夏目漱石、「坑夫」その1

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 さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生《は》えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行《あるい》たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨《にら》めっ子《こ》をしている方が増しだ。

 東京を立ったのは昨夕《ゆうべ》の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥《くたび》れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇《くらやみ》の神楽堂《かぐらどう》へ上《あが》ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚《さ》めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押《ひらお》しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精《せい》がない。

 足はだいぶ重くなっている。膨《ふく》ら脛《はぎ》に小さい鉄の才槌《さいづち》を縛《しば》り附けたように足掻《あがき》に骨が折れる。袷《あわせ》の尻は無論|端折《はしお》ってある。その上|洋袴下《ズボンした》さえ穿《は》いていないのだから不断なら競走でもできる。が、こう松ばかりじゃ所詮《しょせん》敵《かな》わない。

 掛茶屋がある。葭簀《よしず》の影から見ると粘土《ねばつち》のへっつい[#「へっつい」に傍点]に、錆《さび》た茶釜《ちゃがま》が掛かっている。床几《しょうぎ》が二尺ばかり往来へ食《は》み出した上から、二三足|草鞋《わらじ》がぶら下がって、袢天《はんてん》だか、どてら[#「どてら」に傍点]だか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている。

 休もうかな、廃《よ》そうかなと、通り掛りに横目で覗《のぞ》き込んで見たら、例の袢天とどてら[#「どてら」に傍点]の中《ちゅう》を行く男が突然こっちを向いた。煙草《たばこ》の脂《やに》で黒くなった歯を、厚い唇《くちびる》の間から出して笑っている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端《とたん》に、向うの顔は急に真面目《まじめ》になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出《で》っ喰《くわ》したものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間《ま》もなくまた気味が悪くなった。男は真面目になった顔を真面目な場所に据《す》えたまま、白眼《しろめ》の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額《ひたい》とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂《ひさし》を跨《また》いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降《さが》って来た。今度は顔を素通りにして胸から臍《へそ》のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口《がまぐち》がある。三十二銭|這入《はい》っている。白い眼は久留米絣《くるめがすり》の上からこの蟇口を覘《ねら》ったまま、木綿《もめん》の兵児帯《へこおび》を乗り越してやっと股倉《またぐら》へ出た。股倉から下にあるものは空脛《からすね》ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食《く》ッ附《つ》いちゃいない。ただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕《あと》が黒くついた俎下駄《まないたげた》の台まで降《くだ》って行った。

 こう書くと、何だか、長く一所《ひとところ》に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否《いな》や急に茶店へ休むのが厭《いや》になったから、すたすた歩き出したつもりである。にもかかわらず、このつもりが少々|覚束《おぼつか》なかったと見えて、自分が親指にまむしを拵《こしら》えて、俎下駄を捩《ねじ》る間際《まぎわ》には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものである。じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、どこまでも落ちついている。がそれで滅法《めっぽう》早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思ったくらいである。それにしても、ああ緩《ゆっ》くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかったもんだろうか。さんざっ腹《ぱら》冷《ひや》かされて、さあ御帰り、用はないからと云う段になって、もう御免蒙《ごめんこうぶ》りますと立ち上ったようなものだ。こっちは馬鹿気《ばかげ》ている。あっちは得意である。

 歩き出してから五六間の間は変に腹が立った。しかし不愉快は五六間ですぐ消えてしまった。と思うとまた足が重くなった。――この足だもの。何しろ鉄の才槌《さいづち》を双方の足へ縛《しば》り附けて歩いてるんだから、敏活の行動は出来ないはずだ。あの白い眼にじりじりやられたのも、満更《まんざら》持前の半間《はんま》からばかり来たとも云えまい。こう思い直して見ると下らない。

 その上こんな事を気にしていられる身分じゃない。いったん飛び出したからは、もうどうあっても家《うち》へ戻る了簡《りょうけん》はない。東京にさえ居《お》り切れない身体《からだ》だ。たとい田舎《いなか》でも落ちつく気はない。休むと後《うしろ》から追っ掛けられる。昨日《きのう》までのいさくさが頭の中を切って廻った日にはどんな田舎だってやり切れない。だからただ歩くのである。けれども別段に目的《めあて》もない歩き方だから、顔の先一間四方がぼうとして何だか焼き損《そく》なった写真のように曇っている。しかもこの曇ったものが、いつ晴れると云う的《あて》もなく、ただ漠然《ばくぜん》と際限もなく行手に広がっている。いやしくも自分が生きている間は五十年でも六十年でも、いくら歩いても走《かけ》ても依然として広がっているに違いない。ああ、つまらない。歩くのはいたたまれないから歩くので、このぼんやりした前途を抜出すために歩くのではない。抜け出そうとしたって抜け出せないのは知れ切っている。

 東京を立った昨夜《ゆうべ》の九時から、こう諦《あきらめ》はつけてはいるが、さて歩き出して見ると、歩きながら気が気でない。足も重い、松が厭《あ》きるほど行列している。しかし足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。何のために歩いているんだか分らなくって、しかも歩かなくっては一刻も生きていられないほどの苦痛は滅多《めった》にない。

 のみならず歩けば歩くほどとうてい抜ける事のできない曇った世界の中へだんだん深く潜《もぐ》り込んで行くような気がする。振り返ると日の照っている東京はもう代《よ》が違っている。手を出しても足を伸ばしても、この世では届かない。まるで娑婆《しゃば》が違う。そのくせ暖かな朗《ほがら》かな東京は、依然として眼先にありありと写っている。おういと日蔭《ひかげ》から呼びたくなるくらい明かに見える。と同時に足の向いてる先は漠々《ばくばく》たるものだ。この漠々のうちへ――命のあらん限り広がっているこの漠々のうちへ――自分はふらふら迷い込むのだから心細い。

 この曇った世界が曇ったなりはびこって、定業《じょうごう》の尽きるまで行く手を塞《ふさ》いでいてはたまらない。留まった片足を不安の念に駆《か》られて一歩前へ出すと、一歩不安の中へ踏み込んだ訳《わけ》になる。不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、やむを得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埓《らち》が明くはずがない。生涯《しょうがい》片づかない不安の中を歩いて行くんだ。とてもの事に曇ったものが、いっそだんだん暗くなってくれればいい。暗くなった所をまた暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇《やみ》になって、自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろう。そうなれば気楽なものだ。

 意地の悪い事に自分の行く路は明るくもなってくれず、と云って暗くもなってくれない。どこまでも半陰半晴の姿で、どこまでも片づかぬ不安が立て罩《こ》めている。これでは生甲斐《いきがい》がない、さればと云って死に切れない。何でも人のいない所へ行って、たった一人で住んでいたい。それが出来なければいっその事……

 不思議な事にいっその事と観念して見たが別にどきんともしなかった。今まで東京にいた時分いっその事と無分別を起しかけた事もたびたびあるが、そのたびたびにどきんとしない事はなかった。後《あと》からぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、まあ善かったと思わない事もなかった。ところが今度は天からどきん[#「どきん」に傍点]ともぞっ[#「ぞっ」に傍点]ともしない。どきん[#「どきん」に傍点]とでもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とでも勝手にするが善《い》いと云うくらいに、不安の念が胸一杯に広がっていたんだろう。その上いっその事を断行するのが今が今ではないと云う安心がどこかにあるらしい。明日《あした》になるか明後日《あさって》になるか、ことに由《よ》ったら一週間も掛るか、まかり間違えば無期限に延ばしても差支《さしつかえ》ないと高《たか》を括《くく》っていたせいかも知れない。華厳《けごん》の瀑《たき》にしても浅間《あさま》の噴火口《ふんかこう》にしても道程《みちのり》はまだだいぶあるくらいは知らぬ間《ま》に感じていたんだろう。行き着いていよいよとならなければ誰がどきん[#「どきん」に傍点]とするものじゃない。したがっていっその事を断行して見ようと云う気にもなる。この一面に曇った世界が苦痛であって、この苦痛をどきん[#「どきん」に傍点]としない程度において免《まぬか》れる望があると思えば重い足も前に出し甲斐がある。まずこのくらいの決心であったらしい。しかしこれはあとから考えた心理状態の解剖である。その当時はただ暗い所へ出ればいい。何でも暗い所へ行かなければならないと、ひたすら暗い所を目的《めあて》に歩き出したばかりである。今考えると馬鹿馬鹿しいが、ある場合になると吾々は死を目的にして進むのを責《せめ》てもの慰藉《いしゃ》と心得るようになって来る。ただし目指す死は必ず遠方になければならないと云う事も事実だろうと思う。少くとも自分はそう考える。あまり近過ぎると慰藉になりかねるのは死と云う因果である。

