獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)
獺祭書屋主人(正岡子規) 著
獺祭書屋俳話小序 [朗読1]
俳諧といふ名称
連歌と俳諧
延宝天和貞享の俳風
足利時代より元禄に至る発句
俳書 [朗読2]
字余りの俳句
俳句の前途
新題目
和歌と俳句
[(書生注)分割して「中」に掲載する]
宝井其角
嵐雪の古調
服部嵐雪
向井去来
内藤丈草
東花坊支考
志太野坡
[(書生注)分割して「下」に掲載する]
武士と俳句
女流と俳句
元禄の四俳女
加賀の千代
時鳥
扨はあの月がないたか時鳥
時鳥の和歌と俳句
初嵐
萩
女郎花
芭蕉
俳諧麓の栞の評
発句作法指南の評
[朗読1]
老子曰く、言者(げんしゃ)は知らず、知者(ちしゃ)は言はずと。還初道人(かんしょどうじん)[明の洪応明(こうおうめい)(c1573-c1619)(あるいは洪自誠)のこと。人の交わりと、自然と閑居の楽しみを説いた「菜根譚(さいこんたん)」によって知られる]曰く、山林の楽を談ずる者、未だ必ずしも真に山林の趣を得ずと。政治を談ずる者、政治を知らず。宗教を談ずる者、宗教を知らず。英仏の法を説き、独露の学を講ずる者、未だ必ずしも英仏独露を知らず。文学の書を著(あらわ)し、哲理[哲学の道理]の説を為すもの、未だ必ずしも文学・哲理を知らず。知らざるを知らずとせず、而(しか)して之(これ)を口にし、之を筆にし、以て天下に公(おおやけ)にす。知者は之を見て、その謬妄(びゅうもう)[あやまりて道理なきこと]を笑ひ、知らぬ者は之を聞きて、その博識に服す。故に之を談ずる者いよいよ多くして、之を知る者いよいよ少し。
余もまた俳諧を知らず。而(しか)して妄(みだ)りに俳諧を談ずるものなり。さきに『日本』に載する所の俳話、積んで三十余篇に至る今、之を集めて一巻と為さんとす。乃(すなわ)ち前後錯綜(さくそう)せる者を転置して、やや俳諧史、俳諧論、俳人俳句、俳書批評の順序を為すといへども、もと隨筆的の著作、条理(じょうり)[物事のすじみち]貫通せざること多し。况(いわ)んや淺学寡聞(せんがくかぶん)[学問が浅く見識の狭いこと]にして未だ先輩の教を乞ふにいとまあらざれば、誤解謬見(びゅうけん)[あやまった意見]また応に少からざるべし。知者もし之を読まば、郢正(えいせい)[「郢斧(えいふ)」あるいは「郢タク」(タクは漢字)ともいう。春秋戦国時代、楚(そ)の首都を郢(えい)と呼んだ。郢の人、鼻先にわずかの土を付けたるを、匠石(しょうせき)なる大工の大斧にて土のみを削るにあって、鼻にいささかの傷無しという逸話から、詩文の添削を願う時などに使う常套句(というかあまり使用されることはない)]の労を賜へ、もしそれ俳諧を知らざる者に至りては、知らずして妄(みだ)りに説を為す者の言に惑(まど)ふ莫(なか)れ。
明治廿五年十月廿四日
獺祭書屋主人 識(しるす)
[西暦1892年、皇紀2552年]
「俳諧(はいかい)」といふ語は、其(その)道に入りたるものの平生(へいぜい)言ふ意義と、一般の世人(せじん)が学問的に解釈する意義と、相異なるが如(ごと)し。俳諧といふ語の始めて日本の書に見えたるは、『古今集(こきんしゅう)』[『古今和歌集』のこと。905年に奏上(天皇へ申しあげること)された]中に「俳諧歌(はいかいうた)」とあるものこれなり。
「俳諧」といふ語は「滑稽(こっけい)」の意味なりと解釈する人多く、その意味によりて「俳諧連歌」「俳諧発句」と云ふ名称を生じ、俗にまた之(これ)を略して「俳諧」と云ふ。されど芭蕉已後(いご)[(=以後)]の俳諧は幽玄高尚なる者ありて、必ずしも滑稽の意を含まず。ここに於(おい)て俳諧なる語は、上代と異なりたる通俗の言語、または文法を用ひしものを指して云ふの意義と変じたるが如し。然(しか)れども普通に俳諧社会の人が単に「俳諧」とのみ称する時は、「俳諧連歌」の意にて云ふものなり。
而(しか)してこれと区別して、十七字の句を「発句」といふが通例なれども、「俳諧を学ぶ」とか又は「俳諧に遊ぶ」とか云ふが如き場合には、必ずしも「俳諧」と「発句」とを区別せずして、両者を包含する程の広漠なる意に用ふる事も少からず。かくて終(つい)に、局外の人をして往々迷(まよい)を生ぜしむることあり。(余は世上の俳諧仲間に交はりしことなければ、場処によりてその意義に相違あるや否や、詳しきことは知らず)
