正岡子規 『芭蕉雑談』

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獺祭書屋俳話増補 (獺祭書屋主人著)

インデックス

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著書
元禄時代
俳文
補遺(ほい)

獺祭書屋俳話増補序

[朗読1]
 竹の奧深く垂れこめて、花なき窓に余所の春のさかりを思ひ、雨の軒端(のきはし)の小夜更けて、月くらき宿の独り居に煤けたる。燈火に打ち向ふ頃、古き俳諧の書など繙(ひもと)きて、くりかへし誦したることこそ、こよなう心行くわざなれ。

 先(ま)づ
『冬の日』
[山本荷兮(やまもとかけい)(1648-1716)編1684年刊行]
『春の日』
[山本荷兮編1686年刊行。「冬の日」の続編]
『あら野』
[山本荷兮編1689年刊行]
『猿蓑(さるみの)』
[向井去来・野沢凡兆編、1691年刊行。以上四つ、いずれも俳諧七部集(芭蕉七部集)と呼ばれるもの。この他に
『ひさご』(浜田珍碩、後の酒堂、編)1690年刊行
『炭俵(すみだわら)』(志太野坡ら編)1694年刊行
『続猿蓑』(服部沾圃ら編)1694年刊行
がある]

はいとみやびて、言葉もやすらかに、口にたまらぬからに程なく読み尽してなほ飽かず。

 更に
『三傑集(さんけつしゅう)』
[『俳諧発句三傑集』高桑闌更(たかくわらんこう)(1726-1798)、加藤暁台(かとうきょうたい)(1732-1792)、大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)の三人の作品を収めたもの]
『蕪村七部集』
[菊屋太兵衛(きくやたへい)編集、1808年刊行]
『蕪村句集』
[高井几董(たかいきとう)(1741-1789)編、1784年刊行]
など取りひろげて見もて行けば、如何(いか)にしてか斯(こ)うは面白く詠み出だせると、覚えず膝を打ちて感ずるにつけても、なほ今の人の名利に耽(ふけ)り、賤しき言の葉をつづけておのが耻を世に売り、若干の財を力に宗匠となん呼ぶことのうとましさよ。書読(よ)までも発句は作りなん、文字知らでも俳諧は出来なんと、独り文台(ぶんだい)[書や硯(すずり)をのせるための台のこと。連歌や俳諧の会席で短冊や懐紙(かいし)をのせるための台も指す]に向ひて鼻うごめかす非修非学の男だち[男たち、男ども、の意味]。人のそしりも大方は俚耳(りじ)[世間の人たちの耳。俗人の耳。俗耳(ぞくじ)]に入らざるべし。

 世の中はかくてもありなんを、我は人の如くならで、人は我の如くなれかし[なって欲しい]と、思ふ事言はねば腹ふくるるを、蚯蚓(みみず)のあと覚束なくも書きつらねて一巻とはなりぬ。我ながらをこがましく、片腹痛きすぢ多かるを、見る人は何とかいふらん

明治廿七年四月三十日
反古(ほご)の山のふもとにて
著者しるす

[明治27年=西暦1894年]

芭蕉雑談

年齡

 古今の歴史を観、世間の実際を察するに、人の名誉は多くその年齢に比例せるが如し。けだし文学者・技術家に在りては、殊(こと)に熟練を要する者なれば、「黄口の少年」「青面の書生」には成し難き筋もあるべく、あるいは長寿の間には多数の結果(詩文または美術品)を生じ得るが為に、漸次(ぜんじ)に世の賞賛を受くる事も多きことわりなるべく、はた年若き者は、一般に世の軽蔑と嫉妬とによりて、その生前には到底名を成し難き所あるならんとぞ思はる。

 我邦(わがくに)古来の文学者・美術家を見るに、名を一世に揚げ誉(ほまれ)を万歳(ばんざい)[長い歳月、よろずよ]に垂るる者、多くは長寿の人なりけり。歌聖と称せられたる柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の如き、その年齡を詳(つまびら)かにせずといへども、数朝に歴仕せりといへば長寿を保ちたる疑ひなし。その外(ほか)年齡の詳かなる者に就て見れば、

[年齢ごとの人物羅列の部分は
→「年齢」部分のみ朗読
を参照されたし]

 尤(もっと)も有名なる者のみにて此(かく)の如し。外邦(がいほう)[外国のこと]にても格別の差異あるまじ。華山(かざん)の如き、三馬(さんば)の如き、丈草(じょうそう)の如きは世甚(はなは)だ稀なり。バーンス[ロバート・バーンズ(1759-1796)スコットランドの詩人]の如き、バイロン[ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)イギリスの詩人]の如き、実朝(さねとも)の如きは、更に稀なりと謂(い)ふべし。是(これ)に由(より)て之を観れば[漢文訓読から来る慣用的表現]、人生五十を超えずんば名を成す事難く、而(しか)して六十、七十に至れば、名を成す事甚(はなは)だ易きを知る。然れども千古の大名(たいめい)を成す者を見るに、常に後世に在らずして上世にあり。けだし人文未開の世に在て、特に一頭地を出だす者は、衆人の尊敬を受け易く、また千歳(せんざい)の古人は時代といふ要素を得て、嫉妬を受くる事少きなめり[婉曲的に「~であるようだ」というような意味]。独り彼(か)の松尾芭蕉に至りては、今より僅々(きんきん)二百余年以前に生れて、その一門は六十余州に広まり、弟子数百人の多きに及べり。而(しか)してその齡(よわい)を問へば、則ち五十有一のみ。

 古来多数の崇拝者を得たる者は、宗教の開祖に如くはなし。釈迦(しゃか)、耶蘇(やそ)、マホメトは言ふを須(もち)ひず、達摩(だるま)の如き、弘法(こうぼう)の如き、日蓮の如き、その威霊の灼々(しゃくしゃく)[光り輝くさま/花の盛りをあらわす言葉]たる、実に驚くべきものあり。老子・孔子の所説は宗教に遠しといへども、一たび死後の信仰を得て後は、宗教と同じ愛情を惹起(じゃっき)[事件や問題などを引き起こすこと]せるを見る。然れども是(こ)れ皆、上世(じょうせい)に起りたる者なり。日蓮の如き、紀元後二千年に生れて一宗を開く、その困難察すべし。况(いわん)やその後三百年を経て宗教以外の一閑地に立ち、以て多数の崇拝者を得たる芭蕉に於てをや。人皆芭蕉を呼んで翁(おきな)となし、芭蕉を画くに白髪・白鬚(はくぜん)、六、七十の相貌(そうぼう)[顔かたち、容貌]を以てし毫も怪まず。而(しか)して、その年齡を問へば、則ち五十有一のみ。

平民的文学

[朗読2]
 多数の信仰を得る者は、必ず平民的のものならざるべからず。宗教は多く平民的の者にして、僧侶が布教するも説教するも、常にその目的を下等社会に置きたるを以て、仏教の如きは特に「方便品(ほうべんぼん)」[「方便(ほうべん)」とは仏教用語で悟りへと近づけさせるための方法の意味で、また「法華経」においては悟らせるための一時的な、仮の教えの意味を持つ。方便品とは、その法華経の章の名前]さへ設け、その隆盛を極めたるなり。

 芭蕉の俳諧に於ける勢力を見るに、宛然(えんぜん)[そっくりそのまま。よく似ているさま]宗教家の宗教に於ける勢力とその趣を同じうせり。その多数の信仰者は、あながちに芭蕉の性行を知りて、そを慕(した)ふといふにあらず。芭蕉の俳句を誦して、そを感ずといふにもあらず。ただ芭蕉といふ名の自(おのずか)ら尊(とう)とくもなつかしくも思はれて、かりそめの談話にも芭蕉と呼びすつる者はこれ無く、あるいは翁と呼び、あるいは芭蕉翁と呼び、あるいは芭蕉様と呼(よぶ)こと、恰(あたか)も宗教信者の大師様・お祖師様などと称(とな)ふるに異ならず。甚(はなは)だしきは神とあがめて廟(びょう)を建て、本尊と称して堂を立つること、是(こ)れ決して一文学者として芭蕉を観(み)るに非ずして、一宗の開祖として芭蕉を敬(うやま)ふ者なり。和歌に於ける人丸(ひとまろ)を除きては外に例のなき事にて、しかも堂宇(どうう)[堂の軒(のき)の意味。そこから、堂そのものを指す]の盛なる、芭蕉塚の夥(おびた)だしきは、夐(はる)かに人丸の上に出でたり。(菅原の道真の天神として祭らるるは、その文学の力に非らずして、主としてその人の位地と境遇とに出でたるものなれば、人丸・芭蕉と同例に論ずべからず)

 されば芭蕉の大名(たいめい)を得たる所以の者は、主として俳諧の著作その物に非ずして、俳諧の性質が平民的なるによれり。平民的とは第一、俗語を嫌はざる事。第二、句の短簡(たんかん)なる事をいふなり。近時これに附するに、「平民文学」の称を以てするもまた偶然に非ず。然れども元禄時代(芭蕉時代)の俳諧は、決して天保以後の俳諧の如く平民的ならざりしは、多少の俳書を繙(ひもと)きたる者のことごとく承認する所なり。元禄に於ける其角・嵐雪・去来等の俳句は、あるいは古事を引き成語を用ゐ、あるいは文辞(ぶんじ)[文章のことば]を婉曲ならしめ格調を古雅ならしむるなど、普通の学者といへども解すべからざる所あり。况(いわん)んや眼に一丁字(いっていじ)なき[たったひとつの字さえ分からない、という意味。そこから無学文盲(むがくもんもう)のたとえ]俗人輩に於てをや。天保に於ける蒼[虫+《乙-一(おつにょう)》](そうきゅう)、梅室(ばいしつ)、鳳朗(ほうろう)に至りては、一語の解せざる無く、句の注釈を要するなく、児童・走卒(そうそつ)[つかい走りをする召使い]といへども好んで之を誦し、車夫・馬丁(ばてい)[馬の口取りをする人、馬を引き行く人]といへども争ふて之を摸(も)す。正に是(こ)れ、俳諧が最も平民的に流れたるの時にして、即ち最も広く天下に行はれたるの時なり。

 この間に在て、芭蕉はその威霊を失はざるのみならず、却(かえっ)て名誉の高きこと、前代よりも一層・二層と歩を進め来り。その作る所の俳諧は完全無欠にして、神聖犯すべからざる者となりしと同時に、芭蕉の俳諧は殆(ほとん)ど之を解する者なきに至れり。偶々(たまたま)その意義を解する者あるも、之を批評する者は全くその跡を断ちたり。その様、恰(あたか)も宗教の信者が経文(きょうもん)の意義を解せず、理・不理を窮(きわ)めず、単に「有難し」「勿体(もったい)なし」と思へるが如し。

智識徳行(ちしきとくぎょう)

 平民的の事業、必ずしも貴重ならず。多数の信仰、必ずしも真成(しんせい)[(=真誠)うそ偽りのないこと、誤魔化しのないこと、真実]の価値を表する者に非ずといへども、苟(いやしく)も万人の崇拝を受け、百歳の名誉を残す所以(ゆえん)の者を尋ぬれば、凡俗に異なり、尋常(じんじょう)[普通、通常、ひとなみ]に超ゆるの技能無くんばあらざるなり。况(いわん)んや多数の信仰はあながちに匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)[身分の卑しい男女、道理をわきまえないやから]・愚痴蒙昧(ぐちもうまい)の群衆に非ずして、その間幾何(いくばく)の大人君子(たいじんくんし)[徳の高い立派な人のたとえ]を包含(ほうがん)するをや。顔子(がんし)[中国の思想家、孔子の弟子である顔回(がんかい)のこと]の徳、子貢(しこう)[やはり孔子の弟子の一人]の智、子路(しろ)[孔子の弟子]の勇、皆他人の企て及ばざる所なり。然れども三人を一門下に集めて、能(よ)く之を薫陶(くんとう)[徳を以て接し優れた人間を作ること]し、之を啓発(けいはつ)[知識をひらきさらに理解を深めること]し、之を叱佗(しった)し、綽々(しゃくしゃく)[ゆとりのあるさま]として余裕ある者は孔仲尼(こうちゅうじ)[孔子のこと]その人ならずや。蕉門に英俊の弟子多き、恰(あたか)も十哲七十二子の孔門(こうもん)に於けるが如し。其角(きかく)・嵐雪(らんせつ)の豪放、杉風(さんぷう)・去来(きょらい)の老樸(ろうぼく)、許六(きょりく)・支考(しこう)の剛愎(ごうふく)[頑固であり人に従わないこと]、野坡(やば)・丈草(じょうそう)の敏才(びんさい)[頭の回転が速い、機転が利くといった能力のことか?]、能(よ)く此等(これら)の異臭味を包合(ほうごう)して元禄俳諧の牛耳(ぎゅうじ)を執りたる[「牛耳を執(と)る」(中国故事)「春秋左氏伝」牛の耳を切り取りその血潮を同盟の証とするに際して、盟主より血潮をすすることから、組織の盟主となる、主導権を握るの意味]者は、芭蕉が智徳兼備の一大偉人たるを証するに余(あまり)あり。

 この人々、もとより無学無識の凡俗にあらねば、芭蕉の簀(さく)を易(か)ふる[(中国故事)「礼記(らいき)」孔子の弟子である曾子が、死に際して粗末な簀(すのこ)に易(か)えさせたことから、高徳の人の死や死に際を表す言葉となった]と同時に各旗幟(きし)を樹(た)て、門戸を張て、互に相下らざるの勢を成せり。其角は江戸座を創め、嵐雪は雪中庵(せっちゅうあん)を起し、支考は美濃派を開き、各々(おのおの)これに応じて起る者また少からず。その他、門流多からずといへども、暗に一地方に俳諧を握る者、江戸に杉風・桃隣(とうりん)[加藤桃隣(かとうとうりん)(1773-1806)]あり、伊勢に涼菟(りょうと)・乙由(おつゆう)あり、上国(じょうこく)[都に近いところ、京へのぼること、上京]に去来・丈草ありて相頡頏(けっこう)[鳥が飛び上がったり降りたりすること/勢力が同程度で勝敗の決まらないこと。拮抗]せり。後世に及びては門派の軋轢(あつれき)[人の仲が悪くなること、不和]いよいよ々甚だしく、甲派は乙派を罵り、丙流(へいりゅう)は丁流(ていりゅう)を排し、各自家の開祖を称揚し、他家の開祖を擠(さい)し[つき落とす、押し落とす]、以て自ら高うせんとのみ勉めたり。

