幸田露伴「骨董(こっとう)」

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Tokino工房による改変

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骨董 (幸田露伴)

[朗読1]

 骨董《こっとう》というのは元来|支那《しな》の田舎言葉で、字はただその音《おん》を表わしているのみであるから、骨の字にも董の字にもかかわった義があるのではない。そこで、汨董と書かれることもあり、また古董と書かれることもある。字を仮りて音を伝えたまでであることは明らかだ。さてしかし骨董という音がどうして古物《こぶつ》の義になるかというと、骨董は古銅《こどう》の音転《おんてん》である、という説がある。その説に従えば、骨董は初《はじめ》は古銅器を指したもので、後に至って玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになったのである。なるほど韓駒《かんく》[中国、宋の詩人]の詩の、「言う莫《な》かれ衲子《のうし》の籃《らん》に底無しと、江南《こうなん》の骨董を盛《も》り取って帰る」などという句を引いて講釈[文章、物事の意味を(もったいぶって)説明して聞かせること]されると、そうかとも思われる。江南には銅器が多いからである。しかし骨董は果して古銅から来た語だろうか、聊《いささ》か疑わしい。もし真《しん》に古銅からの音転なら、少しは骨董という語を用いる時に古銅という字が用いられることがありそうなものだのに、汨董だの古董だのという字がわざわざ代用されることがあっても、古銅という字は用いられていない。※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]晴江《てきせいこう》通雅《つうが》[中国の語学書]を引いて、骨董は唐《とう》の引船《ひきふね》の歌の「得董※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]那耶《とくとうこつなや》、揚州銅器多《ようしゅうどうきおおし》」から出たので、得董の音は骨董二字の原《もと》だ、といっている。得董※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]那耶は、エンヤラヤの様なもので、囃《はや》し言葉である、別に意味もないから、定まった字もないわけである。その説に拠《よ》って考えると、得董または骨董には何の意味もないが、古い船引《ふなひ》き歌のその第二句の揚州銅器多の銅器の二字が前の囃し言葉に連接しているので、骨董ということが銅器などをいうことに転じて来たことになるのである。またそれから種※[#二の字点、1-2-22]の古物をもいうことになったのである。骨董は古銅の音転などという解は、本を知らずして末に就いて巧解《こうかい》[巧みに解したの意味]したもので、少し手取《てっと》り早過ぎた似而非《えせ》解釈という訳になる。

 また、蘇東坡《そとうば》[(ウィキペディアより)蘇軾(そ しょく、景祐3年12月19日(1036年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。]が種※[#二の字点、1-2-22]の食物を雑《まじ》え烹《に》て、これを骨董羮《こっとうかん》といった。その骨董は零雑《れいざつ》の義で、あたかも我《わが》邦俗《ほうぞく》のゴッタ煮ゴッタ汁などというゴッタの意味に当る。それも字面《じめん》には別に義があるのではない。また、水に落つる声を骨董という。それもコトンと落ちる響《ひびき》を骨董の字音を仮りて現わしたまでで、字面に何の義もあるのではない。畢竟《ひっきょう》[つまるところ。つまり]骨董はいずれも文字国の支那の文字であるが、文字の義からの文字ではなく、言語の音からの文字であって、文字は仮りものであるから、それに訓詁的[「くんこ」とは古代の文字を解釈すること。訓詁学(くんこがく)とは特に中国の漢時代以前の古代語を解釈する学問として、使用された言葉なり。]のむずかしい理屈はない。

 そんな事はどうでもいいが、とにかくに骨董ということは、貴《たっと》いものは周鼎漢彝玉器《しゅうていかんいぎょくき》[周鼎は周の鼎で権力を象徴する鼎の意味。漢彝は漢の宗廟(そうびょう)に備えられた器の意味。玉器は、玉製の器物でやはり権力の象徴をも意味する]の類から、下っては竹木雑器に至るまでの間、書画|法帖《ほうじょう》[書の手本足るべき故人の筆跡を石や木に刻んで残したもの]、琴剣鏡硯《きんけんきょうけん》、陶磁《とうじ》の類、何でも彼《か》でも古い物一切をいうことになっている。そして世におのずから骨董の好きな人があるので、骨董を売買するいわゆる骨董屋を生じ、骨董の目ききをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古《ふる》郵便券、マッチの貼紙の蒐集家[=収集家。