甚(はなは)だしく」といった副詞です。

 たとえ説明がちでも、
  その内容が不自然でなければ、
 ちゃんと詠み手の思いへと、還元されるものであれば、少なくとも嫌らしくは聞こえません。これなどは「来鳴く」など、必要過剰の解説を加えたり、「ここだくも」など、曖昧な表現で、短歌の心臓部を、だらしなくしたりと、むしろ不体裁なくらいですが、その伝えようとすることは、いつ聞いても魅了される、ひぐらしの不思議な響きについてですから、それにさえ共感を覚える人ならば、すぐれた短歌だとは思わなくても、聞かされて不愉快は、沸いてこないかと思います。

夕方に 帰る人波
  こんなにも 沢山いるのに
 かなしく見えます

 なるほどへたくそです。でも……
  はじめは、このくらいでよいのです。
   「赤く映えるかばんの群れが」
  などとやり始めると、
 とたんに彼らの領域ですから。

 ところでこのひぐらし。巻第十では、「夏」と「秋」の両方にも、それぞれ和歌が収められています。実際ひぐらしの鳴く時期は、他の蝉より遅れて来ますから、このように現実に即した分類の方法も、形式至上主義と罵(ののし)られ兼ねない、発句(ほっく)の歳時記などと比べて、『万葉集』の好感の持てる点かもしれませんね。

     『黄葉(もみち)を詠む』
黄葉(もみち)する 時になるらし
  月人(つきひと)の 桂(かつら)の枝の
 色づく見れば
          よみ人しらず 万葉集10巻2202

紅葉する 時期になったようだ
  月に住む人の ところにある
 桂の木の 枝が色づいて見えるから

 さて、語りが自然だとか、不自然だとか言いますと、そういう事なら、古語そのものが、我々には不自然だと罵(ののし)られそうですが、ある程度覚えれば、英語が不自然でなくなるように、古語もある程度接すれば、聞き慣れない言葉である、という意味での不自然は消えていきます。

 特に日本語は、きわめて変化に乏しい言語なので、軽い翻訳と解説を加えるくらいでも、わたしたちの言葉で、そのまま読み取れるようなものであることは、今まで眺めてきた、今日でもありきたりのような、表現からも分ると思います。

 ただ私たちが使用している現代語は、私たちの会話や思考のよりどころ、すでにマスターしている言語であるから、私もある段階までの説明を飛ばして、正しいとか不自然であると、延べているには過ぎません。けれども……

 それなら当然、万葉集の時代にも、
  すぐれた表現もあれば、そうでないものも、
   流行に乗ってはやった言葉もあれば、
    すぐに消え去った表現、
   わざと古い言葉を使用することさえある訳で……

 この和歌において、「月人(つきひと)」というのは、より多くは「月人男(つきひとおとこ)」として登場しますが、あるいは漢語からの影響でしょうか、月を人に見立てた表現です。そして「桂の枝」というのは、これも中国の「月には巨大な桂の木が生えている」という俗信もとずく表現です。

 月を眺めて、私たちがウサギを浮かべるように、当時は月の表面の様子が、人や桂の木に見えたのでしょうか。この短歌は、月を眺めると、その桂の枝が色づいているように見えた。それで地表も、そろそろ紅葉の時期だと詠んでいる。

 なるほどこの和歌ならば、
  月人を月の住人くらいに詠み変えて、
   空想的な短歌に見立てても、
  おもしろく受け取れるかもしれませんが……

     『月を詠む』
天(あめ)の海に 月の舟浮(う)け 桂楫(かつらかぢ)
  懸(か)けて漕ぐ見ゆ 月人壮士(つきひとをとこ)
          よみ人しらず 万葉集10巻2223

天の海に 月の舟を浮かべて
   桂の木を 楫に取り付けて
  漕ぐのが見えるよ 月の若者が

 月を擬人化した、「月人男」のような表現は、あるいは当時でも、不自然であったのではないか。そんな気持ちもしてくるのでした。あるいは太陽を馬車で運ぶヘーリオスのように、「月運びの神が」とでも翻訳すれば、おもしろいかも知れません。それでも、もとの短歌は、やっぱり不自然なままなのでした。当時の人々には、ナチュラルに響いたのでしょうか。ちょっと気になります。

 そうですね、気になるときは、一層のこと、「月人壮士(つきひとおとこ)」という表現を利用して、ノートブックに短歌を記してみるのはいかがでしょうか。それで、自分で詠んでも不自然なままであるか、多少なりとも、印象が変わってくるものならば、慣れると素敵へと馴染むものなのか、ちょっと試して見るのはいかがでしょうか。お題は、特にありません。この言葉が使用されていれば、なんでも良いかと思います。


