正岡子規 『獺祭書屋俳話』 下

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獺祭書屋俳話 下

目録

武士と俳句 [朗読1]
女流と俳句
元禄の四俳女
加賀の千代
時鳥 [朗読2]
扨はあの月がないたか時鳥
時鳥の和歌と俳句
初嵐

女郎花 [朗読3]
芭蕉
俳諧麓の栞の評 [朗読4]
発句作法指南の評 [朗読5]

武士と俳句

[朗読1]
 諸候にして俳諧に遊びし者、
蝉吟(せんぎん)
[藤堂良忠(とうどうよしただ)(1642-1666)若い頃彼のお側役だった松尾芭蕉が、彼の死に際して思うところ有りとか]、
探丸(たんまる)
[藤堂良長(c1665-1710)蝉吟の子で芭蕉に心酔]、
風虎(ふうこ)
[内藤義概(ないとうよしむね)(1619-1685)陸奥平(むつたいら)藩(現福島県)藩主内藤家三代目にして、俳書を残す]、
露沾(ろせん)
[内藤政栄(1655-1733)。上の風虎の次男]、
肅山(しゅくざん)
[三宅蕭山(みやけしょうざん)(1718-1801)のことか? 「抱き下す君が軽みや月見船」といった句で知られる]、
冠里(かんり
[内藤信友(のぶとも)(1671-1732)松山藩主安藤家二代目にして、移封(いほう)の後、加納藩主(現岐阜県)安藤家初代。俳諧においては其角の弟子]、
諸公あり。

 武士にして俳諧に遊びし者、芭蕉をはじめ比々皆然らざるはなし。されど中に就きて俳諧のみならず武士としてもまた名高き人々は、
大高子葉(おおたかしよう)
[大高忠雄(ただお)、大高源吾(げんご)(1672-1703)、赤穂浪士四十七士の一人。(以下、ウィキペディアより部分引用)討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた源五が両国橋のたもとで、其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶した源五に対し、其角は、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、源五は「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残る。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられた]、
富森春帆(とみのもりしゅんぱん)
[富森正因(まさより)(1670-1703)やはり、赤穂浪士四十七士の一人。俳諧は其角に師事]、
神崎竹平(かんざきちくへい)
[神崎則休(のりやす)(1666-1703)これまた、赤穂浪士四十七士の一人]、
菅沼曲翠(すがぬまきょくすい)、
[菅沼曲水とも。本名定常(1659-1717)近江の膳所藩(ぜぜはん)の重臣にして、芭蕉のパトロンとしても知られる。後に不正の家老である曽我権太夫を殺し、自らも切腹した]、
神野忠知(かんのただとも)[(1625-1676)彼も後に自害]、
等なり。

[おまけ、ウィキペディアより部分引用]
[江戸俳壇の中心人物であった水間沾徳(みずませんとく)門下の大高忠雄(子葉・しよう)、神崎則休(竹平・ちくへい)、萱野重実・かやのしげざね)(1675-1702)(涓泉・けんせん))の技量は当時の俳諧人にも広く認められ、その作品は『文蓬菜(ふみよもぎ)』『三上吟(さんじょうぎん)』等の俳書に収められている]

 蕉門十哲の中、性行の清廉と吟詠の高雅とを以て古今に超絶する二豪傑、向井去来(むかいきょらい)、内藤丈草(ないとうじょうそう)もまた武士のはてにして、殊(こと)に丈草は継母に孝を尽し、弟に家を讓らんが為に、我指に疵(きず)をつけ、刀の柄握り難き由(よし)いひたてて禅門に入りたる人なりとぞ。それ、風流は弓馬剣槍(きゅうばけんそう)[総じて武芸一般]の上に留らず。雅情は電光石火(でんこうせっか)[稲妻の光や石を打つ時の火花のように素早いもの、短い時間のもののたとえ]の間に宿らず。否、これらは寧ろ風雅の敵にして、芭蕉も行脚(あんぎゃ)の掟には「腰に寸鉄たりとも帯すべからず、惣(すべ)て物の命を取る事なかれ」といひ、去来もまた

何事ぞ花見る人の長刀(なががたな)

と咏じて、人口に膾炙(かいしゃ)せり。

 然りといへども、誠実なきの風流は浮華(ふか)[内容の伴わないうわべばかりの華やかさ]に流れ易く、節操なきの詩歌は卑俗に陥るを免れず。文学・美術は高尚優美を主とするものなり。而(しか)して浮華卑俗を以て作られたる文学・美術ほど面白からぬものはあらじ。否、これほど世を害するものは、またとあるまじと思はる。

 後世、和歌・俳諧の衰へたるも、職としてここによらずんばあらず。享保年間は芭蕉を去る事遠からず。而(しか)して已(すで)に三笠附(みかさづけ)[上五句のみ提出して、その下を付けさせ、優劣を競い、賞品などを出すもの。後に完全に博打化]といふ事もはら行れて、一種の博奕(ばくえき)[博打(ばくち)、賭博(とばく)のこと]となり、従つて徳川氏もまた法律を設けて、博奕と同じく之(これ)を禁ずるに至れり。近時に至りこの三笠附なる者は余り流行せずといへども、宗匠のあとつぎも発句の点も皆、金錢に比例する世の中、さてもうるさし。今初めにあげたる数家の俳句を左に連ねて、二階からの目薬[もどかしくも効果のないこと、無駄に曲折しすぎて意味のないこと。ここでは、無駄ではあるにせよ、一滴を投じてみせん、くらいの意味か?]となさん。

しら炭や焼かぬ昔の雪の枝   忠知

馬叱る声も枯野の嵐哉   曲翠

なんのその巌(いわお)も通す桑の弓   子葉

とんでいる手にもたまらぬ霰哉   春帆

鴨啼くや弓矢をすてゝ十余年   去来

啄木鳥の枯木探すや花の中   丈草

女流と俳句

 女流、俳句を嗜(たしな)む者少からず。その風調(ふうちょう)[おもむき、すがた]また一種のやさしみありて、句作の強からぬ所に趣味を存すること多く、却(かえっ)て男子の捻出し能(あた)はざる細事に着眼して、心情を写し出すことその微(び)に入り[細かいところに入り、「微に入り細に入り」「微に入り細を穿つ(うがつ)」などの用例がある]、以て読者を悩殺(のうさつ)[非常に思い悩ますこと。特に女性が男性の心に対して用いること多し]せしむるものあり。

 大凡(おおよそ)世の人は、女は歌こそよままほしけれ。歌はいみじうみやびたるわざにて、鬼神をもひしぎ[「拉ぐ(ひしぐ)」押しつぶす、勢いをくじく]、たけきもののふの心をも和ぐるものなれども、なまなかに心ひなびて詞(ことば)もむくつけき[「むくつけし」には「恐ろしい」といった意味の外に、「無骨だ、むさくるしい」といった意味がある]俳諧などしたらん女は、よろづに男めきてあらあらしくなりなんとぞいふなる。これ、もとより一理ある論なれども、さのみ一概にはいふべからず。

[このあたり、獺祭書屋主人たる子規、大和言葉めきたる記述を楽しみたり]

 古(いにしえ)と今とは言語の変りあれば、深閨(しんけい)[奥深くにある処の婦人の寝室の意味。「深窓(しんそう)」とも言う]に養はるる上臈(じょうろう)[身分の高い貴人・高僧/高位の女官]すら、古学を修めぬものはたやすく和歌をよみいづべくもあらず。まして下々のいとなみにひまなききはは、歌よむすべもしらねば、卅一(さんじゅういち)文字をつらぬることだにわきまへず。さるものは心まかせに俳句など口ずさまんこと、つきづきしく[ふわさしい、似合っている]興ある楽(たのしみ)なるべし。

 且(かつ)や、古今の相違は言語の上のみにあらず、生活の方法、眼前の景物まで、ことごとく変りはてたれば、日常の事またはそれより起る連想のたぐひも、古人の窺(うかが)ひ得ざる所多し。而(しか)してそを詠み出でんとするには、是非とも今日の俗語を用ひざるべからず。殊に女子の目撃する瑣事(さじ)に至りては、いよいよ之を雅言に求めて得られざるもののみ多きを奈何(いかん)[(=如何)]せん。

 ただ古今に渡り、東西に通じて、一点の相違なき者は人情なり。故に恋歌の類(たぐい)は必ずしも鄙語(ひご)[田舎の言葉/世俗的な言葉]を用ふるに及ばずといへども、その他はもはや之(これ)を用ふるの已(や)むを得ざるなり。

 和歌には、伊勢(いせ)・小町(こまち)・相摸(さがみ)・紫式部(むらさきしきぶ)・清少納言(せいしょうなごん)の如き雲上(うんじょう)の女傑輩出(はいしゅつ)[才能のある人材などが次々と現れること]せしかども、俳諧には上臈(じょうろう)なき故に、卑俗の二字を以て排し去る者多きはひが事[事実やものの道理とは異なった事、間違った事]なり。言葉俗なりとも、心うちあがりたらんは、如何ばかり高尚ならまし。ただこの評を受くる者は、俳諧社会に俗客(ぞっかく)入り来りて、俗気の紛々たるが為ならんのみ。

元禄の四俳女

 元禄前後の俳諧に遊ぶ婦女子の中、まづ
捨女(すてじょ)
[田 捨女(でんすてじょ)(1634-1698)六歳で「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」と詠んだとされる。貞門派の北村季吟(きたむらきぎん)に師事]
智月(ちげつ)
[河合智月(かわいちげつ)(1633-1718)芭蕉の弟子である河合乙州(かわいおとくに)(1657-1720)の姉。同じく芭蕉の門人となる]
園女(そのめ)
[斯波園女(しばそのめ)(1664-1726)芭蕉に師事]
秋色(しゅうしき)
[深川秋色(ふかがわしゅうしき)(1727-1784)大島蓼太などに師事。三代目深川湖十(ふかがわこじゅう)にも師事し、その養女となる。ちなみに深川湖十は其角派の俳諧師として六代にも続いている]
を以て四傑とも称すべし。