読み「しゅうしゅうか」]まで、骨董畠が世界各国|都鄙《とひ》[都と田舎の意味]到るところに開かれて存在しているようになっている。実におもしろい事で、また盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口をいえば骨董は死人の手垢《てあか》の附いた物ということで、余り心持の好いわけの物でもなく、大博物館だって盗賊《どろぼう》の手柄くらべを見るようなものだが、そんな阿房《あほ》げた論をして見たところで、野暮な談《はなし》で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行われるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝[こうき]がわが曹《そう》の頭上にかがやき、香気が我らの胸に逼《せま》って、そして今人《こんじん》をして古文明を味わわしめ、それからまた古人とは異なった文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きている人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若《もし》くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。いわば骨董が好きになって、やっと人間|並《なみ》になったので、豚だの牛だのは骨董を捻《ひね》くった例を見せていない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それからまた骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によっては、学問が深くなれば是非骨董の世界に頭を突込《つっこ》み手を突込むようになる。イヤでも黴臭《かびくさ》いものを捻くらなければ、いつも定《き》まりきった書物の中をウロツイている訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、その他いろいろの分科の学者たちも、ありふれた事は一[#(ト)]通り知り尽して終《しま》った段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入って行く。それも道理千万な談《はなし》で、早い譬《たとえ》が、誤植だらけの活版本でいくら万葉集を研究したからとて、真の研究が成立《なりた》とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合《いみあい》もあって、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのはむしろ誇るべし、骨董を捻くる度《ど》にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の愍《あわれ》むべきものであるといってもよいのである。で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両[じゅうまんりょう]も棄てて、小町《こまち》の真筆のあなめあなめの歌[「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とは言はじ薄生ひたり」]、孔子様の讃《さん》が金《きん》で書いてある顔回《がんかい》[(ウィキペディアより)顔回(がんかい、紀元前514年 - 紀元前483年)は、孔子の弟子。名は子淵(しえん)。名より顔淵(がんえん)ともいう。字は回。魯の人。孔門十哲の一人で、随一の秀才。 孔子にその将来を嘱望されるも夭折する。]瓢《ひさご》[ひょうたん]、耶蘇《やそ》の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身《そりみ》になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。[作者の興が乗ってお遊びが走っている。]

 骨董いじりは実にオツである、イキである、おもしろいに違いない、高尚に違いない、そして有意義に違いない、そして場合によっては個人のため社会のためになる事もあるに違いない。自分なぞも資産家でさえあればきっとすばらしい贋物《がんぶつ》や贋筆を買込《かいこん》で大ニコニコであるに疑いない。骨董を買う以上は贋物を買うまいなんぞというそんなケチな事でどうなるものか、古人も死馬《しば》の骨を千金で買うとさえいってあるではないか。仇十州《きゅうじっしゅう》[[=仇十洲は号で、仇英(きゅうえい)という。明代の画家で16世紀前半に活躍]]贋筆[にせふで]は凡《およ》そ二十階級ぐらいあるという談《はなし》だが、して見れば二十度贋筆を買いさえすれば卒業して真筆が手に入るのだから、何の訳はないことだ。何だって月謝を出さなければ物事はおぼえられない。贋物贋筆を買うのは月謝を出すのだから、少しも不当の事ではない。さて月謝を沢山《たくさん》出した挙句《あげく》に、いよいよ真物真筆を大金で買う。