 ただ暗い所へ行きたい、行かなくっちゃならないと思いながら、雲を攫《つか》むような料簡《りょうけん》で歩いて来ると、後《うしろ》からおいおい呼ぶものがある。どんなに魂がうろついてる時でも呼ばれて見ると性根《しょうね》があるのは不思議なものだ。自分は何の気もなく振り向いた。応ずるためと云う意識さえ持たなかったのは事実である。しかし振り向いて見て始めて気がついた。自分はさっきの茶店からまだ二十間とは離れていない。その茶店の前の往来へ、例の袢天《はんてん》とどてら[#「どてら」に傍点]の合《あい》の子《こ》が出て、脂《やに》だらけの歯をあらわに曝《さら》しながらしきりに自分を呼んでいる。

 昨夕《ゆうべ》東京を立ってから、まだ人間に口を利《き》いた事がない。人から言葉を掛けられようなどとは夢にも予期していなかった。言葉を掛けられる資格などはまるで無いものと自信し切っていた。ところへ突然呼び懸《か》けられたのだから――粗末な歯並《はなら》びだが向き出しに笑顔を見せてしきりに手招きをしているのだから、ぼんやり振り返った時の心持が、自然と判然《はっきり》すると共に、自分の足はいつの間にか、その男の方へ動き出した。

 実を云うとこの男の顔も服装《なり》も動作もあんまり気に入っちゃいない。ことにさっき白い眼でじろじろやられた時なぞは、何となく嫌悪《けんお》の念が胸の裡《うち》に萌《きざ》し掛けたくらいである。それがものの二十間とも歩かないうちに以前の感情はどこかへ消えてしまって、打って変った一種の温味《あたたかみ》を帯びた心持で後帰《あとがえ》りをしたのはなぜだか分らない。自分は暗い所へ行かなければならないと思っていた。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反対の見当《けんとう》に取って返す事になる。暗い所から一歩《ひとあし》立ち退《の》いた意味になる。ところがこの立退《たちのき》が何となく嬉《うれ》しかった。その後《のち》いろいろ経験をして見たが、こんな矛盾は到《いた》る所に転《ころ》がっている。けっして自分ばかりじゃあるまいと思う。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分ったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘《うそ》をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏《まとま》ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古《てこ》ずるくらい纏まらない物体だ。しかし自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人《ひと》も自分同様|締《しま》りのない人間に違ないと早合点《はやがてん》をしているのかも知れない。それでは失礼に当る。

 とにかく引き返して目倉縞《めくらじま》の傍《そば》まで行くと、どてら[#「どてら」に傍点]はさも馴《な》れ馴れしい声で
「若い衆《しゅ》さん」
と云いながら、大きな顎《あご》を心持|襟《えり》の中へ引きながら自分の額のあたりを見詰めている。自分は好加減《いいかげん》なところで、茶色の足を二本立てたまま、
「何か用ですか」
と叮嚀《ていねい》に聞いた。これが平生《へいぜい》ならこんなどてら[#「どてら」に傍点]から若い衆さんなんて云われて快よく返辞をする自分じゃない。返辞をするにしてもうん[#「うん」に傍点]とか何だ[#「何だ」に傍点]とかで済したろうと思う。ところがこの時に限って、人相のよくないどてら[#「どてら」に傍点]と自分とは全く同等の人間のような気持がした。別に利害の関係からしてわざと腰を低く出たんじゃ、けっしてない。するとどてら[#「どてら」に傍点]の方でも自分を同程度の人間と見做《みな》したような語気で、
「御前《おまえ》さん、働く了簡《りょうけん》はないかね」
と云った。自分は今が今まで暗い所へ行くよりほかに用のない身と覚悟していたんだから、藪《やぶ》から棒《ぼう》に働く了簡はないかねと聞かれた時には、何と答えて善《い》いか、さっぱり訳《わけ》が分らずに、空脛《からすね》を突っ張ったまま、馬鹿見たような口を開けて、ぼんやり相手を眺《なが》めていた。
「御前さん、働く了簡はないかね。どうせ働かなくっちゃならないんだろう」
とどてら[#「どてら」に傍点]がまた問い返した。問い返された時分にはこっちの腹も、どうか、こうか、受け答の出来るくらいに眼前の事況《じきょう》を会得《えとく》するようになった。
「働いても善《い》いですが」

 これは自分の答である。しかしこの答がいやしくも口に出て来るほどに、自分の頭が間に合せの工面にせよ、やっと片づいたと云うものは、単純ながら一順の過程を通っておる。

 自分はどこへ行くんだか分らないが、なにしろ人のいないところへ行く気でいた。のに振り向いてどてら[#「どてら」に傍点]の方へあるき出したのだから、歩き出しながら何となく自分に対して憫然《びんぜん》な感がある。と云うものはいくらどてら[#「どてら」に傍点]でも人間である。人間のいない方へ行くべきものが、人間の方へ引き戻されたんだから、ことほどさように人間の引力が強いと云う事を証拠立てると同時に、自分の所志にもう背《そむ》かねばならぬほどに自分は薄弱なものであったと云う事をも証拠立てている。手短《てみじか》に云うと、自分は暗い所へ行く気でいるんだが、実のところはやむを得ず行くんで、何か引っかかりが出来れば、得《え》たり賢《かしこ》しと普通の娑婆《しゃば》に留まる了簡なんだろうと思われる。幸いに、どてら[#「どてら」に傍点]が向うから引っかかってくれたんで、何の気なしに足が後向《うしろむ》きに歩き出してしまったのだ。云わば自分の大目的に申し訳のない裏切りをちょっとして見た訳になる。だからどてら[#「どてら」に傍点]が働く気はないかねと出てくれずに、御前さん野にするかね、それとも山にするかねとでも切り出したら、しばらく安心して忘れかけた目的を、ぎょっと思い出させられて、急に暗い所や、人のいない所が怖《こわ》くなってぞっとしたに違ない。それほどの娑婆気《しゃばけ》が、戻り掛ける途端《とたん》にもう萌《きざ》していたのである。そうしてどてら[#「どてら」に傍点]に呼ばれれば呼ばれるほど、どてら[#「どてら」に傍点]の方へ近寄れば近寄るほど、この娑婆気は一歩ごとに増長したものと見える。最後に空脛《からすね》を二本、棒のようにどてら[#「どてら」に傍点]の真向うに突っ立てた時は、この娑婆気が最高潮に達した瞬間である。その瞬間に働く気はないかねと来た。御粗末などてら[#「どてら」に傍点]だが非常に旨《うま》く自分の心理状態を利用した勧誘である。だし抜けの質問に一時はぼんやりしたようなものの、ぼんやりから覚《さ》めて見れば、自分はいつか娑婆の人間になっている。娑婆の人間である以上は食わなければならない。食うには働かなくっちゃ駄目だ。
「働いても、いいですが」

 答は何の苦もなく自分の口から滑《すべ》り出してしまった。するとどてら[#「どてら」に傍点]はそうだろうそのはずさと云うような顔つきをした。自分は不思議にもこの顔つきをもっともだと首肯《しゅこう》した。
「働いても、いいですが、全体どんな事をするんですか」
と自分はここで再び聞き直して見た。
「大変|儲《もう》かるんだが、やって見る気はあるかい。儲かる事は受合《うけあい》なんだ」

 どてら[#「どてら」に傍点]は上機嫌の体《てい》で、にこにこ笑いながら、自分の返事を待っている。どうせどてら[#「どてら」に傍点]の笑うんだから、愛嬌《あいきょう》にもなんにもなっちゃいない。元来《がんらい》笑うだけ損になるようにでき上がってる顔だ。ところがその笑い方が妙になつかしく思われて
「ええやって見ましょう」
と受けてしまった。
「やって見る? そいつあ結構だ。君|儲《もう》かるよ」
「そんなに儲けなくっても、いいですが……」
「え?」
 どてら[#「どてら」に傍点]はこの時妙な声を出した。
「全体どんな仕事なんですか」
「やるなら話すが、やるだろうね、お前さん。話した後で厭《いや》だなんて云われちゃ困るが。きっとやるだろうね」
 どてら[#「どてら」に傍点]はむやみに念を押す。自分はそこで、
「やる気です」
と答えた。しかしこの答は前のように自然天然には出なかった。云わばいきみ[#「いきみ」に傍点]出した答である。大抵の事ならやって退《の》けるが、万一の場合には逃げを張る気と見えた。だからやりますと云わずにやる気です[#「気です」に傍点]と云ったんだろう。――こう自分の事を人の事のように書くのは何となく変だが、元来人間は締りのないものだから、はっきりした事はいくら自分の身の上だって、こうだとは云い切れない。まして過去の事になると自分も人も区別はありゃしない。すべてがだろう[#「だろう」に傍点]に変化してしまう。無責任だと云われるかも知れないが本当だから仕方がない。これからさきも危《あや》しいところはいつでもこの式で行くつもりだ。

