正岡子規 『獺祭書屋俳話増補』

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獺祭書屋俳話増補  (正岡子規)

目録

[歳晩閑話]
 巨燵 [朗読1]
 冬籠
 煤掃
 鉢叩
 年の市 [朗読2]
 餅搗
 歳暮
 人様々
[歳旦閑話]
 神国 [朗読3]
 富士山
 西京東都
 大島蓼太 [朗読4]
 井上士朗
 成田蒼キュウ
[雛祭り] [朗読5]
[菊の園生]

歳晩閑話

[(獺祭書屋書生注)
「歳晩」とは「年の暮」すなわち年末のことにて、「閑話」とは無駄話、あるいは物静かなる話の意なるぞ]

巨燵(こたつ)

[朗読1]
 煤掃(すすはき)は、葉竹(はちく)をお幣(さつ)の如く振り立てて、一年の塵を払ひ清め、餅搗(もちつき)はほんほんと鼓の音をなして君が代を祝ふ。掛乞(かけごい)[あるいは「掛取(かけとり)」は、掛け売りの(つまり俗語の云うところの「つけ」)代金を徴収すること。盆と年末に行われることが多かった]に今年の太平を祈り、年の市に来年の支度いそがしき中に、四畳半の春風を占め得たる。巨燵(こたつ)を抱へて古俳書など繙(ひもと)きたる、心いみじう長閑けし。若きうちの巨燵は兎角(とかく)に恋の種に思ひ付き易きものにやあらん。古(いにしえ)の句も巨燵といへば、大方はなまめきたるぞ多き。

君火燵(こたつ)うき身時雨の小袖かな
  枳風(きふう)芭蕉の門弟

妹なくてうたゝね悔(くゆ)る巨燵かな
  浅山(せんざん?)

うたゝねに火燵消たる別れ哉
  嵐蓑(らんさ)[1689年刊『あら野』内の句]

姑の出たあとぬくきこたつかな
  半捨(はんしゃ)

腰ぬけの妻うつくしき火燵哉 ・
  与謝蕪村(1716-1783)

これらは先づよき方なるべし。

いつとなく我坐定るこたつかな
  孚先(ふせん?)[1690年刊『其袋』内の句か]

物かくに少しは高きこたつかな
  窪田猿雖(くぼたえんすい)(1640-1704)芭蕉の弟子

手枕(たまくら)の敷居へかゝるこたつかな
  西澤魚日(にしざわぎょじつ)(?-1753)

 これらはありのまゝを工夫せずして面白し。善きとにはあらねどいちどくすれば誰もうなづく句なり。されども火燵の情はまづ年老て、冬籠の語り相手に手飼(てがい)の猫とさしむかひたるにあり。例えば

ほこ/\と朝日さしこむ巨燵かな
  内藤丈草(1662-1704)

わびぬれば粉炭(こずみ)久しきこたつかな
  通雪(つうせつ?)

捨て果てし身の行末もこたつかな
  井上士朗(1742-1812)

  自然に天の道を守る
背くゞめて足くゞめけり置火燵
  玄泉(げんせん?)

の如き、恋をはなれて落ちつきたるを見るべし。はた芭蕉翁の

住(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

と行脚の情を穿(うが)ちたる尤(もっとも)めでたし。

  悼芭蕉翁
肩うちし手心(てごころ)に泣くこたつかな
  竹戸(ちくこ)蕉門一味

  悼六窓
俳諧の骨こそのこれ冷えごたつ
  大島蓼太(1718-1787)

この二句を見ても百年間の風体(ふうてい)の変遷を見るべきなり。

冬籠

「小人閑居して不善をなす」[中国。『礼記』にある言葉。品位の浅ましいこものは暇であると良くないことをするものである]の誡(いまし)めもあれば、火燵に友を集めて賑やかなる冬籠(ふゆごもり)こそ、いと心もとなけれ。夕飯の粥も痩せ骨を温むるだけに喰ひ尽し、人訪ひ顔の雀も窓を離れてねぐらに帰りたる後は、油尽きなんとする燈火(とうか)かき立てて古人の相撲など試みたる、尤(もっとも)をかし。

[左勝]
蠅一つ我をめぐるや冬ごもり
  加藤暁台(かとうきょうたい)(1732-92)

[右]
鉄槌(てっつい)に蠅を打ちけり冬ごもり
  大島完来(おおしまかんらい)(1748-1817)

[「鉄槌」は大型のカナヅチの意味でなく、握り拳の意味と思われる。大島完来は雪中庵(せっちゅうあん)を継承した人物で、三代目大島蓼太の養子となって雪中庵を受け継いだ。ちなみに二代目は桜井吏登(さくらいりとう)であり、初代が服部嵐雪(はっとりらんせつ)である。]

 右、抜山(ばつざん)[山をも抜くほど]の勇も、時に遇(あ)はざれば働きを見せ難く、冬籠の徒然(つれづれ)に鉄槌もて蠅打ちたる趣、妙ならぬにはあらねど、一事為す無くただ蠅のなぶるに任せたる。殊(こと)に時も古ければ、勝ち。

[左勝]
金屏の松の古さよ冬籠 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

[右]
うしろには松の上野を冬籠
  夏目成美(なつめせいび)(1749-1817)

冬籠の金屏の松を見付けたる手柄大なり。上野の山を木楯(こだて)[盾の代わりに身を守るための立ち木のこと]に、都ながら物さびにし閑居も雅致あれど、姑(しばら)く[さしあたり]負。

[左勝]
雑水(ぞうすい)のなどころならば冬ごもり ・
  宝井其角(たからいきかく)(1661-1707)

[右]
朝鮮の米もらひけり冬ごもり
  巒寥松(みねりょうしょう)(1760-1833)

朝鮮の米、奇に過ぐ。雑炊の名所とは千古独歩の働きなり。

[左持]
冬籠史記読むほどは米もあり
  高桑闌更(たかくわらんこう)(1726-98)

[右持]
冬籠漁翁(ぎょおう)が持仏(じぶつ)光るなり
  師心(ししん?)
  [あるいは江森月居(げっきょ)のことか?]

[「漁翁」は漁をする老人、老いた漁師の意味。「持仏」は、自分自身や家を守るために邸内に飾ったり、身に付けたりする仏像のこと。念持仏(ねんじぶつ)ともいう]

安心立命の地は何処(いずこ)の境涯にか無からん。寒儒(かんじゅ)[貧しい儒者、儒学者]の隠居漁翁の冬籠、人それぞれのたしなみ、何(いず)れかおろかならん。

[左]
燈火もうごかで丸し冬ごもり
  志太野坡(しだやば)(1662-1740)

[右勝]
汁鍋のあとむつかしや冬籠
  岩田涼菟(いわた りょうと)(1659-1717)

燈火の落ちつきて、心と共に静かなるも面白けれど、汁鍋のむつかしうこがりつきたる[焦げ付いている]、尤(もっと)も適切なり。右の勝とす。

[左]
先づ杖をはじめに焚かん冬籠
  桜井兀峰(さくらいこっぽう)(1662-1722)蕉門

[右勝]
冬籠鼓の胴のほこりかな
  直江木導(なおえもくどう)(1666-1723)蕉門

[「木導」は芭蕉に
  春風や麦の中ゆく水の音
の句を讃えられた人物。
(子規の「俳人蕪村」参照)]

左、冬籠に杖を焚くは、鉢の木の古みに落ちずその老手を見る。右、鼓のほこり払ひあへぬ所も珍らし。

[左勝]
人を吐く息をならはん冬籠
  三上千那(みかみせんな)(1651-1723)