嬉《うれ》しいに違いない、自慢をしてもよいに違いない。嬉しがる、自慢をする。その大金は喜悦《きえつ》税だ、高慢税だ。大金といったって、十円の蝦蟇口《がまぐち》から一円出すのはその人に取って大金だが、千万円の弗《ドル》箱から一万円出したって五万円出したって、比例をして見ればその人に取って実は大金ではない、些少《さしょう》の喜悦税、高慢税というべきものだ。そしてその高慢税は所得税などと違って、政府へ納められて盗賊《どろぼう》役人だかも知れない役人の月給などになるのではなく、直《すぐ》に骨董屋さんへ廻って世間に流通するのであるから、手取早《てっとりばや》く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしているのである。野暮でない、洒落《しゃれ》切った税というもので、いやいや出す税や、督促[「とくそく」促すこと。せき立てること。]を食った末に女房《にょうぼ》の帯を質屋へたたき込んで出す税とは訳が違う金なのだから、同じ税でも所得税なぞは、道成寺《どうじょうじ》[道成寺の鐘の再興の時に、白拍子が鐘に対する恨みを述べて蛇になるといった能(のう)]ではないが、かねに恨《うらみ》が数※[#二の字点、1-2-22]ござる、思えばこのかね恨《うら》めしやの税で、こっちの高慢税の如きは、金と花火は飛出す時光る、花火のように美しい勢《いきおい》の好《い》い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣※[#二の字点、1-2-22]《にこにこ》として投出《なげだ》す、受取る方も、ハッ五万円、先ずこれ位のものをお納めして置きますれば私《わたくし》も鼻が高うございますると欣※[#二の字点、1-2-22]《にこにこ》して受取る。悪い心持のする景色ではあるまい。誰だって高慢税は出したかろうではないか。自分も高慢税は沢山出したい。が、不埒千万《ふらちせんばん》、人生五十年過ぎてもまだ滞納とは怪《け》しからぬものだ。

 [朗読2]この高慢税を納めさせることをチャンと合点《がてん》していたのは豊臣秀吉《とよとみひでよし》[(1537-1598)]で、何といっても洒落《しゃれ》た人だ。東山《ひがしやま》時分から高慢税を出すことが行われ出したが、初めは銀閣金閣の主人みずから税を出していたのだ。まことに殊勝の心がけの人だった。信長《のぶなが》の時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直《ひきなお》して、いわゆる骨董を有難く頂戴させている。羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》なぞも戦《いくさ》をして手柄を立てる、その勲功の報酬の一部として茶器を頂戴している。つまり五万両なら五万両に相当する勲功を立てた時に、五万両の代りに茶器を戴いているのである。その骨董に当時五万両の価値があれば、そういう骨董を頂戴したのはつまり筑前守は五万両の高慢税を出して喜んでそれを買ったのと同じことである。秀吉が筑前守時代に数※[#二の字点、1-2-22]の茶器を信長から勲功の賞として貰《もら》ったことを記している手紙を自分の知人が持っている。専門の史家の鑑定に拠《よ》れば疑うべくもないものだ。で、高慢税を払わせる発明者は秀吉ではなくて、信長の方が先輩であると考えらるるのであるが、大《おおい》にその税法を広行したのは秀吉である。秀吉の智謀威力で天下は大分明るくなり安らかになった。東山以来の積勢で茶事は非常に盛んになった。茶道にも機運というものでがなあろう、英霊底《えいれいてい》の漢子《かんし》[「碧巌集」を踏まえた言い回しと思われるが、能力に優れた男子くらいの意味]が段※[#二の字点、1-2-22]に出て来た。松永弾正《まつながだんじょう》でも織田信長でも、風流もなきにあらず、余裕もあった人であるから、皆|茶讌《ちゃえん》を喜んだ。しかし大煽《おおあお》りに煽ったのは秀吉であった。奥州武士の伊達政宗《だてまさむね》が罪を堂《どう》ヶ|島《しま》に待つ間にさえ茶事を学んだほど、茶事は行われたのである。勿論《もちろん》秀吉は小田原《おだわら》陣にも茶道宗匠[(そうしょう)和歌、茶道などのその道の師匠]を随《したが》えていたほどである。南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、また古渡《こわたり》の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい、味のあるものを大《おおい》に尊《たっと》んだ。骨董は非常の勢《いきおい》をもって世に尊重され出した。勿論おもしろくないものや、味のないものや、平凡のものを持囃《もてはや》したのではない。人をしてなるほどと首肯点頭《しゅこうてんとう》[首肯も点頭もともに「うなずくこと」の意味]せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、またそれは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色[(しょくしき)でよい?]