正岡子規 『古池の句の弁』

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古池の句の弁 (テキストは冒頭のみ)

 客あり。我草蘆(そうろ)を敲(たた)きて俳諧を談ず。問ふて曰(いわ)く

   古池や蛙飛びこむ水の音   芭蕉

の一句は古今の傑作として人口に膾炙(かいしゃ)[膾(なます)や炙(あぶ)りものが好まれて食され続けるように、広く人々に好まれ、話題として知れ渡ること]する所、馬丁(ばてい)[馬の口を取る人]走卒(そうそつ)[使いっ走り・従者]もなほかつこれを知る。しかもその意義を問へば一人のこれを説明する者あるなし。今これが説明を聴くを得んか。

 答へて曰く、古池の句の意義は、一句の表面に現れたるだけの意義にして、また他に意義なる者なし。しかるに俗宗匠輩がこの句に深遠なる意義あるが如く言い做(な)し、かつその深遠なる意義は到底普通俗人の解する能はざるが如く言い做して、かつてこれが説明を与へざる所以(ゆえん)の者は、一は自家の本尊を奥ゆかしがらせて俗人を瞞着(まんちゃく)[欺くこと、騙すこと]せんとするに外ならざれども、一つは彼がこの句の歴史的関係を知らざるに因(よ)らずんばあらず。古池の句が人口に膾炙するに至りしは、芭蕉自らこの句を以て自家の新調に属する劈頭(へきとう)[ことの初め。最初]第一の作となし、従ふてこの句を以て俳句変遷の第一期を劃(かく)する境界線となしたるがために、後人(こうじん)相和(あいわ)して[親しくする、仲良くする、調和する]またこれを口にしたりと見ゆ。しかるに物換(かわ)り時移るに従ひ、この紀念的俳句はその紀念の意味を忘られて、かえつて芭蕉集中第一の佳句と誤解せらるるに至り、終(つい)に臆説(おくせつ)[推測や仮定に基づく、事実ではない説]百出、奇々怪々の附会[(=付会)無理につなぎ合わせること、こじつけること]を為して俗人を惑はすの結果を生じたり。さらばこの句の真価を知らんと欲せば、この句以前の俳諧史を知るに如(し)かず、意義においては古池に蛙の飛び込む音を聞きたりといふ外、一毫(いちごう)[ほんの少し、わずか]も加ふべきものあらず、もし一毫だもこれに加へなば、そは古池の句の真相に非(あらざ)るなり。明々白地(めいめいはくち)[白地は、まだなにも染めたり書いたりしていない無地の状態]、隠さず掩(おお)はず、一点の工夫を用ゐず、一字の曲折を成さざる処、この句の特色なり。豈(あに)他(た)あらんや。

 客僅(わずか)に頷(うなず)く、いまだ全く解せざるものの如し。更に語を転じて曰く、我今、子(し)のために古池の句の歴史的関係を説くべし。子かつ子の胸中より一切記憶に存する所の俳句を取り去り、虚心虚懐(きょしんきょかい)以て我言を聴け。古池の句もこれを忘るべし。その外の俳句、芭蕉たると蕪村たるとに論なく、古句たると新句たるとを問はず、他人の作と自己の作と併(あわ)せて尽(ことごと)くこれを忘れざるべからず。世人皆、俳句の発達せる今日の心を以て古池の句を観る、故に惑(まどい)を生ず。子、今、俳句いまだ発達せざる古(いにしえ)に身を置きて我言を聴かば、必ずや疑(うたがい)を解くことを得ん。客曰く、唯々(いい)[はいはい、と逆らわずに承知すること]

 曰く、俳諧の歴史を説くは、今我志す所に非ず。しかれども歴史を説かざれば古池の句を解すること能はず。故に古池の句を解するに必要なりと思惟(しい)[考えをめぐらすこと、深く考え思うこと]する程度において古俳諧史を説かんとす。古俳諧史の無味乾燥にして、蝋(ろう)を噛むが如きは従(いたず)らに子の欠伸(けんしん)[あくび、あくびをし背伸びをすること]を催すに過ぎざるべきも、その欠伸を催さしむる処、便(すなわ)ちこれ古池の句の牽(ひ)き出だす所以ならずんばあらず、子、姑(しばら)くくれを黙聴(もくちょう)せよ。

2011/3/21-23

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