「すて女」は燕子花(かきつばた)の如し。うつくしき中にも多少の勢ありて、りんと力を入れたる処あり。「智月尼(ちげつに)」は蓮花(れんげ)の如し。清浄潔白にして泥に染まぬその色、浮世の花とも思れず。「秋色」は撫し子(なでしこ)の如し。ゆらゆらと風に立ちのびて、やさしうさきいでたる中々に、くねりならはぬあどけなさに、その人柄まで思ひやられてなつかし。「園女」は紫陽花(あじさい)の如し。姿強くして心おとなしきは俳諧の虚実(きょじつ)[無いことと有ること、嘘と誠]にかなひ、日々夜々の花の色は風情の変化を示して、終(つい)に閑雅(かんが)[しとやかで落ち着いていてみやびなこと/静寂のおもむきのあること]の趣を失はずともいはん。

 而(しか)して四女の中(うち)句作にては、余は園女を推して第一とす。園女は見識気概ありて男子も及ばざる所あり。その某禅師(ぜんじ)に答ふる書の如き、かつて婦女子の婉柔謙遜(えんじゅうけんそん)[柔軟にしたがいて控え目であるの意味か?]なる所を失ふて、ただ剛慢不遜(ごうまんふそん)[「傲慢」にて、おごり高ぶって見くだす様子。「不遜」もまた思い上がって控え目でないこと。一般には「傲岸不遜(ごうがんふそん)」として「おごり高ぶって人を見くだし控え目さのないこと」を指す]なる一丈夫(じょうふ)[りっぱな男。堂々たる男]の趣あり。されどその俳句に遊ぶに際しては、決して婦女子の真面目(しんめんもく)を離れず。盖(けだ)し、得難きの女傑と謂(い)ふべし。近時の女学生、以て如何(いかん)となす。これらの人々の俳句に就(つい)て、三、四を抜萃(ばっすい)して左に掲げん。

うき事になれて雪間の嫁菜かな  すて

[嫁菜(よめな)はキク科の多年草で道端で見かける野菊の一種。春に若菜を摘んで食するが、花は秋なので秋の季語]

ひぐらしや捨てゝおいても暮る日を  同 ・・

思ふ事なき顔しても秋のくれ  同

粟(あわ)の穂や身は数ならぬ女郎花(おみなえし)  同

我年のよるともしらず花盛  智月

有ると無きと二本さしけりけしの花  同 ・・

盆に死ぬ仏の中の仏かな  同

[余談なるが、この句は子規居士編集担当の新聞「小日本」が半年あまりで廃刊となった締めくくりに記された句なり]

木がらしや色にも見えず散(ちり)もせず  同 ・・

井戸端の桜あぶなし酒の酔(えい)  秋色

恋せずば猫の心の恐ろしや  同

雉の尾のやさしうさはる菫(すみれ)かな  同

仏めきて心おかるゝはちす哉  同

山松のあはひ/\や花の雲  その

鼻紙の間(あい)にしをるるむすみれかな  同  ・

あるほどのだてしつくして紙衣(かみこ)哉  同

[「紙衣(かみぎぬ・かみころも)」は和紙を利用した着物で、冬の季語]

当麻(とうま)のまんだらを拝みて
衣更(ころもがえ)みづから織らぬつみふかし  同  ・

加賀の千代(かがのちよ)

 加賀の千代[加賀千代女(かがのちよじょ)(1703-1775)各務支考に師事]は俳人中もっとも有名なる女子なり。その作る所の句も今日に残る者多く、俳諧社会の一家として古人に讓らざるの手際は、幾多の鬚髯(しゅぜん)[あごひげ]男子をして後に瞠若(どうじゃく)[驚いて目をみはること]たらしむるもの少からず。

 俳諧の上にも、男子にあらざれば言ふべからざることと、女子にあらざれば言ふべからざることとあり。今、千代の句を以て、両者を対照するも、また一興なるべし。

┏ 母方の紋めづらしやきそ始  山蜂(さんほう?)
┗ 我裾(すそ)の鳥も遊ぶや着衣(きそ)はじめ  千代

[上は「続猿蓑」のうちの句。「着衣始(きそはじめ)」は、新年を迎えて新しい着物を着ること]

前者は男にして始めて言ふべく、後者は女にして後ち作(つくり)し得べきものなり。

┏ 馬下りて若菜つむ野を通りけり  高梨一具(いちぐ)
┗ 仕事ならくるゝをしまじ若菜摘  千代

┏ 妻にもと幾人(いくたり)思ふ花見かな  小川破笠(はりつ)
┗ 足跡は男なりけり初桜  千代

┏ 子もふまず枕もふまず時鳥  宝井其角
┗ 男さへきかれぬものを郭公  千代

┏ 折からの嫁くらべ見ん田植哉  麁言(そげん)
┗ けふばかり男をつかふ田植かな  千代

┏ 早乙女に足洗はするうれしさよ  宝井其角
┗ 早をとめや若菜つみたる連もあり  千代

┏ 出女の口紅をしむ西瓜かな  各務支考
┗ 紅さいた口もわするゝ清水哉  千代

[「出女(でおんな)」は宿泊所の客引き女で、しばしば売春婦を兼ねたもの。また江戸から地方へ出て行く女性を指すこともある]

余所(よそ)目に見る支考の句はをかしく、我身の上を思ひかへしたる千代のはいとほし。

┏ 白菊の目にたてゝ見る塵もなし  松尾芭蕉
┗ 白ぎくや紅さいた手の恐ろしき  千代

芭蕉は園女をほめて吟じ、千代は己を卑下して詠ず。

┏ 妹なくてうたゝね悔(く)ゆる火燵哉  浅山
┃     尼になりしとき
┗ 髪を結ふ手のひまあいてこたつ哉  千代

時鳥(ほととぎす)

[朗読2]
 連歌発句、及び俳諧発句の題目となりたる生物の中にて、最も多く読みいでられたるものは時鳥なり。この時鳥といふ鳥は如何なる妙音ありけん、昔より我国人にもてはやされて、『万葉集』の中に入りたるもの既に百余首に上る位なれば、その後の歌集にもこれを二なく目出度(めでた)ものに詠みならはし、終(つい)には人数を分けて初音(はつね)の勝負せんとて、雲上人(うんじょうびと)の時鳥ききにと出で立てることなど、古きものの本に見えたり。

 さればその余流をうけたる連歌・俳諧にこの題多きも尤(もっとも)の訳にて、もし古今の発句の中にて時鳥に関したるものを集めなば、恐らくは幾万にもなるべからんと思はるるなり。

 支那の詩にも子規(ほととぎす)を詠じたるもの多けれども、多くはこれを悲しきものにいひなせり。西洋の詩にも我子規に似たる鳥を詠みたるものありて、こは皆その声をうれしきかたに聞くが如し。あはれ果報[因果応報のこと/巡り合わせの好いこと、幸運なこと]なる鳥よ。汝(な)の一声は命にもかへて聞かんことを思はれ、千余年前より今日に至るまで幾千万の詩人をしてその脳漿(のうしょう)[もともとは脳室や脊髄を満たしている髄液の意味だが、ここでは脳みそ、頭脳といった意味]を絞り出さしめたり。世の鳴蛙噪蝉(めいあそうせん)[「蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)」で、やかましく騒ぎ立てること。そこから、騒がしいばかりで内容のない文章や議論のこと]、果して何の顔かある。はた空しく川柳・都々逸(どどいつ)の材料となりて一生を送了する阿房鴉[「あほうがらす?」あるいはこれにて「あほうどり」と読ませるか?]の面の皮のあつさよ。

時鳥に関する古人の発句十数首をあぐれば

時鳥なかぬ初音ぞめづらしき
  一遍上人(いっぺんしょうにん)(1239-1289)

山彦の声よりおくや郭公
  宗碩(そうせき)(1474-1533)

ほとゝぎす思はぬ波のまがひ哉
  宗牧(そうぼく)(?-1545)

鶯の捨子ならなけほとゝぎす
  荒木田守武(あらきだもりたけ)(1473-1549)

ほとゝぎす大竹藪(おおたけやぶ)もる月夜 ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

ほとゝぎす/\とて寐入(ねいり)けり ・
  岩田涼莵(いわたりょうと)(1661-1717)

郭公鳴(なく)や湖水のさゝにごり ・
  内藤丈草(1662-1704)

郭公なくや雲雀(ひばり)と十文字 ・
  向井去来(1651-1704)

ほとゝぎす雲踏みはづし/\
  沢露川(さわろせん)(1661-1743)

目には青葉山ほとゝぎす初鰹
  山口素堂(やまぐちそどう)(1642-1716)

子規二十九日も月夜哉
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)

川舟やあとへ成たる郭公
  井上士朗(いのうえしろう)(1742-1812)

子規啼て江上数峯(こうじょうすほう)青し
  鈴木道彦(すずきみちひこ)(1757-1819)

この雨はのつ引ならじ時鳥
  小林一茶(こばやしいっさ)(1763-1827)