の慾が足り、少しの閑暇[(かんか)することのない状態。ひま。]があり、利益や権力の慾火は断《た》えず燃ゆるにしてもそれが世態[(せたい)世の中の有様、様相。]|漸《ようや》く安固[(あんこ)しっかりして揺るぎないこと]ならんとする傾《かたむき》を示して来て、そうむやみに修羅心《しゅらしん》に任せて※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きまわることも無効ならんとする勢《いきおい》の見ゆる時において、どうして趣味の慾が頭を擡《もた》げずにいよう。いわんやまた趣味には高下もあり優劣もあるから、優越の地に立ちたいという優勝慾も無論手伝うことであって、ここに茶事という孤独的でない会合的の興味ある事が存するにおいては、誰か茶讌《ちゃえん》[讌は宴の意なり]を好まぬものがあろう。そしてまた誰か他人の所有に優《まさ》るところの面白い、味のある、平凡ならぬ骨董を得ることを悦ばぬ者があろう。需《もと》むる者が多くて、給《きゅう》さるべき物は少い。さあ骨董がどうして貴きが上にも貴くならずにいよう。上は大名たちより、下は有福《ゆうふく》の町人に至るまで、競って高慢税を払おうとした。税率は人※[#二の字点、1-2-22]が寄ってたかって競《せ》り上げた。北野《きたの》の大茶《おおちゃ》の湯《ゆ》なんて、馬鹿気たことでもなく、不風流の事でもないか知らぬが、一方から観れば天下を茶の煙りに巻いて、大煽りに煽ったもので、高慢競争をさせたようなものだ。さてまた当時において秀吉の威光を背後に負いて、目眩《まばゆ》いほどに光り輝いたものは千利休《せんのりきゅう》[(1522-1591)]であった。勿論利休は不世出[(ふせいしゅつ)滅多に世に出ないほど優れていること]英霊漢[英霊(えいれい)とは、優れた人の魂、くらいの意味で、ようするに優れた精神を持った漢(おとこ)くらいの意味]である。兵政の世界において秀吉が不世出の人であったと同様に、趣味の世界においては先ず以《もっ》て最高位に立つべき不世出の人であった。足利《あしかが》以来の趣味はこの人によって水際立《みずぎわだ》って進歩させられたのである。その脳力も眼力も腕力も尋常一様の人ではない。利休以外にも英俊[(えいしゅん)才能などが人々よりも優れていること。英哲。]は存在したが、少※[#二の字点、1-2-22]は差があっても、皆大体においては利休と相《あい》呼応し相《あい》追随した人※[#二の字点、1-2-22]であって、利休は衆星[(しゅうせい)多くの星]の中に月の如く輝き、群魚を率いる先頭魚となって悠然としていたのである。秀吉が利休を寵用したのはさすが秀吉である。足利氏の時にも相阿弥《そうあみ》その他の人※[#二の字点、1-2-22]、利休と同じような身分の人※[#二の字点、1-2-22]はあっても、利休ほどの人もなく、また利休が用いられたほどに用いられた人もなく、また利休ほどに一世の趣味を動かして向上進歩せしめた人もない。利休は実に天仙《てんせん》の才[天上の仙人ほどの才]である。自分なぞはいわゆる茶の湯者流の儀礼などは塵《ちり》ばかりも知らぬ者であるけれども、利休がわが邦《くに》の趣味の世界に与えた恩沢[(おんたく)恵み。なさけ。]は今に至《いたっ》てなお存して、自分らにも加被《かひ》[=(かび)神仏が力を加えて守って下さること。加護。]していることを感じているものである。かほどの利休を秀吉が用いたのは実にさすがに秀吉である。利休は当時において言わず語らずの間に高慢税査定者とされたのである。

 利休が佳《か》なりとした物を世人は佳なりとした。利休がおもしろいとし、貴しとした物を、世人はおもしろいとし、貴しとした。それは利休に一毫《いちごう》[(一本の毛筋の意味から)ほんの少し。ごくわずか。]のウソもなくて、利休の佳とし、おもしろいとし、貴しとした物は、真に佳なるもの、真におもしろい物、真に貴い物であったからである。利休の指点したものは、それが塊然《かいぜん》[孤立している様子]たる一陶器であっても一度その指点[(してん)指さし示すこと]を経《ふ》るや金玉[黄金と玉のこと。得難くて貴重なもののたとえ。]ただならざる物となったのである。勿論利休を幇《たす》けて当時の趣味の世界を進歩させた諸星の働きもあったには相違ないが、一代の宗匠として利休は恐ろしき威力を有して、諸星を引率し、世間をして追随させたのである。それは利休のウソのない、秀霊[(しゅうれい)優秀なたましい、くらいの意味]の趣味感から成立ったことで、何らその間《かん》にイヤな事もない、利休が佳とし面白しとし貴しとした物は、長《とこし》えに真に佳であり面白くあり貴くある物であるのであるが、しかしまた一面には当時の最高有力者たる秀吉が利休を用い利休を尊《たっと》み利休を殆んど神聖なるものとしたのが利休背後の大光※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《だいこうえん》だった事も争えない。