因(ちなみ)に云ふ。芭蕉またはその門弟等が「俳諧は滑稽なり」と称するその滑稽といふ語は、余が前に述べたる滑稽、即ち通常世人(せじん)が用ふる滑稽に非(あら)ず。ただ和歌の単一淡泊(たんぱく)なるに対して、その雅俗の言語混淆(こんこう)し、その思想の変化多くして、かつ急劇なるを謂(い)ふのみ。
俳諧の連歌より出で、連歌の和歌より出でたるは、人の知る所なり。その始めは、一首の歌の上半・下半を一、二の人して詠みたる程のものなりしが、後には歌の上半、即ち十七字だけを離して完全の意味をなすに至れり。されど足利時代に在りては、なおその趣(おもむき)和歌の「上の句」の如くにして、上代の言語を以て上代の思想を叙(じょ)するに止まれば、それ文学として読者を感ぜしむるの度(ど)は、在来の和歌に比して却(かえっ)て之(これ)に劣るものといふべし。かつこの時代の発句は、所謂(いわゆる)連歌の第一句にして、敢(あえ)てそれ許(ばか)りを独立せしめて一文学となす訳にあらねば、その力を用ふる事も随つて専一ならず。之(これ)を読めば、多少の倦厭(けんえん)を生ぜしむるの傾きあり。
松永貞徳(ていとく)(1571-1654)、徳川氏の初めに出でて、連歌に代ふるに俳諧を以てせしより、発句にも重みの加はりしかども、その発句は地口(ぢぐち)・シャレ・謎(なぞ)等の滑稽に過ぎざれば、文学上の価値に至りては足利時代に比して更に一層の下落を来したりといふも酷評には非ざるべし。
貞徳派、千篇一律(せんぺんいちりつ)[多くの詩篇がどれも同じような調子であること]にして、竟(つい)に新規なる思想も出でざりしかば、宗因(そういん)[西山宗因(にしやまそういん)(1605-1682)]等起つて「檀林(だんりん)」の一流を創(はじ)め、一時は天下を風靡(ふうび)[風が草木をなびかせるように、その時代の大勢をなびかせること]せしが、これまたやや発達したる滑稽・頓智に外ならざるを以て、忽(たちま)ち芭蕉派(ばしょうは)の圧倒する所となりて、今日に至るまでなほ有るか無きかの有様なり。
芭蕉[松尾芭蕉(まつおばしょう)(1644-1694)]は趣向を頓智(とんち)・滑稽の外に求め、言語を古雅と卑俗との中間に取り、『万葉集(まんようしゅう)』以後新たに一面目を開き、日本の韻文を一変して時勢の変遷に適応せしめしを以て、「正風(しょうふう)俳諧」の勢力は明治の世になりてもなほ依然として隆盛を致せるものなるべし。而(しか)して芭蕉は発句のみならず、俳諧連歌にも一様に力を尽し、その門弟の如きもなほその遺訓を守りしが、後世に至りては単に十七文字の発句を重んじ、俳諧連歌は僅にその附属物として存するの傾向あるが如し。
足利時代の連歌より芭蕉派の俳諧に遷(うつ)るに、貞徳派・檀林流等の階梯(かいてい)[のぼりおりするための階段/芸術などを学ぶための各段階、手引き]を経過したる事は、前に述べたるが如し。然(しか)れどもなほ細かに之を観れば、その間無数の階梯と漸次(ぜんじ)の発達とを経(へ)来りしものなり。寛文(かんぶん)十二年、撰(えら)べる『貝おほひ』[芭蕉が故郷で出版した初めての俳諧集。二十九歳のもので、三十番俳諧合として自作を交えて三十番の句合わせをして勝敗をも記したもの]といふ書は、「芭蕉」未だ「宗房(そうぼう)」といひし頃編集せし者なりといへども、なほ赤子のかた言まじりにしやべるが如く、終(つい)に談林を離るること能(あた)はず。延宝八年に其角(きかく)・杉風(さんぷう)がものせる『田舎句合(いなかのくあい)』[「田舎之句合」其角が農夫と野人の句合を演じたもの、芭蕉による勝負の判定]、『常盤屋句合(ときわやのくあい)』[「常盤屋之句合」杉山杉風(すぎやまさんぷう)(1647-1732)が選別した二十五番の句合で、芭蕉が判定]は、ややその歩(あゆみ)を進めたるに相違なきも、未だ小学生徒が草したる文章を観(み)るの思ひあり。天和(てんな)三年に刊行せし『虚栗集(みなしぐりしゅう)』[宝井其角によって1683年に刊行された俳諧撰集。発句、歌仙などが収録されている]に至りては、著(いちじる)しく俳諧の一時代を限りしものにて、その魂は既に「正風(しょうふう)」の本体を得たりといへども、その詞(ことば)はなほ甚(はなは)だ幼稚にして、暴露(ばくろ)[風雨にさらすこと/さらけだすこと、むき出しにすること]の嫌(きらい)あるを免れず。