 そこでどてら[#「どてら」に傍点]は略《ほぼ》話が纏《まとま》ったものと呑《の》み込んで
「じゃ、まあ御這入《おはい》り。緩《ゆっ》くり御茶でも呑《の》んで話すから」
と云う。別に異存もないから、茶店に這入ってどてら[#「どてら」に傍点]の隣りに腰をおろしたら、口のゆがんだ四十ばかりの神《かみ》さんが妙な臭《にお》いのする茶を汲んで出した。茶を飲んだら、急に思い出したように腹が減って来た。減って来たのか、減っていたのに気がついたのか分らない。蟇口《がまぐち》には三十二銭這入っている、何か食おうかしらと考えていると
「君、煙草《たばこ》を呑むかい」
と、どてら[#「どてら」に傍点]が「朝日」の袋を横から差し出した。なかなか御世辞がいい。袋の角《かど》が裂けてるのは仕方がないが、何だか薄穢《うすぎた》なく垢《あか》づいた上に、びしゃりと押し潰《つぶ》されて、中にある煙草がかたまって、一本になってるように思われる。袖《そで》のないどてら[#「どてら」に傍点]だから、入れ所に窮して腹掛《はらがけ》の隠しへでも捩《ね》じ込んで置くものと見える。
「ありがとう、たくさんです」
と断ると、どてら[#「どてら」に傍点]は別に失望の体《てい》もなく、自分でかたまったうちの一本を、爪垢《つめあか》のたまった指先で引っ張り出した。はたせるかな煙草は皺《しわ》だらけになって、太刀《たち》のように反《そ》っている。それでも破けた所もないと見えて、すぱすぱ吸うと鼻から煙《けむ》が出る。際《きわ》どいところで煙草の用を足しているから不思議だ。
「御前さん、幾年《いくつ》になんなさる」

 どてら[#「どてら」に傍点]は自分の事を御前さんと云ったり君と云ったりするようだが、何で区別するんだか要領を得ない。今までのところで察して見ると、儲《もう》かるときには君になって、不断の時には御前さんに復するようにも見える。何でも儲かる事がだいぶん気になっているらしい。
「十九です」
と答えた。実際その時は十九に違なかったのである。
「まだ若いんだね」
と口のゆがんだ神さんが、後向《うしろむき》になって盆を拭《ふ》きながら云った。後向きだから、どんな顔つきをしているか見えない。独《ひと》り言《ごと》だかどてら[#「どてら」に傍点]に話しかけてるんだか、それとも自分を相手にする気なんだか分らなかった。するとどてら[#「どてら」に傍点]は、さも調子づいた様子で、
「そうさ、十九じゃ若いもんだ。働き盛りだ」
と、どうしても働かなくっちゃならないような語気である。自分はだまって床几《しょうぎ》を離れた。

 正面に駄菓子《だがし》を載《の》せる台があって、縁《ふち》の毀《と》れた菓子箱の傍《そば》に、大きな皿がある。上に青い布巾《ふきん》がかかっている下から、丸い揚饅頭《あげまんじゅう》が食《は》み出している。自分はこの饅頭が喰いたくなったから、腰を浮かして菓子台の前まで来たのだが、傍《そば》へ来て、つらつら饅頭《まんじゅう》の皿を覗《のぞ》き込んで見ると、恐ろしい蠅だ。しかもそれが皿の前で自分が留まるや否《いな》や足音にパッと四方に散ったんで、おやと思いながら、気を落ちつけて少しく揚饅頭を物色していると、散らばった蠅は、もう大風が通り越したから大丈夫だよと申し合せたように、再びぱっと饅頭の上へ飛び着いて来た。黄色《きいろ》い油切った皮の上に、黒いぽちぽちが出鱈目《でたらめ》にできる。手を出そうかなと思う矢先へもって来て、急に黒い斑点《はんてん》が、晴夜《せいや》の星宿《せいしゅく》のごとく、縦横に行列するんだから、少し辟易《へきえき》してしまって、ぼんやり皿を見下《みおろ》していた。
「御饅頭を上がんなさるかね。まだ新しい。一昨日《おととい》揚げたばかりだから」

 かみさんは、いつの間《ま》にか盆を拭いてしまって、菓子台の向側《むこうがわ》に立っている。自分は不意と眼を上げて神さんを見た。すると神さんは何と思ったか、いきなり、節太《ふしぶと》の手を皿の上に翳《かざ》して、
「まあ、大変な蠅だ事」
と云いながら、翳した手を竪《たて》に切って、二三度左右へ振った。
「上がるんなら取って上げよう」

 神さんはたちまち棚の上から木皿を一枚おろして、長い竹の箸《はし》で、饅頭をぽんぽんぽんと七つほど挟《はさ》み込んで、
「こっちがいいでしょう」
と木皿を、自分の腰を掛けていた床几《しょうぎ》の上へ持って行った。自分は仕方がないからまたもとの席へ帰って、木皿の隣へ腰を掛けた。見ると、もう蠅が飛んで来ている。自分は蠅と饅頭と木皿を眺《なが》めながら、どてら[#「どてら」に傍点]に向って
「一つどうです」
と云って見た。これはあながち「朝日」の御礼のためばかりではない。幾分かはどてら[#「どてら」に傍点]が一昨日揚げた蠅だらけの饅頭を食うだろうか食わないだろうか試して見る腹もあったらしい。するとどてら[#「どてら」に傍点]は
「や、すまない」
と云いながら、何の苦もなく一番上の奴《やつ》を取って頬張《ほおば》っちまった。唇《くちびる》の厚い口をもごつかせているところを観察すると、満更《まんざら》でもなさそうに見えた。そこで自分も思い切って、こちら側の下から、比較的|奇麗《きれい》なのを摘《つま》み出して、あんぐりやった。油の味が舌の上へ流れ出したと思う間もなく、その中から苦《にが》い餡《あん》が卒然として味覚を冒《おか》して来た。しかしこの際だから別にしまったとも思わなかった。難なく餡も皮も油もぐいと胃の腑《ふ》へ呑《の》み下《くだ》してしまったら、自然と手がまた木皿の方へ出たから不思議なものだ。どてら[#「どてら」に傍点]はこの時もう第二の饅頭を平らげて、第三に移っている。自分に比較すると大変速力が早い。そうして食ってる間は口を利《き》かない。働く事も儲《もう》かる事もまるで忘れているらしい。したがって七つの饅頭は呼吸《いき》を二三度するうちに無くなってしまった。しかも自分はたった二つしか食わない。残る五つは瞬《またた》く間《ま》にどてら[#「どてら」に傍点]のためにしてやられたのである。

 いかに逡巡《しりごみ》をするほどの汚《きた》ならしいものでも、一度皮切りをやると、あとはそれほど神経に障《さわ》らずに食えるものだ。これはあとで山へ行ってしみじみ経験した事で、今では何でもない陳腐《ちんぷ》の真理になってしまったが、その時は饅頭《まんじゅう》を食いながら少々|呆《あき》れたくらい後《あと》が食いたくなった。それに腹は減っている。その上相手がどてら[#「どてら」に傍点]である。このどてら[#「どてら」に傍点]が事もなげに、砂のついた饅頭をぱくつくところを見ると、多少は競争の気味にもなって、神経などは有っても役に立たない、起すだけが損だと云う心持になる。そこで自分はとうとう神さんにたのんで饅頭の御代《おかわ》りを貰《もら》った。

 今度は「一つ、どうです」とも何とも云わずに、木皿が床几《しょうぎ》の上に乗るや否や、自分の方でまず一つ頬張《ほおば》った。するとどてら[#「どてら」に傍点]も、「や、すまない」とも何とも云わずに、だまって一つ頬張った。次に自分がまた一つ頬張る。次にどてら[#「どてら」に傍点]がまた一つ頬張る。互違《たがいちがい》に頬張りっ子をして六つ目まで来た時、たった一つ残った。これが幸い自分の番に当っているので、どてら[#「どてら」に傍点]が手を出さないうちに、自分が頬張ってしまった。それからまた御代りを貰った。
「君だいぶやるね」
とどてら[#「どてら」に傍点]が云った。自分はだいぶやる気も何もなかったが、云われて見るとだいぶやるに違ない。しかしこれは初手《しょて》にどてら[#「どてら」に傍点]の方で自分の食いたくないものを、むしゃむしゃ食って見せて、自分の食慾を誘致した結果が与《あずか》って力あるようだ。ところがどてら[#「どてら」に傍点]の方では全然こっちの責任でだいぶやってるような口気《こうき》であった。だから自分は何だかどてら[#「どてら」に傍点]に対して弁解して見たい気がしたが、弁解する言葉がちょっと出て来なかった。ただ雲を攫《つか》むようにどてら[#「どてら」に傍点]にも責任があるんだろうと思うだけで、どこが責任なんだか分らなかったから黙っていた。すると
「君、揚饅頭がよっぽど好きと見えるね」
と今度は云った。饅頭にも寄り切りで、一昨日《おととい》揚げた砂だらけの蠅だらけの饅頭が好きな訳はない。と云って現に三皿まで代えて食うものを嫌《きらい》だとは無論云われない。だから今度も黙っていた。そこへ茶店の神さんが突然口を出した。――
「うちの御饅《おまん》は名代の御饅だから、みんなが旨《うま》がって食べるだよ」