で、利休の指の指した者は頑鉄《がんてつ》も黄金《おうごん》となったのである。点鉄成金[「てんてつせいきん」鉄を点じて(変じての意味)金と成す]は仙術の事だが、利休は実に霊術を有する天仙の臨凡《りんぼん》したのであったのである。一世は利休に追随したのである。人※[#二の字点、1-2-22]は争って利休の貴しとした物を貴しとした。これを得る喜悦、これを得る高慢のために高慢税を納めることを敢《あえ》てしたのである、その高慢税の額は間接に皆利休の査定[「さてい」取り調べて決定すること]するところであったのである。自身はそんな卑役《ひやく》[卑しいような役]を取るつもりはなかったろうが、自然の勢《いきおい》で自分も知らぬ間に何時《いつ》かそういう役廻りをさせられるようになっていたのである。骨董が黄金何枚何十枚、一郡一城、あるいは血みどろの悪戦の功労とも匹敵するようなことになった。換言すれば骨董は一種の不換紙幣のようなものになったので、そしてその不換紙幣の発行者は利休という訳になったようなものである。西郷《さいごう》が出したり大隈《おおくま》が出したりした不換紙幣は直《じき》に価値が低くなったが、利休の出した不換紙幣はその後何百年を経てなおその価値を保っている。さすがは秀吉はエライ人間をつかまえて不換紙幣発行者としたもので、そして利休はまたホントに無慾でしかも煉金術を真に能《よ》くした神仙であったのである。不換紙幣は当時どれほど世の中の調節に与《あずか》って霊力があったか知れぬ。その利を受けた者は勿論利休ではない、秀吉であった。秀吉は恐ろしい男で、神仙を駆使してわが用を為さしめたのである。さて祭りが済めば芻狗《すうく》[祭に用い祭が終わると廃棄される藁(わら)製の犬の人形]は不要だ。よい加減に不換紙幣が流通した時、不換紙幣発行は打切られ、利休は詰らぬ理屈を付けられて殺されて終《しま》った。後から後からと際限なく発行されるのではないから、不換紙幣は長くその価値を保った。各大名や有福町人の蔵の中に収まりかえっていた。考えて見れば黄金や宝石だって人生に取って真価値があるのではない、やはり一種の手形じゃまでなのであろう。徹底して観ずれば骨董も黄金も宝石も兌換券も不換紙幣も似たり寄ったりで、承知されて通用すれば樹の葉が小判でも不思議はないのだ。骨董の佳《よ》い物おもしろい物の方が大判やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券で高慢税をウンと払って、釉《くすり》[陶器などの表面に塗りつけて仕上げる上塗りのこと。つまり、釉薬(ゆうやく、うわぐすり)のことである。]の工合の妙味言うべからざる茶碗なり茶入《ちゃいれ》なり、何によらず見処《みどころ》のある骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達《ちょうたつ》[伸び育つこと/伸び伸びとしていること]した料簡[「りょうけん」考えを巡らせること。思案。他にも「こらえること」「対策、処置」といった意味がある]というものだ。理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さそうな訳だ。関西の大富豪で茶道好きだった人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽《たのし》んで死んでしまった。一時間が何千円に当った訳だ、なぞと譏《そし》る者があるが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だって煙草《たばこ》の煙よりも果敢《はかな》いものにしか思えぬことを会得しないからだ。

 骨董はどう考えてもいろいろの意味で悪いものではない。特《こと》に年寄になったり金持になったりしたものには、骨董でも捻《ひね》くってもらっているのが何より好い。不老若返り薬などを年寄に用いてもらって、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落《しゃれ》だ。老人には老人相応のオモチャを当《あて》がって、落《おち》ついて隅の方で高慢の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷《ごきとう》になる。小供はセルロイドの玩器《おもちゃ》を持つ、年寄は楽焼《らくやき》の玩器《おもちゃ》を持つ、と小学|読本《とくほん》[学校の国語の教科書/絵本に対して読む本]に書いて置いても差支《さしつかえ》ない位だ。また金持はとかくに金が余って気の毒な運命に囚《とら》えられてるものだから、六朝仏《りくちょうぶつ》印度仏《いんどぶつ》ぐらいでは済度《とくど》[(=得度)生死の苦海を越え、煩悩のない涅槃の彼岸へと渡ること。また仏門へ入ること]されない故、夏殷周《かいんしゅう》の頃の大古物、妲己《だつき》[殷の紂王(ちゅうおう)の寵妃で、淫乱と残忍で知られる]の金盥《かなだらい》に狐の毛が三本着いているのだの、伊尹《いいん》[伝説上、殷初の頃の名相とされる人物]の使った料理鍋、禹《う》[夏王朝を創設したとされる中国の伝説上の帝]の穿《は》いたカナカンジキ[「かんじき」は雪に踏み込まないように靴の下に履く、木の枝などを広げたりしたもの]だのというようなものを素敵に高く買わすべきで、これはこれ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者だの無産者だのというむずかしい神※[#二の字点、1-2-22]の神慮をすずしめ奉《たてまつ》る御神楽《おかぐら》の一座にも相成る訳だ。

