正岡子規、歌よみに与ふる書の朗読

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書生覚書

 糾弾に遭ひたる歌詠み共の、百年を過ぎて猶醜態を晒す事、咀嚼もなく怠惰の安息を貪(むさぼ)る様、何様、過去のご意見番よとて、虚偽珍説を振り回す醜態なれば、驚くばかりにて候。彼ら其の意義の、塵芥(じんくわい)の百分の一も、一千万分の一も、百無量大数の一も悟らざる事、蚤の銀漢を眺めるが如くして、塵の魂にて言葉尻を捉え、己が祭壇に捧げては、弟子を携え、添削など致し、金銭にまみれた点取りどもの、矮小なる同胞へと貶め、尚更こき下ろすばかりなり。下劣の極にて候。我ら此のみを取らず、遺産の全体を眺るべし。

歌よみに与ふる書(正岡子規)

[朗読1]

 仰《おおせ》の如《ごと》く近来和歌は一向に振ひ不申《もうさず》候。正直に申し候へば万葉[万葉集は8世紀後半成立]以来|実朝《さねとも》[源実朝(1192-1219)鎌倉幕府三代目の将軍]以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活《い》かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存《ぞんじ》候。強《あなが》ち人丸《ひとまろ》・赤人《あかひと》の余唾《よだ》を舐《ねぶ》る[唾液の余りをなめ回す]でもなく、固《もと》より貫之《つらゆき》[紀貫之(きのつらゆき)(-945)『古今和歌集』の撰者。「土佐日記」の作者]定家《ていか》[藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)(1162-1241)『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者。『小倉百人一首』の撰者。カニ星雲で知られる超新星爆発を記したことでもお馴染みの?『明月記』の作者]糟粕《そうはく》[酒のかす/渋みを取った残りかす。精神の抜けた外形。「古人の―」]をしやぶるでもなく、自己の本領|屹然《きつぜん》[山などが高くそびえるさま/独立して屈しないさま]として山岳《さんがく》と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏《おそ》るべく尊むべく、覚えず膝《ひざ》を屈するの思ひ有之《これあり》候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤《あやまり》なるべく、北条氏を憚《はばか》りて韜晦《とうかい》[自分の才能、能力、身分などを隠すこと。そのような態度]せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違|無之《これなく》候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚《こ》びざる処、例の物数奇《ものずき》連中や死に歌よみの公卿《くげ》たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠《よ》みいでられまじく候。真淵《まぶち》[賀茂真淵(かものまぶち)(1697-1769)古典研究に生きた江戸の国学者。また歌人]は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之《これあるべく》候。

 真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔《など》当時にありて実にえらいものに有之候へども、生《せい》らの眼より見ればなほ万葉をも褒《ほ》め足らぬ心地《ここち》致《いたし》候。真淵が万葉にも善き調《ちょう》あり悪《あし》き調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈《きっくつ》[詰まって、かがっている(縛り束ねているように編むような)様子/文章・文字が堅苦しく難解なこと]なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。しかしながら世人が佶屈と申す万葉の歌や、真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には、生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何《いか》にといふに、他の人は言ふまでもなく真淵の歌にも、生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤《もっと》もこの辺の論は短歌につきての論と御承知|可被下《くださるべく》候)真淵の家集《かしゅう》を見て、真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆《あき》れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。楫取魚彦《かとりなひこ》[(1723-1782)江戸時代中期。国学者にして歌人。賀茂真淵(かものまぶち)に師事、万葉風歌風を得る。歴史的仮名遣を研究した「古言梯」。歌集「楫取魚彦家集」など]は万葉を模したる歌を多く詠みいでたれど、なほこれと思ふ者は極めて少く候。さほどに古調は擬しがたきにやと疑ひをり候処、近来生らの相知れる人の中に歌よみにはあらでかへつて古調を巧《たくみ》に模する人少からぬことを知り申候。これに由《よ》りて観れば昔の歌よみの歌は、今の歌よみならぬ人の歌よりも、遥《はるか》に劣り候やらんと心細く相成《あいなり》申候。さて今の歌よみの歌は昔の歌よみの歌よりも更に劣り候はんには如何《いかが》申すべき。

 長歌[(ちょうか)五七を何度も繰り返し最後に七で終わる歌。(例.五七五七五七五七七)]のみはやや短歌と異なり申候。『古今集《こきんしゅう》』[『古今和歌集』のこと]の長歌などは箸《はし》にも棒にもかからず候へども、箇様《かよう》な長歌は古今集時代にも後世にも余り流行《はや》らざりしこそもつけの幸《さいわい》と存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直《ただち》に万葉を師とする者多く、従つてかなりの作を見受け申候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば多少|手際《てぎわ》善く出来申候。(御歌会派《おうたかいは》の気まぐれに作る長歌などは端唄《はうた》[江戸時代の流行的三味線小唄]にも劣り申候)しかし或《ある》人は難じて[「難じる」で難癖を付ける、誹(そし)るの意味]長歌が万葉の模型を離るる能《あた》はざるを笑ひ申候。それも尤《もっとも》には候へども歌よみにそんなむつかしい事を注文致し候はば、古今以後|殆《ほとん》ど新しい歌がないと申さねば相成|間敷《まじく》候。なほいろいろ申し残したる事は後鴻《こうこう》[鴻(こう、すなわち大きな鳥)の後ろに]に譲《ゆず》り申候。不具[言い足りず、整わない。手紙の末尾に記す。]

  (明治三十一年二月十二日)
[1898年(1873年から太陽暦が施行されたために月日は同日)]

再び歌よみに与ふる書

[朗読2]

