正岡子規、曙覧の歌

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曙覧の歌(正岡子規)

注意書き

・この朗読は、橘曙覧(たちばなのあけみ)(1812-1868)を紹介した、正岡子規の「曙覧の歌」を、備忘的に朗読したものに過ぎません。

  [はたして君の2010年の説いかなりや。ここに残し置くものなり]
ちなみに、和歌のレベルにおいて、正岡子規よりも橘曙覧の方が、勝っているため、最後の部分で子規が彼を批判した大部分は、むしろ荒唐無稽の妄想に近いものに陥っておりますので、子規の言葉に耳を貸さない方が良いかとも思われます。(言っていることの八割は、現実と異なると思われます。むしろ正反対のことを見当違いに糾弾している不始末であります。)これも参考のため、書き加えて置きます。ただし、全体として、この随筆は、橘曙覧の和歌を始めて知る導入とともに、賞賛を惜しまない(とは決して言いきれないものの)、名随筆になっているので、一読の価値は十二分にあることでしょう。

・最後の部分、今滋(いましげ)氏は、井手今滋と申しまして橘曙覧の息子であります。すなわち彼によって、「志濃夫廼舎歌集」などが編纂されたるのち、子規居士の目に止まったるが故に筆致の流麗(りゅうれい)となったようです。

曙覧の歌(正岡子規)

[朗読1]

 余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて俊頼《としより》集[源俊頼(みなもとのとしより・しゅんらい)(1055-1129)]文雄《ふみお》集[井上文雄(いのうえふみお)(1800-1871)]、曙覧《あけみ》集を見よという。それかくいうは三家の集が尋常歌集に異なるところあるをもってなり。まず源《みなもとの》俊頼の『散木弃歌集《さんぼくきかしゅう》』[1128頃成立]を見て失望す。いくらかの珍しき語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。次に井上文雄の『調鶴《ちょうかく》集』[1856年]を見てまた失望す。これも物語などにありて普通の歌に用いざる語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。最後に橘《たちばなの》曙覧の『志濃夫廼舎《しのぶのや》歌集』[曙覧の子である井手今滋(いでいましげ)氏が編集し1878年に発刊となったもの]を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。その歌、『古今』『新古今』の陳套《ちんとう》[古くさいこと。古めかしいこと]に堕《お》ちず真淵《まぶち》、景樹《かげき》の※[#「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51]臼《かきゅう》[(文章や作品が)紋切り型であること]に陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事《さじ》[少しばかりのこと。つまらないこと]俗事を捕え来《きた》りて縦横に馳駆《ちく》[馬を走らせること/走り回ること、奔走すること]するところ、かえって高雅|蒼老《そうろう》[老いる、老ける]些《さ》[わずかばかりの]の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆《きょうおく》を※[#「てへん+慮」、第4水準2-13-58]《し》くもの、もって識見|高邁《こうまい》[気高くひときわ優れていること]、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。

 曙覧の事蹟及び性行に関しては未《いま》だこれを聞くを得ず。歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳《まつだいらしゅんがく》[=松平春嶽(1828-1890)越前福井藩主でありつまりは大名である。幕末四賢侯の一人とされる。「春嶽」は号(一種のペンネーム)であり、諱(いみな)つまり本名は松平慶永。将軍徳川家慶の従弟にあたる]挙げて和歌の師とす、推奨[褒めてひきたてること]|最《もっとも》つとむ。しかれども赤貧[(せきひん)ひどく貧しくて、赤(何もない)の状態にあること]洗うがごとく常に陋屋《ろうおく》[むさくるしい家、せまい家のこと/わが家をへりくだった言い方]の中に住んで世と容《い》れず。古書《こしょ》堆裏《たいり》独《ひとり》破几《はき》に凭《よ》りて古《いにしえ》を稽《かんが》え道を楽《たのし》む。詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方《かた》なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気《じんき》[塵や埃の大気中にまみれるがごとし]を脱して世に媚《こ》びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰《いわ》く

吾《わが》歌をよろこび涙こぼすらむ
鬼のなく声する夜の窓

灯火《ともしび》のもとに夜な夜な来たれ鬼
我《わが》ひめ歌の限りきかせむ

人臭き人に聞《きか》する歌ならず
鬼の夜ふけて来《こ》ばつげもせむ

凡人《ただひと》の耳にはいらじ天地《あめつち》の
こころを妙に洩《も》らすわがうた

 何らの不平ぞ。何らの気焔《きえん》ぞ。彼はこの歌に題して「戯れに」といいしといえども「戯れ」の戯れに非《あらざ》るはこれを読む者誰かこれを知らざらん。しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛《ばんこく》[斛=石(こく)で、数え切れないほどの多い量のこと]涕涙《ているい》[なみだのこと。なみだを流すこと]を湛《たた》うるを見るなり。吁《ああ》この不遇の人、不遇の歌。

 彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳|自記《じき》』の文に詳《つまびらか》なり。その文に曰く