 神さんの言葉を聞いた時自分は何だか馬鹿にされてるような気がした。そこでますます黙ってしまった。黙って聞いてると、
「旨い事この上なしだ」
とどてら[#「どてら」に傍点]が云ってる。本当なんだか御世辞なんだかちょっと見当《けんとう》がつかなかった。とにかく饅頭はどうでも構わないから、肝心《かんじん》の労働問題を聞糾《ききただ》して見ようと思って、
「先刻《さっき》の御話ですがね。実は僕もいろいろの事情があって、働いて飯を食わなくっちゃならない身分なんですが、いったいどんな事をやるんですか」
とこっちから口を切って見た。どてら[#「どてら」に傍点]は正面の菓子台を眺《なが》めていたが、この時急に顔だけ自分の方へ向けて 「君、儲《もう》かるんだぜ。嘘《うそ》じゃない、本当に儲かる話なんだから是非やりたまえ」
と、またぞろ自分を君|呼《よば》わりにして、しきりに儲けさせたがっている。こっちへ向き直って、自分を誘い出そうと力《つと》める顔つきを見ると、頬骨の下が自然《じねん》と落ち込んで、落ち込んだ肉が再び顎《あご》の枠《わく》で角張《かくば》っている。そこへ表から射し込む日の加減で、小鼻の下から弓形《ゆみなり》にでき上った皺《しわ》が深く映っている。この様子を見た自分は何となく儲《もう》けるのが恐ろしくなった。
「僕はそんなに儲けなくっても、いいです。しかし働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」

 どてら[#「どてら」に傍点]の頬の辺《あたり》には、はてなと云う景色《けしき》がちょっと見えたが、やがて、かの弓形《ゆみなり》の皺を左右に開いて、脂《やに》だらけの歯を遠慮なく剥《む》き出して、そうして一種特別な笑い方をした。あとから考えるとどてら[#「どてら」に傍点]には神聖な労働と云う意味が通じなかったらしい。いやしくも人間たるものが金儲《かねもうけ》の意味さえ知らないで、こむずかしい口巧者《くちこうしゃ》な事を云うから、気の毒だと云うのでどてら[#「どてら」に傍点]は笑ったのである。自分は今が今まで死ぬ気でいた。死なないまでも人間のいない所へ行く気でいた。それができ損《そこな》ったから、生きるために働く気になったまでである。儲《もう》かるとか儲からないとか云う問題は、てんで頭の中にはない。今ないばかりじゃない、東京にいて親の厄介《やっかい》になってる時分からなかった。どころじゃない儲主義《もうけしゅぎ》は大いに軽蔑《けいべつ》していた。日本中どこへ行ってもそのくらいな考えは誰にもあるだろうくらいに信じていた。だからどてら[#「どてら」に傍点]がさっきから儲かる儲かると云うのを聞くたんびに何のためだろうと不思議に思っていた。無論|癪《しゃく》には障《さわ》らない。癪に障るような身分でもなし、境遇でもないから、いっこう平気ではいたが、これが人間に対する至大の甘言で、勧誘の方法として、もっとも利目《ききめ》のあるものだとは夢にも想《おも》い至らなかった。そこで、どてら[#「どてら」に傍点]から笑われちまった。笑われてさえいっこう通じなかった。今考えると馬鹿馬鹿しい。

 一種特別な笑い方をしたどてら[#「どてら」に傍点]は、その笑いの収まりかけに、
「お前さん、全体今まで働いた事があんなさるのかね」
と少し真面目な調子で聞いた。働くにも働かないにも、昨日《きのう》自宅《うち》を逃げ出したばかりである。自分の経験で働いた試しは撃剣《げっけん》の稽古《けいこ》と野球の練習ぐらいなもので、稼《かせ》いで食った事はまだ一日もない。
「働いた事はないです。しかしこれから働かなくっちゃあならない身分です」
「そうだろう。働いた事がなくっちゃ……じゃ、君、まだ儲けた事もないんだね」
と当り前の事を聞いた。自分は返事をする必要がないから、黙ってると、茶店のかみさんが、菓子台の後《うしろ》から、
「働くからにゃ、儲けなくっちゃあね」
と云いながら、立ち上がった。どてら[#「どてら」に傍点]が、
「全くだ。儲けようったって、今時そう儲け口が転がってるもんじゃない」
と幾分か自分に対して恩に被《き》せるように答えるのを、
「そうさ」
と幾分かさげすむように聞き流して、裏へ出て行った。このそうさ[#「そうさ」に傍点]が妙に気になって、ことによると、まだその後《あと》があるかも知れないと思ったせいか、何気なく後姿《うしろかげ》を見送っていると、大きな黒松の根方《ねがた》のところへ行って、立小便《たちしょうべん》をし始めたから、急に顔を背《そむ》けて、どてら[#「どてら」に傍点]の方を向いた。どてら[#「どてら」に傍点]はすぐ、
「私《わたし》だから、お前さん、見ず知らずの他人にこんな旨《うま》い話をするんだ。これがほかのものだったら、受合ってただじゃ話しっこない旨い口なんだからね」
とまた恩に被《き》せる。自分は、面倒くさいからおとなしく、
「ありがたいです」
と四角張って答えて置いた。
「実はこう云う口なんだがね」
と、どてら[#「どてら」に傍点]が、すぐに云う。自分は黙って聞いていた。
「実はこう云う口なんだがね。銅山《やま》へ行って仕事をするんだが、私が周旋さえすれば、すぐ坑夫になれる。すぐ坑夫になれりゃ大したもんじゃないか」

 自分は何か返事を促《うなが》されるような気がしたけれども、どうもどてら[#「どてら」に傍点]の調子に載《の》せられて、そうですとは答える訳に行かなかった。坑夫と云えば鉱山の穴の中で働く労働者に違ない。世の中に労働者の種類はだいぶんあるだろうが、そのうちでもっとも苦しくって、もっとも下等なものが坑夫だとばかり考えていた矢先へ、すぐ坑夫になれりゃ大したものだと云われたのだから、調子を合すどころの騒ぎじゃない、おやと思うくらい内心では少からず驚いた。坑夫の下にはまだまだ坑夫より下等な種属があると云うのは、大晦日《おおみそか》の後《あと》にまだたくさん日が余ってると云うのと同じ事で、自分にはほとんど想像がつかなかった。実を云うとどてら[#「どてら」に傍点]がこんな事を饒舌《しゃべ》るのは、自分を若年《じゃくねん》と侮《あなど》って、好い加減に人を瞞《だま》すのではないかと考えた。ところが相手は存外真面目である。
「何しろ、取附《とっつけ》からすぐに坑夫なんだからね。坑夫なら楽なもんさ。たちまちのうちに金がうんと溜《たま》っちまって、好な事が出来らあね。なに銀行もあるんだから、預けようと思やあ、いつでも預けられるしさ。ねえ、御かみさん、初めっから坑夫になれりゃ、結構なもんだね」
とかみさんの方へ話の向《むき》を持って行くとかみさんは、さっき裏で、立ちながら用を足したままの顔をして、
「そうとも、今からすぐ坑夫になって置きゃあ四五年立つうちにゃ、唸《うな》るほど溜るばかりだ。――何しろ十九だ。――働き盛りだ。――今のうち儲けなくっちゃ損だ」
と一句、一句|間《あいだ》を置いて独《ひと》り言《ごと》のように述べている。

 要するにこのかみさんも是非坑夫になれと云わぬばかりの口占《くちうら》で、全然どてら[#「どてら」に傍点]と同意見を持っているように思われた。無論それでよろしい。またそれでなくってもいっこう構わない。妙な事にこの時ほどおとなしい気分になれた事は自分が生れて以来始めてであった。相手がどんな間違を主張しても自分はただはいはいと云って聞いていたろうと思う。実を云うと過去一年間において仕出《しで》かした不都合やら義理やら人情やら煩悶《はんもん》やらが破裂して大衝突を引き起した結果、あてどもなくここまで落ちて来たのだから、昨日《きのう》までの自分の事を考えると、どうしたって、こんなに温和《おとな》しくなれる訳がないのだが、実際この時は人に逆《さから》うような気分は薬にしたくっても出て来なかった。そうしてまたそれを矛盾とも不思議とも考えなかった。おそらく考える余裕がなかったんだろう。人間のうちで纏《まとま》ったものは身体《からだ》だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日《きょう》とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。のみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反覆《はんぷく》を詰《なじ》られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのはなぜだろう。こう云う矛盾をしばしば経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるようだ。して見ると人間はなかなか重宝《ちょうほう》に社会の犠牲になるように出来上ったものだ。