 然れども、その芭蕉を推(お)して唯一の本尊と為すに至りては、衆口一声に出づるが如く、浄土と法華(ほっけ)と互に仇敵(きゅうてき)視するに拘(かか)はらず、なほ本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の神聖は、毫も之を汚損(おそん)[汚したり傷つけたりすること]せざるに異ならず。是(こ)れ、その徳の博(ひろ)きこと天日の無偏無私(むへんむし)[偏(かたよ)りがなく、私心(ししん)のないこと]なるが如く、その量の大なること大海の能容能涵(のうようのうかん?)[よくおさめ入れよく浸し得るのことか?]なるが如きによらずんばあらざるなり。

 許六の剛慢不遜(ごうまんふそん)なる、同門の弟子を見ることなほ三尺の児童の如し。然れども蕉風の神髄(しんずい)[その道の奥義]は我これを得たりと誇言(こげん)[大げさに言うこと]して、なほ芭蕉に尊敬を表したり。

 支考の巧才(こうさい)衒智(げんち)[智をひけらかす]なる、書を著し説を述べ、以て能(よ)く堅白同異(けんぱくどうい)[(中国故事)戦国時代に公孫竜(こうそんりゅう)という思想家が、堅白の石の眺めるとき堅さは分からず、触れるとき白さは分からない。ふたつは別のものである。と述べたことによる。詭弁とか、詭弁を弄する議論のことを指す]の弁を為し、以て能く博覧強記(はくらんきょうき)[広く書物を読んでいて、すぐれて記憶していること]の能(のう)を示すに足る。然れどもその説く所、一言一句といへども、之を芭蕉の遺教(いきょう)に帰せざるはなし。甚だしきは芭蕉の教(おしえ)なりと称して幾多の文章を偽作し、譏(そしり)を後世に取る事甚(はなは)だ浅陋(せんろう)[智恵や考えなどが浅くて狭いこと]の所為たるを免れずといへども、翻(ひるがえ)つてその裏面(りめん)を見れば、ことごとく是(こ)れ、芭蕉の学才と性行とに対する名誉の表彰ならずんばあらず。

悪句

 芭蕉の一大偉人なることは、右に述べたるが如き事実より推し測りても推し測り得べきものなれども、そは俳諧宗の開祖としての芭蕉にして、文学者としての芭蕉に非(あら)ず。文学者としての芭蕉を知らんと欲せば、その著作せる俳諧を取て之を吟味(ぎんみ)せざるべからず。然るに俳諧宗の信者は、句々神聖にして妄(みだ)りに思議(しぎ)[考えかつ議論すること]すべからずとなすを以て、終始一言一句の悪口非難を発したる者あらざるなり。

 寺を建て、廟を興し、石碑を樹(た)て、宴会を催し、連俳を廻(めぐ)らし[(=巡らし)]、運座を興行すること、もとより信者としてはその宗旨(しゅうし)[宗派、流派/その宗派の教えの中心的教義]に対して尽すべき相当の義務なるべし。されど文学者としての義務は、毫も之を尽さざるなり。

 余輩(よはい)[我、我ら]もとより芭蕉宗の信者にあらねば、その二百年忌に逢ふたりとて嬉しくもあらず、悲しくもあらず。頭を痛ましむる事も無き代りには、懐(ふところ)を煖(あたた)める手段もつかず、ただ為す事もなく机に向ひ、楽書(らくがき)[(=落書)]などしゐる徒然(とぜん)[つれづれ、為すこともなく手持ちぶさたなこと]のいたづらに、つい思ひつきたる芭蕉の評論、知る人ぞ知らん、怒る人は怒るべし。

 余は劈頭(へきとう)[物事の一番はじめ、まっさき]に一断案を下さんとす。曰(いわ)く、

「芭蕉の俳句は、過半悪句・駄句を以て埋(うず)められ、上乗と称すべき者は、その何十分の一たる少数に過ぎず。否、僅かに可なる者を求むるも、寥々(りょうりょう)[物寂しいさま、数の少ない様子]晨星(しんせい)[夜明けに残る星/そこから、まばらなこと、少ないことのたとえ]の如しと」

 芭蕉作る所の俳句「一千余首」にして、僅(わず)かに可なる者「二百余首」に過ぎずとせば、比例率は僅かに「五分の一」に当れり。寥々晨星の如しといふ、また宜(うべ)ならずや[「宜なり」で「もっともである」の意味]。然れども単にその句の数のみ検(けみ)すれば[調べる、調べみる/経過する]、一人にして二百の多きに及ぶ者、古来稀(まれ)なる所にして、芭蕉また一大文学者たるを失はず。その比例率の殊(こと)に少き所以(ゆえん)の者は、他に原因の在(あり)て存(そん)するなり。

 芭蕉の文学は、古(いにしえ)を摸倣せしにあらずして、自ら発明せしなり。貞門(ていもん)・檀林(だんりん)の俳諧を改良せりと謂(い)はんよりは、寧(むし)ろ蕉風の俳諧を創開(そうかい)[はじめて開くこと]せりと謂ふの妥当なるを覚ゆるなり。而(しか)してその自流を開きたるは、僅かに歿時(ぼつじ)を去る十年の前にして、詩想いよいよ神に入りたる者は、三、四年の前なるべし。この創業の人に向つて、僅々(きんきん)[ごくわずかであるさま、ほんのわずか]十年間に二百以上の好句を作出(さくしゅつ)せよと望む。また無理ならずや。

 普通の文学者の著作が後世に伝はる者は、その著作の霊妙(れいみょう)[人智で推し量れないほどに優れていること]活動せる所あればなるべし。然るに芭蕉は、その著作を信ぜらるるよりは、寧(むし)ろその性行を欣慕(きんぼ)[よろこび慕(した)うこと]せられしを以て、その著作といへば悪句・駄句の差別なく、ことごとく収拾して句集の紙数を増加する事となれり。甚だしきは、あらぬ者まで芭蕉の作として諸種の家集に採録したる者多し。この瓦石混淆(がせきこんこう)[「瓦石」は「瓦(かわら)と石」の意味にて、価値のないもののたとえ。「混淆」は「いりまじっていること」玉石混淆(ぎょくせきこんこう)に掛けて、「瓦と石の入り交じって、なおさら玉など発見しにくいありさま」を述べたものか]の集中より撰びし好句の数、五分の一に過ぎざるも、また無理ならぬ訳なり。

 芭蕉の俳句、ことごとく金科玉条(きんかぎょくじょう)[守るに極めて重要なところの法律/自説の主張の犯すべからざるよりどころ]なりと目せらるる中にも、一際(ひときわ)秀でたるが如く世に喧称(けんしょう)[やかましくも称せられるの意味か]せらるるものは大略左の如し。

古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと

道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり

物いへば唇(くちびる)寒し秋の風

あか/\と日は難面(つれなく)もあきの風

辛崎(からさき)の松は花より朧(おぼろ)にて

春もやゝけしきとゝのふ月と梅

年/\(としどし)や猿に着せたる猿の面(めん)

風流(ふうりゅう)の初(はじめ)やおくの田植うた

白菊(しらぎく)の目に立てゝ見る塵(ちり)もなし

枯朶(かれえだ)に烏のとまりけり秋の暮

[「とまりけり」は『あら野』刊行時の改変。初めは「からすとまりたりや」次いで『東日記』では
『枯枝に烏のとまりたるや秋の暮』
となっている]

梅の木に猶(なほ)やどり木や梅の花

 この外にも、多少人に称せられたる者なきにあらねど、俗受けのする句のみを挙げたるなり。以上の句はその句の巧妙なるが為に世に知られたるよりは、多く「曰(いわ)く付き」なるを以て人口に膾炙(かいしゃ)せられたるなりとおぼし。彼(か)れ自ら見識も無き、批評眼も無き俗宗匠輩は、自己の標準なきを以て、単に古人の所説にすがり、かの句は蕉翁自ら誉めたる句なり、この句は門弟某・宗匠某の推奨(すいしょう)[優れたものであると人に奨(すす)めること]したる所なりといへば、ただその句が自(おのずか)ら有難味を生じ来る者にて、扨(さて)こそ「曰く付き」の流行するに至りたるなれ。「曰く付き」の曰くとは即ち

「古池の句」はいふまでもなく蕉風の本尊とあがめられたる者にして、芭蕉悟入(ごにゅう)の句とも称せられたり。後世にかくいふのみならず、芭蕉自ら已(すで)に明言せるなり。

「木槿(むくげ)の句」も、やや古池同様に並称せられ、鳥の両翼、車の両輪に象(かたど)れり。

「唇寒しの句」は、座右の銘と題して端書に
  「人の短をいふ事なかれ。
  己が長を説く事なかれ」
と記せり。世の諷誨(ふうかい)[遠回しに教え諭すことの意か?]に関するを以て名高し。

「あか/\の句」は、芭蕉北国にての吟なり。始め結句を「秋の山」として北枝(ほくし)[立花北枝(たちばなほくし)]に談せしに、北枝「秋の風」と改めたきよしいへり。而(しか)して恰(あたか)も芭蕉の意にかなへるなりと。この「曰く」尤(もっと)も力あり。

「辛崎の句」は「にて留り」に付きて、諸門弟の議論ありしが為なり。

「春もやゝの句」は別段曰く無きか。

「年々やの句」、芭蕉自ら仕そこなへりといふ。却(かえっ)てそれが為(ため)名高くなりしか。

「風流の句」は、奧州行脚の時、白河関にて咏ぜし者なり。風流行脚の序開き[始まり、発端]の句なれば、人に知られしならん。

「白菊の句」は、死去少し前に園女亭(そのめてい)にて園女[斯波園女(しばそのめ)(1664-1726)芭蕉に師事、女流俳人]を賞めたる句にして
  「大井川浪に塵なし夏の月」
といへる旧作と相侵す恐れあれば、大井川の句をや取り消さんかと自ら言ひし事あり。

「枯枝の句」は、古池・木槿などと共にもてはやされて、蕉風の神髄、幽玄の極と称せられたり。はじめは
  「枯枝に烏のとまりたりけり秋のくれ
[正しくは「とまりたりや」]
とせしを後に改めしとかや。

「梅の木の句」は、人の子息に逢ひて、そをほめたるなり。

以上「曰く付き」の句は「曰く」こそあれ、余の意見は世上(せじょう)の人と甚だ異なれり。次に之を説かん。

各句批評

[朗読3]

古池や蛙飛こむ水のおと

 この句は芭蕉、深川の草庵に住みし時の吟なりとかや。『蛙合(かわずあわせ)』[1686年に深川の芭蕉庵で催された句合(くあわせ)。蛙を題にして左右に分かれて20番勝負を行った]の巻首に出で『春の日』集中にも載せられたり。天下の人、毫も俳諧の何たるを知らざる者さへ、なほ古池の一句を誦せぬはなく、発句といへば立ちどころに「古池」を想ひ起すが如き、実にこの一句程最も広く知られたる詩歌は他にあらざるべし。而(しか)してその句の意義を問へば、俳人は則ち曰く
「神秘あり。口に言ひ難し」
と、俗人は則ち曰く
到頭(とうとう)[結局、ついに]解すべからず」
と。而(しか)して近時、西洋流の学者は則ち曰く
「古池波平かに、一蛙(いちあ)躍(おど)つて水に入るの音を聞く。句面、一閑静(かんせい)の字を着けずして、閑静の意言外に溢(あぶ)る[あぶれる、はみ出て散らばる/仕事にありつけない状態になる]四隣(しりん)[自らを囲む四方のとなり/近隣の国々]闃寂(げきせき)[ひっそりと静まり寂しいさま、静寂]として車馬の紛擾(ふんじょう)[もめること、ごたごた]人語屐声(じんごげきせい)[人の言葉と、下駄音と]喧囂(けんごう)[がやがやとやかましい様子、喧喧囂囂(けんけんごうごう)]に遠きを知るべし。是(こ)れ美辞学に所謂(いわゆる)筆を省きて感情を強くするの法に叶へり」
と。

 果して神秘あるか、我これを知らず。果して解すべからざるか。我これを信ぜず。その西洋学者の言ふ所やや庶幾(ちか)からんか。然れども、未だこの句を尽さざるなり。

 芭蕉独り深川の草庵に在り、静かに世上流行の俳諧を思ふ。連歌陳腐に属して、貞徳(ていとく)[松永貞徳(まつながていとく)(1571-1653)]俳諧を興し、貞門また陳腐に属して、檀林更に新意匠を加ふ。されど檀林もまた一時の流行にして、終(つい)に万世不易(ふえき)[変わらないこと、不変であること]の者に非ず。是(ここ)に於てか、俳運また一変して長句法を用ゐ、漢語を雑(まじ)へ、漸(ようや)くにして貞門の洒落(地口)、檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。我門弟ら盛んに之を唱道し、我また時にこれ流の俳句を為すといへども、奇に過ぐる者は再三・再四するに及で、忽(たちま)ち厭倦(えんけん)[飽きて嫌になること]を生ずるの習ひ、我またこの体(てい)を厭(いと)ふこと漸(ようや)く甚しきに至りたり。さりとて檀林の俗に帰るべくもあらねば、况(ま)して貞門の乳臭(にゅうしゅう)を学び、連歌の旧套(きゅうとう)[古くからのやりかた、ありきたりの方法]を襲(つ)ぐべくも覚えず。何がな[なにか、なんであろうか]一体を創(はじ)めて、我心を安うせんと思ふに、第一にかの佶屈贅牙(きっくつごうが)なる漢語を減じて、成るべくやさしき国語を用うべきなり。而(しか)してその国語は響き長くして意味少き故に、十七字中に十分我所思(しょし)[思うところ、考え]を現はさんとせば、為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。

 さて、箇様にして作り得る句は如何なるべきかなとつくづく思ひめぐらせる程に、脳中濛々(もうもう)大霧(たいむ)の起りたらんが如き心地に、芭蕉はただ惘然(ぼうぜん)[(=呆然)あっけにとられるさま]として坐りたるまま、眠るにもあらず覚むるにもあらず。万籟(ばんらい)[風に吹かれている物音/すべての物音]寂として妄想全く断ゆるその瞬間、窓外(そうがい)の古池に躍蛙(やくあ)の音あり。自らつぶやくともなく、人の語るともなく、「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫(しばら)く考へに傾(かし)げし首をもたげ上る時、覚えず破顔(はがん)[顔をほころばせて笑うこと]微笑を漏らしぬ。