橘曙覧の家にいたる詞
 おのれにまさりて物しれる人は高き賤《いやし》きを選ばず常に逢《あい》見て事尋ねとひ、あるは物語を聞《きか》まほしくおもふを、けふは此《この》頃にはめづらしく日影あたたかに久堅《ひさかた》の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしと巳《み》の鼓《つづみ》うつ頃より野遊《のあそび》に出たりき、三橋といふ所にいたる、中根師質《なかねもろただ》[中根雪江(なかねゆきえ・せっこう)(1807-1877)家臣として、春嶽に攘夷ではなく開国を進めた人物である]あれこそ曙覧の家なれといへるを聞て、俄《にわか》にとはむとおもひなりぬ、ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに[#「ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに」に傍点]、そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり[#「そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり」に傍点]、柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ[#「柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ」に傍点]、師質心せきたるさまして参議君[1864年から春嶽は正四位上の位をたまわり参議となった]の御成《おなり》ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの膝《ひざ》折ふせながらはひいでぬ、すこし広き所に入りてみれば壁[#「壁」に傍点]落《おち》かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども[#「かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども」に傍点]、机に[#「机に」に傍点]千文《ちふみ》八百《やお》ふみうづたかくのせて[#「ふみうづたかくのせて」に傍点]人丸《ひとまろ》の御像《みぞう》[柿本人麻呂は一種の歌の神として崇められていた]などもあやしき厨子《ずし》[両開きの戸の付いた部分を持つ置き棚]に入りてあり、おのれきものぬぎかへて[#「おのれきものぬぎかへて」に傍点]賤《しず》が[#「が」に傍点]著《き》るつづりおりに似たる衣をきかへたり[#「るつづりおりに似たる衣をきかへたり」に傍点]、此《この》時扇|一握《いちあく》を半井保《なからいたもつ》にたまひて曙覧にたびてよと仰せたり、おのれいへらく、みましの屋の名をわらやといへるはふさはしからず、橘のえにしあれば忍ぶの屋とけふよりあらためよといへり。屋のきたなきことたとへむにものなし[#「屋のきたなきことたとへむにものなし」に白丸傍点]、しらみてふ虫などもはひぬべくおもふばかりなり[#「しらみてふ虫などもはひぬべくおもふばかりなり」に白丸傍点]、かたちはかく貧《まずし》くみゆれど其《その》心のみやびこそいといとしたはしけれ、おのれは富貴の身にして大厦《たいか》[大きな立派な建物]高堂[高く構えたお堂、立派な家のこと]に居て何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく心は寒く貧くして曙覧におとる事更に言をまたねば、おのづからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ[#「おのづからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ」に白丸傍点]、今より曙覧の歌のみならで其《その》心のみやびをもしたひ学《まなば》ばや、さらば常の心の汚《よごれ》たるを洗ひ浮世の外《ほか》の月花を友とせむにつきつきしかるべしかし、かくいふは参議正四位上|大蔵大輔《おおくらたゆう》源|朝臣《あそん》慶永《よしなが》元治二年[1865]|衣更著《きさらぎ》末のむゆか、館に帰りてしるす。

 曙覧が清貧に処して独り安んずるの様、はた春岳が高貴の身をもってよく士に下るの様はこの文を見てよく知るを得ん。この知己あり。曙覧地下に瞑《めい》すべきなり。 [#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十二日〕



 曙覧が清貧の境涯はほぼこの文に見えたるも、彼の衣食住の有様、すなわち生活の程度いかんはその歌によって一層|詳《つまびらか》に知ることを得《う》べし。その歌左に

人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる

山吹のみの一つだに無き宿は
かさも二つはもたぬなりけり

 その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。

ひた土に筵《むしろ》しきて、つねに机すゑおくちひさき伏屋《ふせや》のうちに、竹|生《お》いでて長うのびたりけるをそのままにしおきて

壁くぐる竹に肩する窓のうち
みじろくたびにかれもえだ振る

膝いるるばかりもあらぬ草屋を
竹にとられて身をすぼめをり

 明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べくもあらず。(「草屋」を「草の屋」と読ませ「草花」を「草の花」と読まする例、集中に少からず。漢語にはあらず)

銭乏しかりける時

米の泉なほたらずけり歌をよみ
文をつくりて売りありけども

 彼が米代を儲《もう》け出す方法はこの歌によりてやや推すべし。(「泉」は「ぜに」と読むべし)

ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのが庵《いお》の壁の頽《くず》れかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗人の入《いり》たらん夜のここちしてうろたへつつ、かたへなるところに身をちひさくなしてこのをの子のありさま見をる、我ながらをかしさねんじあへて

あるじをもここにかしこに追たてて
壁ぬるをのこ屋中塗りめぐる

 家の狭さと、あるじの無頓着《むとんちゃく》さとはこの言葉書《ことばがき》の中にあらわれて、その人その光景目前に見るがごとし。

おのがすみかあまたたび所うつりかへけれど、いづこもいづこも家に井なきところのみ、妻して水|汲《く》みはこばする事もかきかぞふれば二十年あまりの年をぞへにきける、あはれ今はめもやうやう老《おい》にたれば、いつまでかかくてあらすべきとて、貧き中にもおもひわづらはるるあまり、からうじて井ほらせけるにいときよき水あふれ出《い》づ、さくもてくみとらるべきばかりおほうあるぞいとうれしき、いつばかりなりけむ□「しほならであさなゆふなに汲む水もからき世なりとぬらす袖《そで》かな」と、そぞろごといひけることのありしか、今はこのぬれける袖もたちまちかわきぬべう思はるれば、この新しき井の号を袖干井《そでひのい》とつけて

濡《ぬら》しこし妹が袖干《そでひ》の井の
水の涌出《わきいづ》るばかりうれしかりける

 家に婢僕《ひぼく》[下男下女のこと]なく、最合井《もあいい》[「最合」(もやい)or「催合」(もやい)で、共同でひとつの事物を所有すること。井は「井戸」のことなので、ようするに全体「共同井戸」くらいの意味]遠くして、雪の朝、雨の夕の小言《こごと》は我らも聞き馴《な》れたり。 「独楽※[#「口+金」、第3水準1-15-5]《どくらくぎん》」と題せる歌五十余首あり。歌としては秀逸ならねど彼の性質、生活、嗜好《しこう》などを知るには最《もっとも》便ある歌なり。その中に