貞享(じょうきょう)四年刊行の『続虚栗』[やはり宝井其角編。1687年]は、更に幾多の進歩をなして、殆んど「正風」の門を覗(うかが)ふ者と謂(い)ふべし。同年の吟詠なる『四季句合(しきのくあい)』(載せて元禄元年刊『続の原』[つづきのはら]にあり)は、滑稽に陥らず、奇幻(きげん)[あやしくも不思議なること]を貪(むさぼ)らず、景を自然の間に探り、味を淡泊の裏に求め、はじめて「正風」の旗幟(きし)[旗と幟(のぼり)。そこから、表明すべき主張]を樹立したるものなり。(されどこの『四季句合』の中には、芭蕉翁一派の門弟ならざるもまじれり)
その後『曠野(あらの)集』『其袋』『猿蓑』等、続々と世に出でて、終(つい)に芭蕉の功名をして千載(せんざい)[千年、長き年月]に不朽ならしめたり。この間の階梯(かいてい)となりたる貞徳派をはじめ、『虚栗』『続虚栗』に至るまで、終にこの「正風」を発揮せしむるの段階に相違なしといへども、その間あるいは退歩したることなきにもあらず。是(これ)もとより、何事の発達中にも免るべからざる運命なるべし。
明治の大改革ありてより、文学もまた過劇(かげき)の変遷を生じ、翻訳文、新体詩、言文一致等の諸体を唱ふるものありて、大に文学界を騒がし、その極(きわみ)世人(せじん)をしてその帰着する所を知らず、竟(つい)に多岐亡羊(たきぼうよう)[(道が多く分かれ羊を見失うの中国故事から)学問の道があまりにも枝分かれしすぎて真理をつかみ取れないこと。あるいは、方針が多すぎて迷いから逃れ得ないこと]の感を起さしむるに至れり。然(しか)れども、天下の大勢より観察し来れば、是等(これら)もまた文学進歩の一段落に過ぎずして、後来(こうらい)[この後、将来/後れて来ること]大文学者として現出する者は、必ず古文学の粋を抜き、併せて今日の新文学の長所をも採取する者なるべく、而(しか)して是等(これら)は皆、元禄時代に俳諧の変遷したると同じことならんと思はるるなり。
天下やや檀林の俗風に厭(あ)くに際して、機敏(きびん)烱眼(けいがん)[するどい目つき/洞察力に鋭いこと]の一俳人宝井其角(たからいきかく)[(1661-1707)江戸生まれで、松尾芭蕉に俳諧を学ぶ。蕉門十哲(しょうもんじゅってつ)の第一の弟子とされるが、酒好きが高じて五十歳を前に亡くなったとも言われている]は、別に一新体を創して世人(せじん)を驚かさんと企てたり。然れども俗語を用ひて俗客(ぞっかく)[俗な客、無風流な客]の一笑を買ふが如きは、則ち前車の覆轍(ふくてつ)[ひっくりかえった車の轍(わだち)。「覆轍を踏む」で、前人の失敗を繰り返す、の意味]を踏むに等くして、到底これを倣(なら)ふべからず。さりとて和歌的連歌の句法を学ぶは陳腐にして、また一個の新題目を加へ、一種の新思想を叙述するに地(ち)なし。是(ここ)に於て其角は、之(これ)を漢土の詩に求めて、始めて一種の新体を成せり。『田舎句合』『虚栗』『続虚栗』の如きは、即(すなわ)ちこの流(ながれ)の句集とも謂(い)ひつべし。今、古来の発句に付きて、変遷の一斑(いっぱん)[一つの部分、一部分]を知らしむる為に、左に時代の順序に従ふて、時鳥(ほととぎす)を詠ぜし数句を挙げん。
待てばこそ鳴かぬ日もあれ時鳥
佐々木道誉(ささきどうよ)(1296-1373)
[莵玖波集(つくばしゅう)(1356年)]
待たで見ん恨みてや鳴く不如帰
三条西実隆(さんじょうにしさねかた)(1455-1537)
[新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)(1495年)]
なくといふ文字は無の字か郭公
春庵(しゅんあん)[中村史邦(なかむらふみくに)]
[鷹筑波集(たかつくばしゅう)(1642年)]
一疋(いっぴき)も音は万疋(まんびき)ぞほとヽぎす
[失名]
[毛吹草(けふきぐさ)(1645年)俳諧の理論書]
啼きさわげ日本つヽみの無常鳥(ほととぎす)
政定
[貝おほい(かいおおい)(1672年)松尾芭蕉編]
鐘カン/\驚破(そよや)時鳥草の戸に
宝井其角(1661-1707)
[田舎句合(1680年)宝井其角作]
半日の下戸閑居にたへず郭公
望月千春(ちはる? せんしゅん?)