扨(さて)はあの月がないたか時鳥

 時鳥の句の中にて、世人の尤も能く知りたるものは

扨(さて)はあの月がないたかほとゝぎす

といふ句なり。この句の初五文字を「一声は」として、あるいは芭蕉の作といひ、あるいは其角の作といふは杜撰(ずさん)なる俗説なり。『俳家奇人談』[竹内玄玄一(たけうちげんげんいち)の遺稿を息子がまとめて刊行したもの。1816年。150人以上の俳諧師の伝承が記されている]には、瓢水(ひょうすい)[滝瓢水(たきひょうすい)(1684-1762)]の作なりといひ、『温故集』[板倉蓮谷(れんこく)編纂。1748年]に藻風(もふう)とあれば、藻風は瓢水の別号かといへり。余近頃、挙堂(きょどう)の著せる『真木柱(まきばしら)』(元禄十年刊)[(=1697年)]を見るに、はじめに中古の発句として挙げたる中に

扨(さて)はあの月がないたか郭公  一三

とあり、また終りの方に

舟のつくまであとを見かへる
  扨はあの月が啼たかほとゝぎす
    藻風
中興の発句を取合たる可謂(いうべし)。奇妙云々(うんぬん)

とあり。されば此の句の作者は「一三」にして「藻風」は附合(つけあい)の節にこの成句を応用したる者なること明らけし。そはとまれ、この句は人口に膾炙(かいしゃ)して後、徳大寺の和歌を翻案して、更に巧妙なりと称ふる人も少からず。然るにさきつ頃、『宗牧(そうぼく)発句帳』を繙(ひもと)きしに

月や声きゝてぞ見つる郭公

といふ句を見つけたり。之を前の句に比するに、その調は連歌と俳諧との区別あれども、その命意(めいい?)は則(すなわ)ち符を合すが如し。それ剽窃なるか、はた暗合なるかは知るによしなけれども、百余年前に在りて已(すで)にこの句ありとすれば、前の句が得たる名誉の過半は、之を宗牧に讓らざるべからざるなり。文学に限らず、天下此(かく)の如き類(たぐい)多し。その冤(えん)[無実の罪、ぬれぎぬ]を雪(そそ)ぎ、その微(び)を闡(ひら)くは学者の義務なるべし。洋書を抜萃(ばっすい)翻訳して著作と号し、古書を翻刻出板(しゅっぱん)して我編纂といひ、以て初学者・田舎漢(いなかおとこ?)を惑はさんとする当時の紳士学者は、果して何する者ぞ。

時鳥の和歌と俳句

 伊勢の勾当(こうとう)[役職のひとつ。盲人の官職をあらわすこともあるがいかがか]杉田望一(すぎたぼういち)は盲人にして俳諧の達者なりしかども、寛永中に没せし人なれば、その作また幼稚にして、今日よりいへば、これといふべきものなし。ただその

それときく空耳もがなほとゝぎす

といふ句ばかりは後世にてもほむるものなるが、こは『後撰集(ごせんしゅう)』[二番目の勅撰和歌集である「後撰和歌集」の略。十世紀半ば成立]の歌に

時鳥はつかなる音をきゝそめて
  あらぬもそれとおほめかれつゝ
    伊勢(いせ)

とあるより得来りしものなるべし。また後世の句なるが

時鳥なくやこぼるゝ池の藤
  守村抱儀(もりむらほうぎ)(1805-1862)

  箱根山
郭公人も名のりをしつゝ行
  石井雨考(いしいうこう)(1749-1827)

といふあり。前者は家持(やかもち)[大伴家持(おおとものやかもち)(718-785)]

はる/\に鳴く時鳥たちくゝと
  羽ふれにちらす藤波の花なつかしみ、云々

[短歌でなく長歌の一節]

といふより来り。後者は『千載集(せんざいしゅう)』[勅撰和歌集の八代集の第七に当たる「千載和歌集」(1188年)]中の

あふ坂の山時鳥名のるなり
  関もる神や空にとふらん
    師時

[中納言師時(源師時)(みなもとのもろとき)(1077-1136)公卿にして歌人の和歌、
あふさかの山ほとときすなのるなり
せきもる神やそらにとふらん
のことなり]

とあるより脱化したるものなり。また近頃出版せしある俳書を見しに

時鳥初声きけばめづらしき
  友まちえたる心地こそすれ

といふ千蔭(ちかげ)[加藤千蔭(1735-1808)国学者・歌人]の歌をとりてか

よい友にあふた心地よ時鳥

とありしが如きは、拙のまた拙なるものなり。発句も俗客(ぞっかく)または無学者の悪戯場(あくぎじょう)となりしより、いよいよ出でて、いよいよ陳腐なるものとはなれりけり。

初嵐

 一年の内、風多し。春風はこそぐられる[「こそぐる」は「くすぐる」の意味なり]が如く、秋風はつめらるる[ここの「つめる」は恐らく「抓る(つめる)」で「つねる」の意味かと思われるなり]に似たり。こそぐられてはしだらなく[(=だらしなく)]睡り倒れ、つめられて後は身体りんとしまりて警(いまし)むる所あり。况(いわ)んや初嵐・野分(のわき)・二百十日(にひゃくとうか)なんどありて、秋の天気は男の心にもたとへたるをや。

 二百十日の頃は、稻つくる作男(さくおとこ)[農家で雇われて農作業をする男のこと]ならぬも、米あきなふ商人ならぬも、気象台の役員ならぬも、如何に如何にと空のみ打ち仰ぐ。夕暮に一点の黒雲丑寅(うしとら)[北東のこと]の方に出没せしが、見る見る墨を流して、はや頭の上に見あぐる程にもなりぬ。何程の事かあらんと枕に就きしが、雨戸烈しく吹きはなす音に目覚めて

山風に野分かさなる寐覚かな
  菅沼奇淵(すがぬまきえん)(1765-1834)

と驚きしも、五風十雨(ごふうじゅうう)[五日ごとに風が吹き十日ごとに雨が降る、の意味から、天候が安定していて穏やかな日々が続くこと]、順を失はざる大御代(おおみよ)の癖とて

朝露はさりげなき夜の野分哉
  宗長(そうちょう)(1448-1532)

冷々(ひやひや)と朝日うれしき野分かな
  各務支考(かがみしこう)(1665-1731)

と晴れ渡りて、嬉しや、胸のすきたる心地なり。

君が代も二百十日はあれにけり
  正岡子規(1867-1902)

萩(はぎ)

 我(わが)書窓(しょそう)[書斎などの窓のこと]の下に、竹垣にそふて一本の萩生いひろごりて、軒端(のきば)近く風に打ち返さるるさま、けふや花咲くらん、あすや花乱すらんと、朝な夕な打ち見やる程に、それかあらぬか、置き乱す白露の間より紫のほのかに見えそむるに

ぽつ/\と花になるなり萩の露
  江森月居(えもりげっきょ)(1756-1824)

といふ句ぞ、まづは思ひ出されける。うれしさに庭、下駄穿(うが)ちて[ここでは「履く」の意味]近(ちかく)より見れば、今日咲きそめしと思ひしに

萩の花咲くといふ日は乱れけり
  禹洗(うせん?)

机の下に帰りて、しばしは書読みしも、いつしかにまた萩の方のみ見られて

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉 ・
  松尾芭蕉

実によくも萩の風姿を形容したりけりと、坐(そぞ)ろ[これといった理由もないのに。なんとはなしに]歎賞(たんしょう)[すぐれたものであると感心すること。感心して褒め称えること。賞嘆]せらる。翌朝、まだき[その時期にならないうちに。早くに]に起き出でて見れば、けふもや真盛りなるらんと思ふ許(ばか)りなるに

あたりへもよられぬ萩の盛りかな
  序志(じょし?)

よらば散りなん風情なり。

鶏(にわとり)の引き出す萩の下枝かな
   高桑蘭更(たかくわらんこう)(1726-98)

鶏(にわとり)なども出でよと打ち興ずる折から、この頃の癖とて小雨そぼふりて[「そぼふる」で、雨がしとしと降る、しめやかに降る]、小庭の秋も何となくものさびたり。こなたの垣ごしには隣の白萩、いと気高く咲きこぼるるさま

白萩や露一升に花一升
   大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-87)

の句意にもかなへりや。兎角(とかく)するうち、我魂はここにあらで、向島(むこうじま)の百花園、亀戸(かめいど)の萩寺とさまよひありけば

泥水の上に乱すや萩の花
  成田蒼キュウ(なりたそうきゅう)(1761-1842)

と口ずさまれ、遂にはかつて遊びにし大宮の公園、榛名山(はるなさん)上の草原など思ひつづけられて

草刈りよそれが重いか萩の露
  河野李由(こうのりゆう)(1662-1705)

と吟ずれば、刈草高く背負ふたる翁も、あとにつづく童も共にふり向きて、ほほゑむ心地ぞすなる。

ぬれて行(ゆく)や人もをかしき雨の萩 ・
  松尾芭蕉

萩原や花とよれ行く爪さがり
  加藤暁台(かとうきょうたい)(1732-92)

と誦(しょう)ずれば、菅笠打ちかたげて萩・薄(すすき)を押し分け押し分け行くさま、けふの雨にたぐへて[合わせて、引き比べて]目の前にありありと見ゆるが如し。はてはまだ見ぬ玉川、宮城野(みやぎの)[萩の名所]まで思ひやられて。

花を重み萩に水行く野末かな
  里村紹巴(さとむらじょうは)(1525-1602)

白萩や細谷川(ほそたにがわ)の浪がしら
  山口羅人(やまぐちらじん)(1699-1752)

とは何処のけしきにやあらん。はた旅中に病んで

行き/\て倒れふすとも萩の原
  河合曾良(かわいそら)(1649-1710)

と詠じたる人の心まで思へば、萩ほどやさしく哀れなるものはまたとあらざりけり。

女郎花(おみなえし)

[朗読3]
 秋の七草は皆それぞれの趣あるが中に、「女郎花」ほど淋しく哀れなるものはあらじ。されば古来歌人もいろいろに読みならひ、俳人も多く詠じ出せるが、その丈(たけ)たかく伸びすぎて淋しく花のさがりたるを見て

ひよろ/\と尚(なお)露けしやをみなへし ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

身の上をたゞしほれけり女郎花
  岩田涼莵(いわたりょうと)(1661-1717)

といひ、その黄に咲きいでたる色をめでては

いたづらの色を去りけり女郎花
  下郷亀世 (しもさときせい)(1688-1764)

とよむ。また女郎花となんいへる名も聞きすてがたくて

女郎花都はなれぬ名なりけり
  井上士朗(いのうえしろう)(1742-1812)

と吟ぜし人の心多さよ。そこらあたりの野も、何となうなつかしく覚えて

井戸の名も野の名もしらず女郎花
  成田蒼キュウ(なりたそうきゅう)(1761-1842)

とは風雅の本意なるべく

撫でられて牛も眠るやをみなへし
  百花(ひゃっか?)