 以上は我臆測する所なるを以て、実際は此(かく)の如くならざりしやも計り難けれども、芭蕉の思想が変遷せる順序は、この外に出でずと思はる。その「蕉風」(俗に「正風」といふ)を起せしは、実にこの時に在りしなり。あるいは云ふ、この句は芭蕉が禅学の上に工夫を開き、大悟徹底(だいごてってい)[悟りきって真理と一体になること]せし時の作なりと。その事、甚(はなは)だ疑ふべしといへども、この説を為す所以(ゆえん)の者、また偶然に非ず。けだしその俳諧の上に於(おい)て始めて眼を開きたるは、禅学の上に眼を開きたるとその趣(おもむき)相似たり。参禅は諸縁(しょえん)[もろもろの因縁]放捨(ほうしゃ)[断ち切って退けること]し、万事を休息し、善悪を思はず、是非(ぜひ)に管(かん)する[心をかける]莫(な)く、心意識(しんいしき)の運転を停(と)め、念想観(ねんそうかん)の測量を止めて、作仏を図ること莫(なか)れ[「参禅は」以下、道元和尚による『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)(1227)からの引用]、とあり。蕉風の俳諧もまたこの意に外ならず。妄想を絶ち、名利を斥け、可否に関せず、巧拙を顧みず、心を虚にし、懐を平にし、佳句を得んと執着(しゅうちゃく)すること無くして、始めて佳句を得べし。古池の一句は此(かく)の如くして得たる第一句にして、恰(あたか)も参禅日あり、一朝頓悟(とんご)[修業の段階を得ずしていきなり悟りに至ること(対義語:漸悟・ぜんご)]せし者とその間髪を容れざる[間にわずかの時間も置かないこと]なり。而(しか)してかの、雀はチウチウ、鴉はカアカア、柳は緑、花は紅といふもの禅家の真理にして、却(かえっ)て蕉風の骨髄(こつずい)[人間の組織としての骨髄のこと/こころの底/最重要点、主眼]なり。古池の句は、実にその「ありのまま」を詠ぜり。否、「ありのまま」が句となりたるならん。

 眼に由(よ)りて観来(みきた)る者は常に複雑に、耳に由りて聞き得る者は多く簡単なり。古池の句は、単に聴官より感じ来れる知覚神経の報告に過ぎずして、その間毫も自家の主観的思想、形体的運動を雑(まじ)へざるのみならず、しかもこの知覚の作用は一瞬時・一刹那に止まりしを以て、この句は殆んど空間の延長をも時間の継続をも有せざるなり。是(こ)れこの句の最も簡単なる所以(ゆえん)にして、却(かえっ)て摸倣し難き所以なり。

 あるいは云ふ、芭蕉已(すで)に「蛙飛び込む水の音」の句を得て初五字を得ず、之(これ)を其角に謀(はか)る。其角「山吹や」と置くべしといふ。芭蕉従はず、終(つい)に「古池や」と冠せりと。何ぞや。芭蕉の意は下二句にて已(すで)に尽せり。而(しか)して更に山吹を以て之に加ふるは、巧を求め、実を枉(ま)げ、蛇足を画き、鳧脚(ふきゃく)[鳧(けり)は、チドリ目チドリ科の足の長い鳥]を長くすると一般、終(つい)に自然に非ず。その「古池や」といへる者は、特に下二句の為に場所を指定せる者のみ。

 この句の来歴は兎も角も、この句の価値に就きては、世人(せじん)の常に明言を難(かた)んずる所なり。俳諧宗の信者は一般に神聖なりとし、その他は解すべからずとするを以て、その価値に及ぶ者なし。余は断じて曰く。この句、善悪の外に独立し、是非の間を離れたるを以て、善悪の標準にあてはめ難(がた)き者なり。故(ゆえ)にこの句を以て無類(むるい)最上の句となす人あるも、余もとより之を咎(とが)めず。はたこの句を以て、平々淡々香も無き臭(におい)も無き、尋常の一句となす人あるも、また之を怪まざるなり。この両説、反対せるが如くにして、その実反対せるに非ず。善にも非(あら)ず、悪にも非ざる者は、則(すなわ)ちこの二説の外に出でざるなり。要するにこの句は、俳諧の歴史上最も必要なる者に相違なけれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるなり。

 見よ、『芭蕉集』中此(かく)の如く善悪・巧拙を離れたる句、他にこれありや。余は一句もこれ無きを信ずるなり。蓋(けだ)し、芭蕉の蕉風に悟入(ごにゅう)したるはこの句なれども、文学なる者は常に此(かく)の如き平淡なる者のみを許さずして、多少の工夫と施彩(しさい)[彩色をほどこすこと]とを要するなり。されば後年、虚々実々の説起りたるも、また故なきに非(あら)ず。

道のべの木槿は馬にくはれけり

 一説にいふ、槿花一朝栄(きんかいっちょうのえい)[「槿花一朝の夢」「槿花一日(いちじつ)の栄華」などなど。むくげの花の朝に開いて夕にしぼむところから、はかないつかの間の栄華のたとえ]といふ古語にすがりて、そのはかなき花の終りさへ待ちあへで、馬にくはれたるはかなさを言ひ出でたるなりと。(昔は槿花を以て木槿と思へりしなり)

 また一説あり、この句は「出る杭は打たるる」といふ俗諺(ぞくげん)[俗世間で言い習わされたことわざ、俚諺(りげん)]の意にて、木槿の花も路の辺に枝つき出して咲けば馬にも喰はるる事よ、と人を誡(いまし)めたるなりと。

 また一説に、この句他の深意あるにあらず、ただその語路(ごろ)の善き為に伝称せらるるものなりと。

 ある書に、門人ども木槿の語は動く恐れありとて種々に評議し、穗麦(ほむぎ)などと改め見たれども、いづれも善からず。終(つい)にもとの木槿に治定(じじょう)[落着すること、決定すること/きっと、かならず]したり云々。

 『寂栞(さびしおり)』[『俳諧寂栞』加舎白雄(1738-1791)編]には、古池とこの句とを並べて
「此(この)二句は蕉門の奥義なり。つとめて知るべし」
といへり。

 何丸[小沢何丸(おざわなにまる)(1761-1837)]の著せる『芭蕉翁句解大成』にいふ、
「馬の草を喰ふとはもとよりにして、是(これ)や詩歌の趣なるべきを、木槿をくふとは独り祖翁(そおう)[芭蕉のこと]の始めて見出されたる俳諧のおかしみなれば、誠に間然(かんぜん)[非難されるべき欠点のあること、またそれを非難すること]すまじき眼前体[読み不明。「見様体」同様「歌論」の言葉で、見たままを叙するやり方]なり」云々。

 以上諸説あれども、いづれも皆この句を称揚するに至りては毫もその異あるを見ず。余も今日より芭蕉が如何(いか)なる意にて作りしかを推測する能はざれば、ただその句の表面より之を評せんに、句調善しといふ説は薄弱なり。『寂栞(さびしおり)』は明言せざれば評するに由(よし)なし。木槿の語動かずと云ふ説と、『句解大成』の説とまた薄弱なり。木槿を穗麦に改めたりとて何の不都合かあらん。けだしこの句は、何か文学外の意味ある者にて、第一説、第二説の中(うち)いづれかなるべし。もし之を普通の句なりとせんには

道のへに馬の喰ひ折る木槿かな

道のへや木槿喰ひ折る小荷駄馬(こにだうま)

等の句法を用ゐざるべからず。然るにさはなくて故(ことさ)らに「木槿は」といひ「喰はれ」と受動詞を用ゐたる処は、重きを木槿に置きて多少の理屈を示したる者と見るべし。されば第二説の、人を諷誡(ふうかい)[(=諷戒)遠回しにいましめること]せりとの意、あるいは当らんか。而(しか)してこの意を現はすに、路傍の木槿を以てする者は、拙のまた拙なる者なり。この勃ソツ[正しくは「ソツ」も漢字。読みは「ぼっそつ」意味は「ほふくしてのぼるさま、ゆっくり進むさま、口調のゆっくりしたさま」一説に「急に進むさま」を表す(代用に「勃卒」と記したるがための説か?)]的の句が何故に人口に膾炙(かいしゃ)せしかは殆んど解すべからずといへども、我考にては、教訓の詩歌は文学者以外の俗人間に伝播(でんぱ)して、過分の称賛を受くる事間々これ有る習ひなれば、この句もその種類なるべしと思はる。かつ譬喩(ひゆ)の俳句を以て教訓に応用したるは、恐らくこの句が嚆矢(こうし)[もとは「かぶら矢」の意味。いくさの開始の合図の意味から、「ものごとの始まり」「最初」といった意味を導く]なるべければ、一層伝称せられし者ならん。要するにこの句は、文学上最下等に位する者なり。

物いへば唇寒し秋の風

 この句の人に知らるるは教訓的のものなればなり。教訓的のものなれば道徳上の名句には相違なけれども、文学上にては左様の名句とも思はれず。併(しか)しながら俳句に教訓の意を含めて、これ程に安らけくいひおほせたるは、遉(さすが)に芭蕉の腕前なり。木槿の句と同日の談に非ず。

あか/\と日は難面もあきの風

 『句解大成』に云ふ、
「暮秋の風姿言外にありて、祖翁生涯二、三章の秀逸と『袖日記』[志太野坡(しだやば)(1662-1740)著]にも見えたり」云々。
また同書に云ふ、
つふね[つぶね、召使い、使用人]云、古歌に
須磨は暮れ明石の方はあか/\と
日はつれなくも秋風ぞ吹く
是等(これら)の俤(おもかげ)にもあるべし」云々。

 已(すで)にこの歌あれば、芭蕉は之を剽窃(ひょうせつ)したるに過ぎずして、この句は一文の価値をも有せざること勿論(もちろん)なり。然れども、仮にこの歌無きものと見做(みな)し、この句は全く芭蕉の創意に出でたりとするも、なほ平々凡々の一句たるに過ぎず。即ち「つれなくも」の一語は無用にして、この句のたるみなり。むしろ

あか/\と日の入る山の秋の風

とする方あるいは可ならんか。兎に角に、この句を称して芭蕉集中二、三章の秀逸となす事、返す返すも不埒(ふらち)なる言ひ分なりけらし。

辛崎の松は花より朧にて

「にて留り」珍らしければ、諸書にこの句を引用したり。『去来抄』にこの句を論じて曰く、
「ある人『にて留り』の難あらんやと云(いう)。其角答曰(こたえていわく)、『にて』は『哉(かな)』に通ふ故(ゆえ)『哉留(かなどめ)』の発句に『にて留(どめ)』の第三を嫌ふ。『哉(かな)』といへば句切迫(せま)れば『にて』とは侍(さぶら?)へるとなり(略)先師重(かさね)て曰(いわく)、其角・去来が弁、皆理窟なり。我はただ『花より松の朧にて』面白かりしのみなりと」

 芭蕉は法度(はっと)の外に出でて自在に変化するを好みしかば、この句も「朧にて」と口に浮びしまま改めざりしものにして、深意あるに非(あら)ず。何故(なぜ)に「にて」と浮びしやといふに、句解大成に、

「後鳥羽院の御製(ぎょせい)[天皇や皇族などが自ら記した私的文章、詩歌、その外の芸術作品などを指すが、日本では特に和歌を指す場合が多い]
  から崎の松の緑も朧にて
    花よりつヾく春の曙
この歌の俤(おもかげ)によれるにや」

云々とあり。この歌の句調は芭蕉の口に馴れて、覚えずかくは言ひ出だせしものならん。さすればこの句はこの歌を翻案(ほんあん)[前人作品の大筋を踏襲しつつ、ディテールを変化(へんげ)せしめ新たなる躍動を生み出すべしの策]せしものなれども、翻案の拙(せつ)なるは却(かえっ)て剽窃(ひょうせつ)より甚だしき者あり。况(ま)して古歌なしとするも、この句の拙は奈何(いかん)ともし難きをや。是等(これら)の句は芭蕉の為に抹殺し去るを可とす。

春もやゝけしきとゝのふ月と梅

 聞えたる迄にて、何の訳も無き事ながら、「中七字」はいかにも蛇足の感あり。

三日月は梅にをかしきひつみかな
  立羽不角(たちばふかく)(1662-1753)

きさらぎや二十四日の月の梅
  山本荷兮(やまもとかけい)(1648-1716)

梅咲て十日に足らぬ月夜かな
  加藤暁台(かとうきょうたい)(1732-1792)

など、如何様(いかよう)にも言ひ得べきを、「けしきとゝのふ」とは余りに拙(つたな)きわざなり。されどこうやうの言ひぶりも、当時に在りては珍らかにをかしかりぬべきを、後世点取(てんとり)となんいふ宗匠にとかう言ひ古るされて、今は聞くもいまはしき程になりぬるもよしなしや。

年/\や猿に着せたる猿の面

 『句解大成』に曰く
「古注に云(いう)。この句、表に季とする処見えずと門人の問ひければ、年々の詞(ことば)、年のはじめにはあらずやと、云々。
一書に云、この句仕損じの句なりと。許六(きょりく)問(とう)、師の上にも仕損じありや。翁(おきな)答て云、毎句有、仕損じたらむに何くるしみかあらむ、下手は仕損じを得せずと」
云々。

 一偉人の言ひたる理窟は、平凡なるものさへ伝称せらるること例多し。この句もまたその類(たぐい)ならんかし。文学として何等(なにら・なんら)の趣味も無きものを。

風流の初やおくの田植うた

 別に難(かたん)ずべき句にもあらねど、さりとて面白き節も見えず。「風流の初」とは暴露(ばくろ)[風雨などに身を直接さらすこと/さらけだすこと、悪事などを表にあらわすこと]に過ぎたらんか。

白菊の目に立てゝ見る塵もなし

 『句解大成』に曰く

「愚考、西上人[西行(さいぎょう)(1118-1190)。僧にして歌人。俵藤太(たわらとうた)の俗称で知られる藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)は、平将門追討の功により下野・武蔵の国司となったが、その子孫に当たる。従って北面の武士として活躍した武人だったが、1140年わずか23才で出家し、諸国を行脚した]
  曇りなき鏡の上にゐる塵(ちり)の
    目に立て見る世と思はゞや
この歌の反転なるべきにや」

 出所あるはむしろよけれど、白菊のただ白しとは言はで、消極的に「塵もなし」と言ひたるは、理窟に落ちていとつたなし。芭蕉は総て理窟的に作為する癖ありて、為に殺風景の句を見る事しばしばなり。

梅の木に猶やどり木や梅の花

 白菊の句と同じく、理窟に落ちては趣味少し。

枯朶に烏のとまりけり秋の暮

 この句を以て「幽玄の極意」「蕉風の神髄」と為す事、心得ぬ事なり。暮秋凄涼(せいりょう)[ぞっとするほどにもの寂しいようす、ものすごいようす]の光景、写し得て真ならずといふに非ず。一句の言ひ廻しあながちに悪しとにもあらねど、「古木寒鴉(こぼくかんあ)」の四字は漢学者流の熟語にて耳に口に馴れたるを、そのまま訳して「枯枝に烏とまる」とは芭蕉ならでも能く言ひ得べく、今更に珍らしからぬ心地すなり。但(ただ)し芭蕉の時に在てこの熟語この光景は、詩文に、画図に、未だ普通ならざりしものとすれば、更にこの句は価値を増して数等の上級に上らん。