 [朗読3]が、それはそれでよいとして、年寄でもなく、二才《にさい》でもなく、金持でもなく、文無しでもない、いわゆる中年中産階級の者でも骨董を好かぬとは限らない。こういう連中は全く盲人《めくら》というでもなく、さればといって高慢税を進んで沢山納め奉るほどの金も意気もないので、得《え》て中有《ちゅうう》[衆生が死んで次の生を受けるまでの期間。日本では四十九日を当て、死者の霊がさ迷っているとし、四十九日をもって忌明けする]に迷った亡者のようになる。ところが書画骨董に心を寄せたり手を出したりする者の大多数はこの連中で、仕方がないからこの連中の内で聡明でもあり善良でもある輩《やから》は、高級骨董の素晴らしい物に手を掛けたくない事はないが、それは雲に梯《かけはし》の及ばぬ恋路みたようなものだから、やはり自分らの身分相応の中流どころの骨董で楽しむことになる。一番聡明善良なるものは分科的専門的にして、自分の関係しようとする範囲をなるべく狭小[「きょうしょう」]にし、そして歳月をその中で楽しむ。いわゆる一[#(ト)]筋を通し、一[#(ト)]流れを守って、画《え》なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯《なにがま》の何時《いつ》頃とか、書なら書で儒者の誰※[#二の字点、1-2-22]とか、蒔絵《まきえ》なら蒔絵で極《ごく》古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。この「筋の通った蒐集研究をする」これは最も賢明で本当の仕方であるから、相応に月謝さえ払えば立派に眼も明き味も解って来て、間違《まちがい》なく、最も無難に清娯《せいご》を得る訳だから論はない。しかるにまた大多数の人※[#二の字点、1-2-22]はそれでは律義《りちぎ》過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転《みずてん》にあたるように、雪舟《せっしゅう》[室町時代後期の画家。1420-1506]くさいものにも眼を遣《や》れば応挙《おうきょ》[円山応挙(まるやまおうきょ)(1733-1795)]くさいものにも手を出す、歌麿《うたまろ》[喜多川歌麿(きたがわうたまろ)(1750代-1806)]がかったものにも色気を出す、大雅堂《たいがどう》[池大雅(いけのたいが)(1723-76)]竹田《ちくでん》[田能村竹田(たのむらちくでん)(1777-1835)]ばたけにも鍬《くわ》を入れたがる、運が好ければ韓幹《かんかん》[中国、唐代の画家]の馬でも百円位で買おう気でおり、支那の笑話《しょうわ》にある通り、杜荀鶴《とじゅんかく》[中国、晩唐の詩人。(846-904)「心頭滅却すれば火も亦た涼し」は彼の詩の一節]の鶴の画なんという変なものをも買わぬと限らぬ勢《いきおい》で、それでも画のみならまだしもの事、彫刻でも漆器でも陶器でも武器でも茶器でもというように気が多い。そういう人※[#二の字点、1-2-22]は甚《はなは》だ少くないが、時に気の毒な目を見るのもそういう人※[#二の字点、1-2-22]で、悪気はなくとも少し慾気《よくけ》が手伝っていると、百貨店で品物を買ったような訳ではない目にも自業自得で出会うのである。中には些《ちと》性《しょう》が悪くて、骨董商の鼻毛を抜いていわゆる掘出物《ほりだしもの》をする気になっている者もある。骨董商はちょっと取片付《とりかたづ》けて澄ましているものだが、それだって何も慈善事業で店を開いている訳ではない、その道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過《すご》しているのだから、三十円のものは口銭《こうせん》や経費に二十円|遣《や》って五十円で買うつもりでいれば何の間違《まちがい》はないものを、五十円のものを三十円で買う気になっていては世の中がスラリとは行かない。五円のものを三十円で売附けられるようなことも、罷《まか》り間違えば出来ることになる道理だ。それを弥《いや》が上にもアコギな掘出し気《ぎ》で、三円五十銭で乾山《けんざん》[尾形乾山(おがたけんざん)(1663-1743)]の皿を買おうなんぞという図※[#二の字点、1-2-22]《ずうずう》しい料簡を腹の底に持っていたとて、何の、乾也《けんや》[三浦乾也(みうらけんや)(1821-1889)]だって手に入る訳はありはしない。勧業債券は一枚買って千円も二千円もになる事はあっても、掘出しなんということは先以《まずもっ》てなかるべきことだ。悪性《あくしょう》の料簡だ、劣等の心得だ、そして暗愚の意図というものだ。しかるに骨董いじりをすると、骨董には必ずどれほどかの価《あたい》があり金銭観念が伴うので、知らず識《し》らずに賤《いや》しくなかった人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる。