と詠みたらんを思へば、落ちにきと戯れし法師も物かは[ものともしない、ものの数にあらず]。風のそよ吹く毎(ごと)に、我れさきに揺(あよ)きそめし[「揺く」は「ゆれ動く」の意味。「あよく」また後には「あゆく」とも。つまりここの意味は「揺れはじめる」]女郎花の、風静まりて後までもなほ揺れ残るわびしさよ。

吹くかたへ心の多し女郎花
  建部涼袋(たけべりょうたい)(1720-1774)

松風をかつぎて臥せり女郎花
  加藤暁台(かとうきょうたい)(1732-92)

何事のかぶり/”\ぞ女郎花
  小林一茶(1763-1827)

くねるといふ名は男の喜ぶべきを

身を耻ぢよくねるとあれば女郎花
  深川秋色(ふかがわしゅうしき)(1727-1784)

と警(いまし)めたる秋色の徳の高さは、この一句にても知られたり。

わがものに手折れば淋し女郎花
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-87)

とかくして一把(いちわ)に折(おり)ぬ女郎花 ・
  与謝蕪村(1716-1783)

折り易きものは折らるる世の慣ひとはいひながら、折られて喜ぶ花もあるべし。わけては

原中にひとりくるゝか女郎花
  多少庵秋瓜(たしょうあんしゅうか)(?-1790)

暮たがる花のやうすや女郎花
  文角(もんかく)(奥村政信・まさのぶ)(1686-1764)(?)

と、夕暮の魂を見つけたる詩人の多情には、花も恥ぢらひてあちらむくなるべし。

芭蕉(ばしょう)

 ここに芭蕉といふものあり。木に似て枝なく、草に似て遙かに高し。幹は大きやかなれど、霜枯れにはいち早く枯れて、形ものうく葉は広けれど、いつしか雨に破れ風に吹かれて、秋の扇にさも似たり。山寺の庭に植ゑられて、老僧坐禅の夜深(ふ)くれば、雨の音物すごく、隠栖(いんせい)[(=隠棲)世俗の社会を逃れ、人気の少ない所で静かな生活を送ること]書窓(しょそう)[書斎の窓。書斎そのものを指すこともある]にそふて閑人(かんじん)棋(き)[将棋、あるいは囲碁]を囲むの時、月出でて涼影(りょうえい)[木+平、一文字の漢字](びょう)[すごろく板]上に揺(あよ・あゆ)く。秋草は皆ささやかに花咲くものばかりなるに、誰かはこの芭蕉を取りて秋の季には入れたりける。

 むかし桃青(とうせい)[松尾芭蕉の「芭蕉」になる以前の号]、深川の草庵に芭蕉を植ゑてその雅号となせしより以来、「ばせを」といへば何となう尊とくかしこきやうに思はるるも、この草の幸なりや。されば今古の俳人、多く芭蕉を詠じ出だせるが中に

秋風に巻葉折らるゝ芭蕉かな
  加生(かせい)[野沢凡兆の初期の号]

[「巻葉(まきば)」とは特に芭蕉とか蓮などで、若い葉がまだ巻いた状態で、開いていないことを指す]

といふ句もさることながら

芭蕉葉は何になれとや秋の風 ・
  八十村路通(やそむらろつう)(1649-1738)[芭蕉に師事]

と詠じたる手柄はまた一きはにて、路通一生の秀逸はこの句にとどめたりとかや。

風の夕芭蕉葉提げて通りけり
藤原保吉 (ふじわらやすよし)(1760-1784or1789)

[藤原保吉は加舎白雄(かやしらお)の高弟(こうてい)。「紫陽花や折られて花の定まらぬ」がよく知られている]

とあるは

雨の日や門さげて行く燕子花(かきつばた)
伊藤信徳(いとうしんとく)(1633-1698)[芭蕉と交流]

より脱化し来りたれど、なほ見るべき所なきに非ず。

稲妻の形は芭蕉の広葉(ひろは)かな
  一風(いっぷ?)[丈草の別号か?]

といふも奇なれども

稲妻は棕櫚(しゅろ)や芭蕉のそよぎかな
  巨海(こかい?)

[「シュロ」はヤシ科の常緑高木で、葉が細く鋭いが、「バショウ」はバショウ科の多年草で、葉っぱがびらびらしている]

と詠みしは平穏にして更に妙なり。さるをまた

はら/\と稲妻かゝる芭蕉かな
  栗田樗堂(くりたちょどう)(1749-1814)

といひかへたる器量、をさをさ[たしかに]芭蕉翁の遺響(いきょう)[あとに残る響きのこと。余韻/後世へと残る教えなど]あり。

垣越しに引導のぞくばせをかな
  卜枝(ぼくし)

芭蕉葉(ばしょうば)や在家(ざいけ)の中の浄土寺
  沢露川(さわろせん)(1661-1743)

露川、やや卜枝の糟粕(そうはく)を嘗(な)めたり。蓼太、更にこれを翻案して

七堂の外に大破(たいは)のばせをかな
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-87)

とせしは奇に過ぎて狂体(きょうたい)[狂歌(きょうか)のスタイル]に陥りたるが如し。

ばせを葉や打(うち)かへし行(ゆく)月の影 ・
  河合乙州(かわいおとくに)(1657-1720)

とは月と風との景色を言ひおほせ

雨蛙(あまがえる)芭蕉にのりてそよぎけり ・
  宝井其角(1661-1707)

とは異な処を見付けられたり。

染かねて我と引きさく芭蕉かな
  大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-87)

裏打のしたく成たる芭蕉かな
  川村碩布(かわむらせきふ)(1751-1843)

二句やや奇抜に過ぐれど、新意を出だしたるは妙なり。

俳諧麓の栞の評

[朗読4]
 撫松庵兎裘(ぶしゅうあんとしゅう)[池永厚]なる人あり。一書を著(あらわ)して「俳諧麓の栞(はいかいふもとのしおり)」といふ。これを一読するに、終始日本古代の文法論を述べて、俳諧上に応用したるなり。盖(けだ)し古(いにしえ)より俳人、古学を修め文法を知る者少く、隨つて文法・語意の点に於て誤謬(ごびゅう)をなす者、比々皆これなり。况(いわん)んや近世の俳人、漫(みだり)に自分免許の宗匠を以て愚者を惑はす者をや。

 著者ここに見る所ありてこの文法論を著し、今時の俳人の迷夢(めいむ)[迷いの状態を譬(たと)えた言葉]を破り、かつ古の俳書の杜撰(ずさん)を罵(ののし)る。卓見識ありと謂(い)ふべし。而(しか)して文法に至りては、余も無学の一人なり。故に敢(かつ)てこれが批評を試みず。ただ著者に向つて、吾人(ごじん)[我、わたくし/我々、わたくしども]に学問の好方便(こうほうべん)[「方便」のもとの意味は、仏教に於いて悟りへと近づくための方法のことである。そこから、導くための、説明するための方法。さらに真実ではないが有益な方法などと派生していったようだ]を与へられたるを謝するのみ。然れども、今日の俳諧に古代の文法をそのまま用ひよと云ふに至りては、余は著者に向つて一問答を煩(わずら)はさざるを得ざるなり。

 抑(そもそ)も、著者が文法といふものは、何の時代の文法なりや。太古か、奈良か、平安か、はた近古か。孰(いず)れの時代にもせよ、何故にその時代の文法を固守するや。文法は時代と共に変遷し得べからざるものか。是等(これら)の疑問は従来余が胸間に蟠(わだかま)りて解けざるものなり。著者は一心に文法を確守せらるるが如し。故に敢(あえ)て教を乞(こ)はんとす。同書第二百六頁(ページ)の終はりに曰く、

「俳諧ニテハ、俗ニ従フモ妨ナキガ如クナレドモ、故意ニ定格ヲ犯スベキニ非ルナリ。云々ト」

 是(ここ)に於(おい)て著者は、やや俳諧を見ること寛(かん)なるを知る。而(しか)して著者の主義いよいよ糢糊(もこ)[ぼんやりとしている、はっきりとしない]たり。(その「故意に、云々(うんぬん)」と云ふに至りては、余も之を賛成するなり)また著者は『俳諧苧環(おだまき)』[元禄四年(1691年)に出された溝口竹亭(みぞぐちちくてい)(1658-1692)の俳諧の作法書]等を駁撃(ばくげき)[他人の説や言論に対して非難・攻撃を加えること]するに拘(かか)はらず、却りて芭蕉・越人等を庇護(ひご)[庇(かばう)い護(まも)ること]して、この「かな」は筆者の誤なるべし、この「や」は感歎(かんたん)[=感嘆]の「や」には非るべし、と云ふは不公平の論たるを免れず。余は信ず、芭蕉・越人の如き、譬(たと)ひ古文法を知るとも故意に之(これ)を犯したる場合あるべしと。何となれば芭蕉時代には古文法一変して、「や」「かな」等の用法・意義、共に古の「や」「かな」に非るを以てなり。其角の