たのしみはあき米櫃《こめびつ》に米いでき
今一月はよしといふ時

たのしみはまれに魚|烹《に》て児等《こら》皆が
うましうましといひて食ふ時

など貧苦の様を詠みたるもあり。

 文人の貧《ひん》に処《お》るは普通のことにして、彼らがいくばくか誇張的にその貧を文字に綴《つづ》るもまた普通のことなり。しこうしてその文字の中には胸裏に蟠《わだかま》る不平の反応として厭世《えんせい》的または嘲俗《ちょうぞく》的の語句を見るもまた普通のことなり。これ貧に安んずる者に非ずして貧に悶《もだ》ゆる者。曙覧はたして貧に悶ゆる者か否か。再びこれをその歌詠に徴せん。[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十三日〕



[朗読2]

 余は思う、曙覧の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきに非《あらざ》るもその不平は国体の上における大不平にして衣食住に関する小不平に非ず。自己を保護せずしてかえって自己を棄てたる俗世俗人に対してすら、彼は時に一、二の罵詈《ばり》を加うることなきにしもあらねど、多くはこれを一笑に付し去りて必ずしも争わざるがごとし。「独楽※[#「口+金」、第3水準1-15-5]」の中に

たのしみは木芽《このめ》※[#「さんずい+龠」、第4水準2-79-46]《にや》して大きなる
饅頭《まんじゅう》を一つほほばりしとき
[「にやす」は「煮やす」の意味]

たのしみはつねに好める焼豆腐
うまく烹《に》たてて食《くわ》せけるとき

たのしみは小豆《あずき》の飯の冷《ひえ》たるを
茶|漬《づけ》てふ物になしてくふ時

 多言するを須《もち》いず、これらの歌が曙覧ならざる人の口より出《い》で得べきか否かを考えみよ。陽に清貧を楽《たのし》んで陰に不平を蓄うるかの似而非《えせ》文人が「独楽※[#「口+金」、第3水準1-15-5]」という題目の下にはたして饅頭、焼豆腐の味を思い出だすべきか。彼らは酒の池、肉の林と歌わずんば必ずや麦の飯、藜《あかざ》の羹《あつもの》[「アカザ」はアカザ科アカザ属の一年草で畑や道端など日本各地で見つける雑草。高さは1mを越え、秋に黄緑色の小さな花をつける。その若菜は食用にもされ、ほうれん草じみた味がするが、同時に硝酸を多く含んでいる。枯れた茎は杖にすらなるという。「羹(あつもの)」はようするに具材を入れた熱い、暖かい吸い物のこと]と歌わん。饅頭、焼豆腐を取ってわざわざこれを三十一文字に綴《つづ》る者、曙覧の安心ありて始めてこれあるべし。あら面白の饅頭、焼豆腐や。

 安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虚飾あるべからず。余は更に進んで曙覧に一点の誇張、虚飾なきことを証せん[(しょうせん)]。似而非《えせ》文人は曰く、黄金|百万緡《ひゃくまんびん》[緡(さし・びん)には銭差(ぜにさし)、銭紐の意味がある。「貫緡/貫差」(かんざし)で銭一貫文をつらぬく銭紐を指した]は門前のくろ(犬)の糞のごとしと。曙覧は曰く

たのしみは銭なくなりてわびをるに
人の来《きた》りて銭くれし時

たのしみは物をかかせて善《よ》き価
惜《おし》みげもなく人のくれし時

 曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、あどけなくも彼は銭を貰《もら》いし時のうれしさを歌い出だせり。なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢《むく》清浄、彼の歌や玲瓏《れいろう》透徹[玉のように輝き澄み渡っているといった意味]

 貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳《しゅんがく》はこれを聘《へい》せん[礼をもって人を訪ねる/礼を尽くして人を招く]として侍臣《じしん》をして命《めい》を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきを歎《なげ》き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋|竹笋《ちくしゅん》[=竹筍(ちくじゅん/ちくしゅん)つまり、タケノコのこと]の間より起《た》たしむるあたわざりしもの何がゆえぞ。謙遜《けんそん》か、傲慢《ごうまん》か、はた彼の国体論は妄《みだり》に仕うるを欲せざりしか。いずれにもせよ彼は依然として饅頭焼豆腐の境涯を離れざりしなり。慶応三年の夏、始めて秩禄《ちつろく》を受くるの人となりしもわずかに二年を経て明治二年の秋(?)彼は神の国に登りぬ。曙覧が古典を究め学問に耽《ふけ》りしことは別に説くを要せず。貧苦の中にありて「机に千文《ちぶみ》八百文《やおぶみ》堆《うずたか》く載せ」たりという一事はこれを証して[(しょうして)]余りあるべし。その敬神|尊王《そんのう》の主義を現したる歌の中に

高山彦九郎正之
大御門《おおみかど》そのかたむきて橋上に
頂根《うなね》突《つき》けむ真心《まごころ》たふと

をりにふれてよみつづけける(録一)
吹風《ふくかぜ》の目にこそ見えぬ神々は
此《この》天地《あめつち》にかむづまります

独楽※[#「口+金」、第3水準1-15-5](録二)
たのしみは戎夷《えみし》よろこぶ世の中に
皇国《みくに》忘れぬ人を見るとき

たのしみは鈴屋大人《すずのやうし》の後に生れ
その御諭《みさとし》をうくる思ふ時

赤心報国《せきしんもてくににむくゆ》(録一)
国汚す奴《やっこ》あらばと太刀|抜《ぬき》て
仇《あだ》にもあらぬ壁に物いふ

示人《ひとにしめす》(録一)
天皇《すめらぎ》は神にしますぞ天皇の 
勅《ちょく》としいはばかしこみまつれ

 極めて安心に極めて平和なる曙覧も一たび国体の上に想い到る時は満腔《まんこう》[体のすべて、満身(まんしん)、からだじゅう]の熱血を灑《そそ》ぎて敬神の歌を作り不平の吟をなす。慷慨淋漓《こうがいりんり》[「慷慨」は社会の不正や悪を嘆くこと/あるいは意気が盛んなこと。「淋漓」は水や汗、あるいは血潮などが流れるさま/勢いが表面上に現れるさま]、筆、剣のごとし。また平日の貧曙覧に非ず。彼がわずかに王政維新の盛典に逢《あ》うを得たるはいかばかりうれしかりけむ。