 掘出し物という言葉は元来が忌《いま》わしい言葉で、最初は土中《どちゅう》冢中《ちょうちゅう》などから掘出した物ということに違いない。悪い奴が棒一本か鍬《くわ》一|挺《ちょう》で、墓など掘って結構なものを得る、それが既ち掘出物で、怪しからぬ次第だ。伐墓《ばつぼ》という語は支那には古い言葉で、昔から無法者が貴人などの墓を掘った。今存している三略《さんりゃく》[中国古代の兵法書]張良《ちょうりょう》の墓を掘って彼が黄石公《こうせきこう》から頂戴したものをアップしたという伝説だが、三略はそうして世に出たものではない。全く偽物だ。しかし古い立派な人の墓を掘ることは行われた事で、明《みん》の天子の墓を悪僧が掘って種※[#二の字点、1-2-22]の貴い物を奪い、おまけに骸骨を足蹴《あしげ》にしたので罰《ばち》が当って脚疾《きゃくしつ》[脚気(かっけ)のこと。江戸わずらい。夏の季語である]になり、その事遂に発覚するに至った読むさえ忌わしい談《はなし》は雑書に見えている。発掘さるるを厭《いと》って曹操《そうそう》は多くの偽塚《にせづか》を造って置いたなどということは、近頃の考証でそうではないと分明したが、王安石《おうあんせき》[北宋時代の政治家、詩人、文学者(1021-1086)]などさえ偽塚の伝説を信じて詩を作ったりしていたところを見ると、伐墓の事は随分めずらしいことでなかったことが思われる。支那の古俗では、身分のある死者の口中には玉を含ませて葬《ほうむ》ることもあるのだから、酷《ひど》い奴は冢中の宝物《ほうもつ》から、骸骨の口の中の玉まで引《ひっ》ぱり出して奪うことも敢《あえ》てしようとしたこともあろう。※[#「さんずい+維」、第3水準1-87-26]県《いけん》あたりとか聞いたが、今でも百姓が冬の農暇《のうか》になると、鋤鍬《すきくわ》を用意して先達を先に立てて、あちこちの古い墓を捜しまわって、いわゆる掘出し物|※[#「てへん+峠のつくり」、第3水準1-84-76]《かせ》ぎをするという噂を聞いた。虚談ではないらしい。日本でも時※[#二の字点、1-2-22]飛んでもないことをする者があって、先年西の方の某国で或る貴い塋域《えいいき》[墓場、墓所、墓地のこと]を犯した事件というのが伝えられた。聞くさえ忌わしいことだが、掘出し物という語は無論こういう事に本《もと》づいて出来た語だから、いやしくも普通人的感情を有している者の使うべきでも思うべきでもない語であり事である。それにも関わらず掘出し物根性の者が多く、蚤取《のみと》り眼《まなこ》、熊鷹目《くまたかめ》[「森の王者」とも言われる熊鷹(くまたか)はワシ目タカ科の大形の鳥で、獲物目掛けてまっしぐらに滑空する]で、内心大掘出しをしたがっている。人が少し悪い代りに虫が大《おおい》に好い談《はなし》である。そういう人間が多いから商売が険悪になって、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋《う》めて置いて、掘出し党に好い掘出しをしたつもりで悦ばせて、そして釣鉤《つりばり》へ引掛《ひっか》けるなどという者も出て来る。京都|出来《でき》のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャンと釣るなぞというケレン商売[外連(けれん)とはもとは演劇用語で、見た目の俗受けを狙ったような演出(宙づり・早変わりなど)のこと。転じて、はったりや誤魔化しのことを差す]も始まるのである。もし真に掘出しをする者があれば、それは無頼溌皮《ぶらいはっぴ》[「溌皮」も無頼同様、無法な行いをすることの意味か?]の徒でなければならぬ。またその掘出物を安く買って高く売り、その間《かん》に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払っている商売人でなければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでいるのである。毎日※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]真剣勝負をするような気になって、良い物、悪い物、二番手、三番手、いずれ結構|上※[#二の字点、1-2-22]《じょうじょう》の物は少い世の中に、一[#(ト)]眼|見損《みそこな》えば痛手を負わねばならぬ瀬に立って、いろいろさまざまあらゆる骨董相応の値ぶみを間違わず付けて、そして何がしかの口銭を得ようとするのが商売の正しい心掛《こころがけ》である。どうして油断も隙《すき》もなりはしない。波の中に舟を操っているようなものである。波瀾重畳《はらんちょうじょう》[「波瀾・波乱」で大小の波、また変化、曲折やもめ事、ごたごたなどを表す。重畳は幾重にも重なること。つまりは波瀾万丈と類似の意味]がこの商買の常である。そこへ素人《しろうと》が割込んだとて何が出来よう。今この波瀾重畳険危[危険の業界用語……という訳でもないが、前後の逆になったもの]な骨董世界の有様を想見《そうけん》[想像してみること]するに足りる談《はなし》をちょっと示そう。但しいずれも自分が仮設《かせつ》したのでない、出処《しゅっしょ》はあるのである。いわゆる「出《で》」は判然《はっきり》しているので、御所望ならば御明かし申して宜《よろ》しいのです。ハハハ。[笑ってるよこの人]