 以上は、広く世に聞こえたる句の中にて、卑見を附したるなり。さまで名高からぬ句を取てこれを評せんには、『芭蕉家集』は殆んど駄句の掃溜(はきだめ)にやと思はるる程ならんかし。たとへば

二日にもぬかりはせじな花の春

叡慮(えいりょ)にて賑(にぎわ)ふ民(たみ)の庭竃(にわかまど)

人も見ぬ春や鏡のうらの梅

一(ひと)とせに一度つまるゝ菜づなかな

景清(かげきよ)も花見の座には七兵衛(しちびょうえ)

暫時(しばらく)は滝に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)

己(おの)が火を木々の螢(ほたる)や花の宿

世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗

五月雨(さみだれ)にかくれぬものや瀬多(せた)の橋

五月雨の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりどう)

目にかゝる時やことさら五月富士(さつきふじ)

文月(ふみづき)や六日も常の夜には似ず

あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉(かな)

の如き類(たぐ)ひ、枚挙にいとまあらず。拙(せつ)とやいはん、無風流とやいはん。芭蕉にして此等(これら)の句を作りしかと思ふだに、受け取り難き程なり。

佳句(かく)

[朗読4]
 さらば芭蕉は俳諧歴史上の豪傑にして、俳諧文学上には何等(なんら)の価値も無き人なるかといふに、決して然(しか)らず。余は千歳(せんざい)の名誉を荷(にな)はしむべき一点の、実に『芭蕉集』中に存するを認む。而(しか)してその句は僅々(きんきん)数首に過ぎざるなり。知らず、何等(なんら)の種類ぞ。

 美術・文学中、尤(もっと)も高尚なる種類に属して、しかも日本文学中、尤も之を欠ぐ(かぐ)[(=欠く)]者は、雄渾豪壮(ゆうこんごうそう)[「雄渾」は、雄大で勢いのよいさま「豪壮」は、勢力が盛んなさま、規模が大きくて立派なさま]といふ一要素なりとす。和歌にては『万葉集』以前、多少の雄壮(ゆうそう)[勇ましくて勢いのよいこと、勇ましく盛んなこと]なる者なきにあらねど、『古今集』以後(実朝一人を除きては)毫も之を見る事を得ず。真淵(まぶち)出でて後、やや万葉風を摸擬(もぎ)[他のものに真似ること]せりといへども、近世に下るに従つて纖巧細膩(せんこうさいじ)[「繊巧」は繊細でかつ巧みなこと「細膩」はきめ細かいこと]なるかたにのみ流れ、豪宕(ごうとう)[こころが大きく物事にこだわらないこと。豪放(ごうほう)]雄壮なる者に至りては、夢寐(むび)[眠って夢を見ること。その間]だに之を思はざるが如し。和歌者流、既(すで)に然り。更に無学なる俳諧者流の為す所、思ふべきのみ。而(しか)して松尾芭蕉は、独りこの間に在て、豪壮の気を蔵(おさ)め、雄渾の筆を揮(ふる)ひ、天地の大観を賦(ふ)し[詩などをつくる]、山水の勝概(しょうがい)[すぐれた景色、勝景(しょうけい)]を叙し、以て一世(いっせい)を驚かしたり。

 芭蕉以前の十七字詩(連歌、貞門、檀林)は、陳套(ちんとう)[古めかしいこと、古くさいこと]に属し、卑俗に墮ち、諧謔(かいぎゃく)[おどけておかしみを誘う言葉、たわむれ、こっけい]に失して、文学と称すべき価値なく、芭蕉以前の漢詩は、文辞(ぶんじ)[文章のことば、文章の字句(じく)、文詞(ぶんし)/文章を整えること、修辞(しゅうじ)]の間和習(わしゅう)[(=和臭)日本語による漢文でしばしば見られる、日本語の影響による癖や用法のこと]の厭(いと)ふべきあるのみならず、その観念もまた実に幼稚にして見るに堪(た)へず。芭蕉以前の和歌は、縁語(えんご)を尊び、譬喩(ひゆ)を重んじて、陳腐と陋俗(ろうぞく)[(=俗陋・ぞくろう)俗っぽく卑しいこと]との極に達し、而(しか)して真淵の古調は未だその萠芽(ほうが)[草木の芽の萌え出でること、芽生えること/物事のおこり、はじめ]をも見(あら)はすに及ばざりしなり。然らば即(すなわ)ち、芭蕉の勃興(ぼっこう)[にわかに勢力を盛んにすること]して貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)の間に一旗幟(いちきし)[「旗幟」は「旗とのぼり」の意味にして、「旗印」「表明するところの主張」などをあらわす]を樹(た)てたるは、独り俳諧の面目を一新したるに止まらずして、実に万葉以後、日本韻文学の面目を一新したるなり。况(いわ)んや雄健(ゆうけん)[勇ましくからだが強健なこと/健康であること]放大(ほうだい)[自由勝手なさまを表す「放題」と同様の意味か?]の処に至りては、芭蕉以前、絶えて之れ無きのみならず、芭蕉以後にもまた絶えて之れ無きをや。

[以下、主(あるじ)の書籍に補筆したるもの]

 平安朝以後、日本の文学(殊に韻文)は縁語、滑稽、理屈の範囲内に陥(おちい)りて、七、八百年の間毫もこの範囲外に超脱し、真成の文学的観念を発揮したる者なかりき。足利の末造(ばつぞう)[末になった世、末世、滅びそうな世]、徳川の初世(しょせい)に至りては文学の衰退その極に達し、和歌も、連歌も、俳諧も、和文も、漢詩・漢文も、愈愈(いよいよ)出でて愈愈拙なる者とはなりけらし。斯(か)く永久の間暗雲に鎖(とざ)されたる文運は、元禄以後に至りて漸くその光輝(こうき)を発たんとはせり。俳諧に松尾芭蕉出で、漢詩・漢文に物部徂徠(もののべそらい)[荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666-1728)]出で、和歌に鴨真淵(かものまぶち)[賀茂真淵(1697-1769)]出で、和文に平宣長(たいらのりなが)[本居宣長(もとおりのりなが)(1730-1801)]出で、以て各派の文学を中興し、始めて我国に真成の文学的観念あるを見るに至りしなり。(連歌はこの時より跡を絶ちぬ)而(しか)してこの数人のうち最初に出でて改善に着手し、第一にその功業を成したるは実に芭蕉となす。即(すなわ)ち日本文学の上に高尚超脱の文学的観念を始めて注入したる者は芭蕉なり。芭蕉、豈(あに)一個の俳家を以て目すべきものならんや。

 西鶴・巣林(そうりん)の作、もとより中興と称するに足る。然れども今日より見れば幼稚にして、不完全なるを免れず。芭蕉・徂徠・真淵等の著作の、今より見てなほ尊敬を表するに足る者とは、同日に論ずべからず。

雄壮なる句

 その雄壮豪宕(ゆうそうごうとう)なる句を示せば

夏草や兵(つはもの)どもが夢のあと

[原文『つはものどもの』中尊寺などの石碑にも『どもの』と記されている。ただし新聞「日本」掲載時には『どもが』となっていたのを、単行本で『どもの』となったものを、講談社全集が踏襲したもの]

 こは奥州高舘(たかだて)にて懐古(かいこ)[昔のことを懐かしく思うこと、懐旧(かいきゅう)]の作なり。無造作に詠み出だせる一句十七字の中に、千古(せんこ)[遠い昔、いにしえ/永遠]の興亡を説き、人世(じんせい)の栄枯(えいこ)[栄え衰えること]を示し、俯仰(ふぎょう)[俯(うつむ)くことと仰向(あおむ)くこと/立ち居振る舞い]感慨に堪へざる者あり。世人(せじん)あるいはこの句を以て平淡(へいたん)[あっさりとしていること、さっぱりとしていること]と為さん。その平淡と見ゆる所、即ちこの句の大なる所にして、人工をはなれ自然に近きが為のみ。

五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川(もがみがわ)

『句解大成』に曰く
「愚考、兼好法師(けんこうほうし)
  最上川はやくぞまさる雨雲の
    のぼれば下る五月雨の頃
の意を取給ふなり」云々。

 この歌より換骨奪胎(かんこつだったい)[骨を換え、胎(たい)すなわち「こぶくろ」あるいは「子宮」を奪うの意味から、「先人のアイディアや形式、文体を借用し、新味を加えて自らの作品を生み為すこと」]して「集めて早し」と言ひこなしたる。巧を弄(ろう)して却(かえっ)て繊柔(せんじゅう)[細くてやわらかいこと/か弱いこと]に落ちず、ただ雨余(うよ)[雨上がり]の大河滔々(とうとう)として、岩をも砕き、山をも劈(つんざ)かんずる勢を成すを見るのみ。兼好の作またこの一句に及ばず。况(いわ)んや凡俗の俳家者流、豈(あに)[「豈(あに)~推量」で「どうして~であろうか」という反語表現/「豈(あに)~打ち消し」で「決して~ない」という強い否定をあらわす]指をここに染むるを容(ゆる)さんや。

荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)

 越後の出雲崎(いずもざき)より佐渡を見渡したる景色なり。この句を取て一誦すれば、波濤(はとう)[大波、高波]澎湃(ほうはい)[水のみなぎり逆巻くさま、水の激しくぶつかり合うさま/物事が盛んで勢いのあるさま]、天水(てんすい)際涯(さいがい)[物事や土地や天などの限り、限界、果て]なく、唯一孤島のその間を点綴(てんてい・てんてつ)[点を打ったように程よく散らばっている様子]せる光景、眼前に彷彿(ほうふつ)[ありありと眼前に見えること、はっきりと心に浮かぶこと/よく似ていること/おぼろげであること]たるを見る。這般(しゃはん)の[これらの、といった意味]大観、銀河を以てこれに配するに非るよりは、焉んぞ[「焉んぞ~推量」で、「どうして~だろうか」という反語をあらわす]能く実際を写し得んや。『天門中断楚江開(てんもんちゅうだんしてそこうひらき)』[李白の『天門山を望む』]の詩はこの句の経(けい)にして、『飛流直下三千尺(ひりゅうちょっかさんぜんしゃく)』[李白の『廬山の瀑布を望む』]の詩はこの句の緯(けい)なり。思ふてここに到れば、誰れか芭蕉の大手腕に驚かざるものぞ。

 ある人曰(いは)く、「横たふ」とは語格(ごかく)[言葉遣いの規則。語法]叶(かな)はず、如何(いかが)。対(こた)へて曰く、語格の違(たが)ひたるは好むべからず。然れども韻文は散文に比してやや寛假(かんか)[(=寛仮)寛大に扱ってとがめないこと。大目に見てゆるすこと]すべし(第一)。語格相違の為に意義の不明瞭を来(きた)さざる者は寛假すべし(第二)。芭蕉の句中、この外にも

一声(ひとこえ)の江(え)に横たふや時鳥

[一句に二案あってそのうちの一方、最終的に
  郭公(ほととぎす)声横たふや水の上
が最終案]

と云ふ者あるを見れば、当時あるいはこの語格を許せしかも知れず。よしさなくとも、後世これに摸倣する者さへあるに、芭蕉は我より古(いにしえ)を成せしものとしてもよかるべし(第三)。

 兎に角(とにかく)、この一語を以てあたら[惜しむべき事に、もったいないことに]この全句を棄つるは余の忍びざる所なり。「二卵を以て干城の将を棄つ(にらんをもってかんじょうのしょうをすつ)」と、何ぞ択(えら)ばん[(これと)何の違いがあるだろうか]

[「二卵を以て~」(中国故事)王がこの男は役人時代に人民から一人あたり卵二つを徴収していたから採用すべきでないと述べたところ、孔子が人材登用は長所を以て行い、短所を捨てて採用すべし。わずか二卵を以て国家の武将を捨てることなかれ、と述べたという逸話]

五月雨の空吹(ふき)おとせ大井川

[原文は「雲吹き落とせ」。これは、各務支考(かがみしこう)編の『笈日記(おいにっき)』(1895年)によるもの。誤植とも、別案ともされる]

 連日の雨にさすがの大井川も水嵩(みずかさ)増して雨岸を浸したるさま、たうたうと物凄き瀬の音、耳にひびくやうなり。

ほとゝぎす大竹藪(おおたけやぶ)をもる月夜

[原文「大竹原」は、華雀編『芭蕉句選』によるものか]

 千竿(せんかん)の修竹(しゅうちく)[長く生長した竹のこと]、微風遠く度(わた)りて[(=渡りて)]一痕(いっこん)[ひと筋の痕跡]の新月、静かに青光を砕く。独(ひと)り満地(まんち)[地面の一面に満ちていること]の涼影を踏んで吟歩(ぎんぽ)[詩を吟じながら、あるいは作詩しながら歩くこと]する時、杜宇(ほととぎす)一声、二声、何処(いずこ)の山上よりか啼き過ぎて、雲外(うんがい)蹤(あと)を留めず。初夏清涼の意肌(いはだ)[鋳肌(いはだ)すなわち鋳物(いもの)の肌面を、人肌に置き換えたものか?]を襲ひ、骨に徹する[通る、貫く/徹底する]を覚ゆ。山を着けず、水を着けず、一個の竹篁(たかむら)[普通「竹叢」か「篁」で「たかむら」と読む。竹の群がっているところ。すなわち、竹藪(たけやぶ)]假(か)り[「假」は「仮」の異字だが、ここでは「借り」の意味]来つて、却(かえっ)て天地の廖廓(りょうかく)[(=寥廓)何ものもなく広々としていること/大空、天空]なるを見る。妙手(みょうしゅ)[もとは囲碁や将棋の予想もつかないほどのすばらしい手のこと/そこからすぐれて巧みな力量や能力のこと]々々。

桟(かけはし)やいのちをからむつたかづら

 岐岨(きそ)[(=木曾)]峰中(ほうちゅう)の桟橋絶壁に沿ひ、深渓(しんけい)に臨んで委蛇(いい)[くねくねと曲がっているさま]屈曲(くっきょく)す。足を欹(そばだ)てて幾橋を度(わた)り、立(たち)て後(うしろ)を顧(み)れば危巖(きがん)[(=危岩)けわしくそびえ立つ岩のこと]突兀(とっこつ)[高く突き出ているさま]として橋柱(きょうちゅう)落ちんと欲す。但(ただ)見る幾条の薜蘿(へいら)[かずらとつた、まとわりつくように生長する植物の総称]、彼(かれ)と此(これ)とを彌縫(びほう)[補い合わせること/失敗などを一時的に取りつくろうこと]して紅葉血を灑(そそ)ぐが如し。この句、雄壮の裏に悽楚(せいそ)[たまらなく悲しいこと]を含み、悽楚の裏に幽婉[優しくうつくしいこと、奥ゆかしくてうつくしいこと]を含む。またこれ一種の霊筆(れいひつ)。俗人、時に中七字の句法を称して、全体の姿致(しち)を見ず。即ち金箔(きんぱく)を拝して、仏体を見ざるの類(たぐい)なり。而(しか)してその実、中七字の巧を弄したるはこの句の欠点なり。