[右]
誰か像に居ずまゐ似せん冬籠
  白井鳥酔(しらいちょうすい)(1701-1769)

千那は羅漢(らかん)[「阿羅漢(あらかん)」は、尊敬されべき修行者などを指す言葉に発して、すべての学問を得てさらに必要ならざる人(無学の人)などを表し、最高の悟りに達した人を指す言葉で、「羅漢」はその略。ちなみにアストラカンは、子羊の毛皮、その加工品を指すので注意が必要(すなわち問う、注意されべき人はいずこか)]の古書を掛けて、人を吐かんと思ひつき、鳥酔は蕉翁の坐像に対して粛然(しゅくぜん)[おごそかなさま/しずかな様子]衿(えり)を斂(おさ)む、真(まこと)にこれ好一対。

[左勝]
冬籠りまたよりそはん此(この)はしら ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

[右]
冬籠ゐざつて事のすみぬべし
  青地彫棠(あおちちょうとう)其角門弟

膝行(ひざい)つて[神や貴人などに対して、ひざまずいて、膝を床についた状態で歩く様子。「膝行(しっこう)」のこと]事を為す、雅中一点の俗気を免れず。またよりそはんこの柱は、正にこれ真人(しんじん)[真の道を持った人]の気性、乾坤(けんこん)[天と地、陰と陽、など]寂として声なし。

[左勝]
冬三月別もなく籠りけり
  美濃口春鴻(みのくちしゅんこう)(1733-1803)

[右]
今日がなくばあすは/\と冬籠
  栗田樗堂(くりたちょどう)(1749-1814)一茶友人

姿は右勝てり。情は左の方自然なり。左勝にや侍(はべ)らん。

煤掃(すすはき)

 破れ窓より一筋さしこんだる日の光に眼をさませば、次の間はとんとんと畳打ち鳴らす音かしましきに堪へかね、やがて起き出でて障子を開けば

すゝはきやちりにゆかしき枯れ葵(あおい)
  嵐亭(らんてい)

[嵐亭は、嵐雪の別号を表したものか、別人も複数いるので不明]

大黒の日南(ひなた)ほこりやすゝはらひ
  中川乙由(なかがわおつゆう)(1675-1739)

がらくた道具取り乱したる中を、爪立ちに歩みつつ

撫でゝ置けつきせぬ宿のすゝ掃
  江左尚白(こうさしょうはく)(1650-1722)

といひすてて、ぶらりと我家を立ち出でたり。

いづかたに行て遊ばんすゝはらひ
  草壁挙白(くさかべきょはく)(?-1696)蕉門

道々もここかしこと、大方は家内騒ぎののしりて、幾かたまりの塵ほこりは、小窓天窓のきらひなく押し出だしては、風に吹き散らさるるに口を掩(おお)ひて

すゝはきやはしつてとほる京の町
  広瀬月化(ひろせげっか)(1747-1822)

奈良の都ならば

すゝ掃のほこりかつぐや奈良の鹿
  炭太祇(たんたいぎ)(1709-1771)

ともいふべきを、東京の町中は馬の往来も殺風景なれば「すゝ掃のほこりかつぐや江戸の不二」ともいふべきか。遙かのかなたには節季(せっき)[季節の終わり、時節/年の暮/盆や暮などの勘定の節目]ともなき宮城(きゅうじょう)のどかに五雲(ごうん)[天上のものや、高貴なるものの遊びするあたりに掛かるという五色の雲、またはそれをあしらった図案や模様など]たなびき渡れり。

大内や伽羅(きゃら)のけむりのすゝはらひ
  口文(こうぶん?)

[「大内(おおうち)」とはここでは、「内裏(だいり)」の意味なり]

それより田舎へ田舎へとたどり行くに

はし杭(ぐい)や御はらひかゝるすゝはらひ
  卜枝(ぼくし)蕉門

裏棚もそれ相応の煤はらひのさま、垣ごしに見られたる身の上も何とやら。面白き心地す。

煤掃うめに下げたるひさごかな
  一髪(いちはつ?)

煤はきのたゝみもだすなうめのはな
  水間沾徳(みずませんとく)(1662-1726)

煤竹(すすたけ)[煤払いのために先に葉などを付けて天井などを払う道具/煤けた竹のこと]縦横にふりまはしたるあらくれ男の様は

すゝはらひ不動に似たるまなこかな
  直江木導(なおえもくどう)(1666-1723)蕉門

やさしき花嫁の、煤にまぶれし手拭かぶりたるが、ふと外面を見出して顔を合わせ恥かしげに隠れたり

はづかしきひとにあひけり煤の門
  石中堂斑象(せきちゅうどうはんぞう)(?ー1779)
  [二世。三世も居るが、この人でよいだろうか?]

など見て行けば

旅寐(たびね)してみしやうき世の煤はらひ ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

の趣あり。日暮れて帰れば、我家の煤払もすみて、草の家も時ならぬ光を放つが如し。

鉢叩(はちたたき)

 冬季に属する俳諧の題目に炭買(すみかう)、暦買(こよみかう)、葉竹買(はちくかう)、羽子板買(はごいたかう)、夜興曳(よこひき)[「夜興引(よこひき・よごひき・よこうひき)」は、冬の夜間中の狩猟のこと]、厄払(やくばらい)等の人物あれとも、掛乞(かけごい)[掛け売り代金(俗にツケ代など)の回収、取り立て]より俗なるはなく、鉢叩(はちたたき)[空也念仏として、鉢やひょうたんを敲いて念仏を唱えつつ歩き回る仏事]より雅なるはなし。天象には時雨(しぐれ)、木枯(こがらし)、霜(しも)、霰(あられ)、寒月(かんげつ)等の好材料あれども、終(つい)に雪の潔(いさぎよ)くうつくしきには及ばず。まして雪の夜に、鉢叩のをかしう瓢(ひさご)打ち鳴らしたるけしきなど思ひやるさえ、あはれにものさびし。されば古人のものせし俳句にも

鉢叩出もこぬ村や雪の雁
  岡田野水(おかだやすい)(1658-1743)

月雪(つきゆき)や鉢叩名は甚之丞(じんのじょう) ・
  越智越人(おちえつじん)(1656-1739)蕉門

淡雪にふられありくやはちたゝき
  中川乙由(なかがわおつゆう)(1675-1739)

花に俵太(ひょうた)雪に君有鉢たゝき
  与謝蕪村(1716-1783)

月雪(つきゆき)にほしくば叩け南無瓢(なむひさご?)
  栗田樗堂(くりたちょどう)(1749-1814)

雪の夜は子に教ふるかはちたゝき
  栄沙(えいさ?)

白雪にひとりくれけりはちたゝき
  米汁(?)