この人数舟なればこそ納涼かな

の如きは『真木柱』(まきばしら)[挙堂編により元禄十年刊行(1697年)された句集の名前。この名は源氏物語の第三十一帖の名前でもある]には「納涼なれ」と書きたり。然れども余は寧ろ「納涼かな」の句を以て、其角の作なるべしと思惟(しい)す。よし其角の作は兎(と)もあれ、余は此(これ)を以(もっ)て彼より善しと考ふるなり。けだし近世俳諧の習慣として、「なれ」よりは「かな」の方、語気強ければなり。かくいへばとて、余は全く古文法を廃する意にもあらず。この事は思考中にて、自ら判決し難(がた)き処あれば、ここに詳言(しょうげん)[くわしく述べること]せず。ただ大方(たいほう)[ここでは、「学問の高いひと」の意味にて、すなわち「俳諧麓の栞」の作者を指す]の教を俟(ま)つ。

 『俳諧麓の栞』は二百五十頁に渡るの一冊子なれども、その内百六十頁は『十二品詞』の説明(殊に動詞の分類)を以て塞(ふさ)がりたり。故にその他に就きて疑はしき数点を挙げん。第五頁に

「通常ノ句体ニ於テ切字ヲ用ヰルハ、無形ナル風情ヲ以テ、有形ナル風姿(ふうし)ヲ判断センガ為ニシテ、詩ニハ之ヲ実虚ト称(とな)ヘ、無形ヲ以テ有形ヲ裁制(さば)ケリ[「裁制(さいせい)」は、「裁き定める」の意なり]。云々(うんぬん)」

とあるが如きは、説き得て甚(はなは)だ容易なるが如きを覚ゆといへども、余は再三再四読み返して、なほその何事なるやを解する能はず。徒(いたずら)に神文を読み、読経を聴くの感あり。無形の風情とは主観的観念の如く、有形の風姿とは客観的万象(ばんしょう)の如し。然れども、切字なる一虚語がこの主観・客観の間に立ちて、何程(なにほど)の功用を為すかを怪まざるを得ざるなり。古来の歌書・俳書には、此(かく)の如き曖昧なる論もとより多し。然れども明治の今日、この種の説明を見るは奇怪至極(しごく)[まったくその通りである、きわめてもっともだ、(上の言葉に対して)このうえなく~である]と謂ふべし。文学は論理にて説明し尽すべき者に非ざれば、全く之を論ぜざるは則ち可なり。苟(いやしく)も之を説明する以上は、今少し論理的の明晰(めいせき)[あきらかではっきりしていること]を要すること勿論(もちろん)なるべし。著者の意、果して如何(いかが)。また第二百二頁に

更科や月はよけれど田舎にて

の「や」字を、「玉鉾(たまほこ)や道」[「玉鉾」は宝玉で飾った鉾の意味にて、いわゆる鉾の美称なりしも、同時に「たまほこや」の枕詞(まくらことば)にて「道」を導く故に、ここではその係りを言ったものなり]などの例とするは、甚だ心得ぬことなり。この「や」は感歎(かんたん)の「や」といふべきや否やは知らざれども、俳句にてはその重なる語を極めるの用を為すなり。この句にては更科(さらしな)[信濃国(今日の長野県のあたり)にある地名]といふ語が主にして題ともいふべきものなり。芭蕉の古池の句の「や」もこれに同じ。越人の

行く年や親に白髪を隠しけり

の「や」も同じ事なり。別に変りたる意義あるに非ず。また第二百二十二頁に

鳴く鹿もさかるといへば可笑けれ
  団雪(だんせつ?)

の「けれ」を攻撃しあれども、これは俳諧の上に用ふる一種の意義を含むものなれば、あながち攻むるには及ばざるべし。况んや「こそ」の係りありて結び語なき古例さへある位なれば、その係り語なくして「けれ」の結語ありとも、左迄(さまで)[「然迄(さまで)」にて、多くは打ち消しを後に控え「それほどまでに~ない」の意をあらわすなり]珍らしきことに非るべし。また第二百二十三頁より以後に、「新定十体」なる者を論じたり。その論は皆文法に関する美辞学中の一小部分なれば、余はここに之を講究(こうきゅう)[しらべ極めること]するの労を取らざるべし。

『俳諧麓の栞(しおり)』を把(と)りて之を読むに、はじめに厭倦(えんけん)[「倦厭(けんえん)」にて「あきて嫌になること」の漢字を逆にしたもの]を生じ、はては嘔吐(おうと)を催さしむるものは、作例として挙げたる俳句の甚だ拙劣浅陋(せつれつせんろう)[「浅陋」は、学問や見識が浅くて狭いこと]なることなり。けだしこの書は、普通の俳書の如く古句を引きて例となさず、ことごとく今人(こんじん)(著者をも含む)の作を列(つら)ねたる故にぞありける。同書の凡例に曰く

「作例ハ、今少シク思フ所アレバ、故意ニ近世ノ諸家及(および)余ガ社友ノ佳什(かじゅう)[佳作。優れた詩作などを指す]ニシテ、法則ニ適合スルモノヲ以テ之ニ充(あ)テタリ」

云々と。余等その何故にかく近人の句許(ばか)りを挙げたるかは知るに由(よし)なけれども、思ふに古人の作例許(ばか)りにては、文法の変化の例として一々これを挙ぐるに便(べん・びん)なければなるべし。さるにても今少しは句の選び方もあるべきを、初学の階梯(かいてい)とは言ひながら、余りなることと思はるるなり。

 余は初めにこの書を読みし時は、故意に今人の拙劣なるを示さんとの著者の諷刺(ふうし)[(=風刺)]に出でたるものならんと思ひしが、凡例を再読して「佳什云々(うんぬん)」の字あり。かつ作例中、著者自身の俳句さへあるを見て、始めてその選び方の真面目なるを知りたり。余は作例中、その僅(わずか)に可なる者を求めしに、二十余句を得たり。もしそれ秀逸なる者に至りては、一句だも見出すこと能(あた)はず。また「拾遺金玉」[「拾遺(しゅうい)」はこぼれ落ちたものを拾うの意味にて、「金玉」のような優れた作品を拾い上げる、といった意味になる]と題して挙げられたる諸作家の句にても、過半は平句凡調(へいくぼんちょう)[つまり「月並(つきなみ)」と正岡子規の呼ぶところの、調子も言葉つきも意匠もつまらない作品のたとえ]のみ。然れども初学の余輩(よはい)[我等、われわれ]、妄(みだ)りに妄評(もうひょう・ぼうひょう)[出鱈目な評価、実無くただ無遠慮な評価]を呈して、大家を褒貶(ほうへん)[褒めることと貶(けな)すこと]せんはあたら罪つくるわざなれば、一旦は思ひ止らんとせしも、人の勧めによりて次に一斑(いっぱん)を論ずべし。之を要するに、著者は文法に精(くわ)しき人なるべし。而(しか)して俳諧の趣味を解し得るの人ならざるが如し。

「俳諧麓の栞」の末に「拾遺金玉」なる一節あり。けだし方今(ほうこん)[まさに今、この頃]大家の名句を拾ひ集めたるの意なるべし。されども余輩(よはい)[我、あるいは我々]の愚見を以てすれば、箸にも棒にもかからぬと云ふべき者だに少からず。例へば

赤蟇(あかひき)のかしこまりけり神の前

夏の月頻りに出たうなりにけり

笹啼(ささなき)にいよ/\春の待たれけり

[「笹鳴」とは、ウグイスの声が、まだ美しい春告げの響きではなく、チッチと鳴く地鳴きに過ぎないこと。冬には餌を求めて人里へと近づくウグイスの、さりとて美しく鳴かないことが、未だ春の遠さを思わせる。冬鶯(ふゆうぐいす)、藪鶯(やぶうぐいす)などともいう]

はらわたにほろりと染みぬ桐一葉

春風のあぢはひ知りぬ東山

花の山日の永いでもなかりけり

頭巾きた人さきだちて柳橋

うき秋も月に忘れて草枕

等の如し。その他発句といへばいふものの、発句とも何ともつかぬ者、また少からず。

行燈もしたし夜長のふみ机

朴訥(ぼくとつ)は仁者(じんしゃ)に近し毛見(けみ)の衆

[「朴訥」は、無骨で飾り気がなく話が下手なこと。「毛見」は「検見」の意味にて、江戸時代に年貢高を求めて役人が稲田調査に来ることを言う。したがって秋の季語]

右二句の如き、一は韓愈(かんゆ)(768-824)の詩を翻訳し、一は論語(ろんご)の語を応用したるまでにて、何の手抦もなし。

こゝろ練る窓や木の葉の障(さわ)る音

黒髪の乱れはづかし朝ざくら

義にはてし髑髏(どくろ)まつるや枯薄(かれすすき)

南朝の御運なげくや榾(ほた・ほだ)のぬし

[「榾」は囲炉裏、暖炉などにくべたり、焚き火をしたりするための木の切れ端、小枝のこと。冬の季語]

右四句の如き、月並社会の俗調に落ちずといへども、また意到りて筆到らざるものなり。

戸の透(すき)に蓑かけ替へて榾火(ほたび)哉
  藤丸(ふじまる?)

「かけ替へて」の語、巧を求めて却(かえっ)て失す。「押しつけて」等と改めては如何。

余の木皆手持無沙汰や花盛り
  芹舎(きんしゃ?)