 同時に自分のばらばらな魂がふらふら不規則に活動する現状を目撃して、自分を他人扱いに観察した贔屓目《ひいきめ》なしの真相から割り出して考えると、人間ほど的《あて》にならないものはない。約束とか契《ちかい》とか云うものは自分の魂を自覚した人にはとても出来ない話だ。またその約束を楯《たて》にとって相手をぎゅぎゅ押しつけるなんて蛮行は野暮《やぼ》の至りである。大抵の約束を実行する場合を、よく注意して調べて見ると、どこかに無理があるにもかかわらず、その無理を強《しい》て圧《お》しかくして、知らぬ顔でやって退《の》けるまでである。決して魂の自由行動じゃない。はやくから、ここに気がついたなら、むやみに人を恨《うら》んだり、悶《もだ》えたり、苦しまぎれに自宅《うち》を飛び出したりしなくっても済んだかも知れない。たとい飛び出してもこの茶店まで来て、どてら[#「どてら」に傍点]と神さんに対する自分の態度が、昨日までの自分とは打って変ったところを、他人扱いに落ち着き払って比較するだけの余裕があったら、少しは悟れたろう。

 惜しい事に当時の自分には自分に対する研究心と云うものがまるでなかった。ただ口惜《くや》しくって、苦しくって、悲しくって、腹立たしくって、そうして気の毒で、済《す》まなくって、世の中が厭《いや》になって、人間が棄《す》て切れないで、いても立っても、いたたまれないで、むちゃくちゃに歩いて、どてら[#「どてら」に傍点]に引っ掛って、揚饅頭《あげまんじゅう》を喰ったばかりである。昨日は昨日、今日は今日、一時間前は一時間前、三十分後は三十分後、ただ眼前の心よりほかに心と云うものがまるでなくなっちまって、平生から繋続《つなぎ》の取れない魂がいとどふわつき出して、実際あるんだか、ないんだかすこぶる明暸《めいりょう》でない上に、過去一年間の大きな記憶が、悲劇の夢のように、朦朧《もうろう》と一団の妖氛《ようふん》となって、虚空《こくう》遥《はるか》に際限もなく立て罩《こ》めてるような心持ちであった。

 そこで平生の自分なら、なぜ坑夫になれば結構なんだとか、どうして坑夫より下等なものがあるんだとか、自分は儲《もう》ける事ばかりを目的に働く人間じゃないとか、儲けさえすりゃどこがいいんだとか、何とかかとか理窟《りくつ》を捏《こ》ねて、出来るだけ自己を主張しなければ勘弁《かんべん》しないところを、ただおとなしく控えていた。口だけおとなしいのではない、腹の中からまるで抵抗する気が出なかったのである。

 何でもこの時の自分は、単に働けばいいと云う事だけを考えていたらしい。いやしくも働きさえすれば、――いやしくもこのふわふわの魂が五体のうちに、うろつきながらもいられさえすれば、――要するに死に切れないものを、強《しい》て殺してしまうほどの無理を冒《おか》さない以上は、坑夫以上だろうが、坑夫以下だろうが、儲かろうが、儲かるまいが、とんと問題にならなかったものと見える。ただ働く口さえ出来ればそれで結構であるから、働き方の等級や、性質や、結果について、いかに自分の意見と相容《あいい》れぬ法螺《ほら》を吹かれても、またその法螺が、単に自分を誘致するためにする打算的の法螺であっても、またその法螺に乗る以上は理知の人間として自分の人格に尠《すくな》からぬ汚点を貽《のこ》す恐れがあっても、まるで気にならなかったんだろう。こんな時には複雑な人間が非情に単純になるもんだ。

 その上坑夫と聞いた時、何となく嬉《うれ》しい心持がした。自分は第一に死ぬかも知れないと云う決心で自宅《うち》を飛出したのである。それが第二には死ななくっても好いから人のいない所へ行きたいと移って来た。それがまたいつの間にか移って、第三にはともかくも働こうと変化しちまった。ところで、さて働くとなると、並《なみ》の働き方よりも第二に近い方がいい、一歩進めて云えば第一に縁故のある方が望ましい。第一、第二、第三と知らぬ間《あいだ》に心変りがしたようなものの、変りつつ進んで来た、心の状態は、うやむやの間に縁を引いて、擦《ず》れ落ちながらも、振り返って、もとの所を慕いつつ押されて行くのである。単に働くと云う決心が、第二を振り切るほど突飛《とっぴ》でもなかったし、第一と交渉を絶つほど遠くにもいなかったと見える。働きながら、人のいない所にいて、もっとも死に近い状態で作業が出来れば、最後の決心は意のごとくに運びながら、幾分か当初の目的にも叶《かな》う訳になる。坑夫と云えば名前の示すごとく、坑《あな》の中で、日の目を見ない家業《かぎょう》である。娑婆《しゃば》にいながら、娑婆から下へ潜《もぐ》り込んで、暗い所で、鉱塊《あらがね》土塊《つちくれ》を相手に、浮世の声を聞かないで済む。定めて陰気だろう。そこが今の自分には何よりだ。世の中に人間はごてごているが、自分ほど坑夫に適したものはけっしてないに違ない。坑夫は自分に取って天職である。――とここまで明暸《めいりょう》には無論考えなかったが、ただ坑夫と聞いた時、何となく陰気な心持ちがして、その陰気がまた何となく嬉しかった。今思い出して見ると、やっぱりどうあっても他人《ひと》の事としか受け取れない。

 そこで自分はどてら[#「どてら」に傍点]に向ってこう云った。
「僕は一生懸命に働くつもりですが、坑夫にしてくれるでしょうか」

 するとどてら[#「どてら」に傍点]はなかなか鷹揚《おうよう》な態度で、
「すぐ坑夫になるのはなかなかむずかしいんだが、私《わたし》が周旋さえすりゃきっとできる」
と云うから自分もそんなものかなと考えて、しばらく黙っていると、茶店のかみさんがまた口を出した。
「長蔵《ちょうぞう》さんが口を利《き》きさえすりゃ、坑夫は受合《うけあい》だ」

 自分はこの時始めてどてら[#「どてら」に傍点]の名前が長蔵だと云う事を知った。それからいっしょに汽車に乗ったり、下りたりする時に、自分もこの男を捕《つらま》えて二三度長蔵さんと呼んだ事がある。しかし長蔵とはどう書くのか今もって知らない。ここに書いたのはもちろん当字《あてじ》である。始めて家庭を飛出した鼻をいきなり引っ張って、思いも寄らない見当《けんとう》に向けた、云わば自分の生活状態に一転化を与えた人の名前を口で覚えていながら、筆に書けないのは異《い》な事だ。

 さてこの長蔵さんと、茶店のかみさんがきっと坑夫になれると受合うから、自分もなれるんだろうと思って、
「じゃ、どうか何分願います」
と頼んだ。しかしこの茶店に腰を掛けているものが、どうして、どこへ行って、どんな手続で坑夫になるんだかその辺《へん》はさっぱり分らなかった。

 何しろ先方でこのくらい勧めるものだから、何分願いますと云ったら、長蔵さんがどうかするに違ないと思って、あとは聞かずに黙っていた。すると長蔵さんは、勢いよくどてら[#「どてら」に傍点]の尻を床几《しょうぎ》から立てて、
「それじゃこれから、すぐに出掛けよう。御前さん、支度《したく》はいいかい。忘れもののないようによく気をつけて」
と云った。自分はうちを出る時、着のみ着のままで出たのだから、身体《からだ》よりほかに忘れ物のあるはずがない。そこで、
「何にも無いです」
と立ち上がったが、神さんと顔を見合せて気がついた。肝心《かんじん》の揚饅頭《あげまんじゅう》の代を忘れている。長蔵さんは平気な面《つら》をして、もう半分ほど葭簀《よしず》の外に出て往来を眺《なが》めていた。自分は懐中から三十二銭入りの蟇口《がまぐち》を出して饅頭三皿の代を払って、ついでだから茶代として五銭やった。饅頭の代はとうとう忘れちまって思い出せない。ただその時かみさんが、
「坑夫になって、うんと溜めて帰りにまた御寄《おより》」
と云ったのを記憶している。その後《のち》坑夫はやめたが、ついにこの茶店へは寄る機会がなかった。それから長蔵さんに尾《つ》いて、例の飽き飽きした松原へ出て、一本筋を足の甲まで埃《ほこり》を上げて、やって来ると、さっきの長たらしいのに引き易《か》えて今度は存外早く片づいちまった。いつの間《ま》にやら松がなくなったら、板橋街道のような希知《けち》な宿《しゅく》の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車《がたばしゃ》が通る。一足先へ出た長蔵さんが、振り返って、
「御前さん馬車へ乗るかい」
と聞くから、
「乗っても好いです」
と答えた。そうしたら今度は
「乗らなくってもいいかい」
と反対の事を尋ねた。自分は
「乗らなくってもいいです」
と答えた。長蔵さんは三度目に
「どうするね」
と云ったから、
「どうでもいいです」
と答えた。その内に馬車は遠くへ行ってしまった。
「じゃ、歩く事にしよう」
と長蔵さんは歩き出した。自分も歩き出した。向うを見ると、今通った馬車の埃《ほこり》が日光にまぶれて、往来が濁ったように黄色く見える。そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂《かぐらざか》くらいな繁昌《はんじょう》する所へ出た。ここいらの店付《みせつき》や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。長蔵さんのようなのはほとんど見当らない。自分は長蔵さんに、
「ここは何と云う所です」
と聞いたら、長蔵さんは、
「ここ? ここを知らないのかい」
と驚いた様子であったが、笑いもせずすぐ教えてくれた。それで所の名は分ったがここにはわざと云わない。自分がこの繁華な町の名を知らなかったのをよほど不思議に感じたと見えて、長蔵さんは、
「お前さん、いったい生れはどこだい」
と聞き出した。考えると、今まで長蔵さんが自分の過去や経歴について、ついぞ一《ひ》と口《くち》も自分に聞いた事がなかったのは、人を周旋する男の所為《しょい》としては、少しく無頓着《むとんじゃく》過ぎるようにも思われたが、この男は全くそんな事に冷淡な性《たち》であった事が後《あと》で分った。この時の質問は全く自分の無知に驚いた結果から出た好奇心に過ぎなかった。その証拠には自分が、
「東京です」
と答えたら、
「そうかい」
と云ったなり、あとは何にも聞かずに、自分を引っ張るようにして、ある横町を曲った。