 貫之《つらゆき》は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す[(せい)男子の謙称(けんしょう)。つまり謙遜した言い方。書簡の署名にも使う。小生(しょうせい)なども同様]も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合《きみあい》は能《よ》く存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて『古今集』は殊《こと》にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋|一朝《いっちょう》にさめて見れば、あんな意気地《いくじ》のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年《こぞ》とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆《あき》れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合《あい》の子《こ》を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落《だじゃれ》か理窟ツぽい者のみに有之候。それでも強《し》ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得《とりえ》にて、如何《いか》なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。ただこれを真似《まね》るをのみ芸とする後世の奴《やつ》こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕《そうはく》を嘗《な》めてをる不見識には驚き入《いり》候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。

 貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。かつて或人にかく申候処、その人が「川風寒み千鳥鳴くなり」[思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり]の歌は如何《いかが》にやと申され閉口致候。この歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。しかし外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」[桜散る木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける]とは駄洒落にて候。「人はいさ心もしらず」[人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける]とは浅はかなる言ひざまと存候。但《ただし》貫之は始めて箇様《かよう》な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく、俗気紛々と致しをり候処はとても唐詩とくらぶべくも無之候へども、さりとてそれを宋の特色として見れば全体の上より変化あるも面白く、宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を真似る寛政《かんせい》以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。

『古今集』以後にては新古今[『新古今和歌集』(1204年一次完成)のこと]ややすぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。しかしその善き歌と申すも指折りて数へるほどの事に有之候。定家《ていか》といふ人は上手か下手か訳の分らぬ人にて、新古今の撰定を見れば少しは訳の分つてゐるのかと思へば、自分の歌にはろくな者無之「駒《こま》とめて袖《そで》うちはらふ」[駒とめて袖打払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ]「見わたせば花も紅葉《もみじ》も」[見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり浦の苫屋とまやの秋のゆふぐれ]抔《など》が人にもてはやさるる位の者に有之候。定家を狩野派《かのうは》の画師に比すれば探幽《たんゆう》[(1602-1674)江戸初期の画家。幅広い画技を有し、幕府の御用絵師として、一門の繁栄を築いた。二条城・名古屋城の障壁画など。古画を縮写した「探幽縮図」など。(広辞苑抜粋)]と善く相似たるかと存候。定家に傑作なく探幽にも傑作なし。しかし定家も探幽も相当に練磨の力はありて如何なる場合にもかなりにやりこなし申候。両人の名誉は相|如《し》くほどの位置にをりて、定家以後歌の門閥を生じ、探幽以後画の門閥を生じ、両家とも門閥を生じたる後は歌も画も全く腐敗致候。いつの代如何なる技芸にても歌の格、画の格などといふやうな格がきまつたら最早《もはや》進歩致す間敷候。

 香川景樹《かがわかげき》[(1602-1674)江戸初期の画家。幅広い画技を有し、幕府の御用絵師として、一門の繁栄を築いた。二条城・名古屋城の障壁画など。古画を縮写した「探幽縮図」など。(広辞苑抜粋)]は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従《したがっ》て景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。景樹の歌がひどく玉石混淆《ぎょくせきこんこう》[優れたものと劣ったものが入り交じっていること]である処は、俳人でいふと蓼太《りょうた》に比するが適当と被思《おもわれ》候。蓼太は雅俗巧拙[風雅と卑俗、巧いと拙い]の両極端を具《そな》へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気《はき》でもつて世人を籠絡《ろうらく》[うまく丸め込んで、己の望むとおりに図ること]し、全国に夥《おびただ》しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚《はなはだ》しき邪路[(じゃろ)よこしまな道。邪道(じゃどう)]に陥《おちい》り可申《もうすべく》、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣《おもむき》有之候。ここの処よくよく闊眼《かつがん》[物事の道理をはっきりと見極めた眼]を開いて御判別|可有《あるべく》候。古今上下東西の文学など能く比較して御覧|可被成《なさるべく》、くだらぬ歌書ばかり見てをつては容易に自己の迷《まよい》を醒《さ》ましがたく、見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで、隣の汽車が動くやうに覚ゆる者に御座候。不尽《ふじん》[書物の最後にしるす。十分に言い尽くせていない]

  (明治三十一年二月十四日)

三《み》たび歌よみに与ふる書

[朗読3]

 前略。歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候。歌よみのいふ事を聞き候へば和歌ほど善き者は他になき由いつでも誇り申候へども、歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に、歌が一番善きやうに自惚《うぬぼれ》候次第に有之候。彼らは歌に最も近き俳句すら少しも解せず、十七字でさへあれば川柳《せんりゅう》も俳句も同じと思ふほどの、のんきさ加減なれば、まして支那の詩を研究するでもなく、西洋には詩といふものがあるやらないやらそれも分らぬ文盲浅学[(もんもうせんがく)文章が読めなく、学問が浅い]、まして小説や院本《いんぽん》[中国の金、元の時代の演劇。そこから、戯曲のこと]も、和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば、定めて目を剥《む》いて驚き可申候。かく申さば、讒謗《ざんぼう》罵詈《ばり》[=「罵詈讒謗(ばりざんぼう)」ありとあらゆるののしりを上げること]礼を知らぬしれ者[(痴れ者)愚かな者/乱暴者/その道においてしたたかな者]と思ふ人もあるべけれど、実際なれば致方《いたしかた》無之候。もし生の言が誤れりと思《おぼ》さば、いはゆる歌よみの中よりただの一人にても、俳句を解する人を御指名|可被下《くださるべく》候。生は歌よみに向ひて何の恨《うらみ》も持たぬに、かく罵詈がましき言を放たねばならぬやうに相成候心のほど御察被下《おさっしくだされ》たく候。

 歌を一番善いと申すは、固《もと》より理窟もなき事にて、一番善い訳は毫《ごう》も無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戯曲院本には戯曲院本の長所あり、その長所は固より和歌の及ぶ所にあらず候。理窟は別とした処で、一体歌よみは和歌を一番善い者と考へた上でどうするつもりにや、歌が一番善い者ならば、どうでもかうでも上手でも下手でも三十一文字《みそひともじ》[和歌の字数]並べさへすりや、天下第一の者であつて、秀逸と称せらるる俳句にも、漢詩にも、洋詩にも優《まさ》りたる者と思ひ候者にや、その量見が聞きたく候。最も下手な歌も、最も善き俳句漢詩等に優り候ほどならば、誰も俳句漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。もしまた俳句漢詩等にも和歌より善き者あり、和歌にも俳句漢詩等より悪《あし》き者ありといふならば、和歌ばかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの浅見《せんけん》[浅はかな考え。自分の考えを謙遜していう場合もある]には今更のやうに呆《あき》れ申候。