「手持無沙汰」とは尤(もっと)も拙劣なる擬人法にして、この類(たぐい)の句は月並集中、常に見る所なり。故に余は私(わたくし)に之を称して月並流(つきなみりゅう)といふ。余、かつて句あり

大かたの枯木の中や初ざくら

凡調(ぼんちょう)[何の特色もない平凡きわまる調子]、見るに足らずといへども、なほ或(あるい)は手持無沙汰のいやみに勝るべきか。呵々(かか)[大声で笑うさま]

初秋のくるやまばらの松林
  藍山(らんざん?)

やや幽趣あれども、惜いかな句法備(そなわ)らず。拙句、甚だ相似たる者あり。録して一粲を博す(いっさんをはくす)[わらいのタネになる。自分の詩作披露などを謙遜して言う言葉。「粲(さん)」は歯を出して笑うこと]

行く秋やまばらに見ゆる竹の籔(やぶ)

余「拾遺(しゅうい)金玉」を探りて秀句五首を得たり。即ち

から草のかれ/\淋し薄蒲団
  柳仙(りゅうせん?)

月花の遊びはじめや歌がるた
  機一(きいつ?)

『正誤』より
この一句を削る。この句、俗気ありて且(か)つ陳套を免れず。

山畑や雲退くあとに蕎麥の花
  (其角より来る)
  永機(えいき?)

行く秋や籠に残りし虫のすね
  (荷兮[かけい]より脱化す)
  睡子(すいし?)

白魚(しらうお・しらお)とはこよなき鰭(はた)の狹物(さもの)かな
  蟹川(かにがわ?)

[「鰭(ひれ)」は「はた」とも読む。古事記に「鰭廣物(はたのひろもの)鰭狹物(はたのさもの)」とあるのは「あらゆる魚たち」くらいの意味]

あるいは奇警(きけい)[すぐれて賢いこと。奇抜で特に優れていること]、あるいは蒼勁(そうけい)[枯れ味があってしかも勢いの強いこと。文章や書画などが枯淡のなかに勢いのあること]、皆老練の筆なり。余輩(よはい)後進の及ぶ所にあらず。(蟹川の句中「白魚とは」の「と」字除きたきものなり)

発句作法指南の評

[朗読5]
 近頃、其角堂機一(きかくどうきいち)(1856-1933)[田邊機一(たなべきいち)、其角堂は其角派の流派の名称で、彼は第八代の称を継承している]なる宗匠あり。『発句作法指南(ほっくさほうしなん)』と云ふ一書を著して世に刊行す。余、之を繙(ひもとき)て一読するに、秩序錯乱(さくらん)して條理(じょうり)[ものごとの筋道、道理]整然ならず、唯思ひ出づるがまにまに記し付けるが如き書きぶりは、なほ明治以前の著書の体裁にして、今日の学理発達したる世に在りては余り珍重すべきの書にあらずといへども、この著者にして余が想像するが如く明治以前の教育をのみ受けし人ならしめば、余はこの書を賛美して一読の価値を有するものなりといふを憚(はばか)らざるなり。けだし今日の如く腐敗し尽せる俳諧者流の中より、この一人現れ出でて、同学者の汚点と浅識(せんしき)とを指摘したるの勇気と見識とは、局外者の万言(まんげん)を呶々(どど)する[くどくどと言うこと]に勝りて、愉快なるを覚ゆるなり。

 然れども之を読んで、なほ不足を感ずるの箇処(かしょ)多きは勿論(もちろん)の事にて、之を詳評(しょうひょう)するに勝(た)へずといへども、一読の際思ひあたりしことのみを挙げて、著者の教を乞はんと欲するなり。

 この書の始に俳諧の起原を説く中に

「連歌は詞(ことば)を和歌に取れる故(略)ただ中等以上の社会にのみ行はれしを、我正風の祖師芭蕉翁、大にここに慨歎(がいたん)[(=慨嘆)愁い嘆くこと]する所ありて」

云々(うんぬん)と云ふは、順序を転倒せるものにて、連歌を俳諧に変じたるは芭蕉にあらずして貞徳(ていとく)にあること勿論(もちろん)なり。されど後段になほ芭蕉の意向を述べて

「今の俳諧の如きは作意になれる者のみなれば、自然の妙は絶て無き者なり」

と云ひたるは確論(かくろん)[根拠の確かな論]にして、かつこれによつて観れば、前段の誤謬(ごびゅう)は著者の誤解にあらずして、叙述の粗漏(そろう)[(=疎漏)粗雑で手抜かりのあること]に出づること明らけし。また著者はやや「俳諧は滑稽なり」と云ふ釈義(しゃくぎ)[言葉や教えなどの意義を解釈して、説明すること]に拘泥(こうでい)して、故(ことさ)らに戯謔(ぎぎゃく)[たわむれおどけるさま]に傾きたる俳句を引用して例となし、かつその主旨を演繹(えんえき)して

「蕉翁が、晋子(しんし)[宝井其角の別号]を賞せられしも、この道の第一義と立たる滑稽の、他に抜(ぬき)でたる故ならん」

と云ふに至りては、その論甚(はなは)だ妙なるが如しといへども、終(つい)に我田へ水を引くの誹(そし)りを免かれず。其角の滑稽に妙を得たるは真実にして、著者の言当れり。ただ滑稽を以て発句の本意とするに至りては、その説甚だ誤れりと謂(い)ふべし。然れども著者の滑稽の意義を解すること、太(はなは)だ曖昧にして、時として意を異にするなきかの疑(うたがい)を存せざるを得ざるなり。

『発句作法指南』に、発句の調格と題して、その中に

「発句は纔(わずか)に十七字なれば(略)和歌の如くひたすら優美なる姿を述(のべ)る能(あた)はざる者あり。故に和歌よりは一層区域を弘(ひろ)めて俗言(ぞくげん)平語(へいご)[平常の言葉、日常の言葉]を交へ嫌ふなきなり。かかれば『姿』は第二義として『感』を第一義とす。さればとて優美を嫌ふ者と思ふべからず」

云々、とあるが如きは至当の論なり。然れども姿の乱れたる例として

枯枝(かれえだ)に烏のとまりけり秋のくれ
  松尾芭蕉

ひなのさま宮腹々(みやはらばら)にまし/\ける
  宝井其角

柳散り清水かれ石ところ/”\
  与謝蕪村

[三句、『獺祭書屋』原文のまま]

といふ字余りの三句を挙げたるは、未だ以て読者の心を飽かしむるに足らず。何となれば『姿』即ち句調の善悪は、必ずしも字数のみに関せざるなり。もし句調は字数の上のみにありとせば、三十一文字に限りたる和歌の上に『姿』を論ずるの必要も無く、隨つて定家卿などが『姿』に就きて喋々(ちょうちょう)[しりきにしゃべるさま]と言葉を費さるる事も無き筈なり。和歌既(すで)に然りとせば、発句またこれなくして可(か)ならんや。例へば

川中の根木によろこぶ涼み哉
  松尾芭蕉

[この句、角川ソフィアの「芭蕉全句集」には載らず。芭蕉の口述遺書に、岸本公羽(きしもとこうう)の作品が間違って自作とされている、という説明がある。「根木」は「土台となる木/根の付いた木」といった意味]

といふ句を試みに

よろこんで涼むや川に出(いで)る根木

といひかへんか。その心は同じ事なれども、その格調に至りては、天壤(てんじょう)[天と地]の差あること勿論なるべし。また

默礼にこまる涼みや石の上
  水田正秀(みずたまさひで)(1657-1723)

といふ句を

石の上もく礼こまる涼み哉

と改めなば如何(いかん)。僅(わず)かに言語の位置を顛倒(てんとう)[(=転倒)]せしに過ぎざれども、なほその句調は原作に劣(おと)るを見るべし。近時の書生にして俳諧を学ぶ者、皆意到りて筆随はざるの憾(うらみ)あり。けだしその思想は豊富なれども、未だ格調に於て到らざるものあるによらざるを得んや。

『発句作法指南』の中に「発句に雅調と俗調の別あり」と題して、その中に

「卑俗とは詞(ことば)の上をいふにはあらず、心の卑俗なるをいふ。(略)その卑俗の調といふは縦令(たとえ)ば

家内皆まめでめでたし歳の暮

といへる類(たぐい)これなり。この句の如きは詞の上、卑しといふべき処は露ばかりもなけれど、その心は無下(むげ)に浅ましき俗調なり。この句をある人が

何事もなきを宝ぞ歳の暮

と直したるは雅致(がち)浅からず。姿もいと高し」

云々とあり。余は一読してやや怪しむ所あり。乃(すなわ)ち再三之を読む。而(しか)して終(つい)にその意を得ず。初めに「心の卑俗」といへるは善し。然れども「家内云々」の句を「何事も云々」と改めて、その心に幾何(いくばく)の差異ありや。余は両句を比して、その心は全く同じく、ただその姿変(へん)ぜりといはんとするなり。またその姿は孰(いず)れが可なるといふに、著者は「姿もいと高し」と判断して後句を誉めたれども、余は後句に比して寧(むし)ろ前句の真率(しんそつ)[正直で飾り気のないこと]なるを取る者なり。(尤もその句の凡俗なるはいふまでも無し)此(かく)の如き甚だしき過誤は、後生(ごしょう)[死んで後に生まれ変わること、来世]を誤ること多からんに注意ありたき者なり。

 また同書に「発句の沿革」と題して

「発句の世に行はるる事、凡(およ)そ二百余年、その間を大別して三となさんに、守武(もりたけ)・宗鑑(そうかん)より貞徳(ていとく)・季吟(きぎん)に及ぶ。之をその一とす」