一笑を吊(とむら)ふ
塚も動け我泣(わがなく)声は秋の風

「如動古人墓(こじんのはかのうごくごとく)」といふ古句より脱胎(だったい)[他人の作った文や詩の意を取って、その形式や表現を変えること]したるにや。「我泣声は秋の風」と一気呵成(いっきかせい)に言ひ下したる処、夷(つね)の思ふ所に匪(あら)ず[漢文「匪夷所思」にて、夷(劣った異部族)の考えられることではない、といった意味らしい]。人丸の歌に「妹が門見む靡(なび)けこの山」と詠みしと同一の筆法なり。

秋風や籔(やぶ)も畠も不破の関

『新古今集』摂政太政大臣[九条良経(くじょうよしつね)(1169-1206)]の歌に

  人すまぬ不破の関屋の板庇(びさし)
    あれにしのちはたゞ秋の風

 これらより思ひよりたりとは見ゆるものから、「籔も畠も不破の関」と名所の古(いにしえ)を忍び、今を叙(の)べたる筆力、十七字の小天地、綽々(しゃくしゃく)[ゆったりと余裕のあるさま、こせこせしない様子]として余裕あるを見る。高舘(たかだて)の句は豪壮を以て勝り、この句は悲慘を以て勝る。好一対。

猪もともに吹(ふか)るゝ野分かな

 暴風山を揺(うご)かして、野猪(やちょ)吹きまくらるるさま、悲壮荒寒(こうかん)、筆紙(ひっし)[紙と筆、よって書き記すこと]に絶えたり。

吹(ふき)とばす石はあさまの野分哉(かな)

 浅間山の野分吹き荒れて、焼石(しょうせき)[火山による溶岩などの噴出したもの/単に焼けた石]空に翻(ひるがえ)るすさまじさ。意匠最妙(さいみょう)なりといへども「石は浅間の」とつづく処、多少の窮策(きゅうさく)を取る。白璧(はくへき)の微疵(びか)[白き宝玉にもわずかな傷のあるのたとえ/完璧の美のわずかに欠けたる欠点のたとえ]なり。



 滑稽(こっけい)と諧謔(かいぎゃく)とを以て生命としたる誹諧(はいかい)の世界に生れて、周囲の群動に制御瞞着(まんちゃく)[誤魔化すこと、あざむくこと]せられず、能(よ)く文学上の活眼(かつがん)を開き、一家の新機軸を出だし、これら老健(ろうけん)[老いてなお健康、健全のたとえ]雄邁(ゆうまい)[雄々しく優れていること]の俳句をものして嶄然(ざんぜん)[ひときわ抜きんでていること]頭角を現はせし芭蕉は、実に文学上の破天荒と謂(いい)つべし。然れども是(こ)れ、徒(いたずら)に一の創業者たるに止まるなり。後世に在てなほ之を摸倣する者出でざるに至りては、実に不思議なる事実にして、芭蕉をして二百年間ただ一人の名を負はしむる所以(ゆえん)ならずや。

 蕉門の弟子にして、しかもその力量に於ては決して芭蕉に劣らざるのみならず、往々その師を圧倒する者また多し。幾百の人材中、学識に於て才芸に於て、唯一と称せられたる晋子其角[しんしきかく][宝井其角(1661-1707)、晋子も其角も共に俳諧のための号で本名ではない]は如何(いかが)。古事・古語を取って之を掌上(しょうじょう)に丸め、難題を難(かたき)とせず、俗境を俗ならしめず、縦横に奔放(ほんぽう)[常識にとらわれず、自由気ままに振る舞うこと]し、自在に駆馳(くち)[馬などを走らせること]して、傍(かたわ)ら人無きが如きその人も、造化の秘蔵せる此等(これら)の大観に対しては、終(つい)に片言隻語(へんげんせきご)[ほんのかたことの言葉、わずかな言葉、一言半句(いちごんはんく)]のここに及ぶ者なし。

 十大弟子中、誠実第一なる向井去来(むかいきょらい)(1651-1704)は、神韻(しんいん)に於て、声調に於て、遥かに芭蕉に勝(まさ)りたり。而(しか)して彼は如何(いかが)。さすがに去来は一、二の豪壮なる句無きに非るも、また是(こ)れ、芭蕉に匹敵すべき者に非(あらざ)るなり。その他、嵐雪は如何。 丈草(じょうそう)は如何。許六(きょりく)・支考(しこう)は如何。凡兆(ぼんちょう)・尚白(しょうはく)は如何。正秀(まさひで)・乙州(おとくに)・李由(りゆう)は如何。此等(これら)の人、あるいは一、二句の豪壮なる者あらん。終(つい)に数句を有せざるべきなり。况(いわん)んやその他の小弟子をや。

 元禄以後、俳家の輩出して俳運の隆盛を極めたるは、明和・天明の間なりとす。白雄(しらお)は『寂栞(さびしおり)』を著して盛んに蕉風を唱道せりといへども、その神髄を以て幽玄の二字に帰し、終(つい)に豪壮雄健(ごうそうゆうけん)なる者を説かず。その作る所を見るも、句々繊巧を弄(ろう)し婉曲(えんきょく)を主とするのみにして、芭蕉の堂に上る事を得ず。蓼太(りょうた)は敏才(びんさい)と猾智(こうち)とを以て、一時天下の耳目(じもく)を聳動(しょうどう)[おどかし動かすこと、恐れて動揺すること「天下の耳目(じもく)を聳動する」でひとつのイディオム]せりといへども、もとよりその眼孔は針尖(しんせん)の如く小なりき。蕪村(ぶそん)、暁台(きょうたい)、闌更(らんこう)の三豪傑は、古来の蕉風外に出入して各一派を成せり。この三人の独得(どくとく)[(=独特)その人だけが持っている特色、その人だけが自得した能力]なる処は、芭蕉及びその門弟等が当時夢想にも知り得ざりし所にして、俳諧史上特筆大書すべき価値を有す。さればその俳句中には、雄健(ゆうけん)の筆(ひつ)を以て豪壮(ごうそう)の景(けい)を写したる者に匱(とぼ)しからず。然れども彼等(かれら)の壮は芭蕉の壮に及ばず、彼等の大は芭蕉の大に及ばざりき。文政以後、蒼[虫+《乙-一(おつにょう)》](そうきゅう)、梅室(ばいしつ)、鳳朗(ほうろう)の如き群蛙(ぐんあ)は、自ら好んで三尺の井中に棲息(せいそく)したる者。もとより與(とも)に大海を談ずべからず。是(ここ)に於てか、芭蕉は揚々(ようよう)として俳諧壇上を闊歩(かっぽ)[大股に歩くこと/威張って歩くこと、傍若無人に振る舞うこと]せり。吁々(ああ)、芭蕉以前已(すで)に芭蕉無く、芭蕉以後復(また)芭蕉無きなり。

各種の佳句

[朗読5]
 以上挙ぐる所の数句をして芭蕉一生の全集たらしむるも、なほ俳諧文学上第一流の作家として、永く芳名(ほうめい)[誉れある名前/お名前、他人の名前に対する尊敬語]を後世に伝ふるに足る。然れども芭蕉の技倆は決してここに止まらずして、種々の変態を為し、変調を学び、ありとあらゆる変化はことごとく之を自家「家集中」に収めんとせり。今ここに各種の句を示さんに

極めて自然なる者は、古池の句の外に

名月や池をめぐりて夜もすがら

の如きあり。幽玄なる者には

衰(おとろい)や歯に喰(くい)あてし海苔(のり)の砂

ほろ/\と山吹ちるか滝の音

うき我をさびしがらせよかんこ鳥

清滝(きよたき)や波に散込(ちりこむ)青松葉

菊の香やな良には古き仏達

冬籠りまたよりそはん此(この)はしら

人/\をしぐれよやどは寒くとも

繊巧(せんこう)なる者には

落ちざまに水こぼしけり花椿

[「角川ソフィア文庫」の『芭蕉全句集』には載らず]

青柳(あおやぎ)の泥にしたるゝ塩干(しおひ)かな

草の葉を落(おつ)るより飛(とぶ)螢哉

粽結(ちまきゆ)ふかた手にはさむ額髪(ひたいがみ)

日の道や葵(あおい)傾(かたむ)くさ月あめ

まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

行秋や手をひろげたる栗のいが

華麗なる者には

紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ

雪間より薄紫(うすむらさき)の芽独活(めうど)哉

木(こ)のもとに汁(しる)も鱠(なます)も桜かな

四方(しほう)より花咲入(ふきいれ)てにほの波

[北枝編による『卯辰集(うたつしゅう)』(1691年)には「鳰の海」とある。誤伝か別案か不明]

行末(ゆくすえ)は誰(た)が肌ふれん紅の花

[角川ソフィアには乗らず。各務支考(かがみしこう)編『西華集』(1699年)に芭蕉の作として掲載。偽作説有]

ひよろ/\と尚(なお)露けしやをみなへし

金屏の松の古さよ冬籠

[原文「松の古びや」は、各務支考(かがみしこう)編の『笈日記(おいにっき)』(1895年)による]

奇抜なる者には

鶯(うぐいす)や餅に糞(ふん)する椽(えん)の先

かげろふの我(わが)肩に立(たつ)かみこかな

呑(のみ)あけて花生(はないけ)にせん二升樽(にしょうだる)

鮎の子のしら魚(うお)送る別哉(わかれかな)

雲雀より空にやすらふ峠哉

[原文「上に休らふ」は『あら野』などの表記による]

啄木(きつつき)も庵(いお)はやぶらず夏木立

蛸壺やはかなき夢を夏の月

いながら一つに氷(こお)る海鼠(なまこ)哉

滑稽(こっけい)なる者には

猫の妻へつゐの崩(くづれ)よりかよひけり

田家(でんか)に有(あり)て
麦めしにやつるゝ恋か猫の妻

二月吉日とて是橘(ぜきつ)[其角の弟子]が剃髪(ていはつ)、入医門(いもんにいる)を賀す
はつむまに狐のそりし頭哉

葛城山(かずらきやま)
猶(なお)みたし花に明行(あけゆく)神の顔

あやめ生(おいけ)り軒の鰯(いわし)のされかうべ

秋之坊を幻住庵にとめて
わが宿は蚊のちいさきを馳走也(ちそうなり)

[原文「馳走かな」は原文詞書の記載のある『俳諧世説』によるものか?]

盤斎(ばんさい)[国学者加藤盤斎のこと]うしろ向の像
団扇(うちわ)もてあふがん人のうしろむき

[原文は「背中つき」、他にも「うしろつき」の書あり]

あら何共(なんとも)なやきのふは過(すぎ)て河豚汁(ふくとじる)

鳳来寺に詣る途にて
夜着(よぎ)一つ祈り出(いだ)して旅寐哉(たびねかな)

月花(つきはな)の愚(ぐ)に針たてん寒(かん)の入(いり)

温雅なる者には

山里は万歳(まんざい)おそし梅の花

御子良子(おこらご)の一(ひと)もとゆかし梅の花

[「おこらご」は伊勢神宮で神への供え物(神饌・しんせん)に関わる少女たちのこと]

かげろふや柴胡(さいこ)の糸の薄曇

[原文は「柴胡の原」とある。掲載された『猿蓑』意外にも説有りて、そこには「柴胡の原」表記がある。ここで「柴胡」は「おきなぐさ」のことで、花が実になるとひげを生やしたようになることからそう呼ばれる]

枯芝(かれしば)やかげろふのゝ枯芝やまだ陽炎の一二寸

春の夜は桜に明(あけ)けてしまひけり

古寺の桃に米ふむ男かな

[角川ソフィア文庫には載らず。ネット上、芭蕉の句としての紹介はなはだ少なし。ただ青梅市にある高源寺(曹洞宗)に、この句の芭蕉碑があるとの説明あるのみ。というか、こんな駄句は、芭蕉のものであっても廃止して欲しい也]

はらなかやものにもつかず啼(なく)ひばり

山吹や宇治の焙爐(ほいろ)の匂ふ時

[「焙爐(ほいろ)」は春の季語で、火を掛けた上に海苔やお茶、かいこなどを広げて乾燥させるための道具のこと]

木がくれて茶摘(ちゃつみ)も聞(きく)やほとゝぎす

閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声

秋ちかき心の寄(より)や四畳半

堅田(かただ)にて
病雁(びょうがん/やむかり)の夜(よ)さむに落(おち)て旅ね哉

三井寺(みいでら)の門(もん)たゝかばやけふの月

旅人と我名(わがな)よばれん初(はつ)しぐれ

しぐるゝや田の新株(あらかぶ)の黒むほど

雪ちるや穗屋(ほや)の薄(すすき)の刈(かり)残し

等の句あり。芭蕉は一生の半(なかば)を旅中に送りたれば、その俳句また羈旅(きりょ)の実况を写して一誦三嘆(いっしょうさんたん)[ひとたび呼んで三度も感嘆を禁じ得ないほどの作品を褒める言葉]せしむる者あり。

一つぬひで後(うしろ)に負(おい)ぬ衣がへ

蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと

旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る

寒けれど二人寐(ぬ)る夜ぞ頼もしき

[原文には「二人旅寢ぞ」とある。これは真蹟懐紙(しんせきかいし)などに記されている]

冬の日や馬上に氷る影法師

[原文には「すくみ行く」とある。これは『笈日記』による。他にも初案「寒き田や」、再案「冬の田の」などあり、上五の動かぬまでに試行錯誤在りしことを疑わせる]

住(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵(おきごたつ)

いかめしき音や霰(あられ)の檜木笠(ひのきがさ)

年暮(くれ)ぬ笠きて草鞋(わらじ)はきながら

旅寐(たびね)してみしや浮世の煤はらひ

やや狂せる者には

不性(ぶしょう)さやかき起されし春の雨

君火をたけよきもの見せむ雪まるげ

市人(いちびと)よ此笠(このかさ)うらふ雪の傘

[原文には「市人にいでこれ売らん」とある。『笈日記』には「いで是(これ)うらん笠の雪」とありこれが初案らしい]

面白し雪にやならん冬の雨

格調の変化せる者も多き中に、字余りの句には

明(あけ)ぼのやしら魚しろきこと一寸(いっすん)

つゝじいけて其陰(そのかげ)に干鱈(ひだら)さく女

行春にわかの浦にて追付(おいつき)たり

帰庵
夏衣(なつごろも)いまだ虱(しらみ)をとりつくさず

水鷄(くいな)啼(なく)と人のいへばや佐屋泊(さやどまり)

芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞夜哉(きくよかな)

西行谷
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

その外、格調の新奇なる者には

[原文ここに、
「苣摘(ちさつ)んで貧なる女機による」
の句あり。かつて芭蕉の句とされていたものか?不明]

乙州餞別(おとくにせんべつ)
梅若菜まりこの宿(しゅく)のとろゝ汁

奈良七重(ななえ)七堂(しちどう)伽藍(がらん)八重ざくら

はなのくもかなはうへのかあさくさか

関守(せきもり)の宿をくいなにとをふもの

[原文には「とふものを」とあり]

ひるがほに昼寐せうもの床(とこ)の山

かくれ家(が)や月と菊とに田三反(さんたん)

おくられつおくりつはては木曾の秋

蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ

さればこそあれたきまゝの霜の宿

かくれけり師走の海のかいつぶり

[「かいつぶり」は、カイツブリ目カイツブリ科の水鳥。「鳰(にお)」「鳰鳥」などと呼ばれる。湖や池や河川に小型の鴨みたいに浮かんでいやがるのに、さっと水に潜って餌を取り異なる所から顔を出す。そんな夏の鳥]

 格調に於て芭蕉の変化せる、此(かく)の如(ごと)し。されば後世に至りて、蕪村・暁台・一茶等が少しく新調を詠み出でし外は、毫も芭蕉の範囲外に出づる者あらざりき。

 豪壮に非ず、華麗に非ず、奇抜なるにも非ず、滑稽なるにも非ず、はた格調の新奇なるにも非ず、ただ一瑣事(さじ)一微物(びぶつ)を取り、その実景・実情(じつじょう)をありのままに言ひ放して、なほ幾多の趣味を含む者には

五月雨や色紙へぎたる壁の跡

[「へぎたる」は「削り取った、はがした」という意味]

さゞれ蟹足はひのぼる清水哉

海士(あま)の家(や)は小海老にまじるいとゞ哉

[原文には「海士が家は」とある]

びいと啼(なく)尻声(しりごえ)かなし夜の鹿

[原文には「ひいと鳴く」とある]

まつ茸やしらぬ木(こ)の葉のへばりつく

橙や伊勢の白子の店ざらし

[角川ソフィア文庫には無し。三重県鈴鹿市西方寺の石碑に彫られているもの]

行秋のなをたのもしや青蜜柑(あおみかん)

鞍壺(くらつぼ)に小坊主乗るや大根引

塩鯛(しおだい)の歯ぐきも寒し魚(うお)の棚(たな)

の如きあり。なほ此等(これら)の外にも

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな

ほとゝぎす啼(なく)や五尺の菖草(あやめぐさ)

不卜(ふぼく)一周忌
杜鵑(ほととぎす)鳴音(なくね)や古き硯(すずり)ばこ

[岡村不卜(おかむらふぼく)(1632-1691)芭蕉と交際のあった俳人]

やどりせむあかざの杖になる日まで

いなづまや闇の方行(かたゆく)五位の声

[「五位」は五位鷺(ごいさぎ)のこと。醍醐天皇(在位897-930)に従い五位を与えられたという平家物語の記述が、その名称の由来のようだ]

蔦(つた)植て竹四五本のあらし哉

菊の香やならは幾代(いくよ)の男ぶり

義朝の心に似たり秋の風

[源義朝(みなもとのよしとも)(1123-1160)、源頼朝や源義経らの父親で、平治の乱で破れ、敗走するところを味方に裏切られ無念の死を遂げた]

馬かたはしらじしぐれの大井川

御命講(おめいこう)や油のやうな酒五升(ごしょう)

[御命講、あるいは御会式(おえしき)とは、日蓮の忌日に合わせて10月12、13日に行う法会のこと。秋の季語にもなっている]

振売(ふりうり)の雁(がん)あはれ也(なり)ゑびす講(こう)

[(ウィキペディアより部分引用)
神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神、ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する。地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある。えびす祭やえべっさんとも言われる。]

ともかくもならでや雪のかれ尾花

から/\と折ふし凄し竹の霜

[芭蕉の真作か疑わしい句の一つ]

ある人の追善に
埋火もきゆやなみだの烹(にゆ)る音

雁(かり)さはぐ鳥羽(とば)の田づらや寒の雨

石山の石にたばしるあられ哉

旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣(なく)としの暮

等あり。

 之を要するに、豪壮勁抜(けいばつ)[強くて抜きんでて優れていること]なる者は芭蕉の独得(どくとく)[(=独特)]にして、他人の鼾睡(かんすい)を容れず[「臥榻(がとう)の側(かたわら)、豈(あに)他人の鼾睡(かんすい)を容(い)れんや」という十八史略に見られる言葉を踏まえたもの。自分の寝台のかたわらにいびきを掻いて眠ることを許さないという意味で、宗の太祖が休戦の申し入れに対して、休戦など許さんと言ったもの。「鼾睡」はいびきを掻いて眠るの意味]。綺麗なる者、軽快なる者、幽玄なる者、古雅なる者、新奇なる者、変調なる者等に至りては、門輩または後生(こうせい)にして芭蕉に凌駕する者無きに非ずといへども、皆その長ずる所の一方に偏するのみ。

 例へば、其角に奇警なる句有て穏雅なる者無く、去来に穏雅なる句有て奇警なる者無きが如し。而(しか)して百種の変化(拙劣なる者をも合して)ことごとく之を一人に該(か)ぬる者は、実に芭蕉その人あるのみ。けだし常人の観念に於て、両々全く相反し到底並立すべからざるが如き者も、偉人の頭脳中に在ては能(よ)く之を包容混和(こんわ)[よく混じり合うこと]して、相戻る無きを得るが為(ため)なり。

或問(あるとい)

[朗読6]
 ある人曰(いわ)く、芭蕉集中、好句その「五分の一」を占めなば、以て多しとするに足らずやと。

 答へて曰く、本論中「好句」と言ひしは「悪句」に対する名称なるを以つて、僅(わず)かに可なるより以上を言ふのみ。あながち金科玉条の謂(いい)[~という意味、~ということ]に非らず。故にこの標準を以つて論ずれば、元禄の俳家は各「二分の一」乃至(ないし)「三分の一」の「好句」を有すべし。「五分の一」といふが如きは決して他に例あらざるなり。

ある人曰く、『芭蕉雑談』を著(あら)はし蕉翁(しょうおう)の俳句を評し、而(しか)してその名篇を抹殺し去り、その名誉を毀損(きそん)し了(りょう)す[終わる、終了する/了解する]。これ俳諧の罪人にして、蕉翁に不忠ならずやと。

答へて曰く、芭蕉を神とし、その句を神詠(しんえい)[神が詠んだ和歌]とし、俳諧と芭蕉とは二物一体なる者と説けるかの芭蕉宗信者より言へば、この論あるいは神威を冒涜(ぼうとく)したる者あらん。然れども芭蕉を文学者とし、俳句を文学とし、之を評するに文学的眼孔(がんこう)[眼球の納まっている部分のこと。眼窩(がんか)/転じて、見識の広さの範囲のこと]を以てせば、則ち此(かく)の如きのみ。加之(しかのみならず)、彼等信者は好句と悪句とを混同して、之を平等ならしめんと欲する者なれば、その佳句に対する尊敬は却(かえっ)てこの論よりも少き道理なり。これをしも[「誰も」→「誰しも」と同様、「これをも」を強調した言い方]不忠と言はずんば、何をか不忠と言はん。况(いわ)んや佳句を埋没して悪句を称揚する者、滔々(とうとう)[水のさかんに流れるさま/弁舌の淀みないさま/一方方向に向かうさま]たる天下皆然り。芭蕉、豈(あに)[「豈(あに)~推量」で「どうして~であろうか」という反語表現/「豈(あに)~打ち消し」で「決して~ない」という強い否定をあらわす]彼等の尊敬を得て喜ぶ者ならんや。

ある人曰く、俳諧の正味は俳諧連歌に在り。発句は則ちその一小部分のみ。故に芭蕉を論ずるは発句に於てせずして、連俳(れんぱい)[俳諧連歌のこと/連歌と俳諧(俳諧連歌)のこと]に於てせざるべからず。芭蕉もまた、自ら発句を以て誇らず、連俳を以て誇りしに非ずやと。

答へて曰く、発句は文学なり、連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳もとより文学の分子を有せざるに非らずといへども、文学以外の分子をも併有(へいゆう)するなり。而(しか)してその文学の分子のみを論ぜんには、発句を以て足れりとなす。

ある人また曰く、文学以外の分子とは何ぞ。

答へて曰く、連俳に貴ぶ所は「変化」なり。「変化」は則ち文学以外の分子なり。けだしこの変化なる者は、終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして、全く前後相串聯(かんれん)[(=関連)]せざる、急遽(きゅうきょ)條忽(しゅくこつ)[急遽同様、極めて短時間のさま、たちまち]の変化なればなり。例へば「歌仙行(かせんこう)」は三十六首の俳諧歌を並べたると異ならずして、ただ両首の間に同一の上半句もしくは下半句を有するのみ。

ある人また曰く、意義一貫せざる三十六首の俳諧歌を並べたるにもせよ、その変化は即ち造化の変化と同じく、茫然漠然(ぼうぜんばくぜん)[「茫然」も「漠然」も、とりとめもないさま。ぼんやりとしてつかみ所のないさま]たる間に、多少の趣味を有するに非ずやと。

答へて曰く、然り。然れども此(かく)の如き変化は、普通の和歌または俳句を三十六首列記せると同じ。特に連俳の上に限れるに非ず。即ち上半または下半を共有するは連俳の特質にして、感情よりも智識に属する者多し。芭蕉は発句よりも連俳に長じたる事真実なりといへども、これ偶(たまたま)芭蕉に智識多き事を証するのみ。その門人中、発句は芭蕉に勝(まさ)れて連俳は遠く之に及ばざる者多きも、則(すなわ)ちその文学的感情に於て芭蕉より発達したるも、智識的変化に於て芭蕉に劣りたるが為なり。

鶏声馬蹄(けいせいばてい)

 羇旅(きりょ)[(or 羈旅)旅のこと/旅に関する和歌を詠った羇旅歌(きりょか)のこと]を以て家とし、鶏声(けいせい)馬蹄(ばてい)の間に一生を消尽(しょうじん)[使い尽くすこと、使い切ること]せし文学者三人あり。曰(いわ)く「西行」(和歌)、曰く「宗祇(そうぎ)」(連歌)、曰く「芭蕉」(俳諧)これなり。

 西行(1118-1190)は文治六年(今明治二十七年を距《へだて》る事七百四年前)二月十六日、旅中に歿(ぼっ)す。享年七十三。宗祇(1421-1502)は文亀(ぶんき)二年(今を距る事三百九十二年前)七月三十日、旅中駿相(すんそう)[駿河(するが)と相模(さがみ)]の境(さかい)に到りて歿(ぼっ)す、享年八十二。芭蕉(1644-1694)は元禄七年(今を距る事二百年前)十月十二日、旅中大阪花屋に於て歿す。享年五十一。西行以後、大約(たいやく)[おおよそ、大概]三百年にして宗祇出で、宗祇以後大約二百年にして芭蕉出づ。前身か後身か、自ら默契(もっけい)[暗黙のうちに相互の意見が一致すること。また、そのように生まれた約束]ある者の如し。太奇(はなはだきなり)。

 西行は歌人として天下を漂泊したる故に、その歌に名所舊蹟(きゅうせき)[(=旧跡)歴史的価値のある場所]を詠ずる者多く、芭蕉は俳人として東西に流浪したる故に、その句に勝景(しょうけい)[すぐれた風景]旅情を叙するもの多し。独(ひと)り宗祇は連歌を以て主としたる故に、旅中の発句少(すくな)し。けだし連歌は前後相連続する事をのみ務め、目前の風光を取(とり)て材料と為し難きが為(ため)なり。我、宗祇の為に惜む。

 西行はもと北面の武士にして、一転して三衣を着たる漂泊的歌人となり。芭蕉はもと藤堂の藩士にして、一転して剃髪(ていはつ)したる漂泊的俳人となる。その境涯に於(おい)て、気概(きがい)に於て、両者甚(はなは)だ相似たり。是(ここ)に於てか、芭蕉は西行を崇拝せり。(あるいは云ふ、その筆蹟もまた西行を学びたりと)芭蕉集中、西行または西行の歌に拠(よ)りたる作に

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

西行の庵(いおり)もあらん花の庭

[原文には「花の奥」とある。別稿か、あるいは誤謬か]

露とく/\心みに浮世すゝがばや

[西行の和歌と伝えられた
  「とくとくと落つる岩間の苔清水
    くみほす程もなき住居哉」
を踏まえたもの]

蠣(かき)よりは海苔をば老(おい)の売(うり)もせで

[西行の歌集である『山家集(さんかしゅう)』の
  「同じくは牡蠣(かき)をぞ刺して乾しもすべき
     蛤(はまぐり)よりは名も便りあり」
を踏まえたもの]

西行の草鞋(わらじ)もかゝれ松の露

西行上人像賛
すてはてて身はなきものとおもへども
雪のふる日はさぶくこそあれ
 「花のふる日はうかれこそすれ」

[西行の和歌(と信じられていた)「すてはてて身はなきものとおもへども雪のふる日はさぶくこそあれ」に対して「花のふる日はうかれこそすれ」と附けたもの]

の如き作あり。『山家集(さんかしゅう)』[西行の和歌を収めた歌集]一部は、常に半肩(はんかた)[一方の肩の意味]行李(こうり)[旅行用に荷物を収めるための道具]を離れざりし芭蕉の珍宝にして、芭蕉を惜む句にも

あはれさやしぐるゝ頃の山家集
  山口素堂(1642-1716)

といへるあり。またその遺言中にも「心は杜子美(としび)[唐の詩人である杜甫のこと]が老を思ひ、寂は西上人[(=西行)]の道心を慕ひ」云々、といひたるを見れば、以て西行に対する芭蕉の尊信(そんしん)[尊びかつ信頼すること、あるいは信仰すること]を知るに足るべし。



 芭蕉また西行につヾきては、宗祇(そうぎ)をも慕へり。

世にふるもさらに時雨の宿りかな
  宗祇(1421-1502)

[原文には「世にふるも」]

とは宗祇が信州旅中の述懐(じゅっかい)[こころに思うことを書き連ねること]なり。芭蕉また手づから雨の佗び笠(わびがさ)を張りて

世にふるもさらに宗祇のやどり哉

[原文には「世にふるはさらに宗祇のしぐれかな」とある。これは初案らしい]