 俳句には調がなくて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝《まさ》れりとある人は申し候。これは強《あなが》ち一人の論ではなく、歌よみ仲間には箇様《かよう》な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致しをり候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑《のどか》な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用うべく、悲哀とか慷慨《こうがい》[社会の不義や不正を憤って嘆くこと]とかにて情の迫りたる時、または天然にても人事にても、景象《けいしょう》[景色のこと/物事のありさま]の活動甚しく変化の急なる時、これを歌ふには迫りたる短き調を用うべきは論ずるまでもなく候。しかるに歌よみは、調は総《すべ》てなだらかなる者とのみ心得候と相見え申候。かかる誤《あやまり》を来すも、畢竟《ひっきょう》従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしに因《よ》る者にて、俳句も漢詩も見ず、歌集ばかり読みたる歌よみには、爾《し》か思はるるも無理ならぬ事と存候。さてさて困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば、迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さざるやらん。しかし迫りたる調、強き調などいふ調の味は、いはゆる歌よみには到底分り申す間敷《まじき》か。真淵は雄々《おお》しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲《わし》の翼もたわに」などいへるは、真淵集中の佳什《かじゅう》[佳作の汁といった意味のようだ]にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をしてこの意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「もののふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強き事は並ぶ者なく、この歌を誦《しょう》すれば霰《あられ》の音を聞くが如き心地致候。真淵既にしかりとせば真淵以下の歌よみは申すまでもなく候。かかる歌よみに、蕪村派《ぶそんは》の俳句集か盛唐《せいとう》の詩集か読ませたく存候へども、驕《おご》りきつたる歌よみどもは、宗旨[(しゅうし)宗門の狭義内容の趣旨のこと/宗派・宗門を指す/自分の主義など]以外の書を読むことは、承知致すまじく、勧めるだけが野暮《やぼ》にや候べき。

 御承知の如く、生は歌よみよりは局外者とか素人《しろうと》とかいはるる身に有之、従つて詳《くわ》しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味|如何《いかん》においては自ら信ずる所あり、この点につきてかへつて専門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇様に悪口をつき申さば生を弥次馬《やじうま》連と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人《なんぴと》にても来訪あるやう貴兄より御伝へ被下《くだされ》たく、三日三夜なりともつづけさまに議論|可致《いたすべく》候。熱心の点においては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まま失礼の語も多かるべく御海容[(海がすべてを容れるように)寛大の心で、他人の罪を許すこと。「御海容下さるべく」]可被下《ごかいようくださるべく》候。拝具。

  (明治三十一年二月十八日)

四《よ》たび歌よみに与ふる書

[朗読4]

 拝啓。空論ばかりにては傍人[傍にいる人]に解しがたく、実例につきて評せよとの御言葉|御尤《ごもっとも》と存候。実例と申しても際限もなき事にて、いづれを取りて評すべきやらんと惑《まど》ひ候へども、なるべく名高き者より試み可申候。御思《おんおも》ひあたりの歌ども御知らせ被下《くだされ》たく候。さて人丸《ひとまろ》の歌[柿本人麿(かきのもとのひとまろ)]にかありけん

もののふの八十氏川《やそうじがわ》の網代木《あじろぎ》に
いざよふ波のゆくへ知らずも

といふがしばしば引きあひに出されるやうに存候。この歌万葉時代に流行せる一気|呵成《かせい》の調にて、少しも野卑なる処はなく、字句もしまりをり候へども、全体の上より見れば上三句は贅物《ぜいぶつ》[無駄なもの。無益なもの/贅沢なもの]に属し候。「足引《あしびき》の山鳥の尾の」[足引《あしびき》の山鳥の尾のながながし夜をひとりかもねむ(柿本人麿)]といふ歌も前置の詞《ことば》多けれど、あれは前置の詞長きために夜の長き様を感ぜられ候。これはまた上三句全く役に立ち不申候。この歌を名所の手本に引くは大たはけに御座候。総じて名所の歌といふはその地の特色なくては叶《かな》はず、この歌の如く意味なき名所の歌は名所の歌になり不申候。しかしこの歌を後世の俗気紛々たる歌に比ぶれば勝ること万々に候。かつこの種の歌は真似すべきにはあらねど、多き中に一首二首あるは面白く候。

月見れば千々《ちぢ》に物こそ悲しけれ
我身一つの秋にはあらねど

といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理窟なり蛇足《だそく》なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。この歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、もしわが身一つの秋と思ふと詠《よ》むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥《おちい》り申候。箇様な歌を善しと思ふはその人が理窟を得《え》離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今のいはゆる歌よみどもは多く理窟を並べて楽《たのし》みをり候。厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。

芳野山|霞《かすみ》の奥は知らねども
見ゆる限りは桜なりけり

 八田知紀《はったとものり》[(1799-1873)幕末から明治初期にかけて活躍した歌人。香川景樹に師事。熊谷直好とともに桂園門下の高弟。宮内省歌道御用掛。家集「しのぶ草」、歌論「調の直路」]の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透《す》き候。これも前のと同じく「霞の奥は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陥り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ処は分らぬがといふ意味は、その裏に籠《こも》りをり候ものを、わざわざ知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。かつこの歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めて拙《つたな》く野卑《やひ》なり、前の千里《ちさと》の歌は理窟こそ悪《あし》けれ姿は遥《はるか》に立ちまさりをり候。ついでに申さんに消極的に言へば理窟になると申しし事、いつでもしかなりといふに非《あら》ず、客観的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち払ふ影もなし」[駒とめて袖打払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(藤原定家)]といへるが如きは客観の景色を連想したるまでにて、かくいはねば感情を現す能《あた》はざる者なれば無論理窟にては無之候。また全体が理窟めきたる歌あり(釈教[(しゃっきょう)釈迦の教え、つまりは仏教の教えのこと]の歌の類)、これらはかへつて言ひ様にて多少の趣味を添ふべけれど、この芳野山の歌の如く、全体が客観的即ち景色なるに、その中に主観的理窟の句がまじりては殺風景いはん方なく候。また同人の歌にかありけん