[虚栗(みなしぐり)(1683年)宝井其角編]
時鳥背に星をするたか嶺かな
暮角
[続虚栗(1687年)宝井其角編]
朝顔の二葉にうれしほとヽぎす
調柳(ちょうりゅう)
[続の原(つづきのはら)(1688年)岡村不卜(ふぼく)編]
馬と馬よばりあひけり不如帰
鈍可(どんか)
[あら野(1689年)山本荷兮(かけい)編]
時鳥鐘つくかたへ鳴音かな
湖水(こすい)
[其袋(そのふくろ)(1690年)服部嵐雪編]
ほとゝぎす何もなき野ゝ門ン構(がまえ) ・
野沢凡兆(のざわぼんちょう)(1640-1714)
[猿蓑(さるみの)(1691年)向井去来・野沢凡兆編]
子規顔の出されぬ格子哉(こうしかな) ・
志太野坡(しだやば)(1662-1740)
[炭俵(すみだわら)(1694年)志太野坡ら編]
杜宇なかぬ夜白し朝熊山(あさまやま)
各務支考(かがみしこう)(1665-1731)
[続猿蓑(ぞくさるみの)(1694年)服部沾圃(せんぽ)ら編]
[朗読2]
連歌俳諧の撰集は、足利時代に在りても「莵玖波集(紀元二千十六年撰)」[(つくばしゅう)1356年成立し、翌年勅撰集に准(じゅん)ずるものとして、准勅撰集となった南北朝時代の連歌集。巻数20、句数2190句。二条良基(よしもと)が僧救済(ぐさい)の協力により編纂。皇室・公家のほか足利尊氏・義詮・佐々木道誉などの武家の連歌を収める]以後、稀(ま)れに之れ有りといへども、多く刊行せしものにあらず。寛永年間に至りては編集せる書も多く、かつ之を刊行せしものなれば、時世の進歩と共に俳諧の盛運に赴(おもむ)きたるを見るべし。
正保(しょうほう)・慶安(けいあん)・承応(じょうおう)・明暦(めいれき)・万治(まんじ)・寛文(かんぶん)の間は[すなわち正保の開始1644年より、寛文の終わり1672年の間なり]、次第に著作の多きを加ふといへども、その著(いちじる)しく増加したるは延宝年間(えんぽうねんかん)[(1673-1681)将軍は四代徳川家綱、五代徳川綱吉の時代]なり。余は特にこれが研究をなしたることなけれど、見当るままに書き付けたる者のみにても、延宝年間の編著(へんちょ)已(すで)に五十部になんなんとす。なかんずく尤(もっと)も多きは延宝八年[1680年]にして、その目を挙ぐれば
俳枕(はいまくら) 軒端の独話 洛陽集 向の岡 伊勢宮笥(いせみやげ) 西鶴大矢数(刊年は天和元年) 花洛(からく)六百句 猿黐(さるとりもち) 阿蘭陀丸二番船(おらんだまるにばんせん) 江戸大坂通し馬 俳諧江戸弁慶 破邪顕正返答(はじゃけんしょうへんとう) 田舎句合(いなかのくあい) 常盤屋句合(ときわやのくあい)
等にして、なほこの外に数多(あまた)の著作あるべきなり。余浅学、未だ是等(これら)の書の過半は一覧(いちらん)[一通り目を通すこと]だになし得ずとはいへ、前後の時勢より察するに、多くは皆片々たる一小冊子に過ぎずして、敢(あえ)て後世数巻を一部として発行するものと同時に論ずべくもあらざるべし。しかはあれど、如何(いか)なる小冊子なりとも二百余年以前に在りて、此(かく)の如く多きを見るはその隆盛を卜(ぼく)する[占う]に十分なりと信ずるなり。天和・貞享を経て元禄に至り、いよいよその極点に達したるが如く、宝永・正徳(しょうとく)・享保(きょうほう)の間に下りては、刊行の俳書いたく減じ尽し、ただ東華坊支考(とうかぼうしこう)(1665-1731)が十数部の著書あるのみとはなれりけり。この時に際して、俳諧は暫時(ざんじ)[しばらくの間、少しの間]衰運の暗黒界に埋没せられたるの観ありて、芭蕉の英魂(えいこん)はその死後二、三十年に於て、已(すで)にその霊威を失ひ尽したるが如し。