すまねえな
  ばれちまったら
    しょうがねえ
  俺は月人男魂
          いつも彼方

     「あら格好いい男?」
陽のおとこ
  月人おとこ おとこなら
 亀でもいいから 彼氏ください
          祈願歌 時乃遥

     「遊び歌じゃないんですが……」
星の雫
  さかずき差して 酌み交わす
 銀の宴か 月人壮士
          難題歌 時乃旅人

秋の相聞

露霜(つゆしも)に ころも手(で)濡れて
  今だにも 妹(いも)がり行かな
    夜は更けぬとも
          よみ人しらず 万葉集10巻2257

露霜に 服を濡らしても
  いますぐに あいつのところに行こう
    夜が更けたって構わない

「今だにも」は「すぐにでも」、「妹がり」の「がり」はショウガの隠語ではなく、「~のもとへ」という時に使用します。それで、夜中の草むらを駆け抜けるような、熱血短歌になりました。このその場で口にして、行動に移るような、即時性が万葉集の魅力の一つです。いつもの彼方の領域です。

     『花に寄する』
わが宿の 萩咲きにけり
  散らぬ間に はや来て見べし
    奈良の里人(さとびと/さとひと)
          よみ人しらず 万葉集10巻2287

わたしの家の 萩が咲きました
  散らないうちに 早くいらっしゃい
    奈良の里の人よ

  萩が咲いたから早くいらっしゃい。
 ただそれだけの短歌ですが、結句に明確な相手ではなく、広く「奈良の里人」と置いたのが、ちょっとユニークで、和歌の存在意義を保っているようです。ただしこれだけでは、どのような相手に出したのかは分りませんので、それぞれに推察するしかないようなものですが。わざと改まって見せたような印象は籠もります。

 この「奈良の里人」ように名詞や代名詞で結句を閉ざすものを、「体言止め(たいげんどめ)」と言いますが、『新古今和歌集』で特に好まれた用法です。覚えて置いて、それが心情に添うものでしたら、使ってみるとよいでしょう。そういえば、先ほどの「月人壮士(つきひとをとこ)」も体言止めでした。逢ってみたいな月人壮士。

冬の雑歌

来て見べき 人もあらなくに
   我家(わぎへ)なる 梅の初花(はつはな)
  散りぬともよし
          よみ人しらず 万葉集10巻2328

見に来てくれる人もいませんよ。
 わたしの家の梅の初花よ、
  散ってしまってもいいですよ。
 見に来てくれる人もいないのですから。

 「梅の初花よ、散ってもよいですよ、
    来てくれる人も、いないのですから」
という内容を、倒置法(とうちほう)を使用して、「来てくれる人もいない」ことを、強調したものです。わざわざ「私の家の梅の初めての花よ」と、梅を糾弾でもするかのように、くどくどしく述べたあたりに、「どうせ来てくれる人もいないんだ」という、詠み手の寂しさが表れていて、それでいて梅に「もう散ってよし」と命令する様はコミカルでもあり、全体として喜劇の裏に悲劇を織り込んだような、ユーモアのある短歌になっています。

 もちろん、そのコミカルな所が、短歌の生命力にもなってますから、もしこれを、詠み手の哀しみがにじみ出た作品である、などまじめ一辺倒に解説したら、この短歌の一番の魅力を解き明かさない、詩の表現に対しては、何も語っていないのと同じ「いつわりの解説」に過ぎない、ということにもなるでしょう。

冬の相聞

 当然と言えば当然でしょうか、後の勅撰和歌集同様、圧倒的に春と秋の短歌が多くて、夏と冬の短歌は数も少なく、めぼしいものも少なめです。今回は相聞は無しと言うことで、これで終了。

まとめ

 今回は、「するめ歌」という言葉も登場しましたが、前回に続いて、自然な歌、思いを語る事について、お話しして、最後にまたひとつ、着想品評会の提出物が、いかにいびつなものであるかを観察しました。

 また、二句目か三句目を境目に、おおよそ二つの大枠に前後を分けて、短歌をまとめるスタイルでは、具体的な例をあげて、いつくかの課題を短歌に詠んでみました。

 皆さまはそのような知識を、自らの詩作にフィードバックさせて、少しずつ上達してくださったら、壮大な落書きを企てる、わたしの失われた時間にも、わずかな価値が籠もるものと、慰められるかも知れませんね。

 次回はいよいよ?
  名無しさんの恋歌をお贈りしたいと思います。
   それでは失礼。

               (つゞく)

2016/04/29
2016/06/07 改訂

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