慶応四年春、浪華に
行幸あるに吾《わが》
宰相君《さいしょうのきみ》御供仕《おんともし》たまへる御とも仕《つこう》まつりに、上月景光主《こうづきかげみつぬし》のめされてはるばるのぼりけるうまのはなむけに

天皇の御《み》さきつかへてたづがねの
のどかにすらん難波津に行《ゆけ》

すめらぎの稀《まれ》の行幸《いでまし》御供《みとも》する
君のさきはひ我もよろこぶ

天使のはろばろ下りたまへりける、あやしきしはぶるひ人《びと》どもあつまりゐる中にうちまじりつつ御けしきをがみ見まつる

隠士も市の大路に匍匐《はらばい》ならび
をろがみ奉《まつ》る雲の上人

天皇の大御使《おおみつかい》と聞くからに
はるかにをがむ膝をり伏せて

 勅使をさえかしこがりて匍匐《はらば》いおろがむ彼をして、一たび二重橋[(にじゅうばし)東京都千代田区千代田にある、皇居の正門から宮殿へ向かう途中の橋のこと。正門鉄橋(せいもんてつばし)]下に鳳輦《ほうれん》[即位式、大嘗会(だいじょうえ)などの特別な場合に使用される天皇のための御輿/天皇の乗りものの別称]を拝するを得せしめざりしは返すがえすも遺憾《いかん》[思い通りに行かず残念なこと]のことなり。

都にのぼりて
大行《たいこう》天皇の御はふりの御わざはてにけるまたの日、泉涌寺《せんにゅうじ》に詣《もうで》たりけるに、きのふの御わざのなごりなべて仏さまに物したまへる御ありさまにうち見奉られけるを畏《かしこ》けれどうれはしく思ひまつりて

ゆゆしくも仏の道にひき入るる
大御車《おおみくるま》のうしや世の中

 曙覧は王政維新の名を聞きて、その実を見るに及ばざりしなり。
[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十四日〕



 社会の一貧民としての曙覧、日本国民の一人としての曙覧は、臆測ながらにほぼこれを尽せり。ここより[どうでもいいが、岩波文庫だと「これより」になっている]歌人としての曙覧につきて少しく評するところあらんとす。

 曙覧の歌は比較的に何集の歌に最も似たりやと問わば、我れも人も一斉に『万葉』に似たりと答えん。彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的|善《よ》くこれを模し得たる伎倆《ぎりょう》はわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵《まぶち》ら一派古学を闢《ひら》き『万葉』を解きようやく一縷《いちる》の生命を繋《つな》ぎ得たり。されど真淵一派は『万葉』を解きて『万葉』を解かず、口には『万葉』をたたえながらおのが歌は『古今』以下の俗調を学ぶがごときトンチンカンを演出して笑《わらい》を後世に貽《のこ》したるのみ。『万葉』が遥《はるか》に他集に抽《ぬき》んでたるは論を待たず。その抽んでたる所以《ゆえん》は、他集の歌が豪《ごう》も作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧の歌に曰く

いつはりのたくみをいふな誠だに
さぐれば歌はやすからむもの

「いつはりのたくみ」『古今集』以下皆これなり。「誠」の一字は曙覧の本領にして、やがて『万葉』の本領なり。『万葉』の本領にして、やがて和歌の本領なり。我|謂《い》うところの「ありのままに写す」とはすなわち「誠」にほかならず。後世の歌人といえども、誠を詠め、ありのままを写せ、と空論はすれどその作るところのかえっていつわりのたくみを脱するあたわざるは誠、ありのまま、の意義を誤解せるによる。西行のごときは幾多の新材料を容《い》れたるところあるいはこの意義を解する者に似たれど、実際その歌を見ば百中の九十九は皆いつわりのたくみなるを知らん。趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。

 されば曙覧が歌の材料として取り来《きた》るものは多く自己周囲の活人事《かつじんじ》活風光《かつふうこう》[生きた/生き生きとした人間社会のこと、生きた風光、つまり自然のこと]にして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎《しのぶのや》歌集』を見る者のまず感ずるところなるべし。彼は自己の貧苦を詠めり、彼は自己の主義を詠めり。亡き親を想いては、「親ある人もあるに」と詠み、亡き子を想いては、「きのふ袂《たもと》にすがりし子の」と詠めり。行幸の供にまかる人を送りては、「聞くだに嬉《うれ》し」と詠み、雪の頃旅立つ人を送りては、「用心してなだれに逢《あ》ふな」と詠めり。楽《たのし》みては「楽し」と詠み、腹立てては「腹立たし」と詠み、鳥|啼《な》けば「鳥啼く」と詠み、螽《いなご》飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香に匂《にお》ふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、見もせぬに遠き名所を詠み、しこうして自然の美のおのが鼻の尖《さき》にぶらさがりたるをも知らぬ貫之《つらゆき》以下の歌よみが、何百年の間、数限りもなくはびこりたる中に、突然として曙覧の出でたるはむしろ不思議の感なきに非ず。彼は何に縁《よ》りてここに悟るところありしか。彼が見しこと聞きしこと時に触れ物に触れて、残さず余さずこれを歌にしたるは、杜甫《とほ》が自己の経歴を詳《つまびらか》に詩に作りたると相《あい》似たり。古人が杜詩を詩史と称えし例に傚《なら》わば曙覧の歌を歌史ともいうべきか。余が歌集によりてその人の事蹟《じせき》[事のあとかた・事件の痕跡。ここでは「事績(じせき)」つまり、ある人の業績の意味で使用か]と性行とを知り得たるもその歌史たるがためなり。しかれども彼が杜詩より得たるか否かは知るに由《よし》なし。ただ杜甫の経歴の変化多く波瀾《はらん》多きに反して、曙覧の事蹟ははなはだ平和にはなはだ狭隘《きょうあい》[面積や度量が狭いこと]に、時は逢いがたき維新の前後にありながら、幾多の人事的好題目をその詩嚢《しのう》[漢詩で草稿を入れるための袋/そこから詩想のことも指す]中に収め得ざりしこと実に千古の遺憾《いかん》なりとす。[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十六日〕