俳句に字余りの多きものは延宝・天和[延宝(1673-1681)、天和(1681-1684)]の間を尤(もっと)も甚(はなはだ)しとす。十八、九音の句は云ふに及ばず、時として二十五音に至るものありて、却(かえ)つて片歌よりもなほ長し。今日にありて之れを見れば奇怪の観なきに非ざれども、俳風変遷の階梯(かいてい)としては、是非とも免(まぬが)るべからざるものならんか。今、広く古人の句中より、その格調の異なるもの数句を取りて列挙せんに
天にあふぎ地に伏し待ちの月夜哉
野々口立圃(ののぐちりゅうほ)(1595-1669)
古寺月なし狼客を送りける
石川北鯤(いしかわほっこん)(芭蕉門弟)
しほらしき物つくしちよろ木かいわり菜
杉山杉風(すぎやまさんぷう)(1647-1732)
[「物尽(ものづくし)」は同種のもの(ここではしほらしきもの)を列挙することにて、「ちよろ木」とは「草石蚕」「丁呂木」「長老木」などと書かれるシソ科の多年草で、江戸時代に中国から伝わり、正月などの祝い事に頂戴するようになったもの。「貝割菜(かいわりな)」とは芽が出て貝が二つに分かれたようになっている状態の若菜のこと。発芽したての大根が「かいわれ大根」と呼ばれるのは、大根の若芽だからである。これは秋の季語になっている]
鵲(かささぎ)やさえわたる橋の夜半の月
宗長(そうちょう)(1448-1532)
夏衣(なつごろも)いまだ虱(しらみ)をとりつくさず ・
松尾芭蕉(1644-1694)
あれよ/\といふもの独り山桜(やまざくら)
枳風(きふう)(芭蕉門弟)
五月雨(さみだれ)けりな小田に鯉とる村童
藤匂(とういん?)(「虚栗」集内)
月の秋に生れいづるや桂男
松江重頼(まつえしげより)(1602-1680)
[桂男(かつらおとこ)は美男子の月の妖怪]
雛丸(ひなまる)が夫婦(めおと)や桃の露不老国
羊角(ようかく?)
[天保時代に活躍の狂言師、弥生庵雛丸(やよいあんひなまる)と何か関係ありや、なしや?]
ところてん逆(さか)しまに銀河三千丈(さんぜんじょう)
与謝蕪村(1716-1783)
五月雨の端居(はしい)古き平家(へいけ)をうなりけり
服部嵐雪(1654-1707)
[正岡子規の原文に「うなり鳧(=鳬)」とあるは、鳥の「ケリ」あるいは「鴨(かも)」をあらわすものに非ずして、ただ「~けり」を漢字に表記したるものなり]
月に親しく天帝の婿に成たしな
才丸(=椎本才麿・しいもとさいまろ)(1656-1738)
曙の人顔牡丹霞に開きけり
坪井杜国(つぼいとこく)(?-1690)
新年の御慶(ぎょけい)とは申しけり八十年
西岸寺任口(さいがんじにんこう)(1606-1686)
有徳(うとく)なる物汐干(しおひ)の潟(かた)なる大きなる鯛
由卜(ゆうぼく?)(延宝頃活躍?)
桜菎蒻(さくらこんにゃく)如何なる人の何を以て桜
杉山杉風(1647-1732)
玉祭る里や樒(しきみ)刈男香爐(こうろ)たく女
松濤(しょうとう)
[樒(しきみ)は別名「仏前草」。春に花を咲かせるが、常緑のため年中その枝葉を仏前に供えるための樹木とさせてきた。その葉や枝を焚くと死臭をも消すほどの匂いを発散させるため、仏事に使用した他、その葉を乾燥させて線香にも使用。毒性があり、特にその実は死に至ることもあるほどの有毒である。だから「悪しき実」で、「しきみ」となったという説もある]
流るる年の哀(あい/あわれ?)世につくも髪さへ漱(すすぎ)捨つ
宝井其角(1661-1707)
等の如し。また十七音にても五七五の調子に外れたる者あり。例へば
岩もる水木くらげの耳に空シ(むなし?)