うつせみの我世の限り見るべきは
嵐の山の桜なりけり

といふが有之候由、さてさて驚き入つたる理窟的の歌にては候よ。嵐山の桜のうつくしいと申すは無論客観的の事なるに、それをこの歌は理窟的に現したり、この歌の句法は全体理窟的の趣向の時に用うべき者にして、この趣向の如く客観的にいはざるべからざる処に用ゐたるは大俗のしわざと相見え候。「べきは」と係《か》けて「なりけり」と結びたるが最《もっとも》理窟的殺風景の処に有之候。一生嵐山の桜を見ようといふも変なくだらぬ趣向なり、この歌全く取所《とりどころ》無之候。なほ手当り次第|可申上《もうしあぐべく》候也。

  (明治三十一年二月二十一日)

五《いつ》たび歌よみに与ふる書

[朗読5]

心あてに見し白雲は麓《ふもと》にて
思はぬ空に晴るる不尽《ふじ》の嶺《ね》

といふは春海《はるみ》[村田春海(むらたはるみ)(1746-1811)江戸時代の国学者。歌人]のなりしやに覚え候。これは不尽の裾《すそ》より見上げし時の即興なるべく、生も実際にかく感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語|如何《いかが》や、心あてに見し処は少くも半腹《はんぷく》位の高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、ただ心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ処に候。第三、不尽の高く壮《さかん》なる様を詠まんとならば、今少し力強き歌ならざるべからず、この歌の姿弱くして到底不尽に副《そ》ひ申さず候。几董《きとう》の俳句に「晴るる日や雲を貫く雪の不尽」といふがあり、極めて尋常に叙《じょ》し去りたれども不尽の趣はかへつて善く現れ申候。

もしほ焼く難波《なにわ》の浦の八重霞《やえがすみ》
一重《ひとえ》はあまのしわざなりけり

 契沖《けいちゅう》[(1640-1701)江戸時代の国学者にして、真言宗の僧]の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。この歌の伝称せらるるは、いふまでもなく八重一重の掛合《かけあわせ》にあるべけれど、余の攻撃点もまた此処《ここ》に外ならず、総じて同一の歌にて極めてほめる処と、他の人の極めて誹《そし》る処とは同じ点にある者に候。八重霞といふもの固《もと》より八段に分れて霞みたるにあらねば、一重といふこと一向に利き不申、また初《はじめ》に「藻汐《もしお》焼く」[海草に海水を掛け、これを焼いて塩をつくり出す行為]と置きし故、後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処、いよいよ俗に堕《お》ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐|焚《や》く煙のなびく由尋常に詠まば、つまらぬまでもかかる厭味《いやみ》は出来申間敷候。

心あてに折らばや折らむ初霜《はつしも》の
置きまどはせる白菊の花

 この躬恒《みつね》[凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)(859?-925?)『古今和歌集』の撰者の一人]の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之《これなき》駄歌に御座候。この歌は嘘《うそ》の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣《きづかい》無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜《へちま》も有之不申《これありもうさず》、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例へば「鵲《かささぎ》のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更《ふ》けにける」[大伴家持(おおとものやかみち)]面白く候。躬恒のは瑣細《ささい》な事をやたらに仰山に述べたのみなれば無趣味なれども、家持《やかもち》のは全くない事を空想で現はして見せたる故面白く被感《かんぜられ》候。嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候。雀が舌を剪《き》られたとか、狸《たぬき》が婆《ばば》に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと、真面目《まじめ》らしく人を欺《あざむ》く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて楽《たのし》む歌よみが多く候へども、これらも面白からぬ嘘に候。総《すべ》て嘘といふものは、一、二度は善けれど、たびたび詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。まして面白からぬ嘘はいふまでもなく候。「露の音」「月の匂《におい》」「風の色」などは最早《もはや》十分なれば、今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。

春の夜の闇はあやなし梅の花
色こそ見えね香《か》やは隠るる

[これも凡河内躬恒]「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに被成《なされ》ては如何《いかが》や。闇の梅に限らず、普通の梅の香も『古今集』だけにて十余りもあり、それより今日までの代々の歌よみがよみし梅の香は、おびただしく数へられもせぬほどなるに、これも善い加減に打ちとめて、香水香料に御用ゐ被成候は格別、その外歌には一切これを入れぬ事とし、鼻つまりの歌人と嘲《あざけ》らるるほどに御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。

  (明治三十一年二月二十三日)

六《む》たび歌よみに与ふる書

[朗読6]

 御書面を見るに愚意[(ぐい)愚見。自分の意見を謙遜していった言葉]を誤解|被致《いたされ》候。殊《こと》に変なるは御書面中四、五行の間に撞著《どうちゃく》[ぶつかること。つきあたること/前後のつじつまが合わないこと。矛盾。→自家撞着(じかどうちゃく)とは、同じ人の言行が前後に食い違っていること]有之候。初《はじめ》に「客観的景色に重きを措《お》きて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思はれず」云々《うんぬん》とあるは如何。生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客観に重きを置けと申したる事もなけれどこの方は愚意に近きやう覚え候。「皇国の歌は感情を本《もと》として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、もし感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。ことさらに皇国の歌はなど言はるるは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと被怪《あやしまれ》候。「いづれの世にいづれの人が理窟を読みては歌にあらずと定め候|哉《や》」とは驚きたる御問《おんとい》に有之候。理窟が文学に非《あら》ずとは古今の人、東西の人|尽《ことごと》く一致したる定義にて、もし理窟をも文学なりと申す人あらば、それは大方日本の歌よみならんと存候。