薄雪のかげより出たりはちたゝき
  成田蒼キュウ(なりたそうきゅう)(1761-1842)

はちたゝき雪はしまくに西へゆく
  高梨一具(たかなしいちぐ)(1781-1853)

    自賛
南無(なむ)月夜南無雪時雨(しぐれ)鉢叩
  井上士朗(いのうえしろう)(1742-1812)

など、いづれもあはれのありたけを尽したり。我も妄(みだ)りにその顰(ひそみ)に倣(なら)はんとて[「西施(せいし)の顰みに倣う」(中国、荘子)の古事より、人まねをして物笑いのタネになること。また人に見倣って行うことを謙遜して言う言葉。古事は、美女の西施が胸の病に苦しみて眉をひそめたれば、醜女の真似て不気味たるさまを述べるもの]、蛇足を添へつ。

鉢たゝき雪のふる夜をうかれけり

年の市

[朗読2]
 年の市とて、来年のものばかり売る歳のくれのさま。都の真中に松の林を見かけ、傾きたる軒の下に鳥と魚の命ならべたるも珍しきに、このいそがしさも皆な新年の用意と聞けば、さすがにうるさからぬ心地す。老いたるも若やぎ、若きも世帯じみ、男は餅網・火吹竹を抱へて帰り、女は乾鮭(からざけ)二、三本をひつさげて走る。都の人は皆家をからにして出でたらんかと思はるる許(ばか)りなり。されば年の市の句は大方

こねかへすみちも師走のいちのさま
  河合曾良(かわいそら)(1649-1710)蕉門

布くゝるぜにのゆきゝやとしのいち
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

としのいち馬のまたぐらくゞりけり
  広瀬月化(ひろせげっか)(1747-1822)

こばんうる吉次も出たりとしのいち
  泰人(たいじん)

のたぐひなるに、なほさかんにいひなしたるは

しきいたに銭つくおとやとしのいち
  遊路(ゆうろ?)

皿はちのなだれたおとやとしのいち
  鶴田卓池(つるだたくち)(1768-1846)

また、をかしくおどけたる処を見つけたるは

なべ蓋(ぶた)でひとをまねくやとしのいち
  荷少(かしょう?)

忙中閑(ぼうちゅうかん)[忙しいさなかのわずかな暇]を叙して、なほ忙しきさまを見せたるは

喧嘩するひまはありけりとしのいち
  高井立志(たかいりゅうし)

[らしいが、実は何代も同名が続く]

ねぎりはるこゝろ長さよとしのいち
  立花牧童(たちばなぼくどう)蕉門

[芭蕉門下の立花北枝(たちばなほくし)の兄。ただし、この人を指すかちょっと不明瞭]

の類(たぐい)なりとす。そもそも美術・文学にては一事一物を見るに常に善き方より見て、あしき方より見ぬは風流の極意なるべし。この思想は我邦の俳句に於(おい)て、尤(もっとも)そのいちじるしきを見る。たとへば年の市の俗なるもなほ

世のなかのかひ/”\しさよ年の市
  倉田葛三(くらたかっさん)(1762-1818)

など、ほめたるためしさへあればと、その理屈から割り出して算盤球(そろばんだま)の上で

君が代やめでたうさわぐとしのいち

など試みたる。似るべくもあらず。また卑俗に流れ易き題目を取りて佳句を得んと欲せば、全くその反対の事をいふか、あるいはその卑俗なる中より、成るべく雅致ある者を取り出だすにあり。年の市の題にて之(これ)を反対の方より悲しくいひあらはしたる句は

雁鴨(かりかも)を見ればかなしやとしの市
  松井

のたぐひ。また雅なるものを取り合はせたるは

年の市線香買(かい)に出(いで)ばやな ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

酔李白師走の市に見たりけり
  高井几董(たかいきとう)(1741-1789)

いちの夜や千鳥かたよる隅田川
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

としのいち鶯売りはちか目なり
  藤原保吉(ふじわらやすよし)(1760-1784)

としのいち梅さしあげて通りけり
  生方雨什(うぶかたうじゅう)(1704-1813)狂歌も有

のたぐひ、これらは皆斬新なれども奇怪に失せず、石を以て玉に変じ、俗を翻(ひるがえ)して雅となすの一手段なり。蓋(けだ)し俳諧に於ける美辞学の一秘訣とすべし。また哲学的観念をまじへたる句あり。

としのいちや昼夜をすてず隅田川
  荘舟(そうせん?)

餅搗(もちつき)

 門に月並庵の三字を大書し、庵室は四畳半と六畳との相の子にて、楕円の窓を両隅に開き、庭木・庭石など無理にひねりたる方宜し。尤(もっと)も、芭蕉ひともとは手水鉢(ちょうずばち)のほとり、成るべく風あたりの善き処に植えてはらはらと音せるやうにすべし。庵主、床の前にすわりて顔をよそ行きにし、咳をオツにし、茶碗の茶を飲みほしながら、
「今日は諸風子(ふうし)[風流な人]のお揃い、幸い弊庵(へいあん)[自分の庵をへりくだって言う表現。同様に「弊社」などがある。「紙幣」の「幣」の字が似ているので注意]の餅つきなれば、古人の餅搗の句を評しあふも一興ならん。先(ま)づおだやか屋流蝶子(りゅうちょうし)より、こゝに書き並べたる中の秀句を撰び給(たま)へ」
といへば、流蝶暫(しばら)く読みくらべて、「やつかれ[身分の低い者、卑賤の者/自分を謙遜して云う代名詞]のよろしと思ふは

餅つきのうすにさしこむ朝日かな
  迎山(げいざん?)

この一句なり」といひも終らず、一人のあらくれ男、つと前の方に膝を進めて
「左様な無気力な句は甚だ手ぬるし

餅つきや犬の見上ぐるきねのさき
  森川許六(もりかわきょりく)(1656-1715)

餅つきの手みづかゝるや馬のかほ
  鶴田田鳳(つるたでんぽう)

の如きは一唱三嘆の妙あるものを」
と怒鳴りたり。その時、傍より軽滑園氷金、火箸にて薬罐(やかん)を叩きながら、
「好奇子の抜きたる句なぞは、まだ素人量見を免れず」

膝がしら出してもち押す寒さかな
  東推(とうすい)

餅と屁と宿は聞き分くことぞなき
  宝井其角(たからいきかく)(1661-1707)

我宿のもちにして聞くこだまかな
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

 かような句こそ実に以てとあともいはせず。破れ袴穿(うが)ちたる[身に付けたるという意味]屁理屈先生、扇を取り上げ、
「静まり給へ、静まり給へ。貴公等の撰、甚だその当を得ず。蓋(けだ)し、腹に学問のなき罪なるべし」

搗(つ)き立てや餅は方円のうつわもの
  中川乙由(なかがわおつゆう)(1675-1739)

[実語教(じつごきょう)という日本の初等教育本に載っている「水は方円の器(うつわ)にしたがう」のことわざからたわむれたもの。もともとは中国の故事に由来。ことわざの意味は、水は方型の器にも、円形の器にも従って、かたちを変える。句の意味は、水ほど容易くは行かないが、搗き立てれば餅は、方円のうつわに従ってもくれよう、さあそれまで頑張りたまえ、とでも言う意味か]

この一句、先ず我心を獲(え)たり如何々々」
という口の下より
諸子(しょし)[君たち]、未だ俳諧の極意を知らず」

もち搗の手傅ひするや小山伏(こやまぶし) ・・
  馬仏(ばぶつ)『続猿蓑』内

餅つきや火をかいて行男部屋 ・・
  岱水(たいすい)『続猿蓑』内

もちつきや梅を開かすをとがする
  梅兮(ばいけい?)