[朗読3]

『古今集』以後今日に至るまでの撰集、家集を見るに、いずれも四季の歌は集中の最要部分を占めて、少くも三分の一、多きは四分の三を占むるものさえあり。これに反して四季の歌少く、雑《ぞう》の歌の著《いちじるし》く多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以《ゆえん》なり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際より出《い》づ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋の歌も全く題詠となり、雑の歌も十分の九は題詠となりおわりぬ。曙覧の歌すら四季のには題詠とおぼしきがあり、かつ善からぬが多し。題詠必ずしも悪《あ》しとに非ず、写実必ずしも善しとに非ず。されど今日までの歌界の実際を見るに題詠に善き歌少くして写実に俗なる歌少し。曙覧が実地に写したる歌の中に飛騨《ひだ》の鉱山を詠めるがごときはことに珍しきものなり。

日の光いたらぬ山の洞《ほら》のうちに
火ともし入《いり》てかね掘出《ほりいだ》す

赤裸《まはだか》の男子《おのこ》むれゐて
鉱《あらがね》の
まろがり砕く鎚《つち》うち揮《ふり》て

さひづるや碓《からうす》たててきらきらと
ひかる塊《まろがり》つきて粉《こ》にする

筧《かけひ》かけとる谷水にうち浸し
ゆれば白露手にこぼれくる

黒けぶり群《むらが》りたたせ手もすまに
吹鑠《ふきとろ》かせばなだれ落《おつ》るかね

鑠《とろ》くれば灰とわかれてきはやかに
かたまり残る白銀の玉

銀《しろがね》の玉をあまたに筥《はこ》に収《い》れ
荷緒《にのお》かためて馬|馳《はし》らする

しろがねの荷|負《おえ》る馬を牽《ひき》たてて
御貢《みつぎ》つかふる御世のみさかえ

 採鉱溶鉱より運搬に至るまでの光景|仔細《しさい》に写し出《いだ》して目|覩《み》るがごとし。ただに題目の新奇なるのみならず、その叙述の巧《たくみ》なる、実に『万葉』以後の手際なり。かの魚彦《なひこ》がいたずらに『万葉』の語句を模して『万葉』の精神を失えるに比すれば、曙覧が語句を摸《も》せずしてかえって『万葉』の精神を伝えたる伎倆は同日に語るべきにあらず。さわれ曙覧は徹頭徹尾『万葉』を擬せんと務めたるに非ず。むしろその思うままを詠みたるが自《おのずか》ら『万葉』に近づきたるなり。しこうして彼の歌の『万葉』に似ざるところははたして『万葉』に優るところなりや否や、こは最《もっとも》大切なる問題なり。

 余は断定を下していわん、曙覧の歌想は『万葉』より進みたるところあり、曙覧の歌調は『万葉』に及ばざるところありと。まず歌想につきて論ぜん。[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十八日〕



 歌想に主観的なるものと客観的なるものとあり。『万葉』は主として主観的歌想を述べたるものにして客観的歌想は極めて少かりしが、『古今』以後、客観的歌想の歌、次第にその数を増加するの傾向を見る。

 主観的歌想の中にて理屈めきたるはその品卑しく趣味薄くして取るに足らず。『古今』以後の歌には理屈めきたるが多けれど『万葉集』、『曙覧集』にはなし。理屈ならぬ主観的歌想は多く実地より出でたるものにして、古人も今人もさまで感情の変るべきにあらぬに、まして短歌のごとく短くして、複雑なる主観的歌想を現すあたわず、ただ簡単なる想をのみ主とするものは、観察の精細ならざりし古代も観察の精細に赴きし後世も差異はなはだ少きがごとし。ただ時代時代の風俗政治等々しからざるがために材料または題目の上には多少の差異なきにあらず。例えば万葉時代には実地より出でたる恋歌の著しく多きに引きかえ『曙覧集』には恋歌は全くなくして、親を懐《おも》い子を悼み時を歎《なげ》くの歌などがかえって多きがごとし。

 曙覧の歌、四《よつ》になる女の子を失いて
きのふまで吾《わが》衣手《ころもで》にとりすがり
父よ父よといひてしものを

 父の十七年忌に
今も世にいまされざらむよはひにも
あらざるものをあはれ親なし

髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし

 母の三十七年忌に
はふ児にてわかれまつりし身のうさは 
面《おも》だに母を知らぬなりけり

 古書を読みて
真男鹿《まおしか》の肩焼く占《うら》にうらとひて
事あきらめし神代をぞ思ふ

 筑紫人《つくしびと》のその国へかえるに
程すぎて帰らぬ君と夕占《ゆうけ》とひ
まつらむ妹にとく行《ゆき》て逢へ

 されど女を思うも子を思うも恋い思うとばかり詠む短歌にては、感情の切なるを感ずるほかなければ、いずれにても深き差異あるにあらず。この点におきて『万葉』と曙覧と強いて優劣するを要せず。しこうして客観的歌想に至りては曙覧やや進めり。