 客観主観感情理窟の語につきて、あるいは愚意を誤解|被致《いたされ》をるにや。全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢《ま》たず。例へば橋の袂《たもと》に柳が一本風に吹かれてゐるといふことを、そのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、元《も》とこの歌を作るといふはこの客観的景色を美なりと思ひし結果なれば、感情に本づく事は勿論《もちろん》にて、ただうつくしいとか、綺麗《きれい》とか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を著《つ》くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理窟との区別有之、生が排斥[(はいせき)退けること]するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比して、この主客両観の相違の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は客観に重きを置く者にても無之候。但《ただし》和歌俳句の如き短き者には主観的佳句[(かく)出来のよい句]よりも客観的佳句多しと信じをり候へば、客観に重きを置くといふも此処《ここ》の事を意味すると見れば差支《さしつかえ》無之候。また主観客観の区別、感情理窟の限界は実際判然したる者に非ずとの御論《ごろん》は御尤《ごもっとも》に候。それ故に善悪可否巧拙と評するも固《もと》より画然たる区別あるに非ず、巧の極端と拙の極端とは毫《ごう》も紛《まぎ》るる所あらねど、巧と拙との中間にある者は巧とも拙とも申し兼《かね》候。感情と理窟の中間にある者はこの場合に当り申候。

「同じ用語同じ花月にてもそれに対する吾人《ごじん》[われ。わたくし/われわれ]の観念と古人のと相違する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれど、そんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度《そんたく》[人の心中を推し量ること]するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船《ふうはんせん》[西洋型の、帆船(はんせん・ほぶね)]が早かつた時代もありしかど、蒸気船を知りてをる眼より見れば、風帆船は遅しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも、前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば、貫之を下手と評することまた至当に候。歴史的に貫之を褒《ほ》めるならば生も強《あなが》ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的にその人物を評するにあらず、文学的にその歌を評するが目的に有之候。

「日本文学の城壁ともいふべき国歌」云々とは何事ぞ。代々の勅撰集《ちょくせんしゅう》の如き者が日本文学の城壁ならば、実に頼み少き城壁にて、かくの如き薄ツぺらな城壁は、大砲一発にて滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に砕《くだ》け可申候。生は国歌を破壊し尽すの考にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髯《ひげ》づらどもが大砲を発《はな》たうが地雷火[(じらいか)=地雷]を仕掛《しか》けうが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき心願《しんがん》有之、しかも生を助けてこの心願を成就《じょうじゅ》せしめんとする大檀那《おおだんな》は天下一人もなく、数年来|鬱積《うっせき》沈滞せる者|頃日《けいじつ》漸《ようや》く出口を得たる事とて、前後《ぜんご》錯雑《さくざつ》[入り交じること。込み入っていること]序次《じょじ》[順序。次第]倫《りん》なく大言《たいげん》疾呼《しっこ》[忙しく叫ぶこと。激しく叫ぶこと]、われながら狂せるかと存候ほどの次第に御座候。傍人より見なば定めて狂人の言とさげすまるる事と存候。なほこのたび新聞の余白を借り得たるを機とし思ふ様愚考も述べたく、それだけにては愚意分りかね候に付、愚作をも連ねて御評願ひたく存じをり候へども、あるいは先輩諸氏の怒に触れて差止めらるるやうな事はなきかと、それのみ心配|罷《まかり》あり候。心配、恐懼《きょうく》[恐れかしこまること]、喜悦、感慨、希望等に悩まされて従来の病体益※[#二の字点、1-2-22]神経の過敏を致し、日来《ひごろ》睡眠に不足を生じ候次第、愚とも狂とも御笑ひ可被下《くださるべく》候。

 従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為《な》さんとするは、弓矢|剣槍《けんそう》を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購《あがな》ひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟《ひっきょう》日本国を固むるに外ならず、されば僅少《きんしょう》[ごくわずか]の金額にて購ひ得べき外国の文学思想|抔《など》は、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随《したが》つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。委細後便。

 追て、伊勢の神風、宇佐の神勅云々の語あれども、文学には合理非合理を論ずべき者にては無之、従つて非合理は文学に非ずと申したる事無之候。非合理の事にて文学的には面白き事|不少《すくなからず》候。生の写実と申すは、合理非合理事実非事実の謂《いい》にては無之候。油画師は必ず写生に依り候へども、それで神や妖怪《ようかい》やあられもなき事を面白く画き申候。しかし神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、ただありのままを写生すると、一部一部の写生を集めるとの相違に有之、生の写実も同様の事に候。これらは大誤解に候。

  (明治三十一年二月二十四日)

七《なな》たび歌よみに与ふる書

[朗読7]

 前便に言ひ残し候事今少し申上候。宗匠[(そうしょう)和歌・俳諧・茶道などの文芸で、その道の師匠]的俳句と言へば、直ちに俗気を聯想するが如く、和歌といへば、直ちに陳腐を聯想致候が年来の習慣にて、はては和歌といふ字は陳腐といふ意味の字の如く思はれ申候。かく感ずる者和歌社会には無之と存候へど、歌人ならぬ人は大方|箇様《かよう》の感を抱き候やに承り候。をりをりは和歌を誹《そし》る人に向ひて、さて和歌は如何様《いかよう》に改良すべきかと尋ね候へば、その人が首をふつて、いやとよ和歌は腐敗し尽したるに、いかでか改良の手だてあるべき、置きね置きねなど言ひはなし候様は、あたかも名医が匙《さじ》を投げたる死際《しにぎわ》の病人に対するが如き感を持ちをり候者と相見え申候。実にも歌は色青ざめ呼吸絶えんとする病人の如くにも有之候よ。さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰へたれ、形骸《けいがい》はなほ保つべし、今にして精神を入れ替へなば、再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆《ちく》[馬を走らせること/いろいろ走り回ること。奔走]するを得べき事を保証致候。こはいはでもの事なるを或《ある》人が、はやこと切れたる病人と一般に見|做《な》し候は、如何にも和歌の腐敗の甚しきに呆《あき》れて、一見して抛棄《ほうき》したる者にや候べき。和歌の腐敗の甚しさもこれにて大方知れ可申候。