杉山杉風(1647-1732)
[「木くらげ」はつまりキノコのキクラゲのこと。キクラゲ科キクラゲ属にして、耳のかたちのために「木耳」と書いたりする]
雪の[魚+屯](ふく)左勝(ひだりかち)水-無月(みなづき)の鯉 ・
松尾芭蕉(1644-1694)
[左勝、右勝などは、歌合や句合において左右に分かれて優劣を競いもって一方を勝ちとなす時の記し方。「左勝○○○」と記して、○○○の方が勝ちという記述方法。ここでは「雪の頃の河豚汁」VS「水無月(旧暦六月)の鯉のあらい」では鯉の勝ちの意味]
海くれて鴨(かも)のこゑほのかに白し ・
松尾芭蕉
等の如し。
数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅(わずか)に二、三十に過ぎざれば、之(これ)を錯列法(さくれつほう)(パーミュテーション)[ある集合から特定条件を満たす対象要素を選別し順列化する方法。ちなみに、「錯列」とは、順序を乱して並ぶさまを言う]に由(よっ)て算するも、その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之(これ)をいはば、和歌(重に短歌をいふ)・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。世の数理を解せぬ人は、いと之をいぶかしき説に思ひ
「何(なん)でう、さる事のあるべきや。和歌といひ俳句といふ、もと無数にしていつまでも尽くることなかるべし。古(いにしえ)より今に至るまで幾千万の和歌・俳句ありとも、皆その趣を異にするを見ても、知り得べき筈なるに」
など云ふなり。然れども後説は、もと推理に疎(うと)き我邦(わがくに)在来の文人の誤謬(ごびゅう)にして、敢(あえ)て取るに足らず。その実和歌も俳句も、正にその死期に近づきつつある者なり。
試みに見よ、古往今来(こおうこんらい)[昔から今に至るまで]吟詠せし所の幾万の和歌・俳句は、一見その面目を異にするが如しといへども、細かに之を観(み)、広く之を比ぶれば、その類似せる者、真に幾何(いくばく)ぞや。弟子は師より脱化(だっか)[昆虫が殻を脱いで変態を遂げること/もとの状態から新たなる状態へと変わること]し来り、後輩は先哲(せんてつ)[先人の哲人、昔の賢者]より剽窃(ひょうせつ)し去りて、作為せる者比々皆これなり。その中に就きて、石を化して玉と為すの工夫ある者は之を巧(こう)とし、糞土(ふんど)[腐った土/汚いものの例]の中よりうぢ虫を掴(つか)み来る者は之を拙(せつ)とするのみ。終(つい)に一箇(いっか)[ひとつ、いっこ、ひとり]の新観念を提起するものなし。
而(しか)して世の下るに従ひ、平凡宗匠・平凡歌人のみ多く現はるるは、罪その人に在りとはいへ、一は和歌または俳句その物の区域の狹隘(きょうあい)[面積や度量が狭いこと]なるによらずんばあらざるなり。
人、問ふて云ふ。
「さらば和歌・俳句の運命はいづれの時にか窮(きわ)まると」
対(こた)へて云ふ。
「その窮(きわま)り尽すの時は、もとより之を知るべからずといへども、概言(がいげん)[大要をまとめ述べること]すれば俳句は已(すで)に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも、明治年間に尽きんこと期して待つべきなり。和歌はその字数俳句よりも更に多きを以て、数理上より算出したる定数も、また遙かに俳句の上にありといへども、実際和歌に用ふる所の言語は雅言(がげん)[正しい言葉、みやびなる言葉。和歌などにもちいるべき(古典の)言葉]のみにして、その数甚(はなは)だ少なき故に、その区域も俳句に比して更に狹隘(きょうあい)なり。故に和歌は明治已前(いぜん)に於(おい)て、ほぼ尽きたらんかと思惟(しい)するなり」
人あるいは云ふ、
「人間の観念は、時勢の変遷と共に変遷する者なり。そは古来文学の変遷と、政治の変遷とを比較して知るべきなり。而(しか)して明治維新の如く著(いちじる)しく変遷したることは、古(いにしえ)よりその例少なく、従つて文学上の観念もまた大に昔日(せきじつ)と異なるが如し。単に外部の皮相(ひそう)[うわべ、表面/表面のみを捕らえた浅はかな考え]のみより見るも、今日の人事・器物(きぶつ)は、前日の人事・器物と全く同じからず。刀槍(とうそう)廃れて、砲々(ほうほう)天に響き、籃輿(らんよ)[山道を行くときなどに使用する簡単な作りの竹籠]は空しく病者の乗りものとなりて、人車・馬車・汽車、王侯・庶人(しょじん・しょにん)を乗せて地上を横行す。是等(これら)の奇観は到る処にありて、枚挙にいとまあらず。この新題目、この新観念を以て吟詠せんか、和歌にまれ俳句にまれ、その尽くる所あるべからず」