 四季の題は多く客観的にして、『古今』以後客観的の歌は増加したれど、皆縁語または言語の虚飾を交えて、趣味を深くすることを解せざりしかば、絵画のごとく純客観的なるは極めて少かり。『新古今』は客観的叙述において著《いちじるし》く進歩しこの集の特色を成ししも、以後再び退歩して徳川時代に及ぶ。徳川時代にては俳句まず客観的叙述において空前の進歩をなし、和歌もまたようやくに同じ傾向を現ぜり。されども歌人皆|頑陋《がんろう》褊狭《へんきょう》[「頑陋」は頑固で道理をわきまえないこと。「褊狭」は狭いこと、矮小なこと]にして古習を破るあたわず、古人の用い来《きた》りし普通の材料題目の中にてやや変化を試みしのみ。曙覧、徳川時代の最後に出でて、始めて濶眼《かつがん》を開き、なるべく多くの新材料、新題目を取りて歌に入れたる達見は、趣味を千年の昔に求めてこれを目睫《もくしょう》[目と睫(まつげ)のこと。すぐ目の前といった意味をあらわす]に失したる真淵、景樹を驚かすべく、進取の気ありて進み得ず※[#「走にょう+咨」、第4水準2-89-24]※[#「走にょう+且」、第4水準2-89-22]逡巡《ししょしゅんじゅん》として姑息《こそく》に陥りたる諸平《もろひら》、文雄《ふみお》を圧するに足る。徳川時代の歌人がわずかに客観的趣味を解しながら深くその蘊奥《うんおう》[学問や技芸などの奥深いところ、奥義の境地]に入るあたわざりしは、第一に「新言語新材料を入るるべからず」という従来の規定を脱却するあたわざりしに因《よ》る。曙覧はまずこの第一の門戸を破りて、歌界改革の一歩を進めたり。

[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月三十日〕



 曙覧が客観的|景象《けいしょう》を詠ずるは、新材料を入れたることにおいて、新趣味を捉えしことにおいて、『万葉』より一歩を進めたるとともに、新言語新句法を用いしことにおいて、一般歌人よりは自在に言いこなすことを得たり。

秋田家《あきのでんか》
※[#「虫+乍」、第4水準2-87-38]※[#「虫+孟」、271-12]《いなごまろ》うるさく出《いで》てとぶ秋の
ひよりよろこび人豆を打つ