 この腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、また趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存《ぞんぜられ》候。故に趣向の変化を望まば、是非《ぜひ》とも用語の区域を広くせざるべからず、用語多くなれば従つて趣向も変化可致候。ある人が生を目して、和歌の区域を狭くする者と申し候は誤解にて、少しにても広くするが生の目的に御座候。とはいへ如何に区域を広くするとも非文学的思想は容《い》れ不申、非文学的思想とは理窟の事に有之候。

 外国の語も用ゐよ、外国に行はるる文学思想も取れよと申す事につきて、日本文学を破壊する者と思惟《しい》[(仏)心を集中させ、考えを巡らせること。しゆい/こころで深く考え思うこと]する人も有之《これある》げに候へども、それは既に根本において誤りをり候。たとひ漢語の詩を作るとも、洋語の詩を作るとも、将《は》たサンスクリツトの詩を作るとも、日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候。唐制に模して位階も定め、服色も定め、年号も定め置き、唐《から》ぶりたる冠衣《かんい》を著《つ》け候とも、日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英国の軍艦を買ひ、独国の大砲を買ひ、それで戦に勝ちたりとも、運用したる人にして日本人ならば日本の勝と可申候。しかし外国の物を用うるは、如何にも残念なれば日本固有の物を用ゐんとの考ならば、その志には賛成致候へども、とても日本の物ばかりでは物の用に立つまじく候。文学にても馬、梅、蝶、菊、文等の語をはじめ、一切の漢語を除き候はば、如何なる者が出来候べき。『源氏物語』、『枕草子《まくらのそうし》』以下漢語を用ゐたる物を排斥致し候はば、日本文学はいくばくか残り候べき。それでも痩《やせ》我慢に、歌ばかりは日本固有の語にて作らんと決心したる人あらば、そは御勝手次第ながら、それを以て他人を律するは無用の事に候。日本人が皆日本固有の語を用うるに至らば日本は成り立つまじく、日本文学者が皆日本固有の語を用ゐたらば、日本文学は破滅可致候。

 あるいは姑息《こそく》にも馬、梅、蝶、菊、文等の語はいと古き代より用ゐ来りたれば、日本語と見|做《な》すべしなどいふ人も可有之《これあるべく》候へど、いと古き代の人は、その頃新しく輸入したる語を用ゐたる者にて、この姑息論者が当時に生れをらば、それをも排斥致し候ひけん。いと笑ふべき撞著《どうちゃく》に御座候。仮に姑息論者に一歩を借《か》して、古き世に使ひし語をのみ用うるとして、もし王朝時代に用ゐし漢語だけにても十分にこれを用ゐなば、なほ和歌の変化すべき余地は多少可有之候。されど歌の詞《ことば》と物語の詞とは自《おのずか》ら別なり、物語などにある詞にて歌には用ゐられぬが多きなど例の歌よみは可申候。何たる笑ふべき事には候ぞや。如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申、これを外にして歌の詞といふ者は無之候。漢語にても洋語にても、文学的に用ゐられなば皆歌の詞と可申候。

  (明治三十一年二月二十八日)

八《や》たび歌よみに与ふる書

[朗読8]

 悪《あし》き歌の例を前に挙げたれば善き歌の例をここに挙げ可申候。悪き歌といひ善き歌といふも、四つや五つばかりを挙げたりとて、愚意を尽すべくも候はねど、なきには勝《まさ》りてんと聊《いささ》か列《つら》ね申候。先づ『金槐和歌集《きんかいわかしゅう》』などより始め申さんか。

武士《もののふ》の矢並つくろふ小手の上に
霰《あられ》たばしる那須の篠原

といふ歌は万口《ばんこう》一斉《いっせい》歎賞《たんしょう》[感心して褒めること]するやうに聞き候へば、今更取り出でていはでもの事ながら、なほ御気のつかれざる事もやと存候まま一応申上候。この歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、またかくの如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、またこの歌が強き歌なる事も分りをり候へども、この種の句法が殆《ほとん》どこの歌に限るほどの特色を為《な》しをるとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌はなり、けり、らん、かな、けれ抔《など》の如き助辞を以て斡旋《あっせん》[事が進展するように、人と人の間を取り持つこと]せらるるにて名詞の少きが常なるに、この歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最《もっとも》短き形)をり候。かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。新古今の中には材料の充実したる、句法の緊密なる、ややこの歌に似たる者あれど、なほこの歌の如くは語々活動せざるを覚え候。万葉の歌は材料極めて少く簡単を以て勝《まさ》る者、実朝一方にはこの万葉を擬し、一方にはかくの如く破天荒《はてんこう》[「天荒」は天地未開の時の混沌たるさまで、これを破りひらく意)今まで誰もしなかったことをすること。未曾有。前代未聞。(広辞苑より)]の歌を為す、その力量実に測るべからざる者有之候。また晴を祈る歌に