まづこの三句を秀逸と定め申さん」
とりきみたるは飄然堂(ひょうぜんどう)飄然なり。次に翫古庵(がんこあん)古調徐(おもむ)ろに口を開きて、
「我等の見る所にて、先ず動かぬ句といはば

有明(ありあけ)もみそかにちかし餅の音 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

一とせやもちつく臼のわすれみづ
  生駒万子(いこままんし)(1654-1719)蕉門、藩士

大原や木がくれてのみもちをつく
  小林一茶(こばやしいっさ)(1763-1827)

の三句ばかりなりとぞいひける。この時、満座の者異口同音(いくどうおん)に皆々仰(ぎょう)に[たいへん、たいそう、ひどく(度の過ぎているさまを表す)]従ひ、愚見(ぐけん)を述べたり。「いざこれよりは、宗匠の御意(ぎょい)承(うけたまわ)らん」とつめかくれば、月並庵金宗匠益々(ますます)落ち付き、かへつて二つ半の咳ばらひをすまし、「諸風子は皆、俳諧の新らしみを知らぬによつて量見正しからず。拙(せつ)の見つけたる秀句は

もちつきや柳にはなのかへり咲き
  希橋(ききょう?)

とめられて聞き明しけりもちの音
  市原多代女(いちはらたよめ)(1776-1865)

うめの木も持てもちつく小家かな
  西坊千影(にしのぼうせんえい)(1756-1825)この人か?

腰に鍵つけてもちつくさしづかな
  中島荷了(なかじまかりょう)

なり」といへば、皆々呆れて言葉無し。傍(かたわら)に居たるをさなき兒(こ)、忽(たちま)ち口を聞きて「坊のすきなのは」

目ざむるや皆我もらふもちの音
  白井鳥酔(しらいちょうすい)(1701-1769)

もちつきはすき煤はきは嫌ひにて
  鴨北元(かも-ほくげん)(1776-1838)

歳暮(せいぼ)

 龍(たつ)の歳(とし)は、雲煙(うんえん)[雲と烟、雲とかすみ/山水画における雲や霞の表現]出没の間に過ぎ去りて、僅(わず)かにその尾尖(びせん)[=尾先]を留めたり。雲深き大内(おおうち)[皇居、内裏のこと]の御事(おこと・おんこと)は思ひやるだにかしこけれども、さりとて司人(つかさびと)の忙しくつとむるは同じ事なるべし。

行幸(ぎょうこう)の牛あらひけりとしのくれ
  宝井其角(1661-1707)

議会も一まづ門を閉ぢて、世の中何となく静まりぬ。

鴉(からす)かあ雀ちうとて歳くれぬ
  存亜(そんあ?)

扨(さて)、上(かみ)の三百人は

歌をよむ身のたふとさよ歳のくれ
  鳥居文鱗(とりいぶんりん)蕉門

下(しも)の三百人は大方、田舎をさして落ち行きたり。

旧里(ふるさと)や臍の緒(へそのお)に泣としの暮 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

居残りの人は、何をかなすならん。

小傾城(こげいせい)行てなぶらん年の暮 ・
  宝井其角(1661-1707)

大役所、奥深くして探るに由(よし)なし。その魂胆(こんたん)は如何(いかが)。

分別(ぶんべつ)の底たゝきけり年の昏(くれ) ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

役人は費用節減と時間延長との板ばさみ

ゆく年にたゝみのあとや尻のなり
  向井去来(むかいきょらい)(1651-1704)

銀行は金融緩慢(かんまん)

行くとしや永栄(えいえい)くさる瓶の中
  冬文(ふゆふみ)

洋服屋は不景気

股引(ももひき)や膝から破(や)れてとしのくれ
  馬仏(ばぶつ)高桑闌更門弟

学生は下宿に籠城して、こし方を忍び

来年は/\とてくれにけり
  沢露川(さわろせん)(1661-1743)

女学生は今を盛りと市中を横行す。

すさまじや女の眼鏡としのくれ
  伊藤信徳(いとうしんとく)(1633-1698)

商買(しょうばい)人は

猿猴(えんこう)の手に手をかるやとしのくれ
  服部嵐雪(はっとりらんせつ)(1654-1707)

[猿猴は、広島、中国・四国地方などに知られる猿のような河童の妖怪のこと]

新聞屋は

腹中の反古(ほご)見わけんとしのくれ
  山口素堂(やまぐちそどう)(1642-1716)

おもてへ出づれば

小便が大川になるとしのくれ
  鴨北元(かもほくげん)(1776-1838)

如(し)かず、内にひつこんで

火燵(こたつ)から松かぜきくやとしのくれ
  大島蓑里(おおしまさり)(1680-1732)この人か?

人様々

 歳のくれの市に立ちて何者か通ると見てあれば

あら鷹もその鷹匠(たかじょう)も頭巾(ずきん)かな
  寺島朱廸(しゅてき)蕉門

あはれ昔の武者振(むしゃぶり)ならばといとほし。

橋々やくれいそがしき暦売り
  狐屋(こや? きつねや?)蕉門

伊勢より出づと聞けば尊(とうと)し。

節季候(せきぞろ)の来れば風雅も師走哉 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

[節季候は十二月の歳暮の頃に数人一組で竹などを鳴らして家々をまわる物乞いのこと。ウラジロの葉を笠に差して、赤い布きれで顔を覆って「せきぞろ、せきぞろ」と囃しながらまわり歩く]

今は門附(かどづ)け[人の家の玄関などで演奏や芸能などを演じて金品を貰い歩くこと、その人]にもや節季候(せきぞろ)の名を興(あた)へん。

炭売の横町さがる吹雪かな
  湖夕(こせき)蕉門、炭俵内

山の奥には妹も待つらん、子も呼ぶらん。扨(さて)も心いそがし。

足をそらに羽子板(はごいた)売のすがたかな
  歩雪(ほせつ?)

誰が似顔かと、覗(のぞ)く小娘の愛らしさ。

粥(かゆ)ばらもしば/\空(むな)しはちたゝき
  中川乙由(なかがわおつゆう)(1665-1739)

いやとよ[「いや」を強めて言う言葉。「いやはや、とんでもない」]、ひもじさに破れ椀叩く乞食のをかしさよ。

今行くが上手さうなり厄ばらひ
  四睡庵素練(しすいあんそれん)この人か不明

呼べどもこたへぬは厄払かあらぬか。

すさまじきうはなり声の姥等(うばら)かな
  仙行(せんこう? せんぎょう?)

[姥等は京都などで歳末に現れた女乞食のこと]

声高く青物ねぎりたる老婆の俤(おもかげ)に、昔を忍ぶ許(ばか)りなり。

かけ乞ひのしろき眼ややどの梅
  藤原保吉(ふじわらやすよし)(1760-1784)

あな怖ろしの顔やよも人にはあらじ、と見るまゝに日暮れて、町もあやなし[筋道が立たない、理屈に合わない]

歳旦閑話(さいたんかんわ)

[「歳旦」とは新年の元旦、一月一日のことである]

神国(しんこく)

[朗読3]
 初日の影は九尺二間(きゅうしゃくにけん)[間口が九尺(約2.7m)で奥行き二間(約3.6m)の狭い住居。多少広さのある表長屋に対して、四畳半プラスアルファくらいの狭い裏長屋の事を指したりする言葉]の隅々まで照して、はきだめの塵も陽炎(ようえん)と燃え上り、松竹の飾り八十余州至る処に立て並べて、北風やや東の方より吹きつくる。きのふけふ、いづくはあれど、日の本の三ケ日のどかに、神の御末の栄え行く有様こそたふとけれ。されば新年の俳句には、神徒はいふまでもなく、僧侶も俗人も皆、神を敬(うやま)ふの風をなしたるも偶然にはあらざるべし。

日の本にいづくまさらんかみの春
  池坊専順(いけのぼうせんじゅん)(1411-1476)連歌師

元朝や神代のこともおもはるゝ
  荒木田守武(あらきだもりたけ)(1473-1549)連歌師

仏より神ぞたふときけさのはる
  とめ(後に羽紅尼)凡兆の妻、『阿羅野』内

元日や仏法いまだ注連(しめ)の外
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

これでこそ神の御末ぞけさのはる
  二鶴(にかく?)