と。対(こた)へて云ふ。
「そは一応道理ある説なれども、和歌には新題目・新言語は之を入るるを許さず。俳句には敢(あえ)て之を拒(こば)まずといへども、また之を好むものにあらず。こはもとより理の当然にして、徒(いたずら)に天保老爺(てんぽうろうや)[「天保」は元号であるが、その意味するところは「天道を貴び末永く天明を保たん」である]の頑固なる僻見(へきけん)[偏った見解のこと]より出づるものとのみ思ふべからず。大凡(おおよそ)天下の事物は、天然にても人事にても雅と俗との区別あり。(雅俗の解はここに述《の》べず。通常世人《せじん》の唱ふる所に従ふて大差なかるべし)而(しか)して、文明世界に現出する無数の人事またはいわゆる文明の利器なる者に至りては、多くは俗のまた俗、陋(ろう)[場所や見識の狭いこと]のまた陋なるものにして、文学者は終(つい)に之を以て如何(いかん)とも為(な)し能(あた)はざるなり。
例へば蒸汽機関なる語を見て、我們(がもん)[われわれ、われら]が起す所の心象は如何(いかん)。ただ精細にして混乱せる鉄器の一大塊を想起すると共に、我頭脳に一種眩暈(めまい・げんうん)的の感あるを覚ゆるのみ。また試みに選挙競争・懲戒裁判等の言語を聞きて後に、如何(いか)なる心象を生ずるかを見よ。袖裡(しゅうり)[袖の裏]黄金を溢(あふ)らせて、低声私語(しご)するの遊説者と思ひ、内(うち)にあれば覚えず微笑を取り落したる被説者と両々相対するの光景に非ざれば、則ち髯公(ぜんこう)[「ひげの君」といった意味]、「解語(かいご)の花」[玄宗皇帝が楊貴妃を讃えて「言葉を解する花、すなわち楊貴妃は、蓮の花よりもっと美しいぜ」とのろけたことから、美人の意味]を携へて席上に落花狼藉(ろうぜき)たるの一室を画き出さんのみ。この妄想に続きて発するものは、道徳壞頽(かいたい)[整っていたものが崩れること]・秩序紊乱(びんらん・ぶんらん)[乱れること]等の感情の外(ほか)、更に一つ風雅なる趣味、高尚なる観念あるべきやうなし。人あるいは云ふ、美術・文学は古(いにしえ)に盛(さかん)にして、今に衰へたりと。以(もって)あるかな。
主人、小厮(しょうし)[「小厮」とは「こもの、こぞう」など人を指す言葉。文脈は「主人と小僧が」という意味]、店の一隅に立ちて他の髪を結(ゆ)ひ、月代(さかやき)[男の額髪を頭の中央にかけて半月形に剃り落としたもの。もと冠の下にあたる部分を剃った。応仁の乱後は武士が気の逆上を防ぐために剃ったといい、江戸時代には庶民の間にも行われ、成人のしるしとなった。つきしろ。ひたいつき(広辞苑より引用)]を剃る。八公(はちこう)・熊公(くまこう)[「熊公八公」熊さんと八つぁん。落語などで、善良無教養なる典型的庶民を代表する代名詞。つまり二人が坐っている]、傍(かたわら)に在り。相対して坐(ざ)す。八公叫んで曰く、しめたりしめたりと。熊公、頭を垂れて一語なし。甲公・乙公[外野の野次馬の二人をこう表したもの]、各々(おのおの)語りて曰く、「桂馬(けいま)」[将棋の駒の一つ。以下「王」「歩兵」なども将棋の説明なり]を以て「王」を釣り出すべし。曰く、「王」頭の「歩兵」を突くべしと。囂々(ごうごう)[「喧々囂々(けんけんごうごう)」がやがやと騒がしい様子]市場の如し。これ髪結床(かみゆいどこ)[理髪店]に将棋を弄(ろう)すなり。
九霞山樵(きゅうかさんしょう)[画家であり書家でもある池大雅(いけのたいが)(1723-1776)のこと]の山水一幅を掛けて、下に池坊流(いけのぼうりゅう)[「池坊」は聖徳太子の水浴した池の名前に因むもので、華道(かどう)の家元の名称。いけばなの源流にして、「流」は付けないんだそうである。もっとも本文の「流」は「流派」の名称ではないけど]の立花一瓶(いっぺい)[「いけばな」の数え方。全然関係ないが、「一種一瓶(いっしゅいっぺい)」で一種類の肴(さかな)と一瓶の酒、つまり簡単な酒宴の意味になる]をあしらふ。庭間に松・石、相雑(まじ)りて[「雑(ま)じる」]、盆池(ぼんち)[庭などに設ける小さな池]青き処、金魚尾を揺(うご・あよ・あゆ)かす。籠鳥(ろうちょう)一、二、盆栽三、四、皆雅趣あらざるはなし。而(しか)して主客両々(しゅかくりょうりょう)、笑はず、語らず、時に丁々(ちょうちょう)[つづけて打つ物音。おまけ、「丁丁発止(ちょうちょうはっし)」は刀で打ち合う音のこと]の声あるのみ。これ別墅(べっしょ)[別荘、別邸、しもやしき]の竹房(ちくぼう、たけぼう、たけふさ)に、碁を囲むの光景なり。