時によりすぐれば民のなげきなり
八大竜王《はちだいりゅうおう》雨やめたまへ

といふがあり、恐らくは世人の好まざる所と存候へども、こは生の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。かくの如く勢強き恐ろしき歌はまたと有之間敷《これあるまじく》、八大竜王を叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》する処、竜王も懾伏《しょうふく》[恐れてひれ伏すこと]致すべき勢《いきおい》相現れ申候。八大竜王と八字の漢語を用ゐたる処、雨やめたまへと四三の調を用ゐたる処、皆この歌の勢を強めたる所にて候。初三句は極めて拙《つたな》き句なれども、その一直線に言ひ下して拙き処、かへつてその真率《しんそつ》[正直で、飾り気がないこと]偽《いつわ》りなきを示して、祈晴《きせい》の歌などには最も適当致しをり候。実朝は固より善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出でたらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん。ここらは手のさきの器用を弄《ろう》し、言葉のあやつりにのみ拘《こだわ》る歌よみどもの思ひ至らぬ所に候。三句切《さんくぎれ》の事はなほ他日|詳《つまびらか》に可申候へども、三句切の歌にぶつつかり候故一言|致置《いたしおき》候。三句切の歌詠むべからずなどいふは守株《しゅしゅ》の論[[韓非子(五蠧)「因(よ)りて其の耒(らい)を釈(す)てて株を守り、復た兎を得んことを冀(こいねが)えり」](宋の農夫が、兎がたまたま切株にぶつかって死んだのを見て、その後耕作をしないでその株を見張って再び兎を得ようと願った故事から)古い習慣を固守して時に応ずる能力のないこと。少しの進歩もないこと。株(くいぜ)を守る。(広辞苑より)]にて論ずるに足らず候へども、三句切の歌は尻軽くなるの弊《へい》有之候。この弊を救ふために、下二句の内を字余りにする事しばしば有之、この歌もその一にて(前に挙げたる大江千里《おおえのちさと》の月見ればの歌もこの例、なほその外にも数へ尽すべからず)候。この歌の如く下を字余りにする時は、三句切にしたる方かへつて勢強く相成申候。取りも直さずこの歌は三句切の必要を示したる者に有之候。また

物いはぬよものけだものすらだにも
あはれなるかなや親の子を思ふ

の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処かへつて真心を現して余りあり候。ついでに字余りの事ちよつと申候。この歌は第五句字余り故に面白く候。或《ある》人は字余りとは余儀なくする者と心得候へども、さにあらず、字余りには凡《およそ》三種あり、第一、字余りにしたるがために面白き者、第二、字余りにしたるがため悪《あし》き者、第三、字余りにするともせずとも可なる者と相分れ申候。その中にもこの歌は字余りにしたるがため面白き者に有之候。もし「思ふ」といふをつめて「もふ」など吟じ候はんには興味|索然《さくぜん》[空虚な、興ざめするようなさま]と致し候。ここは必ず八字に読むべきにて候。またこの歌の最後の句にのみ力を入れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現す者にて、もし「親の」の語を第四句に入れ、最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候はば、例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申、従つて平凡なる歌と相成可申候。歌よみは古来助辞を濫用《らんよう》致し候様、宋人の虚字を用ゐて弱き詩を作ると一般に御座候。実朝の如きは実に千古の一人と存候。

 前日来生は客観詩をのみ取る者と誤解被致候ひしも、そのしからざるは右の例にて相分り可申、那須の歌は純客観、後の二首は純主観にて、共に愛誦《あいしょう》する所に有之候。しかしこの三首ばかりにては、強き方に偏しをり候へば、あるいはまた強き歌をのみ好むかと被考《かんがえられ》候はん。なほ多少の例歌を挙ぐるを御待可被下《おまちくださるべく》候。

  (明治三十一年三月一日)

九《ここの》たび歌よみに与ふる書

[朗読9]

 一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外に遷《うつ》り候べく候。

山は裂け海はあせなん世なりとも
君にふた心われあらめやも

箱根路をわが越え来れば伊豆《いず》の海や
おきの小島に波のよる見ゆ

世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ
海人《あま》の小舟《おぶね》の綱手かなしも

大海《おおうみ》のいそもとどろによする波
われてくだけてさけて散るかも

 箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる技倆《ぎりょう》には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣《ぞうけい》[学問や技芸に深く達している]の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。

 新古今に移りて二、三首を挙げんに

なごの海の霞のまよりながむれば
入日《いりひ》を洗ふ沖つ白波
     (実定《さねさだ》)

 この歌の如く客観的に景色を善く写したるものは、新古今以前にはあらざるべく、これらもこの集の特色として見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句が疵《きず》にて候。一面にたなびきたる霞に間といふも可笑《おか》しく、縦《よ》し間ありともそれはこの趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。

ほのぼのと有明の月の月影に
紅葉吹きおろす山おろしの風

     (信明《のぶあき》)

 これも客観的の歌にて、けしきも淋《さび》しく艶《えん》なるに、語を畳みかけて調子取りたる処いとめづらかに覚え候。

さびしさに堪へたる人のまたもあれな
庵《いお》を並べん冬の山里
     (西行《さいぎょう》)

 西行の心はこの歌に現れをり候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいふ露骨的の歌が世にもてはやされて、この歌などはかへつて知る人少きも口|惜《おし》く候。庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は、西行ならでは得《え》言はざるべく、特に「冬の」と置きたるもまた尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新《あらた》に俳諧を興せしも寂《さび》は「庵を並べん」などより悟入《ごにゅう》[(仏)心理を悟って、その心理に入ること]し、季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思《おもわれ》候。

閨《ねや》の上にかたえさしおほひ外面《とのも》なる
葉広柏《はびろがしわ》に霰《あられ》ふるなり
     (能因《のういん》)

 これも客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとてやや混雑に陥りたれど、葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。

岡の辺《べ》の里のあるじを尋ぬれば
人は答へず山おろしの風
     (慈円《じえん》)

 趣味ありて句法もしつかりと致しをり候。この種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く、下に連続する句法となさば何の面白味も無之候。

ささ波や比良《ひら》山風の海吹けば
釣する蜑《あま》の袖かへる見ゆ
     (読人しらず)

 実景をそのままに写し些《さ》の巧《たくみ》を弄《もてあそ》ばぬ所かへつて興多く候。

神風や玉串の葉をとりかざし
内外《うちと》の宮に君をこそ祈れ
     (俊恵《しゅんえ》)

 神祇《じんぎ》の歌といへば千代の八千代のと定文句《きまりもんく》を並ぶるが常なるにこの歌はすつぱりと言ひはなしたる、なかなかに神の御心《みこころ》にかなふべく覚え候。句のしまりたる所、半ば客観的に叙したる所など注意すべく、神風やの五字も訳なきやうなれど極めて善く響きをり候。