元日は法師目なれぬ神代かな
  渓石(けいせき)蕉門

元朝や女にさすも神の事
  子存(しそん?)

生れながら僧にもあらず花のはる
  鴨北元(かもほくげん)(1776-1838)

 神国のもとは神路山(かみじやま)に立ち、初春の霞は二見の浦より引きそむるからに、伊勢の国といへばはや唇に神風の吹くを覚ゆ。

二見から蒔絵やつゞくかどの松
  松尾芭蕉(1644-1694)

[芭蕉作ではないようだ]

蓬莱(ほうらい)に聞(きか)ばや伊勢の初便 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

伊勢の浦や御木(みき)引き休むけさの春
  亀洞(きどう)蕉門

石に餅の香はなし伊勢の日の始
  鏡樹(きょうじゅ)

元日や器の水も伊勢の海
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

元日やひとゝ生れて伊勢のくに
  丘高(きゅうこう)

富士山

 凡(およそ)天下の者、如何なるを指して目出度しとやいはん。高き者はめでたく、古き者はめでたく、白き者はめでたく、尽きぬ者はめでたし。我が日の本の富士は、天地の分れし時ゆ神さびて高く貴きが上に時しくぞ雪はふりつつ、この後も絶えなん時はあらずと思へば、如何に目出度きものの限りなるらん。されば新年としいへば富士の懸物など懸くる程なれば、初春に読み出でたる富士の歌・俳句は、その山なすばかりなり。歌には

天の原富士の煙の春の日の
  霞になびく曙の空
    大僧正慈円(だいそうじょうじえん)(1155-1225)

立ち登る雲も及ばぬ富士の嶺(ね)に
  煙をこめて霞む春かな
    衣笠家良(きぬがさいえよし)(1192-1264)

春は又霞に消えて時しらぬ
  雪とも見えず富士の芝山
    大僧正道性(どうしょう)(1278-?)

富士のねの雪には春も知られぬを
  煙や空に霞初(そむ)らん
    足利義詮(よしあきら)(1330-1367)

春霞立つも煙の色なれば
  猶時知らぬ富士のしば山
    飛鳥井雅孝(あすかいまさたか)(1281-1353)

富士の嶺の雪解の雲を吹のけて
  霞にかふる春の初嵐(はつあらし)
    慈鎮(じちん)(=慈円)

東路に先づ来る春の日の影を
  雪に待とる富士の芝山
    橘千蔭(たちばなのちかげ)(1735-1808)

  正月朔(さく)の日富士を見てよめる
けさよりぞ待るゝ花の色見えて
  旭(あさひ)に匂ふ富士の白雪
    藤原土麿(つちまろ?)?

富士の根を振放見(ふりさけみ)つゝ仰ぐ哉
  高く貴き御代の景色を
    同

唐人(からびと)も振放見よと来る春は
  富士の高根(たかね)に先霞むらん
    橘枝直(たちばなのえなお)(1693-1785)

 大方この類(たぐい)にて重(お)もに雪煙に霞を結び合せたる者多く、枝直(えなお)のを除く外は先づ相似たる趣向なり。俳句の方はさすがに新らしきだけに変化自在なるが如し。例へば

元日の見るものにせんふじの山
  山崎宗鑑(やまざきそうかん)(1465?-1553?)

元日や置き直したる不尽の雲
  花明女(?)

富士見よぞ富士見よぞ富士みよの春
  竹田出雲(たけだいずも)

春立つや天に匂へるふじの山
  五味可都里(ごみかつり)(1743-1817)

富士はまた水に明るし初霞
  加賀千代女(かがのちよじょ)(1703-1775)

よし不二は失ひたりと初霞
  笠井魚路(かさいぎょろ)

初霞富士ははづれて見ゆるなり
  渭貞(いてい?)

神つゝみ置きたいなりよふじの山
  巒寥松(みねりょうしょう)(1760-1833)

初夢のまこと語らんふじの山
  荻田安静(おぎたあんせい)(?-1669)

蓬莱に晴れ行く富士をかざゝばや
  路蛍(ろけい?)

のたぐひ枚挙に遑(いとま)あらず。また狂歌にも

初春に見る富士の嶺の嬉しさを
  夢になれとは思はざりけり
    瀧麻呂(たきまろ?)

須弥山(しゅみせん)も五嶽(ごがく)も富士も一時に
  咄(とつ)とゝ笑ふ春は来にけり
    四方赤良(よものあから)
    =大田南畝(おおたなんぽ)(1749-1823)

また狂句にも

床の間の富士の裾野は福寿草

これ等はあながち狂句にもあらずかし。

西京東都(さいきょうとうと)

 今は昔、東の都を江戸といひ、西の都に百官の家居(いえい)連りたるその時より、東は武張(ぶば)りて[「武張(ぶば)る」強く逞しい、いかめしい様子をすること]強く、西はなまめきて優しかりしにや。京の句は[のぎへん+農]艶(じょうえん)妖麗(ようれい)[怪しいほどになまめかしくうつくしい様]を以て勝り、江戸の句は粗豪跌宕(そごうてっとう)[「粗豪」はあらあらしい様子。「跌宕」は細事にこだわららないこと。あるいは、伸びやかなこと]を以て勝れり。今試みに東西歳旦(さいたん)の句を取りて比較せんに

鐘一ッうれぬ日はなし江戸の春 ・
  宝井其角(1661-1707)

麟(しか?)の肉かわかぬ都君の春
  芳充=芳沢金毛(よしざわきんもう)(1667-1747)

 豪奢(ごうしゃ)を競ふの風を麒麟(きりん)[ここに「麒麟」はキリンのことではなく、聖人の前に表れるという中国の伝説上の動物のこと]脯(ほじし)[干し肉(ほしじし)、つまり干し肉のこと]に言ひ現はしたる。架空に過ぎて釣鐘の着想、打ち上(あが)りたるに如かず。

浅草や上野や鐘も江戸の春
  留木(りゅうぼく)

元日や松静かなる東山
  高桑闌更(たかくわらんこう)(1726-1798)

 「江戸の鐘」一通りは面白けれども、其角の句より脱胎(だったい)[他人の詩や文章の趣意をそのままに形式をのみ替えること。換骨奪胎(かんこつだったい)]せしものと見えたり。

槍(やり)一つ絶えぬ橋あり江戸の春
  失名

  加茂川(かもがわ)
はる風や袖(そで)より落つる舞扇(まいおうぎ)
  湖巓(こてん?)

 「槍一つ」もまた「鐘一つ」の調を借り来りたれど、虚構に落ちず却(かえっ)て出藍(しゅつらん)[中国、荀子の教えに「青は藍より取られるが、藍よりもさらに青い」というような意味の者があり、弟子の方が師よりも優れていることの例え]といふべし。

六人の男ぞろひや江戸の春
  飯島吐月(いいじまとげつ)(1727-1780)

京を見に娘つれてや薺売(なずなうり)
  夙夜(しゅくや)

 「六人の男ぞろひ」余りに殺風景なり。薺売の娘つれて出でたる、さすがに京の風雅なつかし。

下呂/\と小判の反吐(へど)や江戸の春
  北元(ほくげん)

手鞠売(てまりうり)姉が小路に入りにけり
  五樓(ごろう?)