横町へ少し曲りて、最合井(もあいい)[「最合(もやい)=催合」共同で行うこと、共同で使用するもの。読みは講談社の子規全集のふりがなの如く「もあひゐど」ではなく、旧仮名なら「もあひゐ」かと思われる]、釣瓶(つるべ)縄朽(く)つるの辺、昼顔蒔(ま)かぬ種をはへたる。こなたの掃溜(はきだめ)に臨(のぞ)みて竹格子まばらなる中に、みいちやん、お花ちやんを相手にして、破れ三味線を鳴らす。絃声(げんせい)[ようするに三味線の音]板橋を踏み轟(とどろ)かすが如く、歌声(うたごえ)犬の遠吠に似たり。裏店の奧、比々この類(たぐい)なり。
玄関深く見こみて甃石(しきいし)遠く連り、車馬門に満ちて、小僮(しょうどう)[奉公の少年、子供の召使い]式台に迎ふ。左の方、一帯の板屏(いたべい)を見越して、春色爛漫(らんまん)[花咲乱れる様子]たり。晩梅(ばんばい)・早桜(そうおう)相交るの間、玉欄(ぎょくらん)[彩色された手すり]屈曲して玻璃(はり)[仏教で七宝のひとつ。水晶/ガラスのたとえ]窓中(そうちゅう)、佳人(かじん)[かじん]瑤箏(ようきん)を弾ず。珠玉(しゅぎょく)[真珠と宝石/美しいもののたとえ]盤上を走り、幽泉岩陰(がんいん)に咽(むせ)ぶ。鶯腔(おうこう)[ウグイスの鳴き声]やや渋(しぶる)なりといへども、終(つい)に百鳥の群鳴(ぐんめい)に勝る。
甲店(こうてん)[いちの店]の伴当、[=番頭(ばんとう)]、倉皇(そうこう)[慌ただしいさま]として街上を走る。乙肆(おつし)[「肆」は店の意味、甲店に対して、別の二つ目の店という意味]の主管(しゅかん)[管理の中心者]、袖を扣(ひか)へて止めて曰く。「僕、前日、大坂の募集に応ず。入花料[俳句や狂歌などで添削をする料金、あるいは募集俳句などの選別代]殆んど五十錢を費す。而(しか)して一句の賞点(しょうてん)に入るなし。何事の胸わるさぞ」甲曰く、「前月の巻、已(すで)に成るや否や」乙曰く、「知らず」一行商傍(しょうぼう)に在り。曰く、「かの巻已に開きたり。『天』は某(なにがし)、『地』は某なり。我句幸にして十内に在り」云々(うんぬん)。甲・乙、皆失望の体なり。俳句を弄するもの、皆此流(これりゅう)の人。
一侯一伯、会々相逢(あいあ)ふ。侯曰く、「前月の歌会、貴下秀歌を詠ず。一坐感賞(かんしょう)[感心して褒めること/功を賞して贈る褒美のこと]して三代集中のものとせり。健羨[はなはだうらやましく思うこと]の至りなり」伯曰く、「敢(あえ)て当らず。今夜某々(ぼうぼう)[「なにがしそれがし」だれそれ]を弊家(へいか)[自分の家をへりくだって言う言葉]に召(め)して、万葉の講筵(こうえん)[講義の行われるところ、またその講義そのもの]を開く。幸に駕(が)を枉(ま)げられよ[貴人がわざわざもって来訪すること]」、云々(うんぬん)。和歌を詠ずるはこの種の人なり。
嗚呼(ああ)、何ぞ「将棋」「三絃」「俳句」の相似て、「碁」「箏」「歌」の相類(あいるい)するや。前者は下等社会に行はれ、後者は上流社会に行はる。前者はその起原(きげん)[=起源]新らしく、後者はその起原古し。新し故に俚耳(りじ)[世間一般の人々の耳。俗人の耳]に入り易し。古し故に雅客(がかく)[風流な人。みやびを解する人]の興を助く。将棋盤は碁盤より狹く、而(しか)してその手、碁より多し。三絃の絲(いと)は箏(そう)より少く、而(しか)してその音、箏より多し。俳句の字は歌より短く、而(しか)してその変化、歌よりも多し。変化多ければ、奇警(きけい)[すぐれて賢いこと、思想や発言などが奇抜で優れていること]斬新の事をなすべし。ただ、卑猥(ひわい)俗陋(ぞくろう)[俗であり卑しいこと]に陥るの弊あり。変化少ければ優美清淡(せいたん)[清らかでさっぱりとしている様子]の味あり。ただ、陳套(ちんとう)[ふるめかしいこと。古くさいこと]を襲(おそ)ひ、糟粕(そうはく)を甞(な)むる[先人の物真似ばかりで進歩の見られない]の譏(そしり)を免がれず。随つて「将棋」「三絃」「俳句」は入り難く、「碁」「箏」「歌」は入り易し。入り難けれども上達し易く、入り易けれども上達し難し。この六技は、盖(けだ)し奇対(きつい)[すぐれた組み合わせ、めずらしい一組]といふべし。
2011/4/14-5/27
朗読-2011/7/5