 実を云うと自分は相当の地位を有《も》ったものの子である。込み入った事情があって、耐《こら》え切れずに生家《うち》を飛び出したようなものの、あながち親に対する不平や面当《つらあて》ばかりの無分別《むふんべつ》じゃない。何となく世間が厭《いや》になった結果として、わが生家まで面白くなくなったと思ったら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見ていられなくなっていた。これは大変だと気がついて、根気に心を取り直そうとしたが、遅かった。踏み答えて見ようと百方に焦慮《あせ》れば焦慮るほど厭になる。揚句《あげく》の果《はて》は踏張《ふんばり》の栓《せん》が一度にどっと抜けて、堪忍《かんにん》の陣立が総崩《そうくず》れとなった。その晩にとうとう生家を飛び出してしまったのである。

 事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女の傍《そば》にまた一人の少女がいる。この二人の少女の周囲《まわり》に親がある。親類がある。世間が万遍なく取り捲《ま》いている。ところが第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁《いんねん》で自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。自分は年の若い割には自分の立場をよく弁別《わきま》えていた。が済まないと思えば思うほど丸くなったり四角になったりする。しまいには形態ばかりじゃない組織まで変るようになって来た。それを第二の少女が恨《うら》めしそうに見ている。親も親類も見ている。世間も見ている。自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲ったりくねったりするところを、どうかして隠そうと力《つと》めたが、何しろ第一の少女の方で少しもやめてくれないで、むやみに伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隠し終《おお》せる段じゃない。親にも親類にも目《め》つかってしまった。怪《け》しからんと云う事になった。怪しかるとは自分でも思っていなかったが、だんだん聞き糾《ただ》して見ると、怪しからん意味がだいぶ違ってる。そこでいろいろ弁解して見たがなかなか聞いてくれない。親の癖に自分の云う事をちっとも信用しないのが第一不都合だと思うと同時に、第一の少女の傍《そば》にいたら、この先どうなるか分らない、ことに因《よ》ると実際弁解の出来ないような怪しからん事が出来《しゅったい》するかも知れないと考え出した。がどうしても離れる事が出来ない。しかも第二の少女に対しては気の毒である、済まん事になったと云う念が日々《にちにち》烈《はげ》しくなる。――こんな具合で三方四方から、両立しない感情が攻め寄せて来て、五色の糸のこんがらかったように、こっちを引くと、あっちの筋が詰る、あっちをゆるめるとこっちが釣れると云う按排《あんばい》で、乱れた頭はどうあっても解《ほど》けない。いろいろに工夫を積んで自分に愛想《あいそ》の尽きるほどひねくって見たが、とうてい思うように纏《まと》まらないと云う一点張《いってんばり》に落ちて来た時に――やっと気がついた。つまり自分が苦しんでるんだから、自分で苦みを留めるよりほかに道はない訳だ。今までは自分で苦しみながら、自分以外の人を動かして、どうにか自分に都合のいいような解決があるだろうと、ひたすらに外のみを当《あて》にしていた。つまり往来で人と行き合った時、こっちは突ッ立ったまま、向うが泥濘《ぬかるみ》へ避《よ》けてくれる工面《くめん》ばかりしていたのだ。こっちが動かない今のままのこっちで、それで相手の方だけを思う通りに動かそうと云う出来ない相談を持ち懸《か》けていたのだ。自分が鏡の前に立ちながら、鏡に写る自分の影を気にしたって、どうなるもんじゃない。世間の掟《おきて》という鏡が容易に動かせないとすると、自分の方で鏡の前を立ち去るのが何よりの上分別である。

 そこで自分はこの入り組んだ関係の中から、自分だけをふいと煙《けむ》にしてしまおうと決心した。しかし本当に煙にするには自殺するよりほかに致し方がない。そこでたびたび自殺をしかけて見た。ところが仕掛けるたんびにどきんとしてやめてしまった。自殺はいくら稽古《けいこ》をしても上手にならないものだと云う事をようやく悟った。自殺が急に出来なければ自滅するのが好かろうとなった。しかし自分は前に云う通り相当の身分のある親を持って朝夕に事を欠かぬ身分であるから生家《うち》にいては自滅しようがない。どうしても逃亡《かけおち》が必要である。

 逃亡《かけおち》をしてもこの関係を忘れる事は出来まいとも考えた。また忘れる事が出来るだろうとも考えた。要するに、して見なければ分らないと考えた。たとい煩悶《はんもん》が逃亡につき纏《まと》って来るにしてもそれは自分の事である。あとに残った人は自分の逃亡のために助かるに違いないと考えた。のみならず逃亡をしたって、いつまでも逃亡《かけお》ちている訳じゃない。急に自滅がしにくいから、まずその一着として逃亡ちて見るんである。だから逃亡ちて見てもやっぱり過去に追われて苦しいようなら、その時|徐《おもむろ》に自滅の計《はかりごと》を廻《めぐ》らしても遅くはない。それでも駄目ときまればその時こそきっと自殺して見せる。――こう書くと自分はいかにも下らない人間になってしまうが、事実を露骨に云うとこれだけの事に過ぎないんだから仕方がない。またこう書けばこそ下らなくなるが、その当時のぼんやりした意気込《いきごみ》を、ぼんやりした意気込のままに叙したなら、これでも小説の主人公になる資格は十分あるんだろうと考える。

 それでなくっても実際その当時の、二人の少女の有様やら、日《ひ》ごとに変る局面の転換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やらかやらを、そっくりそのまま書き立てたら、だいぶん面白い続きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあやめにして、せっかくの坑夫事件だけを話す事にする。

 とにかくこう云う訳で自分はいよいよとなって出奔《しゅっぽん》したんだから、固《もと》より生きながら葬《ほうぶ》られる覚悟でもあり、また自《みずか》ら葬ってしまう了簡《りょうけん》でもあったが、さすがに親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢《すてばち》になっても長蔵さんには話したくなかった。長蔵さんばかりじゃない、すべての人間に話したくなかった。すべての人間は愚か、自分にさえできる事なら語りたくないほど情《なさけ》ない心持でひょろひょろしていた。だから長蔵さんが人を周旋する男にも似合わず、自分の身元について一言《いちごん》も聞き糺《ただ》さなかったのは、変と思いながらも、内々嬉しかった。本当を云うと、当時の自分はまだ嘘《うそ》をつく事をよく練習していなかったし、ごまかすと云う事は大変な悪事のように考えていたんだから、聞かれたら定めし困ったろうと思う。

 そこで長蔵さんに尾《つ》いて、横町を曲って行くと、一二丁行ったか行かないうちに町並が急に疎《まばら》になって、所々は田圃《たんぼ》の片割れが細く透いて見える。表はあんなに繁昌しても、繁昌は横幅だけであるなと気がついたら、また急に横町を曲らせられて、また賑《にぎや》かな所へ出された。その突当りが停車場《ステーション》であった。汽車に乗らなくっては坑夫になる手続きが済まないんだと云う事をこの時ようやく知った。実は鉱山の出張所でもこの町にあって、まずそこへ連れて行かれて、そこからまた役人が山へでも護送してくれるんだろうと思っていた。

 そこで停車場へ這入《はい》る五六間手間になってから、
「長蔵さん、汽車に乗るんですか」
と後《うしろ》から、呼び掛けながら聞いて見た。自分がこの男を長蔵さんと云ったのはこの時が始めてである。長蔵さんはちょっと振り返ったが、あかの他人から名前を呼ばれたのを不審がる様子もなく、すぐ、
「ああ、乗るんだよ」
と答えたなり、停車場に這入った。