 手鞠売に姉が小路を思ひ付きたるは繊巧(せんこう)に失し、江戸の繁昌(はんじょう)に小判の反吐ときはめたるはやや流俗(りゅうぞく)[世の常、世間/世間の俗人のこと]に失す。

江戸向かぬ帆はなかりけり春の風
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

深山木や都の春にかざり炭
  眠魚(みんぎょ?)

 江戸も江戸、都も都、いづれかいづれ。

のどけしや鼠のなめる角田川
  小林一茶(こばやしいっさ)(1763-1827)

書きぞめに貯へ置たり京の水
  横井也有(よこいやゆう)(1702-1783)

 隅田の水濁らば、泥鼠の飲むに任すべし。加茂(かも)の水澄めらば、以て書初の兎豪(とごう)[(兎の毛を使用するので)筆のことを指す]を濡すに足らん。

薺(なずな)打つ江戸品川は檐(えん)つゞき
  夏目成美(なつめせいび)(1749-1817)

小松引(こまつひき)とてもすむなら京近処
  東鶴(とうかく?)

 江戸品川の檐続きは自然なり。とてもの語いやみあり。

若菜つむ袂(たもと)の下の隅田川
  夏目成美(なつめせいび)(1749-1817)

鴨川をはや流れくる若菜かな
  永矢(えいし?)

 都も江戸も一つに長閑なり。

いざや/\若葉ふみに井のがしら
  鈴木道彦(すずきみちひこ)(1757-1819)

春風や畑見たがる京の人
  有篁(ゆうおう?)

 江戸も春だけに都めきたり。唯(ただ)言葉の緩急は土地の相違を現はしたるものか。

調布の垣根も芽はれ馬笑ふ
  鈴木道彦(すずきみちひこ)(1757-1819)

下もえや丸太ころばす嵯峨の町
  松化(しょうか)

 神韻の中に奇警なる処あり。奇警の中に神韻を寓する処あり。されど調布の玉川や、ややまさりてん。

大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

[朗読4]
 俳諧が最隆盛を極めたるは元禄なりとす。芭蕉元禄に死し、其角・嵐雪・去来・丈草寛永に死し、その他の諸門弟、皆正徳・享保(しょうとく・きょうほう)に至りて尽しより後は、寥々(りょうりょう)として聞こゆる者稀なり。明和・天明の頃に至りて俳諧再び興らんとするの兆あり。與(あずか)つて力あるもの白雄(しらお)・暁台(きょうたい)・蓼太(りょうた)・蕪村(ぶそん)・蘭更(らんこう)の諸大家にして、各独得の妙ありといへども中に就きて縦横奔放咳唾珠(がいだたま)を成す者を求むれば、雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた)を第一となす。博学精通才識群に絶する者を求むるもまた蓼太を第一となす。蓼太の著書の多き、秀句の多き、俳人中その比を見ざる所なり。蓼太の句たる、尽(ことごと)く奇創(きそう)警抜(けいばつ)[すぐれて抜きんでていること]にして、殆(ほと)んど一凡句あるなく、かつその風調に於ける変化もまた種々にして、一概に之(これ)を論ずるべからずといへども、その慣用手段とする所は主として新奇なる譬喩を用ふるに在り。今之を新春の作句に就きて求むるに

万歳やこゝハ橋(やつはし)に酔ふて行く

万歳よ柱足らずば草も木も

綱曳や鷲尾(わしのお?)いまだ里わらは

狙曳(さるひき?)や巴峡(はきょう)を巡る御茶の水

初霞長柄の橋もかゝるなり

蓋取れば我門田なり初硯(はつすずり)

の如き中には善きもあれど、多くは奇に過ぎて却(かえっ)て拙劣(せつれつ)なるものなり。また譬喩に似てやや趣を異にする者は

福藁や天智の御穂の積みあまり

若水や升(しょう)なきときのひとごゝろ

の類(たぐい)にて、前者に比すれば暴露の弊無くして面白し。その奇想天外より来る者は

誰独り掃くとも見えずけさの春

橘(たちばな)に碁のおと聞かんけさの春

の如く、また奇を弄して風韻の少なきを覚ゆ。この他軽妙なる者、荘重なる者、婉麗(えんれい)なる者等ありて、その秀句は却てこれ等の諸態の中に在りといへども、神韻縹緲(ひょうびょう)[かすかではっきりしない様子/広くて限りのない様子]なる者に至りては、終(つい)に之を欠(か)ぐが如し。これ余が蓼太の為に甚(はなは)だ惜む所なり。蓋(けだ)し、或(あるい)は雪中派の本色なるか。

『正誤』より
 この章、「縦横奔放咳唾珠を成す者を求むれば、雪中庵蓼太を第一となす」とあるは大に誤れり。前に挙げたる五大家は皆、縦横奔放咳唾珠を成す的の人なれども、特に蓼太を挙げて第一となさんこと甚だ誤れり。強ひて蓼太を弁護して言はば、縦横奔放は或(あるい)は他に勝りたらん、咳唾珠を成すに至りては、少くも蕪村の下に在り。
 同章、「博学精通才識群に絶する者を求むるもまた蓼太を第一となす」とあるも誤れり。この点に於(おい)て蓼太、恐らくは蕪村の下にあらん。
 同章、「蓼太の秀句の多き、俳人中その比を見ざる所なり」と記せるも大に誤れり。古往今来俳人の佳句多き者は蕪村を第一とす。未だ佳句の多少に就(つ)きて精細に比較するを得ずといへども蓼太が(蕪村は言ふ迄も無く)暁台・白雄・蘭更に比して特に佳句多しとは断言すべからざるなり。余あるいは恐る、五傑中最も佳句の少き者は蓼太に非(あらざ)るか。蓋(けだ)し、蓼太の句集は佳句無きに非れども、玉石混合の嫌あり。若(も)し五傑中俗句多き者を求むれば、言ふ迄も無く蓼太を第一とす。これ蓼太が当時に於て最も人望ありし所以(ゆえん)にして、五傑中人品(じんぴん)に於て一等下る所以也(ゆえんなり)。

井上士朗(いのうえしろう)(1742-1812)

 朱樹叟(しゅじゅそう)士朗は文化新十家中の泰斗(たいと)[もっとも権威のある者、大家]なり。士朗の敏才を以て十七字の狭天地に駆馳(くち)[馬を馳せること/そのように奔走すること]しながら、佶屈※[#「敖/耳」、第4水準2-85-13]牙(きっくつごうが)[文章が堅苦しくて難解であり、ために読みづらいこと]に陥らざりしは、蓋(けだ)し安永・天明の反動なるべし。士朗句集を繙(ひもと)きてその句癖を見るに、畳字(じょうじ)・畳語(じょうご)・畳句(じょうく)[「あゝ」など同じ字を繰り返したり、「山々」「がくがく」など同じ語を繰り返したり、同じ文句を繰り返したりするやり方]を用ふるに在るが如し。