阿耨多羅三藐三菩提《あのくたらさんみゃくさんぼだい》の仏たち
わが立つ杣《そま》に冥加《めいか》あらせたまへ
     (伝教《でんぎょう》)

 いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今|未曾有《みぞう》[未だかつて起こったことがないこと]にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なればさまで口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらとにもあらざるべけれど、この所はことさらとにも九字位にする必要有之、もし七字句などを以て止めたらんには、上の十字句に対して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために、後にも字余りの句を置かねばならぬ場合はしばしば有之候。もし字余りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は、字余りの趣味を解せざるものにや候べき。

  (明治三十一年三月三日)

十《と》たび歌よみに与ふる書

[朗読10]

 先輩崇拝といふことはいづれの社会にも有之候。それも年長者に対し元勲に対し相当の敬礼を尽すの意ならば至当の事なれども、それと同時に、何かは知らずその人の力量技術を崇拝するに至りては愚の至りに御座候。田舎の者などは御歌所《おうたどころ》といへばえらい歌人の集り、御歌所長といへば天下第一の歌よみの様に考へ、従てその人の歌と聞けば、読まぬ内からはや善き者と定めをるなどありうちの事にて、生も昔はその仲間の一人に候ひき。今より追想すれば赤面するほどの事に候。御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐《すわ》るにもあらざるべく候。今日は歌よみなる者皆無の時なれど、それでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間に可有之《これあるべく》候。田舎の者が元勲を崇拝し、大臣をえらい者に思ひ、政治上の力量も識見も元勲大臣が一番に位する者と迷信致候結果、新聞記者などが大臣を誹《そし》るを見て「いくら新聞屋が法螺《ほら》吹いたとて、大臣は親任官《しんにんかん》、新聞屋は素寒貧《すかんぴん》[全く持って貧乏なこと。貧乏な人]、月と泥鼈《すっぽん》ほどの違ひだ」などと罵《ののし》り申候。少し眼のある者は元勲がどれ位無能力かといふ事、大臣は廻《まわ》り持《もち》にて、新聞記者より大臣に上りし実例ある事位は承知致し説き聞かせ候へども、田舎の先生は一向無頓著にて、あひかはらず元勲崇拝なるも腹立たしき訳に候。あれほど民間にてやかましくいふ政治の上なほしかりとすれば、今まで隠居したる歌社会に老人崇拝の田舎者多きも怪むに足らねども、この老人崇拝の弊を改めねば歌は進歩|不可致《いたすべからず》候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤も無之候。歌よまんとする少年あらば、老人|抔《など》にかまはず、勝手に歌を詠むが善かるべくと御伝言|可被下《くださるべく》候。明治の漢詩壇が振ひたるは、老人そちのけにして青年の詩人が出たる故に候。俳句の観を改めたるも、月並連《つきなみれん》[「月並」とは、毎月。月ごとの意味/子規が在り来たりの、続々排出されるような和歌や俳句を作る人々をこう呼んだりしているうちに、平凡、陳腐といった意味が生まれたという]に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候。

 縁語を多く用うるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど、普通には縁語、かけ合せなどあれば、それがために歌の趣を損ずる者に候。縦《よ》し言ひおほせたりとて、この種の美は美の中の下等なる者と存候。むやみに縁語を入れたがる歌よみは、むやみに地口《じぐち》駄洒落《だじゃれ》を並べたがる半可通《はんかつう》[十分知り得ないのに、知ったかぶりをすること。そのような人]と同じく、御当人は大得意なれども側《はた》より見れば品の悪き事|夥《おびただ》しく候。縁語に巧《たくみ》を弄《ろう》せんよりは、真率に言ひながしたるがよほど上品に相見え申候。

 歌といふといつでも言葉の論が出るには困り候。歌では「ぼたん」とは言はず「ふかみぐさ」と詠むが正当なりとか、この詞《ことば》はかうは言はず、必ずかういふしきたりの者ぞなど言はるる人有之候へども、それは根本において已(すで)に愚考と異りをり候。愚考は古人のいふた通りに言はんとするにてもなく、しきたりに倣《なら》はんとするにてもなく、ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候[#「ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候」に白丸傍点]。故に俗語を用ゐたる方その美感を現すに適せりと思はば、雅語を捨てて俗語を用ゐ可申、また古来のしきたりの通りに詠むことも有之候へど、それはしきたりなるが故にそれを守りたるにては無之《これなく》、その方が美感を現すに適せるがためにこれを用ゐたるまでに候。古人のしきたりなど申せども、その古人は自分が新《あらた》に用ゐたるぞ多く候べき。

 牡丹《ぼたん》と深見草《ふかみぐさ》との区別を申さんに、生らには深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹の幻影早く著《いちじるし》く現れ申候。かつ「ぼたん」といふ音の方が強くして、実際の牡丹の花の大きく凛《りん》としたる所に善く副《そ》ひ申候。故に客観的に牡丹の美を現さんとすれば、牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。

 新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大《おおい》に量見が間違ひをり候。文明の器械は多く不《ぶ》風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍に菫《すみれ》が咲いてゐるとか、または汽車の過ぎた後で罌粟《けし》が散るとか、薄《すすき》がそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。また殺風景なる者は遠望する方よろしく候。菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。

 いろいろ言ひたきまま取り集めて申上候。なほ他日|詳《つまびら》かに申上ぐる機会も可有之《これあるべく》候。以上。月日[(がっぴ)]

  (明治三十一年三月四日)

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青空文庫のデータ

底本:「歌よみに与ふる書」岩波文庫、岩波書店
   1955(昭和30)年2月25日第1刷発行
   1983(昭和58)年3月16日第8刷改版発行
   2002(平成14)年11月15日第26刷発行
入力:網迫、土屋隆
校正:川向直樹
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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2010/1/14
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