と吟じたるが如き、自ら顧りみて宗祇の身の上に似たるを思へば、万感攅(あつ)まり[(=集まり)]来(きた)りてこの句を成したる者なるべし。芭蕉死後、かつて漂泊の境涯に安んじたる俳人を見ず。その意思に於て蕪村やや之に近しといへども、芭蕉の如く山河を跋渉(ばっしょう)[(詩経より)山を越え川を渡ること。そこから、各地を遍歴すること]し天然を楽みたる者に非ざるなり。その句に曰く

笠(からかさ)着て草鞋(ぞうり)はきながら
芭蕉去てそのゝちいまだ年くれず
  与謝蕪村(1716-1783)

[芭蕉の「野ざらし紀行」のなかの 
「年暮ぬ笠きて草鞋(わらじ)はきながら」
を踏まえる]

著書

 芭蕉は一部の書を著(あら)はせしことなし。然れども門人が芭蕉を奉じて著述せる者は枚挙にいとまあらず。恰(あたか)も釈迦(しゃか)・孔子(こうし)・耶蘇(やそ)等が、自ら書を著(あら)はさずして、弟子の経典を編集せるに同じ。時の古今、地の東西を問はず、大名(たいめい)[高名、高い名声]を成すの人、自らその揆を一にす[(=軌を一にする)立場などを同じくする]

『俳諧七部集』といふ書あり。最遍く[「もっとも遍(あまね)く」で良いか? 「遍く」は「広く」「すべてに渡って」などの意味]坊間(ぼうかん)[世間、まちなか]に行はる。板行(はんこう)[木版刷りで本を刊行すること、また刊行された本のこと]の書、また五、六種よりなほ多かるべし。この書は
「冬の日」「春の日」「ひさご」「あら野」「猿蓑(さるみの)」「炭俵(すみだわら)」「続猿蓑」
の七部を合巻となしたる者にて、安永(あんえい)の頃[1772年から1781年に掛けての元号]より始まりし事にや。その後、寛政(かんせい)・享和(きょうわ)の頃、『続七部集』及び『七部集拾遺(しゅうい)』出で、文政十一年に『新七部集』を出だせり。その外、天明以後には
『其角七部集』『蕪村七部集』『樗良(ちょら)七部集』『暁台(きょうたい)七部集』『枇杷園(びわえん)七部集』[井上士朗(いのうえしろう)(1742-1812)著]『道彦七部集』[鈴木道彦(すずきみちひこ)(1757-1819)著]『乙二七部集』[岩間乙二(いわまおつに)(1756-1823)]『今七部集』[冬至庵庚年(とうじあんこうねん)著『俳諧今七部集』]
等続々出でたれば、此等(これら)に対して『俳諧七部集』を『芭蕉七部集』とも言ふべきか。

 専(もっぱ)ら芭蕉に関せる事のみを記せし書籍、また甚だ多し。
『泊船集(はくせんしゅう)』(元禄十一年)』
[1698年に刊行された芭蕉句集。伊藤風国(いとうふうこく)(?-1701)編により574句を収録する]
『芭蕉句選』
[華雀(かじゃく)編。1739年刊行、637句を収録]
は俳句を集めたる者にして、
『芭蕉翁文集』
『芭蕉翁誹諧集』(安永五年)
[共に芭蕉中興の祖とされる蝶夢(ちょうむ)(1732-1796)という僧・俳人の手による]
は文章と連俳とを集めたる者なり。
『翁反古』(天明三年大蟻編)
[松岡大蟻編、1811年刊行。芭蕉にまつわる手記や手紙を集めたものだが、自筆手紙などは偽書である]
は芭蕉自筆の短冊によりて世に伝はらざる俳句を記載し、
『芭蕉袖草紙(ばしょうそでぞうし)』(文化八年奇淵校)
[花屋庵(はなやあん)こと菅沼奇淵(すがぬまきえん)(1765-1834)編。1811年]
は、主として芭蕉の連俳を蒐(あつ)めたり。

『俳諧一葉集』九冊(文政十年)
[古学庵(こがくあん)こと仏兮(ぶっけい)、幻窓湖中(げんそうこちゅう)による。発句1083を集録するなどして、1827年に刊行]
は芭蕉の全集にて、俳句・連俳・文章は勿論(もちろん)、その消息より一言一行、総て芭蕉に関したる記録を網羅(もうら)し尽せり。全集とは言へ、かく完全に一個人を尽したる者は、他邦にも余りその例を聞かざる所なり。然れども考証の疎漏(そろう)は単に多きを貪(むさぼ)りて、芭蕉の作ならぬ俳句をも交へ記したるは遺憾(いかん)といふべし。

『芭蕉翁句解大成』(文政九年)
[月院社こと小沢何丸(おざわなにまる)(1761-1837)による『芭蕉翁句解参考』のこと。1827年刊行]
は俳句の注釈にして、
『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』(安永七年)
[蓑笠庵(さりゅうあん)こと高橋梨一(りいち)の識した「奥の細道」に対する注釈書]
は奥の細道を注釈したるなり。然れども注釈は、往々牽強附会(けんきょうふかい)[自分に都合のよいように理屈をこじつけること]に失して精確ならず。

  芭蕉の伝記に関する書目は時に之を見るといへども、その書は甚だ稀なり。『芭蕉翁絵詞伝』(寛政五年蝶夢編)『芭蕉翁正伝』(寛政十年竹二編)など、やや普通なれど尤(もっと)も疎雑なり。近者(きんしゃ)[近くのもの/近頃]宗周なる人の編める『芭蕉伝』といふ写本を見たり。編年体にして詳細を極む。板本(はんもと)の有無これを知らず。この外『芭蕉翁行状記』(路通著)等諸書あれども、未だ之を見るを得ず。この外芭蕉の筆蹟を刊行したる書あり。

 ここに一奇書あり。題して『芭蕉翁反古文』と云ふ。(大蟻の編める『翁反古』とは別物なり)あるいは『芭蕉談花屋実記』とも『花屋日記』とも云ふ。芭蕉終焉の日記なり。(其角の書ける終焉記はこの日記などに拠りて作る)こは元禄七年九月二十一日に起りて、芭蕉没後の葬式・遺物の顛末(てんまつ)にまで及べり。惟然(いぜん)、次郎兵衛(じろべえ)[寿貞(じゅてい)という女性の息子。芭蕉との間の子であるという説もある]、支考(しこう)、去来(きょらい)等、病牀(びょうしょう)[病人の寝床のこと]に侍(じ)し代る代るに記したる者にして、芭蕉の容体(ようだい・ようたい)・言行より門人の吟詠、知人の訪問等まで、一々に書きつけて漏らす事なし。一読すれば即ち偉人が最期の行状(ぎょうじょう)[日々のおこない/死者の生前の業績などを記したもの]、目を覩るが如し。実に世界の一大奇書なり。而(しか)してこの書、始めて梓(し)[印刷のために文字などを彫った版木(はんぎ)のこと]に上りたるは文化七年ならんか。芭蕉死後百数十年間、人の篋底(きょうてい)[(=筐底)箱の底、箱のなかのこと]にありて能(よ)く保存せられたるは、我等の幸福にして芭蕉の名誉なり。

[今日『花屋日記』は僧にして俳人であった藁井文暁(わらいぶんぎょう)(1735-1816)の創作であるとされている。この書は1811年刊行の時は『芭蕉翁反古文(ばしょうおうほごぶみ)』であったが、天保年間に再版されるに際して『花屋日記』と命名された。関係ないが、『バッハの思い出』と称するフィクションも、日本では本当にバッハの妻(アンナ・マグダレーナ)が記したものと信じて、それをもとに書籍を記す愚かな音楽学者まで存在したという。笑い事では済まされないのである。別に子規を非難している訳ではない、実は学生時代に読んだときは、わたし自身これを信じてしまって、しかもそれはわたしの先生が信じていたためであったことを、ふと思い出したからである。気がつけば遠くへ来たもんだ。なぜ俳諧などに足を突っ込んでいるのやら……とほほ]

元禄時代

[朗読7]
 近年に至りて元禄文学なる新熟語出来たり。ある人の如く、これを以て単に西鶴の小説を指せる者と為さずして、元禄一般の文学を含む者と為さば、最も便利なる言葉なり。徳川の天下漸(ようや)く基礎を固めて、四海泰平(たいへい)[(=太平)世が平和で穏やかなこと]を謳(うた)ひ初めたる元禄時代は、実に徳川文学の将(まさ)に蕾(つぼみ)を発(ひら)かんとするの時期なりき。

 この時期に際して、文学上の三偉人は天命を受けて突然下界に降り来れり。三偉人は殆んど一様の年齡を以て世に出で、しかも各相反せる方角に向つてその驥足(きそく)[すぐれた才能、すぐれた能力、俊才]を伸ばしぬ。三偉人とは誰ぞ。曰(いわ)く、井原西鶴(いはらさいかく)(1642-1693)。曰く、近松巣林(ちかまつそうりん)(1653-1724)[(=近松門左衛門・ちかまつもんざえもん)]。曰く、松尾芭蕉(まつおばしょう)(1644-1694)。是(これ)なり。ある年表はこの三偉人を以て、同じく共に寛永十九年に生れたりと記せしは誤れり。然れども西鶴と巣林は寛永十九年に生れ、芭蕉は正保元年に生れ、その間僅かに二年を隔てたるもまた奇ならずや。(一説には巣林子を以て、承応二年の出生とす)

 西鶴は一種の小説を創開(そうかい)[初めて開くこと]せり。御伽草子(おとぎぞうし)の簡樸(かんぼく)と小理想とに倣はず、赤本(あかほん)・金平本(きんぴらぼん)の荒唐と乳臭(にゅうしゅう)とを学ばず。目観る所、耳聞く所のままを写し出だすに、奇警(きけい)なる文辞(ぶんじ)と簡便(かんべん)なる語法とを以てせり。その記する所、卑猥なるは甚だ惜むべしといへども、しかも『源氏物語』以来始めて人情を模写(もしゃ)せんと力(つと)めたるは西鶴ならずや。八文字舎[八文字屋(はちもんじや)こと安藤自笑(あんどうじしょう)(?-1745)浮世草子の作者。また出版物の版元]の為に法門を開きたるもまた西鶴ならずや。小説界の西鶴に受くる所、また多しと謂ふべし。

 巣林子もまた一種の演劇を創開せり。能楽の古雅(こが)、以て普通一般の好尚(こうしょう)[このみ、嗜好(しこう)/流行、はやり]に適する能はず。金平本の脚色、稚気(ちき)[子供っぽい様子]多くして、長く世人(せじん)の耳目(じもく)を楽ましむるに足らず。乃(すなわ)ち彼と此とを折衷(せっちゅう)し、敏瞻(びんせん?)[敏捷に眺めの意味か?]流暢の文字を以て世間の状態人生の情を写し、之を傀儡(かいらい)[人形のこと、ここでは近松の行っていた人形浄瑠璃をも踏まえたもの]に託したり。錯雑(さくざつ)なる宇宙の粉本(ふんぽん)[絵の下書、また後日のために学習・参考に模写された絵のこと]を作りて、舞台の上に活動せしめたる者、実に是(こ)れ近松の功なり。

 芭蕉もまた、一種の韵文[(=韻文・いんぶん)]と散文とを創開して後生(こうせい)を導けり。その散文は、韻文の如く盛(さかん)ならざりきといへども『風俗文選(ふうぞくもんぜん)』[森川許六(もりかわきょりく)(1656-1715)編纂。芭蕉および蕉門による俳文集。当初の名称は『本朝文選』。1706年刊行]『鶉衣(うずらころも)』[横井也有(よこいやゆう)(172-1783)による俳文集]の如きは、『俳文』と称して雅文・軍書文・浄瑠璃文の外に一派を成したり。平賀源内(ひらがげんない)(1728-1779)[蘭学者、医学者などで知られるが浄瑠璃、その他の作者としても活躍した]及び天明以後の狂文(きょうぶん)[狂歌のおこりに合わせて生まれた諧謔や風刺をもっぱらとする文体]もまた、間接に俳文の影響を受けたるに非るを得んや。

 此(かく)の如くして、三偉人は殆んど同時に出でて、三方に馳駆せり。その著作に就て精細に吟味しなば、もとより多少の疵瑕(しか)[(体の傷と、宝玉の傷の意味)欠点、あやまち、あるいは人を誹謗して傷つけること]あるべけれども、三人はことごとく是(こ)れその各派の創業者たる事を忘るべからざるなり。殊(こと)に最も注意すべき一点あり。そは三人共に、従来の荒唐無稽なる空想と質素冗長なる古文との範囲外に出でて、実際の人情を写し、平民的の俗語を用ゐたることなり。三人各々(おのおの)声を異にして、色を同じうす。末は則ち分れて、本は則ち一(ひとつ)なり。是(ここ)に於てか「元禄文学」在り。

俳文

 三偉人の内、近松は世に出づる時やや後れたり。西鶴と芭蕉とは殆んど同時に名を揚げ、同時に歿(ぼっ)し、従つてその文章もまた甚だ相似たる所あり。その似たる所は、共に古文法を破りて簡短を尚び、成るべく無用の語を省きたるに在り。その異なる所は、西鶴は多く俗語を用ひ、芭蕉は多く漢語を用ゐたるに在るなり。

 芭蕉の文は長明の文、謠曲の文より出でて、更に一機軸を出だしたる者なり。昔より漢文は漢文、邦文は邦文として全く特別の物に属し、同一の人にして全く二様の文を作る事あり。長明(ちょうめい)[鴨長明(かものちょうめい)(1155-1216)1212年に記された『方丈記』は、和漢混淆文の初期の名文とされ、歌人としてもすぐれた作品を残している]ややこの両者を調和し、『太平記』更に之を調和し、「謠曲」また更にその歩を進めたりといへども、要するに漢語を用うる事の多きのみにして、その句法の上には古代の邦文と非情の差あるに非ず。然るに芭蕉の文は、単に漢語を使用したるのみならず、一句一章の結構(けっこう)[ここでは「構えつくり」の意味]に於て、また多く漢文の臭味を雑(まじ)へたり。(更に適当なる語を用ゐば、元禄の臭味を帯びたり)而(しか)してその記する所は天然の風光に非ざれば、則ち自己の理想、殊に老仏の出世間的観念を多しとす。その例を挙ぐれば、『野ざらし紀行』(貞享元年)の冐頭に

千里に旅立て、路粮(みちかて)をつつまず、三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)に入るといひけん。昔の人の杖にすがりて、貞享(じょうきょう)甲子(きのえね)秋八月、江上の破屋(はおく)を立いづる程、風の声そぞろ寒げなり。