嵐やんですよ/\と梅の匂ひかな

  菅公千年忌
天満る香やあり/\と梅のはな

のたぐひは誰が句にもありうちなり。やや奇なるものに至りては左の如し。

猿ひきの猿かつぎ出る柳かな

青柳の岩根/\も草白し

若菜摘めば鳩鳴くところ/”\かな

その甚(はなは)だしきものを挙ぐれば

よし野とて別の春なし花のはる

月や春春やこよひの梅の花

  翁の笈(おい)を拝んで
梅見ても鶯見てもなみだかな

更に甚だしきものは

わび尽しわびつくしてぞ花のはる

年つむや年々に年のうつくしき

年々や年にまれなる梅の花

明日も出ん明日も野に出ん花の風

けふも見えけふも見え鳧(けり)ふじの山

また畳語・畳句ならんも、対語・対句を用ふるものまた甚だ多し

月雪にやしなはれてぞ花のはる

[(ウィキペディアより部分引用)
 雪月花(せつげつか、せつげっか)は、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語。雪・月・花という自然の美しい景物を指す語である。日本においてはこの語句が格別に愛好され、以下に述べる含みを持つ語として使われるようになった。
 音読語としては「雪月花」が用いられることが多いが、和語としては「月雪花」(つきゆきはな)の順で用いることが伝統的]

  二日
松かけやきのふは初日けふは月

夜には梅日には柳をうたふかな

  芭蕉翁肖像開眼
目も鼻もひらかせたまへ梅のはな

花ものいはず柳いよ/\静かなり

我が庵は東うぐひす西月夜

山高く水長し梅ところ/”\

成田蒼キュウ(なりたそうきゅう)(1761-1842)

 文化・天保の間にありて、英名を俳諧社会に轟かしたる成田蒼[虫+[乙マイナス一]]の俳句は、平遠繊細を以て勝る者なり。今その歳旦の句に就きて略評を試みんに

芝の戸を左右へ明けて花の春

元朝や四つにたゝみし紙衾(かみふすま)

[紙衾は和紙を原料とした布団。中に綿や藁などを入れて暖かくするものもある]

 おとなしくめでたく作りなしたるさま、いたく打上(うちあが)りて見ゆ。元旦の句としては上乗のものなるべし。

蓬莱(ほうらい)の橙(だいだい)赤き小家かな

 ありふれたる趣向ながら、蓬莱の橙を見つけたるは、正月の句として尤(もっとも)面白し。

貰ひ火をせぬばかりなり庵の春

「かつちりと灯火の外は去年(こぞ)のもの」といふ句より脱胎したるものならん。さなくとも詞(ことば)つきやや卑しければ我は取らず。

しめ飾りそれ程庵は狭くなる

太箸も目に立つ草の庵かな

 前句と同格なり。併(しか)し注連飾(しめかざり)の句やや可なり。

白雪の末より見えて四方(よも)の春

元日や峰を定むる東山

 これ等の句は蒼キュウの好みて作りしものにて、また後世宗匠の争ふて摸倣する所なり。

一声の姿も見たし初鴉(はつがらす)

一雫(ひとしずく)するや朝日の福寿草

しほらしき根の薄氷(うすらひ)や福寿草

草の戸の薺(なずな)もて来てはやしけり

 可愛らしき処に趣向をつけていぢらしき句を作ること、蒼キュウの最も長ずる所なり。古来幾多の女俳人ありといへども、終(つい)にこの繊細細膩(さいじ)[「細膩」はきめ細やかなこと。瑣砕細膩(ささいさいじ)でこころ細やかなことを表したりする]なるが如きは未(いま)だ曾(かつ)て之を見ず。天保以後の俳句、専(もっぱ)ら心を瑣事(さじ)に留めて終(つい)に今日の流弊(りゅうへい)[前々から世間に行われている悪い習わし、弊害]を来したる、蓋(けだ)し蒼キュウの罪なり。

蓬莱や祖父が戴だくまねをする

持て出て夫に並ぶ雑煮かな

窓あけて互に船の御慶(ぎょけい)かな

万歳や二軒一処に舞ふ峠

の如き、軽妙なるはなほ可なり。更に下りて

太箸を太しと思ふ一日かな

万歳のまづ作法ある扇(おうぎ)かな

たら/\とおりる小口の若菜哉

等の句を作るに至りては、蒼キュウ一己(いっこ)[自分ひとりのこと]の価値を落すのみならず、毒を後世に流すこと、最も多きものといふべし。蒼キュウの句にはなほ秀句ありて、近世の一大俳家と称するに足るものありといへども、後世の尊敬を受くること多きは、その句の解し易きと、随(したが)つて摸倣し易きとによるものにはあらざるか。之(これ)を摸するに、能(よ)く作者の精神を求むれば則(すなわ)ち可なり。如何(いかん)せん無学無識の輩(やから)、その卑俗にして解し易き者のみを取りてこれが顰(ひそみ)に倣ひ[「西施(せいし)の顰(ひそ)みに倣(なら)う」のこと。美女の真似を醜女が気味悪がられたという話だが、愚かな自分が誰かを見倣うときの謙遜としても使用される]、終に俳諧は平民的文学と変じて今日の甚(はなはだ)しきに至れり。匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)が清閑の一具として俳諧を学ぶは固(もと)より妨げなけれども、世の宗匠連もまたこの風潮に誘はれて、務めて陋俗(ろうぞく)[いやしい慣習や風俗のこと]平凡の悪句を作り、以て人を欺(あざむ)き且(か)つ己を欺くに至ては之を何とかいはん。天保の俳風の偏する所、明治に至てその極に至る。蒼キュウ、豈(あに)多少の咎(とが)なからんや。然りといへども、天明の粗豪(そごう)奇峭(きしょう)[山がそびえ立つさま/性格のきついさま]を学ばず、文化の恬淡(てんたん)[欲が無くて物事に執着しないこと。無欲恬淡など]和易(わい)[穏やかなさま]に落ちず、以て天保の俳諧を一変したるは実に成田蒼キュウの功なり。功もまた大なり。

『正誤』より
「実に成田蒼キュウの功なり。功もまた大なり」とある「功」の字、二個共に「力」と改む。蒼キュウの俳諧に於ける、害ありて些(いささか)の功無し。功の字を置くは欠妥(けつだ)[妥当を欠く]なり。故に改む。

雛祭り(ひなまつり)

[朗読5]
 桃の花は昼に咲かせて、白酒と菱餅(ひしもち)の節句は残んの雪より現はれ来(き)にけるを、さすがに春風うららかに吹きすまして、裸雛(はだかびな)の寒からぬ程こそ、娘心のうれしさは思ひはからるれ。扨(さて)雛の発句といへば大方やさしううつくしき事のみにて、さして打ち変りたる趣の見えぬも、人心のかはらぬ証拠にぞあなる。朝まだきより、にこにこと走りまはりたるをさな子の顔を見て、笑ひかへしたる親の顔など、実にも女の節句にはありける。先(ま)ずその古代めきたる姿より思ひ付きたる句の中に

万葉の姿ゆかしや紙雛(かみひいな)
  機石(きせき)

昔男昔女や髪雛
  松木乙児(まつきおつじ)(1724-1772)

などよろしき方なるべし。唯(ただ)一図(いちず)にその愛らしきかたのみを、ふしをかしく言ひなしたるは

姉妹肩そろはねど雛の駕籠(かご)
  高岡斜嶺(たかおかしゃれい)(?-1702)蕉門

雛の駕籠花の陰より見えそめぬ
  井上士朗(1742-1812)

などなるべく、またものものしくよみいでたる

高殿に雛のまゝたく煙かな
  芙莱(ふらい?)

のたぐひもめづらかなり。雛を擬人法にあてたる

ころんでも笑ふて許(ばか)り雛かな
  加賀千代女(かがのちよじょ)(1703-1775)

たらちねの抓(つま)まずありや雛の鼻 ・
  与謝蕪村(1716-1783)

千代のは子供心に立ち返りたる句、蕪村のは女になりて考へたる例の滑稽、それぞれに面白し。

売られにし身とは雛の知らず顔
  可升(かしょう?)