酉《とり》(詠十二時《じゅうにじをよむ》の内)
夕貌《ゆうがお》の花しらじらと咲めぐる
賤《しず》が伏屋《ふせや》に馬洗ひをり

松戸《まつのと》にて口よりいづるままに(録二)
ふくろふの糊《のり》すりおけと呼ぶ声に
衣《きぬ》ときはなち妹は夜ふかす

こぼれ糸|※[#「糸+麗」、第4水準2-84-64]《さで》につくりて魚とると
二郎《じろう》太郎《たろう》三郎《さぶろう》川に日くらす

行路雨《こうろのあめ》
雨ふれば泥|踏《ふみ》なづむ大津道《おおつみち》
我に馬ありめさね旅人

古寺雨《こじのあめ》
風まじり雨ふる寺の犬ふせぎ
しぶきのぬれにうつるみあかし

寒灯
ともすれば沈《しずむ》灯火《ともしび》かきかきて
苧《お》をうむ窓に霰《あられ》うつ声

砂月涼《さげつすずし》
そとの浜|千《ち》さとの目路《めじ》に塵《ちり》をなみ
すずしさ広き砂上《すなのうえ》の月

薔薇《そうび》
羽ならす蜂あたたかに見なさるる
窓をうづめて咲くさうびかな

題しらず
雲ならで通はぬ峰の石陰《いわかげ》に
神世のにほひ吐く草花《くさのはな》

歌会の様よめる中に(録五)
人麻呂の御像《みかた》のまへに机すゑ
灯《ともしび》かかげ御酒《みき》そなへおく

設け題よみてもてくる歌どもを
神の御前にならべもてゆく

ことごとく歌よみいでし顔を見て
やをら晩食《ゆうげ》の折敷《おしき》ならぶる

汁|食《めせ》とすすめめぐりてとぼしたる
火もきえぬべく人|突《つき》あたる

戸をあけて還る人々雪しろく
たまれりといひてわびわびぞ行《ゆく》

初午詣《はつうまもうで》
稲荷坂見あぐる朱《あけ》の大鳥居
ゆり動《うごか》して人のぼり来る

「設け題」「探り題」「あき米櫃」「饅頭を頬ばる」「笑ひかたりて腹をよる」「畳かず[(たぬき)]のものの広さにて」「二郎太郎三郎」など思うに任せて新語新句をはばかり気もなく使いたるのみならず、「人豆を打つ[#「人豆を打つ」に白丸傍点]」「涼しさ広き[#「涼しさ広き」に白丸傍点]」「窓をうづめてさく薔薇[#「窓をうづめてさく薔薇」に白丸傍点]」などいうがごとく、詩または俳句には用うれど、歌にはいまだ用いざる新句法をも用いたるはその見識の凡《ぼん》ならぬを見るべし。「神代のにほひ吐く草の花」といえる歌は彼の神明的理想を現したるものにて、この種の思想が日本の歌人に乏しかりしは論を竢《ま》たず。(曙覧の理想も常にこの極処に触れしにあらず)一般に天然に対する歌人の観察は極めて皮相的にして花は「におう」と詠み、月は「清し」と詠み、鳥は「啼《な》く」、とのみ詠むのほか、花のうつくしさ、月の清さ、鳥の啼く声をしみじみと身にしめて感じたる後に詠むということなければ、変化のなきのみか、その景象を明瞭《めいりょう》に眼前に浮《うか》ばしむることは絶えてあるなし。曙覧の叙景法を見るにしからず。例えば「赤きもみぢに霜ふりて」「霜の上に冬木の影をうす黒くうつして」と詠めるがごとき、「もみぢ」の上に「赤き」という形容語を冠《かぶ》せ、「影」の下に「うす黒き」という形容語を添えて、ことさらに重複せしめたるは、霜の白さを強く現さんとの工夫なり。その成功はともかくも、その著眼《ちゃくがん》の高きことは争うべからず。

 曙覧は擬古[(ぎこ)]の歌も詠み、新様《しんよう》の歌も詠み、慷慨《こうがい》[社会の不義や不正を嘆くこと]激烈の歌も詠み、和暢平遠《わちょうへいえん》[「和暢」はのどかなこと、「平遠」は平らで遠くまで開けているさま]の歌も詠み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎《たかやまひこくろう》をも詠み、御魚屋八兵衛《おさかなやはちべえ》をも詠み、侠家《きょうか》の雪も詠み、妓院《ぎいん》の雪も詠み、蟻《あり》も詠み、虱《しらみ》も詠み、書中の胡蝶《こちょう》も詠み、窓外[そうがい]の鬼神も詠み、饅頭も詠み、杓子《しゃくし》も詠む。見るところ聞くところ触るるところことごとく三十一字中に収めざるなし。曙覧の歌想豊富なるは単調なる『万葉』の及ぶところにあらず。[#地付き]〔『日本』明治三十二年四月九日〕



[朗読4]

 世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用いず、『万葉』にありふれたる趣のほかは新しき趣を求めず、かくのごとくにして作り得たる陳腐なる歌を挙げ、自ら万葉調なりという、こは『万葉』の形を模して『万葉』の精神を失えるものなり。『万葉』の作者が歌を作るは用語に制限あるにあらず、趣向に定規あるにあらず、あらゆる語を用いて趣向を詠みたるものすなわち『万葉』なり。曙覧が新言語を用い新趣味を詠じ毫《ごう》も古格旧例に拘泥せざりしは、なかなかに『万葉』の精神を得たるものにして、『古今集』以下の自ら[(かく)]して小区域に局促《きょくそく》[器量のきわめて小さいさま]たりしと同日に語るべきにあらず。ただ歌全体の調子において曙覧はついに『万葉』に及ばず、実朝に劣りたり。惜《おし》むべき彼は完全なる歌人たるあたわざりき。

 曙覧の歌の調子につきて例を挙げて論ぜんか。前に示したる鉱山の歌のごときは調子ほぼととのいたり、されどこれほどにととのいたるは集中多く見るべからず、ましてこれより勝りたるはほとんどあるなし。

書中乾胡蝶《しょちゅうのからこちょう》
からになる蝶には大和魂を
招きよすべきすべもあらじかし

 結句字余りのところ『万葉』を学びたれど勢《いきおい》抜けて一首を結ぶに力弱し。『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌《しょうじょう》の差[雲泥の差。非常に大きな隔たりのこと]あり。

緇素月見《しそつきをみる》
樒《しきみ》つみ鷹《たか》すゑ道をかへゆけど
見るは一つの野路の月影

 この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」というような尋常の句法を用いて結ぶ方よろし。「見るは月影」と有形物をもって結びたるはなかなかに賤《いや》しく厭《いと》わし。


あないぶせ銚子《さしなべ》かけてたく藁《わら》の
もゆとはなしに煙のみたつ

「あないぶせ」とかように初《はじめ》に置くこと感情の順序に戻《もと》りて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべし。下二句の言い様も俗なり。


賤家《しずがいえ》這入《はいり》せばめて物ううる
畑のめぐりのほほづきの色

 この歌は酸漿《ほおずき》を主として詠みし歌なれば一、二、三、四の句皆一気|呵成《かせい》的にものせざるべからず。しかるにこの歌の上半は趣向も混雑しかつ「せばめて」などいう曲折せる語もあり、かたがたもって「ほほづきの色」という結句を弱からしむ。

よそありきしつつ帰ればさびしげに
なりてひをけのすわりをる哉《かな》

 句法のたるみたる様、西行の歌に似たり。「さびしげになりて」という続きも拙く「すわりをるかな」のたるみたるは論なし。「なりて」の語をやめて代りに「火桶《ひおけ》」の形容詞など置くべく、結句は「火桶すわりをる」のごとき句法を用うるか、または「○○すわりをる」「すわり○○をる」のごとく結びて「哉」を除くべし。

かつふれて巌《いわお》の角に怒りたる
おとなひすごき山の滝つせ

 この歌は滝の勢《いきおい》を詠みたるものにて、言葉にては「怒りたる」が主眼なり。さるを第三句に主眼を置きしゆえ結末弱くなりて振わず。「怒り落つる滝」などと結ぶが善し。