云々と説き出したり。然るに守武・宗鑑は今を去る事、大略三百五十年位前の人なれば「二百余年」とは痛く違ひたり。また時代を三に分つとありて第一のみを挙げ、第二・第三の区別無きは不審なることなれど、大方は活字の誤植か校正の粗漏(そろう)によりしなるべし。さはいへ数字の誤謬(ごびゅう)程害の多き者あらざれば、著作編輯(へんしゅう)に従事する人は、尤も謹(つつし)まざる可(べか)らず。

 また同書に発句の「切字」并(ならび)に「てにをは」を論じて

「この発句の切字といふは、一種格別に設けたるものにて、歌と同様に論ずべき者に非ず」

と云ひしは卓見なれども

「てにをはと唱ふる者は、自らその詞に備(そなわ)りてある故、真心のままに云ひ出(いで)れば知らず知らず自(おのずか)ら叶ふ者なり」

といひ

「変格といふ者を設け、分らぬ者は皆この部にあて入れるなど、笑止の限りなり、(略)格に変あらば格にあらず」

といふが如き、余り文法を軽蔑したる言ひ方にして、余はその一理あるに拘(かか)はらず、之れを評して「俳諧麓栞(ふもとしおり)」と共に両極端に走る者なりと云はんとす。

「発句作法指南」の中に「発句の感あると感なきと」と題を掲げて、白全といふ人

背向けて眠り催す榾火(ほたび)かな

[「榾火(ほたび)」とは、枯れ枝や葉など、すなわち「榾(ほた・ほだ)」によってもたらされる火のことである。略して、焚き火くらい]

と作りしを、ある人一読して「なほもあぶなき句を詠まれたり」といへば、白全忽ち悟りて

背向てあぶながらるる榾火哉

と改めたることを記載し、それにて一座の秀吟となりし由(よし)をも言ひたり。然れども余が見る所を以てすれば、後句やや曲折を求めて、却て卑俗に陥り、一の妙味なし。寧(むし)ろ前句の淡泊無味なるこそ面白かるべけれと思ふなり。

 同書に「蕉翁の六感」と題して其角、嵐雪、去来、丈草、支考、野坡の六門弟の句を、芭蕉の感賞せしよし記し、かつその句を掲げたり。こは誰が言ひ伝へしことか知らねども、蕉翁の感賞せりと云ふは誤謬なるべし。その証(あかし)は去来の部に「実なること去来に及ばず」と書きて

応/\といへど敲(たた)くや雪の門(かど) ・
  向井去来(むかいきょらい)(1651-1704)

といふ句を載せたり。然るに去来のこの名什(めいじゅう)[本来の「什(じゅう)」は十編をひとまとめとした詩歌、詩篇を指すようだ。ここでは名歌くらいの意味]は、蕉翁歿後(ぼつご)の作なる事、『去来抄(きょらいしょう)』に詳(つまびらか)なれば、爰(ここ)に『去来抄』の一部を抄出(しょうしゅつ)[必要なところを抜き出して書き記すこと。抜き書き]して示さん。同書に曰(いわ)く

丈草曰(いわく)、この句(去来が雪の門の句なり)不易(ふえき)にして流行(りゅうこう)のただ中を得たり。支考曰、いかにしてかく安き筋よりは入たるや。正秀曰、ただ先師の聞給はざるを恨(うらむ)るのみ。曲翠曰、句の善悪をいはず、当時作せん人を覚えずといへり。其角曰、真の雪の門也(なり)。許六曰、尤(もっとも)佳句也、いまだ十分ならず。露川(ろせん)曰、五文字妙也。去来曰、人々の評またおのおのその位より出づ。この句は先師遷化(せんげ)[高僧の死を敬って婉曲に表現した「遷移化滅(せんいけめつ)」を略したもの。お隠れになる]の冬の句なり。その頃、同門の人も難(かた)しと思へり。今は自他ともにこの場にとどまらず。

 これを読めば、芭蕉のこの句を聞くに及ばざること明けし。また右『六感』の中に支考(しこう)の句として

蚊屋を出て又障子あり夏の月 ・

を挙げたり。されどこの句は、『風俗文選(ふうぞくもんぜん)』[森川許六(もりかわきょりく)(1656-1715)編纂による俳文集。蕉門俳人の俳文と、各作者の伝記などが記されているもの]に載せたる「贈新道心辞」といふ文の終りに附けたる句なれば、丈草の作なること論を俟(ま)たず。恐らくは著者誤りて「丈草」と「支考」とを入れ違へたるものには非るか。

「発句作法指南」の中に「家人挙て風雅」といへる一項ありて

「世に俳句を好む人多し。されども夫これを好むも、妻はさる心なきあり。父これを好むも、子その道を知らぬあり」

云々と。ことごとしく説き出しながら、その例として僅(わず)かに曲翠(きょくすい)[菅沼曲翠・曲水(すがぬまきょくすい)(?-1717)]一家をのみ挙げたるは、いと飽き足らぬ心地すれば、今余が知れるままに之を補(おぎな)はんと欲すれども、ことごとく列挙せんは余りくだくだしければ、その有名ならぬ者と、かつ疑はしき者とを闕(か)きて[(闕く=欠く)]、ありふれたる者のみを挙げんとす。先(ま)づその父子共に俳句を嗜(たしな)む者は、左の如し。

里村紹巴(さとむらじょうは)(1525-1602)
  ……里村玄仍(げんじょう)(1571-1607)長男
  ……里村玄仲 (げんちゅう)(1576/78-1638)次男

里村昌琢(しょうたく)(1574-1636)
  昌琢の母は紹巴の娘
  ……里村昌程(しょうてい)(1612-1688)

藤堂蝉吟(とうどうせみぎん)(1642-1666)
  ……藤堂探丸(たんがん・たんまる)(1666-1710)

北村季吟(きたむらきぎん)(1625-1705)
  ……北村湖春(こしゅん)(1648-1697)
  ……北村正立(せいりゅう)(1652-1702)

石田未得(いしだみとく)(1587-1669)
  ……石田未啄(みたく)

竹下東順(たけしたとうじゅん)(1622-1693)
  ……宝井其角(たからいきかく)(1661-1707)
    (初めは母方の姓、榎本を名乗っていた)

内藤義概(ないとうよしむね)(1619-1685)
  [陸奥平藩の藩主。号、風虎(ふうこ)]
  ……内藤露沾(ろせん)(1655-1733)
   [もちろん義概同様、露沾は号に過ぎない。外も同じ]

足立倫里(あだちりんり?)
  ……足立来川(らいせん)(?-1736)

河合智月(かわいちげつ)(1633?-1718)女性・蕉門
  ……河合乙州(おとくに)(1657-1720)蕉門
    弟だが養子息子

三上千那(みかみせんな)(1651-1723)
  [滋賀県大津市にある本福寺の住職、蕉門]
  ……三上角上(かくじょう)(1675-1747)養子

宮崎荊口(みやざきけいこう)(?-1725)
  [美濃大垣藩藩士、蕉門]
  ……巴静(はじょう?)(分からへんで)
  ……宮崎此筋(しきん)(1673-1735)長男
  ……岡田千川(せんせん)次男
  ……秋山文鳥(あきやまぶんちょう)(?-1743)三男

下村堤亭(しもむらていてい)(1663-1717)其角門下
  ……古寿衣苔翁(こじゅいたいおう)息子か不明瞭

小川風麦(おがわふうばく)(?-1700)蕉門
  ……友田梢風(ともだしょうふう)(1669-1758)娘

また、その父子共に相聞こゆるに非るも、兄弟共に俳家たるもの少からず。即ち

里村玄陳(げんちん)(1591-1665)
  [里村玄仍の長男なのでこの分類は誤り]
  ……里村玄的(げんてき)(1593-1650)弟
  [原文には「心前」だが、これは父親の別号らしい]

杉木望一(すぎきもいち・もういち)(1586-1643)兄
  [神官職にあり、盲人。伊勢派]
  ……杉木正友(まさとも)(1597-1676)弟

杉山仙風(すぎやませんぷう)
  ……杉山杉風(1647-1732)蕉門、魚屋
  [これも仙風が父親で、杉風が息子。カテゴリーミス]

立花牧童(たちばなぼくどう)兄・蕉門
  ……立花北枝(ほくし)(?-1718)弟・蕉門

等の如し。また叔姪(しゅくてつ)[叔父と姪(めい)、甥(おい)の間柄のこと]共に之を嗜(たしな)むものは

菅沼定武(すがぬまさだたけ?)俳諧?
  ……菅沼定澄(さだすみ?)俳諧?
    ……菅沼曲翠(曲水)(きょくすい)(?-1717)
      [膳所藩士、蕉門、最後は奸臣を切り自害]

山岸陽和(やまぎしようわ)(?-1719)
  [妻が芭蕉の姉、芭蕉門下]
  ……山岸半残(はんざん)(1654-1726)
    [陽和の子、蕉門]
    ……山岸車来(しゃらい)(1674-1733)
      [半残の子、一節に弟、蕉門]

[上二つ、はなはだ誤れる故にこれを修正するも、なお「叔姪共に」の例として適切かは判然とせず。また次の部分も(凡兆-登米)(加生-とめ)が要するに同一人物であるなど、かなり滅茶苦茶な有様なり]

等あり。また夫も妻も之を嗜むもの多きが中に

服部嵐雪(はっとりらんせつ)(1654-1707)蕉門
  ……初めの妻は湯女(ゆな)で、次の妻は遊女。
    俳諧を嗜むは、二人目の妻「烈」のことか?