 自分は停車場《ステーション》の入口に立って考え出した。あの男はいったい自分といっしょに汽車へ乗って先方《さき》まで行く気なんだろうか、それにしては余り親切過ぎる。なんぼなんでも見ず知らずの自分にこう叮嚀《ていねい》な世話を焼くのはおかしい。ことによると彼奴《あいつ》は詐欺師《かたり》かも知れない。自分は下らん事に今更のごとくはっと気がついて急に汽車へ乗るのが厭《いや》になって来た。いっその事また停車場を飛び出そうかしらと思って、今までプラットフォームの方を向いていた足を、入口の見当《けんとう》に向け易えた。しかしまだ歩き出すほどの決心もつかなかったと見えて、茫然《ぼうぜん》として、停車場前の茶屋の赤い暖簾《のれん》を眺《なが》めていると、いきなり大きな声を出して遠くから呼びとめられた。自分はこの声を聞くと共に、その所有者は長蔵さんであって、松原以来の声であると云う事を悟った。振り返ると、長蔵さんは遠方から顔だけ斜《はす》に出して、しきりにこちらを見て、首を竪《たて》に振っている。何でも身体《からだ》は便所の塀《へい》にかくれているらしい。せっかく呼ぶものだからと思って、自分は長蔵さんの顔を目的《めあて》に歩いて行くと、
「御前さん、汽車へ乗る前にちょっと用を足したら善かろう」
と云う。自分はそれには及ばんから、一応辞退して見たが、なかなか承知しそうもないから、そこで長蔵さんと相並んで、きたない話だが、小便を垂れた。その時自分の考えはまた変った。自分は身体よりほかに何にも持っていない。取られようにも瞞《かた》られようにも、名誉も財産もないんだから初手《しょて》から見込の立たない代物《しろもの》である。昨日《きのう》の自分と今日の自分とを混同して、長蔵さんを恐ろしがったのは、免職になりながら俸給の差《さ》し押《おさえ》を苦にするようなものであった。長蔵さんは教育のある男ではあるまいが、自分の風体《ふうてい》を見て一目《いちもく》騙《かた》るべからずと看破するには教育も何も要《い》ったものではない。だからことによると、自分を坑夫に周旋して、あとから周旋料でも取るんだろうと思い出した。それならそれで構わない。給料のうちを幾分かやれば済む事だなどと考えながら用を足した。――実は自分がこれだけの結論に到着するためには、わずかの時間内だがこれほどの手数《てすう》と推論とを要したのである。このくらい骨を折ってすら、まだ長蔵さんのポン引きなる事をいわゆるポン引きなる純粋の意味において会得《えとく》する事が出来なかったのは、年が十九だったからである。

 年の若いのは実に損なもので、こんなにポン引きの近所までどうか、こうか、漕《こ》ぎつけながら、それでも、もしや好意ずくの世話ずきから起った親切じゃあるまいかと思って、飛んだ気兼をしたのはおかしかった。

 実は二人して、用を足して、のそのそ三等待合所の入口まで来た時、自分は比較的威儀を正して長蔵さんに、こんな事を云ったんである。
「あなたに、わざわざ先方《さき》まで連れて行っていただいては恐縮ですから、もうこれでたくさんです」

 すると長蔵さんは返事もせずに変な顔をして、黙って自分の方を見ているから、これは礼の云いようがわるいのかとも思って、
「いろいろ御世話になってありがたいです。これから先はもう僕一人でやりますから、どうか御構いなく」
と云って、しきりに頭を下げた。すると、
「一人でやれるものかね」
と長蔵さんが云った。この時だけは御前さんを省《はぶ》いたようである。
「なにやれます」
と答えたら、
「どうして」
と聞き返されたんで、少し面喰《めんくら》ったが、
「今|貴方《あなた》に伺って置けば、先へ行って貴方の名前を云って、どうかしますから」
ともじもじ述べ立てると、
「御前さん、私《わたし》の名前くらいで、すぐ坑夫になれると思ってるのは大間違いだよ。坑夫なんて、そんなに容易になれるもんじゃないよ」
と跳《はね》つけられちまった。仕方がないから
「でも御気の毒ですから」
と言訳かたがた挨拶《あいさつ》をすると、
「なに遠慮しないでもいい、先方《さき》まで送ってあげるから心配しないがいい。――袖摩《そです》り合うも何とかの因縁《いんねん》だ。ハハハハハ」
と笑った。そこで自分は最後に、
「どうも済みません」
と礼を述べて置いた。

 それから二人でベンチへ隣り合せに腰を掛けていると、だんだん停車場《ステーション》へ人が寄ってくる。大抵は田舎者《いなかもの》である。中には長蔵さんのような袢天《はんてん》兼《けん》どてら[#「どてら」に傍点]を着た上に、天秤棒《てんびんぼう》さえ荷《かつ》いだのがある。そうかと思うと光沢《つや》のある前掛を締めて、中折帽を妙に凹《へこ》ました江戸ッ子流の商人《あきゅうど》もある。その他の何やらかやらでベンチの四方が足音と人声でざわついて来た時に、切符口の戸がかたりと開《あ》いた。待ち兼ねた連中は急いで立ち上がって、みんな鉄網《かなあみ》の前へ集ってくる。この時長蔵さんの態度は落ちつき払ったものであった。例の太刀《たち》のごとくそっくりかえった「朝日」を厚い唇《くちびる》の間に啣《くわ》えながら、あの角張《かどば》った顔を三《さん》が二《に》ほど自分の方へ向けて、
「御前さん、汽車賃を持っていなさるかい」
と聞いた。また自分の未熟なところを発表するようだが、実を云うと汽車賃の事は今が今まで自分の考えには毫《ごう》も上《のぼ》らなかったのである。汽車に乗るんだなと思いながら、いくら金を払うものか、また金を払う必要があるものか、とんと思い至らなかったのは愚《ぐ》の至《いたり》である。愚はどこまでも承認するがこの質問に出逢《であ》うまでは無賃《ただ》で乗れるかのごとき心持で平気でいたのは事実である。よく分らないけれども、何でも自分の腹の底には、長蔵さんにさえ食っついてさえおれば、どうかしてくれるんだろうと云う依頼心が妙に潜《ひそ》んでいたんだろう。ただし自分じゃけっしてそう思っていなかった。今でもそうだとは自分の事ながら申しにくい。けれども、こう云う安心がないとすれば、いくら馬鹿だって、十九だって、停車場《ステーション》へ来て汽車賃の汽[#「汽」に傍点]の字も考えずにいられるもんじゃない。その癖こんなに依頼している長蔵さんに対して、もう御世話にならなくっても、好うございますの、これから一人で行きますのと平《ひら》に同行を断ったのは、どう云う了簡《りょうけん》だろう。自分はこう云う場合にたびたび出逢《であ》ってから、しまいには自分で一つの理論を立てた。――病気に潜伏期があるごとく、吾々《われわれ》の思想や、感情にも潜伏期がある。この潜伏期の間には自分でその思想を有《も》ちながら、その感情に制せられながら、ちっとも自覚しない。またこの思想や感情が外界の因縁《いんねん》で意識の表面へ出て来る機会がないと、生涯《しょうがい》その思想や感情の支配を受けながら、自分はけっしてそんな影響を蒙《こうぶ》った覚《おぼえ》がないと主張する。その証拠はこの通りと、どしどし反対の行為言動をして見せる。がその行為言動が、傍《はた》から見ると矛盾になっている。自分でもはてなと思う事がある。はてなと気がつかないでもとんだ苦しみを受ける場合が起ってくる。自分が前に云った少女に苦しめられたのも、元はと云えば、やっぱりこの潜伏者を自覚し得なかったからである。この正体の知れないものが、少しも自分の心を冒《おか》さない先に、劇薬でも注射して、ことごとく殺し尽す事が出来たなら、人間幾多の矛盾や、世上幾多の不幸は起らずに済んだろうに。ところがそう思うように行かんのは、人にも自分にも気の毒の至りである。

 それで、自分が長蔵さんから「御前さん汽車賃を持っていなさるか」と問われた時に、自分ははっと思って、少からず狼狽《うろた》えた。三十二銭のうちで饅頭《まんじゅう》の代と茶代を引くと何にもありゃしない。汽車賃もない癖に、坑夫になろうなんて呑込顔《のみこみがお》に受合ったんだから、自分は少し図迂図迂《ずうずう》しい人間であったんだと気がついたら、急に頬辺《ほっぺた》が熱くなった。その時分の事を考えると自分ながら可愛らしい。これが今だったら、たとい電車の中で借金の催促をされようとも、ただ困るだけで、けっして赤面はしない。ましてぽん引きの長蔵さんなどに対して、神聖なる羞恥《しゅうち》の血色を見せるなんてもったいない事は、夢にもやる気遣《きづか》いはありゃしない。