言葉のいやしきは口をし。また娘の子に代りてその思ひ余れる所をいひ出でたるは

片づかぬ女心やひなの暮
  可説(かせつ?)

箱を出る兒(かお)わすれめや雛二対(につい) ・
  与謝蕪村(1716-1783)

うれしいなけふは物いへはだか雛
  専跡(せんせき?)

雛達の春の夜何となぐさめん
  佐藤葵亭(さとうきてい)

雛の口飯粒つけて置きにけり
  天弓(てんきゅう?)

など一つ一つ面白く、わき目より見て

もどかしや雛に対して小盃(こさかずき) ・
  宝井其角(1661-1707)

雛立て局(つぼね)になるや娘の子
  りん

と口ずさみたるも興浅からず。

雀子もくるやひゝなの膳まはり
  井上士朗(1742-1812)

と、士朗の局面を転じたる

不産女(うまずめ)の雛(ひな)かしづくぞ哀(あわれ)なる ・
  服部嵐雪(はっとりらんせつ)(1654-1707)

[「不産女」あるいは「石女」は、子供の出来ない女性のことを指す]

と、嵐雪のあはれなるふしを見つけたる

土雛や鼻のさきから日は暮る
  秋左(しゅうさ?)

と、ある人のおどけたるもたゞならぬに

蝋燭の匂ふひゝなの雨夜かな
  加舎白雄(かやしらお)(1738-1791)

みよしのゝよしのに古き雛かな
  黄華庵升六(こうかあんしょうろく)(?-1813)

と、おとなしくそらしたる、またなくいみじ。

菊の園生(そのう)

 飢ゑては楚国の浪人に喰はれ、隠れては陶氏の隠居に弄(もてあそ)ばる。谷の水は一たび掬(すく)んで、八百年の壽(ことほぎ)を延べ、東籬(とうり)[東のまがき、開始の一連の文章、すべて唐詩、古事などにもとずくもの]の濁り酒は幾度か頭巾にて漉(こ)すの煩(わずら)ひあり。菊は花の隠逸(いんいつ)[世俗を逃れて山野に逃れること。その人]なるものと定められてより、本朝にてももつはら花のさびをぞ賞翫(しょうがん)すなる。されば名所の句にも

菊の香やならは幾代(いくよ)の男ぶり ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

菊の香やな良には古き仏達 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

信楽(しがらき)や茶畑のへりに菊の花
  井上士朗(1742-1812)

 年古りし奈良の都のさびを見するに、菊ならではと睨みし眼力もおそろしく、茶畑のそばに菊を取り合せたる風雅の機転もまたなつかし。

菊の香に泣くや山家(やまが)の古上戸(ふるじょうご)
  立花北枝(たちばなほくし)(?-1718)蕉門

  木因亭
かくれ家(が)や月と菊とに田三反(たさんたん) ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

とは人の秋をあらやみ

花毎に菊にもあらず八重葎(やえむぐら)
  井上士朗(1742-1812)

  帰庵
松に菊留守つゝがなし荒れながら
  廬元坊(ろげんぼう)(?-1747)支考門弟

とは、おのれの上にやあらん。

小家つゞき垣根/\の黄菊かな
  立花牧童(たちばなぼくどう)蕉門

菊に皆なつて匂ふや藪一つ
  辻嵐外(つじらんがい)(1770-1845)

町はづれの田甫道、あやしき賤が屋(しずがや)の背戸うかゞひよりたる目前のけしき、そのままに面白し。

まゐらせうずるものもなし菊の宿
  笠家旧室(かさやきゅうしつ)(1693-1764)

ただこの一句、貧賤(ひんせん)と古雅とを兼ねたる菊の性をあらはして余りあるを覚ゆ。

一いろやつくらぬ菊の花盛り
  暁[「むささび」の漢字一字](きょうご?)

竹の籬(まがき)半ば頽(くず)れて、菊の枝しどろに雨に打たれては、土にまみれ霜にそこなはれては、露もとゞめぬさまこそ、中々に風情多けれ。一色とは如何(いか)なる色にやと思ふに

植ゑすてゝ今年も白し菊の花
  渡辺岱青(わたなべたいせい)(?-1799)

白なり。余の色は如何(いかが)。

赤いとて淋しかりけり菊の花
  岩間乙二(いわまおつに)(1756-1823)

赤う淋しき処を見つけたるだにあるに

黄菊白菊鮭紅(くれな)ゐの節供(せっく)かな
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

斯(か)く取り集めたる色々もまためづらかなり。大隠(たいいん)[悟りきっていて俗世間に煩わされない者]は市に隠るとか、縁日の夜店にならべられて石油の湯烟にふすぼりたる花のさまも、いかでかあはれ浅からん。

今様の菊咲きにけり市の中
  事紅(=横井千秋・よこいちあき)(1738-1801)の事か?

花市や白菊ひとり凡ならず
  江森月居(えもりげっきょ)(1756-1824)

前者は世と推し移るべき植木屋の培養(ばいよう)[草木を養い育てること/実力を養うこと/微生物や菌などを増殖させる事]見事の花輪を開き、後者は俗花の堆中(たいちゅう)に就(つき)て、色の醇(じゅん)なる者を撰(え)り出したる腕前ぞたゞならぬ。

 十六弁の菊は、かしこくも朝家(ちょうか)の御紋(ごもん)に択(えら)ばれて、日の本の朝日に輝き、半輪の菊一條(いちじょう)の流水は忠臣楠氏(くすのきし)の家のしるしとして世々にその香をとゞめたり。菊合せは殿上の御遊にして左右の番を分ち、色香を闘はせしことは古きものゝ本に見え、これ花の中に偏に菊を愛するにあらず、この花開けて後更に花なければなりとは、朗詠の節にものぼりけん。雨を冒して開くてふ重陽(ちょうよう)の儀式は昔にすたれて、今は天長節(てんちょうせつ)をさかりと咲き出でたる。折に逢ひしこの花の栄え、霜にめげぬこの花の操(みさお)、御代(みよ)は万歳万々歳谷水の流れ尽きせぬめでたさは、彭祖(ほうそ)[中国の伝説的な長寿者で、七百歳を越えて生き西方へ去ったとされる人物]が齢(よわ)ひもものかはとこそ覚ゆれ。されや俳句にも

欄干(らんかん)にのぼるや菊の影法師 ・
  森川許六(もりかわきょりく)(1656-1715)蕉門

乱箱(みだればこ・らんばこ)に菊折り入れて参りたり
  加藤暁台(かとうきょうたい)(1732-1792)

とあるは隠逸(いんいつ)の中に富貴(ふき)の相を備へたるを見るべく

盆程になるてふ菊の莟(つぼみ)かな
  田川移竹(たがわいちく)(1710-1760)

大菊や咲き重りて横日さす
  桂山(けいざん)

御園生(そのう)の花壇狭しと聞きたるゆたけさ、治まる国の姿やしめすらんといともかしこしや。

自著の後に題す

 ふつつかなる蛙の口ばかり大きく生れて、世人にはきらはれながら、たまたま腸を洗ふ事ありとてか、俳人にはこよなう可愛がられけるおのれも、せめてはその蛙にあやからんとて吐きだせし一巻、利口気に見えてさもをかしや

はらわたもなくて淋しや唐辛子

      [おわり]

2011/5/22-6/28

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