斯波一有(しばいちゆう)医師、俳人
  ……斯波園女(そのめ)(1664-1726)蕉門

野沢凡兆(のざわぼんちょう)(1640?-1714)蕉門
  [本文に別人「加生(かせい)」とあるのは別号]
  ……野沢とめ(出家後、羽紅)

望月千春(ちはる? せんしゅん?)
 [彼の編纂の『武蔵曲』(むさしぶり)のなかで、松尾芭蕉が「芭蕉」の号を使用して初めての発句が6句入選している]
  ……綾戸(確認取れず、信憑性に疑問有)

杉木光貞(すぎきみつさだ)
  ……杉木美津(すぎきみつ)
  [「伊勢小町と称され女流俳人の祖とされる」だそうだ]

等尤(もっと)も有名なり。また一家数人を出だすものには

向井去来(むかいきょらい)(1651-1704)蕉門
  ……向井風国(ふうこく)姪
  ……向井魯町(ろちょう)(1656-1727)弟
  ……向井千子(ちね)(?-1688)妹

下里知足(しもさとちそく)(1640-1704)蕉門
  ……下郷蝶羽(しもさとちょうう)(1677-1741)息子・蕉門
    ……下郷亀世(きせい)(1688-1764)弟・蕉門
    ……下郷常和(じょうわ)(1715-1785)息子
    ……下郷蝶羅(ちょうら)(1723-1776)息子

[この部分誤りが多いので、確認の取れない「知足」の母親、「知足」の娘などの名称は掲載せず、代わりに確認の取れる「蝶羽」の息子などを軽く記して置いた。他の系譜も断りなく適時改めた]

の如きあり。この外家奴(かど)[家のしもべ。下僕(げぼく)]にして俳諧に入る者、其角の奴(やっこ)[武家におけるしもべ、下僕、の意味]「是吉(これきち)」[(=鵜沢是橘(ぜぎわぜきつ)]あり。「仙化(せんか)」の奴(やっこ)に「吼雲(こううん?)」あり。「尚白(しょうはく)」の奴に「与三(よさ?)」あり。けだし父子、夫妻、叔姪(しゅくてつ)、主従にして共に之を好む者は、一はその遺伝により、一はその薫陶(くんとう)[徳をその相手に及ぼして、よき感化を与え導くこと]に出でずんば非ざるなり。

「発句作法指南」の中に「延宝(えんぽう)[(1673-1681)]前にも名吟なきにあらず」といふ一項ありて、著者の名句と認めたる俳句を挙げて、之を評論したり。然れどもこの中の過半は、延宝以後の作ならんと思はるるなり。今手許に參考書無きを以て、一々之を証明する能はずといへども、これ等の句は歴史的に考ふるに、決して貞享(じょうきょう)[元禄時代のひとつ前。1864-1887]以前に於(おい)て、此(かく)の如く多くある可(べか)らざるなり。けだし貞享の頃、芭蕉の一派を開きしより後は、天下之が為に風靡(ふうび)し、たとい他門の俳家といへども、多少蕉風の余響を受けぬものは之れ無きに至れり。故に貞享以後には蕉門以外にも名句多けれども、延宝以前に於てはこの種の句、決して此(かく)の如く多からざるなり。かつまたこの項中に却(かえ)りて

元日や神代の事も思はるゝ
  荒木田守武(あらきだもりたけ)(1473-1549)

元日の見るものにせん不二の山
  山崎宗鑑(やまざきそうかん)(1465-1553)

草も木もめでたさうなりけさの春
  松永貞徳(まつながていとく)(1571-1654)[紹巴に師事]

いざのぼれ嵯峨の鮎くひに都鳥
  安原貞室(やすはらていしつ)(1610-1673)[貞徳に師事]

これは/\とばかり花の芳野山
  同

等の如き、延宝以前の名句を挙げざるは、余りありふれたりとてわざとせし事にや如何(いかが)。また

ねふらせて養ひ立てよ花の雨
  松永貞徳

[この句、正しくは「ねぶらせて」。「舐る(ねぶる)」は「なめる、しゃぶる」の意味。「雨」は「飴(あめ)」を掛けている]

と云ふ句を評して

「この句は子を設けたる人に、と端書(はしがき)あり。この『ねふらせて』といふ一句、実に嬰児(えいじ)を養育する情を尽せり。(略)夫(そ)れ嬰児は、乳汁(ちしる)の養ひ足れば眠る。若(も)しいささかにても不足すれば、眠り得ぬのみにもあらず、種々の疾病(しっぺい)これより起り、よし幸(さいわい)に死せずとも生涯多病の者となる。この句は之(これ)を思ひて、春時花を催す『雨』を『乳』に比していへる。凡骨(ぼんこつ)[平凡な才能、技量、器量のもののこと]にあらざるなり」

と長々しくいはれたり。されども余の考にては、これ大なる誤解なりと思はる。評者は「ねふらせて」を「眠らせて」と解し、「雨」を「乳」に比したるが如く見ゆれども、余は「ねふらせて」は「舐(ねぶ)らせて」と解し、「雨」は「飴」にかけたるものと思ふなり。

 即ち、「飴をねぶらせて養ひたてよ」といふ事を「花の雨」に取り合はせたるものなるべし。総(すべて)て貞徳時代の俳句は、発音の同じきものにたよりて他の語をかけるが通例の詠み方にして、ただその物に類似の点ありて「雨」を「乳」に比するが如き事はあまり見当らぬなり。俳句に限らず、総て詩歌・文章を解するには、その作者とその特性とその時代の風調(ふうちょう)[(特に詩歌などの)おもむき。調子/風が季節にしたがって順調に吹くこと]とを知らざれば、大なる誤謬(ごびゅう)を来たすは常のことなり。

「発句作法指南」に芭蕉句解を作りて

行春や鳥啼(とりなき)魚(うお)の目は泪(なみだ) ・
  松尾芭蕉(1644-1694)

鰒汁(ふぐじる)や鯛もあるのに無分別
  同

[芭蕉のものではないようだ]

文月(ふみづき)や六日も常の夜には似ず ・
  同

あか/\と日は難面(つれなく)も秋の風 ・
  同

の数句をも名吟の如く評し、殊(こと)に秋風の句を取りて劇賞(げきしょう)[(=激賞)]せしが如きは、その意を得ざるなり。芭蕉如何(いか)に大俳家たりしとも、その俳句、皆金科玉條(きんかぎょくじょう)[(=金科玉条)守るに極めて重要なる法律、規則]ならんや。また

青くても有(ある)べき物を唐辛子 ・
  松尾芭蕉

といふ句を解して

「唐辛子は青くても辛き者なれば、青くてもあるべきに、さも辛さうに燃たつ如く赤くなる事よと、飽(あく)まで辛きさまなるを言ひ顕(あらわ)したる処」

云々とあれども、こは全く反対に誤解したるものにはあらざるか。愚考によれば、この句の意は

「唐辛子はもとより辛き者なれば、せめて青きままにあらば目にも立たずしてよかるべきに、なまじひに赤くなるが故に、人の目にも立つなり。目に立つ程うつくしければ、甘くもあらんかと思へば、さはなくて甚(はなは)だ辛き者なる故に、その赤き色に染まるだけが憎らし」

となるべし。若(も)し単に辛き形容とのみせんには、「あるべき者を」の廻し方ゆるやかに聞こえて、面白からざる様に覚ゆ。

 また同書、『其角伝』の終りに

「同(宝永)四年二月、青流(せいりゅう)[稲津祇空(いなづぎくう)(1663-1733)]病を草庵に訪ふ
春暖閑爐(しゅんだんかんろ?)に坐の吟とて

  鶯(うぐいす)の暁(あかつき)さむしきり/\す
   [宝井其角、辞世の句とされる]

この句、解し難きよし世上(せじょう)には云へど、去来並(ならび)に支考の評に云々」

とあれども、去来は既に宝永元年に死したれば、この宝永四年の句を評すべきよしなし。こは何かの間違ひなるべし。

 また同書の「ある俳書に、てにをはをいへる」と題せる一項は、九頁の長きに渡りながら、その解説甚(はなは)だ必要ならず。

『 「陣中へは便り無用かたく云ひつけ置たる」(略)これも「てにをは」をのけて「陣中たより無用かたく云ひつけ置たる」(略)かくして聞ゆべきか(略)

といふが如き、解釈にも及ばざる事をいくつともなく例を引きて無用の弁を費したる。実に児戯(じぎ)に類(るい)するものにして、余りといへば余りといふべし。

 また同書に、諸家の略伝を叙し、または略評を下す処、多くは『俳家奇人談』[竹内玄玄一(たけうちげんげんいち)の遺稿を息子がまとめて刊行したもの。1816年。150人以上の俳諧師の伝承が記されている]の文章を取りて、処々助辞・接続辞などを僅かに書き替へたり。古書をそのまま採り用ふること、既に見識なきが如くなれども、その文を全く引用して「これは何の書によれり」と明言し置かば、もとより何の罪も無き事なるに、その文章の大方は採用しながら、処々の言語を書き替へたるが如きは、古文を剽窃(ひょうせつ)して己れの文と偽り称するの嫌疑を免れず。著者の意、必ず此(かく)の如くならざるべけれど、少くともその不注意の罪は、之を負はざるべからざるなり。なほこの外、多少の瑕瑾(かきん)[本来は「瑕釁」にして「瑕」は玉のきずをあらわし「釁」は隙間をあらわす。意味は「ものについた傷、いたみ」から「欠点、短所」などを導く。「瑕瑾」の「瑾」は美しい玉の意味なので誤用だが、今日では一般化されている]多かれども、一々之を指摘するも煩(わずら)はしければ、その評論は止めつ。

獺祭書屋俳話 終

2011/4/14-5/27

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