 自分はどう云うものか、長蔵さんに対して汽車賃はありますと答えたかった。しかし実際がないんだから嘘《うそ》を吐《つ》く訳には行かない。嘘を吐きっ放《ぱなし》にして済ませられるなら、思い切って、嘘を吐く事にしたろうが、とにかく今切符を買うと云う間際《まぎわ》で、吐けばすぐ露現《ろけん》してしまうんだから始末がわるい。と云って汽車賃はありませんと答えるのがいかにも苦痛である。どうも子供だから、しかも満更《まんざら》の子供でなくって、少し大きくなりかけた、色気のついた、煩悶《はんもん》をしている、つまらん常識があるような、ないような子供だから、なおなお不都合だった。そこで汽車賃はありますとも、ありませんとも云いにくかったもんだから、
「少しあります」
と答えた。それも響の物に応ずるごとく、停滞なく出ればよかったが、何しろもったいなくも頬辺を赤くしたあとで、はなはだ恐縮の態度で出したんだから、馬鹿である。
「少しって、御前さん、いくら持ってるい」
と長蔵さんが聞き返した。長蔵さんは自分が頬辺を赤くしても、恐縮しても、まるで頓着《とんじゃく》しない。ただいくら持ってるか聞きたい様子であった。ところがあいにく肝心《かんじん》の自分にはいくらあるか判然しない。何しろ|〆《しめ》て三十二銭のうち、饅頭《まんじゅう》を三皿食って、茶代を五銭やったんだから、残るところはたくさんじゃない。あっても無くっても同じくらいなものだ。
「ほんのわずかです。とても足りそうもないです」
と正直なところを云うと、
「足りないところは、私《わたし》が足して上げるから、構わない。何しろ有るだけ御出し」
と、思ったよりは平気である。自分はこの際一銭銅や二銭銅を勘定するのは、いかにも体裁《ていさい》がわるいと考えた上に、有るものを無いと隠すように取られては厭《いや》だから、懐《ふところ》から例の蟇口《がまぐち》を取り出して、蟇口ごと長蔵さんに渡した。この蟇口は鰐《わに》の皮で拵《こしら》えたすこぶる上等なもので、親父から貰う時も、これは高価な品であると云う講釈をとくと聴かされた贅沢物《ぜいたくもの》である。長蔵さんは蟇口を受け取って、ちょっと眺《なが》めていたが、
「ふふん、安くないね」
と云ったなり中味も改めずに腹掛の隠しへ入れちまった。中味を改めないところはよかったが、
「じゃ、私が切符を買って来て上げるから、ちゃんとここに待っていなくっちゃ、いけない。はぐれると、坑夫になれないんだからね」
と念を押して、ベンチを離れて切符口の方へすたすた行ってしまった。見ていると人込《ひとごみ》の中へ這入《はい》ったなり振り返りもしないで切符を買う番のくるのを待っている。さっき松原の掛茶屋を出てから、今先方《いまさきがた》までの長蔵さんは始終《しじゅう》自分の傍《そば》に食っついていて、たまに離れると便所からでも顔を出して呼ぶくらいであったのに、蟇口を受け取って、切符を買う時はまるで自分を忘れているように見受けられた。あんまり人が多くって、こっちへ眼をつける暇がなかったんだろう。これに反して自分は一生懸命に長蔵さんの後姿を見守って、札を買う順番が一人一人に廻って来るたんびに長蔵さんがだんだん切符口へ近づいて行くのを、遠くから妙な神経を起して眺《なが》めていた。蟇口は立派だが中を開けられたら銅貨が出るばかりだ。開けて見て、何だこれっぱかりしか持っていないのかと長蔵さんが驚くに違ない。どうも気の毒である。いくら足し前をするんだろうなどと入らざる事を苦《く》に病《や》んでいると、やがて長蔵さんは平生《へいぜい》の顔つきで帰って来た。
「さあ、これが御前さんの分だ」
と云いながら赤い切符を一枚くれたぎりいくら不足だとも何とも云わない。きまりが悪かったから、自分もただ
「ありがとう」
と受取ったぎり賃銭の事は口へ出さなかった。蟇口の事もそれなりにして置いた。長蔵さんの方でも蟇口の事はそれっきり云わなかった。したがって蟇口はついに長蔵さんにやった事になる。

 それから、とうとう二人して汽車へ乗った。汽車の中では別にこれと云う出来事もなかった。ただ自分の隣りに腫物《できもの》だらけの、腐爛目《ただれめ》の、痘痕《あばた》のある男が乗ったので、急に心持が悪くなって向う側へ席を移した。どうも当時の状態を今からよく考えて見るとよっぽどおかしい。生家《うち》を逃亡《かけお》ちて、坑夫にまで、なり下《さが》る決心なんだから、大抵の事に辟易《へきえき》しそうもないもんだがやっぱり醜《きた》ないものの傍《そば》へは寄りつきたくなかった。あの按排《あんばい》では自殺の一日前でも、腐爛目の隣を逃げ出したに違ない。それなら万事こう几帳面《きちょうめん》に段落をつけるかと思うと、そうでないから困る。第一長蔵さんや茶店のかみさんに逢《あ》った時なんぞは平生の自分にも似ず、※[#「口+禺」、第3水準1-15-9]《ぐう》の音《ね》も出さずに心《しん》からおとなしくしていた。議論も主張も気慨《きがい》も何もあったもんじゃありゃしない。もっともこれはだいぶ餓《ひも》じい時であったから、少しは差引いて勘定を立《たて》るのが至当だが、けっして空腹のためばかりとは思えない。どうも矛盾――また矛盾が出たから廃《よ》そう。

 自分は自分の生活中もっとも色彩の多い当時の冒険を暇さえあれば考え出して見る癖がある。考え出すたびに、昔の自分の事だから遠慮なく厳密なる解剖の刀を揮《ふる》って、縦横《たてよこ》十文字に自分の心緒《しんしょ》を切りさいなんで見るが、その結果はいつも千遍一律で、要するに分らないとなる。昔《むか》しだから忘れちまったんだなどと云ってはいけない。このくらい切実な経験は自分の生涯《しょうがい》中に二度とありゃしない。二十《はたち》以下の無分別から出た無茶だから、その筋道が入り乱れて要領を得んのだと評してはなおいけない。経験の当時こそ入り乱れて滅多《めった》やたらに盲動するが、その盲動に立ち至るまでの経過は、落ち着いた今日《こんにち》の頭脳の批判を待たなければとても分らないものだ。この鉱山|行《ゆき》だって、昔の夢の今日だから、このくらい人に解るように書く事が出来る。色気がなくなったから、あらいざらい書き立てる勇気があると云うばかりじゃない。その時の自分を今の眼の前に引擦《ひきず》り出して、根掘り葉掘り研究する余裕がなければ、たといこれほどにだってとうてい書けるものじゃない。俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下《こっか》の事情と云うものは、転瞬《てんしゅん》の客気《かっき》に駆られて、とんでもない誤謬《ごびゅう》を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。とうてい、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。

 自分が腐爛目の難を避けて、向う側に席を移すと、長蔵さんは一目ちょっと自分と腐爛目を見たなりで、やはり元の所へ腰を掛けたまま動かなかった。長蔵さんの神経が自分よりよほど剛健なのには少からず驚嘆した。のみならず、平気な顔で腐爛目と話し出したに至って、少しく愛想《あいそ》が尽きた。
「また山行きかね」
「ああまた一人連れて行くんだ」
「あれかい」
と腐爛目は自分の方を見た。長蔵さんはこの時何か返事をしかけたんだろうがふと自分と顔を見合せたものだから、そのまま厚い唇を閉じて横を向いてしまった。その顔について廻って、腐爛目は、
「まただいぶん儲《もう》かるね」
と云った。自分はこの言葉を聞くや否やたちまち窓の外へ顔を出した。そうして窓から唾液《つばき》をした。するとその唾液が汽車の風で自分の顔へ飛んで来た。何だか不愉快だった。前の腰掛で知らない男が二人弁じている。
「泥棒が這入《はい》るとするぜ」
「こそこそがかい」
「なに強盗がよ。それでもって、抜身《ぬきみ》か何かで威嚇《おど》した時によ」
「うん、それで」
「それで、主人《あるじ》が、泥棒だからってんで贋銭《にせがね》をやって帰したとするんだ」
「うんそれから」
「後《あと》で泥棒が贋銭と気がついて、あすこの亭主は贋銭|使《つかい》だ贋銭使だって方々振れて歩くんだ。常公《つねこう》の前《めえ》だが、どっちが罪が重いと思う」
「どっちたあ」
「その亭主と泥棒がよ」
「そうさなあ」
と相手は解決に苦しんでいる。自分は眠《ねぶ》くなったから、窓の所へ頭を持たしてうとうとした。

2009/10/19

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