と記せるが如き。一読して古代の邦文と全くその句法を異にするを見るべし。『鹿島紀行』(貞享二年)の初めに

(略)伴(ともな)ふ人ふたり、一人は浪客(ろうかく)[定職を持たない者]の士、ひとりは水雲(すいうん)の僧。僧は鴉(からす)の如くなる墨(すみ)の衣(ころも)に、三衣(さんえ)の袋(ふくろ)を衿(えり)に打かけ、出山(しゅっさん)の尊像(そんぞう)を厨子(ずし)にあがめ入(いれ)てうしろに背負(せおい)、柱杖(ちゅうじょう)曳(ひき)ならして無門(むもん)の関(かん)もさはるものなく、あめつちに独歩(どっぽ)して出(いで)ぬ。今ひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間(かん)に名をかうぶり[「かうぶり」は蝙蝠(こうもり)のこと]の、鳥なき島にもわたりぬべくて、門より船に乗て、行徳(ぎょうとく)といふ処にいたる

もし普通の文章ならば少くとも

「伴ふ人二人あり、一人は浪客の士(にて)一人は水雲の僧なり

と書かざるべからず。然れども元禄以後は一般に文章の簡単を尚びしかば、芭蕉もまた自らこの句法を用ゐし者なるべし。その他真面目の語を以て時に諧謔(かいぎゃく)の意を寓する処、是(これ)れ所謂(いわゆる)俳文の胚胎(はいたい)[身ごもること/生まれきざすこと]せるを見る。『笈(おい)の小文(こぶみ)』の首に

百骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)の中に物あり。かりに名づけて風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものゝ風に破れやすからん事をいふにやあらん。かれ狂句を好む事久し。終(つい)に生涯の謀(はかりごと)となす。ある時は倦(うみ)て放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時は進むで人にかたん事をほこり、是非(ぜひ)胸中に戰ふて是(これ)が為に身安からず。しばらく身を立(たてん)ん事を願へども、これが為にさへられ、暫(しばら)く学(まなん)で愚を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、終(つい)に無能無芸にして、ただこの一筋に繋がる。

その説く所、全く『老荘(ろうそう)』[中国、春秋戦国時代の老子(ろうし)、荘子(そうし)の教え、として後世まとめ考えられたもの]の主旨を出でず。その述ぶる所、ことごとく漢文の結構(けっこう)によらざるはなし。哲学的思想を叙述する此(かく)の如く多く、漢文的句調を混和する此(かく)の如く甚しき者は、他にその例を見ざる所、けだし芭蕉の創体(そうたい?)に属するなり。それより一年を越えて『奥の細道』といふ紀行あり。その中に

月日(つきひ)は百代(ひゃくだい)の過客(かかく)にして行かふ年もまた旅人也。船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)のおもひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋(あき)江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘(くも)の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に白川(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神(どうそじん)の招きにあひて取物手につかず、股引(ももひき)の破(やぶれ)をつづり笠の緒(お)付かへて、三里(さんり)に灸するより、松島の月先(まず)心にかかりて、住(すめ)る方は人に讓り、杉風が別墅(べっしょ)に移る
(春立より以下数句、西鶴の文と似たり)

抑(そもそも)ことふりにたれど、松島は扶桑(ふそう)第一の好風(こうふう)にして、凡(およそ)洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥ぢず。東南より海を入(いれ)て、江の中三里(えのうちさんり)、淅江(せっこう)の潮(うしお)をたたふ。島々の数をつくして、欹(そばだ)つものは天を指(ゆびさし)、臥(ふ)するものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重(ふたえ)にかさなり三重(みえ)にたたみて、左に別れ右に連(つらな)る。負(おえ)るあり、抱(いだ)けるあり、児孫(じそん)愛すが如し。

と書けるが如き、前の文章に比してやや圭角(けいかく)[玉の角張った角の部分のこと/言動や性質が角立っていて円満でないさま]の少きを見る。これ啻(ただ)に[(=唯に)もっぱら、単に]文章に於て然(しか)るのみならず、俳諧もまた同時に一様に変遷をなしたるなり。

 所謂(いわゆる)俳文なる者は、此(かく)の如く荘重老健(ろうけん)[老いて後も健康なこと]のものならずして、常に滑稽(こっけい)諧謔(かいぎゃく)を以て勝れるを以て、直ちにこの文を以て俳文の開祖(かいそ)と為(な)すべからずといへども、和歌の外に俳句を起したるが如く、和文の外に一種の文を起したるは則ち疑ふべからず。門人諸子のものせし俳文は、これ等より脱化(だっか)[昆虫の殻を脱ぎ変態すること/もとの状態より新しい形式・状況へと至ること]せしものに非るを得んや。然(しかり)り而(しか・しこう)して[(前の説を肯定して)そのとおりである、そして]彼等が諧謔をのみ主として芭蕉の如く真面目の文章を為し得ざりし者は、恰(あたか)も芭蕉に壮大雄渾の俳句ありて、彼等に之れ無きと一般、自(おのずか)らその才識の高卑を知るに足る。

補遺(ほい)

 芭蕉に就きて記すべき事多し。然れども余は主として芭蕉に対する評論の、宗匠輩に異なる処を指摘せし者にして、爰(ここ)に芭蕉に評論するの余暇を得ざれば、一先(ひとま)づ筆を擱(お)かんとす。乃(すなわ)ち、言ひ残せし事項の二、三を列挙してその題目を示し、以て本談の結尾とせん。

一、松尾桃青(とうせい)名は宗房(むねふさ)、正保(しょうほう)元年[寛永二一年、1644年]、伊賀国上野[伊賀国拓殖(つげ)出身説もある]に生る。松尾与左衛門の二男なり。十七歳、藤堂蝉吟(とうどうせんぎん)[藤堂良忠(とうどうよしただ)(1642-1666)侍大将である藤堂新七郎良清の三男。松永貞徳、北村季吟らに俳諧を学び俳号を蝉吟(せんぎん)と称す。その関係で、芭蕉も俳諧へ足を踏み込んだとされている]公に仕ふ。寛文三年(廿歳)蝉吟公早世(そうせい)、乃(すなわ)ち家を出でて京師(けいし)[(大勢の人の集まる所の意味)みやこ、帝都]に出で北村季吟(きたむらきぎん)(1625-1705)[松永貞徳の門弟であり貞門派の重要人物]に学ぶ。廿九歳、江戸に来り杉風(さんぷう)[杉山杉風(すぎやまさんぷう)芭蕉の弟子にして経済援助者]寄居(ききょ)[人の家に身を寄せること]す。四十一歳秋、東都を発し、東海道を経て、故郷伊賀に帰り、翌年二月伊賀を発し、木曾路より甲州を経て、再び江戸に来る。この歳、月を鹿島に見る。四十四歳、東海道より伊賀に帰る。翌年、伊勢参宮(いせさんぐう)[伊勢神宮に参詣すること]、尋(つい)で芳野(よしの)南都を見て、須磨(すま)・明石(あかし)に出づ。木曾(きそ)を経、姥捨(おばすて)の月を賞し、三たび東都に来る。四十六歳、東都を発し、日光・白河・仙台より松島に遊び、象潟(きさかた)を通り道を北越(ほくえつ)に取りて、越前・美濃・伊勢・大和を過ぎ、伊賀に帰り直ちに近江に来る。翌年、石山の西、幻住庵(げんじゅうあん)[芭蕉が「奥の細道」の旅の後、しばらく滞在した庵]に入る。四十八歳、伊賀に帰り、京師に寓し、冬の初め四たび東都に来る。五十一歳夏、深川の草庵を捨てて上洛し、京師・近江の間を徘徊(はいかい)す。七月伊賀に帰り、九月大阪に至る。同月病に罹(かか)り、十月十二日歿(ぼっ)す。遺骸(いがい)を江州(ごうしゅう)義仲寺、義仲の墓側に葬(ほうむ)る。

一、芭蕉が今、杖を曳(ひ)きし[「杖を曳く」杖を持って歩くの意味から、旅行、散歩といった意味]は、東国に多くして西国に少なし。経過せし国々は山城、大和、摂津、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江(とおとうみ)、駿河、甲斐、伊豆、相摸(さがみ)、武蔵、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、近江、美濃、信濃、上野、下野(しもつけ)、奥州、出羽、越前、加賀、越中、越後、播磨(はりま)、紀伊、総て二十八ヶ国なり。

一、芭蕉は所謂(いわゆる)正風(しょうふう)を起したり。然れども正風の興る、もとより芭蕉一人の力に在らずして、時運の之をして然らしめし者なり。貞室(ていしつ)[安原貞室(やすはらていしつ)(1610-1673)松永貞徳の弟子にして、貞門七俳人の一人とされる]の俳句、時として正風に近き者あり。宗因(そういん)、其角(きかく)、才丸(さいまる)、常矩(つねのり)等の俳句、また夙(と)く正風の萌芽(ほうが)を含めり。『冬の日』『春の日』等を編集せし時は正風発起(ほっき)の際なりといへども、この時正風を作す者芭蕉一人に非ず。門弟子、また之を作す。門弟子また皆之を作すのみならず、他流の人また之を作す。而(しか)して正風発起(ほっき)後といへども、芭蕉の句往々『虚栗集(みなしぐりしゅう)』的の格調を存す。これ等の事実を湊合(そうごう)[ひとつに集まること]し精細に之を見なば、正風の勃興(ぼっこう)は時運の変遷、自ら然らしめし者にして、芭蕉の機敏ただ能(よ)く之を発揮せしに過ぎざるを知らん。

一、芭蕉の俳句は単に自己の境涯を吟咏せし者なり。即ち主観的に自己が感動せし情緒に非ずんば、客観的に自己が見聞せし風光(ふうこう)[景色、風景]・人事に限りたるなり。是(こ)れもとより嘉(よみ)す[良しとして褒め称える]べきの事といへども、全く己が理想より得来る目撃以外の風光、経歴以外の人事を抛擲(ほうてき)[なげうつこと、うち捨てること]して詩料(しりょう)[詩歌の題材のこと]と為さざりしは、やや芭蕉が局量の小なるを見る。(上世の詩人皆然り)然れども芭蕉は好んで山河を跋渉(ばっしょう)[(詩経より)山を越え川を渡ること。そこから、各地を遍歴すること]したるを以て、実験上また夥多(かた)[多すぎるほどあること。あまたあること。おびただしいさま]の好題目を得たり。後世の俳家、常に几辺(きへん)に安坐して、且(か)つ実験以外の事を吟ぜず。而(しか)して自(みずか)ら芭蕉の遺旨(いし)[先人が残した考え]を奉ずと称す。井蛙(せいあ)の観る所、三尺の天に過ぎず。笑はざらんと欲するを得んや。好詩料、空想に得来りて、あるいは斬新、あるいは流麗、あるいは雄健の俳句を作し、世人(せじん)を罵倒したる者、二百年独り蕪村あるのみ。

一、鳴雪翁(めいせつおう)[内藤鳴雪(1847-1926)松山の子規の大先輩だが、俳句においては子規の門弟]曰(いわ)く、芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罹(かか)りて歿(ぼっ)せし者ならん。その証は芭蕉の手簡(しゅかん)[手紙]

一、もち米 一升
一、黒豆 一升
一、あられ見合
右、今夕(こんせき)の夜食に成申候(なりもうしそうろう)間、御いらせ[「いらす」貸す、利息を取って貸す]伝吉にもたせ御(お)こし可被下候(くださるべくそうろう)云々(うんぬん)

 ただ今、田舎より僧達二、三人参候(まいりそうろう)。俄(にわか)に出し可申候(べくもうしそうろう)。貯無之候(たくわえこれなくそうろう)。さぶく候。故(ゆえ)にうめん[「煮麺」あたたかい索麺(そうめん)]いたし可申候(べくもうしそうろう)、そうめんは沢山有之候(これありそうろう)。酒二升、御こし頼入候(たのみいれそうろう)。云々

とあり、且(か)つ没時の病は菌(きのこ)を喰ふてより起りしといへば、必ず胃弱の人なりしに相違なしと。単にこの手紙を以て大食の証(あかし)となすは理由薄弱なりといへども、手紙は兎に角に、余は鳴雪翁の説、当(とう)を得たる[「当を得る」で、道理にかなっている]者ならんと思ふなり。多情の人にして肉体の慾を他に伸ばす能(あた)はざる者、往々にして非常の食慾を有す。芭蕉あるいはその一人に非るを得んや。

一、芭蕉、妻を娶らず。その他婦女子に関せる事一切世に伝はらず。芭蕉、戒行(かいぎょう)[仏教で戒律を守り修業を行うこと]を怠らざりしか、史伝之を逸(いっ)したるか、姑(しばら)く記して疑を存す。

一、後世の俳家、芭蕉の手跡を学ぶ者多し。また以てその尊崇の至れるを見る。

一、芭蕉の論述する所、支考等諸門人の偽作、または誤伝に出づる者多し。偶々(たまたま)芭蕉の所説として信憑すべき者も、また幼稚にして論理に外れたる者少なからねど、さりとてあながち今日より責むべきに非ず。

一、芭蕉の弟子を教ふる、孔子の弟子を教ふるが如し。各人に向つて絶対的の論理を述ぶるに非ず、所謂(いわゆる)人を見て法を説く者なり。

一、芭蕉かつて戯れに許六が「鼾(いびき)の図」を画く。彼また頓智を有す。やや万能の人に近し。

一、天保年間、諸国の芭蕉塚を記したる書あり。曾(かつ)てその足跡の到りし所は言ふを須(ま)たず、四国・九州の辺土、また到る所に之れ無きは無し。余かつて信州を過ぎ、路傍の芭蕉塚を検(けみ)するに、多くは是(こ)れ天保以後の設立する所に係(かか)る。今日六十余州に存在する芭蕉塚の数に至りては、殆んど枚挙に勝(た)へざるべし。

一、寛文(かんぶん)中には宗房(そうぼう)と言ひ、延宝(てんぽう)・天和(てんな)には桃青(とうせい)、芭蕉(ばしょう)と云ふ。いつの頃か自ら

発句あり芭蕉桃青宿の春

[この句、正しくは
「発句也(なり)松尾桃青(とうせい)宿の春」
である]

と云ふ句を作れり。芭蕉とは深川の草庵に芭蕉ありしを以て、門人などの「芭蕉の翁」と称へしより雅号となりしとぞ。普通に「はせを」と假名(かな)に書く。書き続きの安らかなるを自慢せりといふ。桃青といふ名は、何より得来りしか詳(つまびらか)ならず。余臆測するに、芭蕉初め李白の磊落(らいらく)なる処を欣慕(きんぼ)[よろこび慕うこと]し、李白といふ字の対句を取りて「桃青」と名づけしには非ずや。後年には李白と言はずして杜甫を学びしやうに見ゆれども、その年なほ壮(そう)にして檀林に馳駆(ちく)せし際には、勢ひ杜甫よりは李白を尊びしなるべしと思はる。

参考

 『芭蕉雑談』の新聞「日本」掲載は、明治廿六年(1893年)十一月十三日から、明治廿七年一月廿二日。それに加筆を加えたものがこれである。

2011/4/24-5/26

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