島崎土夫主《しまざきつちおぬし》の軍人《いくさびと》の中にあるに
妹が手にかはる甲《よろい》の袖《そで》まくら
寝られぬ耳に聞くや夜嵐《よあらし》

 上三句重く下二句軽く、瓢《ひさご》を倒《さかしま》にしたるの感あり。ことに第四句力弱し。

狛君《こまぎみ》の別墅《べっしょ》二楽亭
広き水真砂のつらに見る庭の
ながめを曳《ひき》て山も連なる

 前の歌と同じ調子、同じ非難なり。[#地付き]〔『日本』明治三十二年四月二十二日〕



酔人の水にうちいるる石つぶて
かひなきわざに臂《ひじ》を張る哉

 これも上三句重く下二句軽し。曙覧の歌は多くこの頭重脚軽《とうじゅうきゃくけい》の病あり

宰相君《さいしょうのきみ》よりたけを賜はらせけるに
秋の香をひろげたてつる松のかさ
いただきまつるもろ手ささげて

 これも前の歌と同じく下二句軽くして結び得ず。

羊腸《つづらおり》ありともしらで人のせに
負《おわ》れて秋の山ふみをしつ

 これも頭重脚軽なり。この歌にては「背に負はれ」というが主眼なれば、この主眼を結句に置かざれば据わらざるべし。

ふくろふの糊すりおけと呼ぶ声に
衣《きぬ》ときはなち妹は夜ふかす

こぼれ糸|※[#「糸+麗」、第4水準2-84-64]《さで》につくりて魚とると
二郎太郎三郎川に日くらす

 この歌はいずれも趣向の複雑したる歌なれば結句に千鈞《せんきん》[鈞は重さの単位。ともかく、きわめて重いこと。きわめて価値の高いこと]の力なかるべからず。しかるに二首ともに結句の力、上三句に比して弱きを覚ゆ。ことに第四句に「二郎太郎三郎」などいえるつまりたる語を用いなば、第五句はますます重く強きを要す。

 曙覧の歌調を概論すれば第二句重く第四句軽く、結句は力弱くして全首を結ぶに足らざるもの最も多きに居る。『万葉』にこの頭重脚軽の病なきはもちろん、『古今』にもまたなし。徳川氏の末ようやく複雑なる趣向を取るに至りて多くは皆この病を免れず。曙覧また同じ。曙覧はほとんど歌調を解せず。歌調を解せざるがために彼はついに歌人たるを得ずして終れり。

 これを要するに曙覧の歌は『万葉』に実朝に及ばざること遠しといえども、貫之《つらゆき》以下今日に至る幾百の歌人を圧倒し尽せり。新言語を用い新趣向を求めたる彼の卓見は歌学史上特筆して後に伝えざるべからず。彼は歌人として実朝以後ただ一人《いちにん》なり。真淵、景樹、諸平、文雄輩に比すれば彼は鶏群の孤鶴《こかく》なり。歌人として彼を賞賛するに千言万語を費すとも過賛にはあらざるべし。しかれども彼の和歌をもってこれを俳句に比せんか。彼はほとんど作家と称せらるるだけの価値をも有せざるべし。彼が新言語を用うるに先だつ百四、五十年前に芭蕉一派の俳人は、彼が用いしよりも遥《はる》かに多き新言語を用いたり。彼の歌想は他の歌想に比して進歩したるところありとこそいうべけれ、これを俳句の進歩に比すれば未《いま》だその門墻《もんしょう》[門と牆(かき)、すなわち垣根のこと。そこから家の入口といった意味]をも覗《うかが》い得ざるところにあり。俳人の極めて幼稚なるものといえども、趣味の多様なることは曙覧の歌のわずかに新奇ならんとせしがごときに非ず。曙覧をして俳人ならしめば、ほとんどその名だに伝うるあたわざりしなるべし。いわんや彼は全く調子を解せざるをや。しかるにかくのごとき曙覧をも古来有数の歌人として賞せざるべからざる歌界の衰退は、あわれにも気の毒の次第と謂《い》わざるべからず。余は曙覧を論ずるに方《あた》りて実にその褒貶《ほうへん》[褒めることと貶すこと]に迷えり。もしそれ曙覧の人品性行に至りては磊々落々《らいらいらくらく》[「磊落」で、気持ちが大きく朗らかであり小事に拘らないこと]世間の名利に拘束せられず、正を守り義を取り俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》じざる[「俯仰」は、俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること。そこから起ち居の動作を指すこともある。「俯仰天地に愧じざる」で「天に対しても地に対しても恥ずかしいところのない」といった意味]、けだし絶無|僅有《きんゆう》[「僅有」わずかしかない。「絶無」絶えて存在しない。「僅有絶無」で、ほとんど存在しない、ほとんどあり得ないこと]の人なり。

この稿を草する半《なかば》にして、曙覧|翁《おう》の令嗣《れいし》[他人のあととりの尊敬語]今滋《いましげ》氏特に草廬《そうろ》を敲《たた》いて翁の伝記及び随筆等を示さる。因《よ》って翁の小伝を掲げて読者の瀏覧《りゅうらん》[目を通すこと/他人が見ることの尊敬語]に供せんとす。歌と伝と相照し見ば曙覧翁眼前にあらん。

[#地から2字上げ]竹の里人付記
[#地付き]〔『日本』明治三十二年四月二十三日〕

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青空文庫ファイル情報

底本:「子規選集 第七巻 子規の短歌革新」増進会出版社
   2002(平成14)年4月12日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 第七卷 歌論 選歌」講談社
   1975(昭和50)年7月18日第1刷発行
初出:「日本」日本新聞社
   1899(明治32)年3月22日~24日
   1899(明治32)年3月26日
   1899(明治32)年3月28日
   1899(明治32)年3月30日
   1899(明治32)年4月9日
   1899(明治32)年4月22日~23日
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年2月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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2010/2/12
2011/2/25-3/5
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