 [朗読4]これは二百年近く古い書に見えている談《はなし》である。京都は堀川《ほりかわ》に金八《きんぱち》[金八先生はこの金八の十八代目の跡取(嘘)]という聞えた道具屋があった。この金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も心の励みの功を積んだので、大分に眼が利いて来て、自分ではもう内※[#二の字点、1-2-22]《ないない》、仲間の者にもヒケは取らない、立派な一人前の男になったつもりでいる。実際また何から何までに渡って、随分に目も届けば気も働いて、もう親父から店を譲られても、取りしきって一人で遣《や》って行かれるほどになっていたのである。しかし何家《どこ》の老人《としより》も同じ事で、親父はその老成の大事取りの心から、かつはあり余る親切の気味から、まだまだ位に思っていた事であろう、依然として金八の背後《うしろ》に立って保護していた。

 金八が或時|大阪《おおさか》へ下《くだ》った。その途中|深草《ふかくさ》を通ると、道に一軒の古道具屋があった。そこは商買の事で、ちょっと一[#(ト)]眼見渡すと、時代蒔絵《じだいまきえ》の結構な鐙《あぶみ》がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留って視ると、如何にも時代といい、出来といい、なかなかめったにはない好いものだが、残念なことには一方しかなかった。揃っていれば、勿論こんな店にあるべきものではないはずだが、それにしても何程《いくら》というだろうと、価《あたい》を聞くと、ほんの端金《はしたがね》だった。アア、一対《いっつい》なら、おれの腕で売れば慥《たしか》に三十両にはなるものだが、片方では仕方がない、少しの金にせよ売物にならぬものを買ったってどうもならぬと、何ともいえないその鐙の好い味に心は惹《ひ》かれながら、振返っては見つつも思い捨てて買わずに大阪へと下った。いくら好い物でも商売にならぬものを買わなかったところはさすがに宜かった。ところが、それから道の程を経て、京橋辺《きょうばしへん》の道具屋に行くと、偶然といおうか天の引合せといおうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あった。ン、これが別れ別れて両方|後家《ごけ》になっていたのだナ、しめた、これを買って、深草のを買って、両方合わせれば三十両、と早くも腹の中で笑《えみ》を含んで、価を問うと片方の割合には高いことをいって、これほどの物は片方にせよ稀有《けう》のものだからと、なかなか廉《やす》くない。仕方がないから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方のいい値《ね》で買って、わが家へ帰ると直《すぐ》にこの話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであった。すると親父は悦ぶどころか大怒《おおおこ》りで、「たわけづらめ、慾に気が急《せ》いて、鐙の左右にも心を附けずに買いおったナ」と罵《ののし》られた。金八も馬鹿じゃなかった。ハッと気が付いて、「しまった。向後《きょうこう》[今から後、今後]気をつけます、御免なさいまし」と叩頭《おじぎ》したが、それから「片鐙《かたあぶみ》の金八」という渾名《あだな》を付けられたということである。これは、もとより片方しかなかった鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまわり道をして同じその鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さえ急かねば謀《はか》られる訳はないが、他人にして遣《や》られぬ前にというのと、なまじ前に熟視《じゅくし》していて、テッキリ同じ物だと思った心の虚《きょ》というものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃《いっぱい》食わせられたのである。親父はさすがに老功で、後家の鐙を買合《かいあわ》せて大きい利を得る、そんな甘《うま》い事があるものではないというところに勘《かん》を付けて、直《すぐ》に右左の調べに及ばなかったナと、紙燭《ししょく》をさし出して慾心の黒闇《くらやみ》を破ったところは親父だけあったのである。勿論深草を尋ねても鐙はなくって、片鐙の浮名《うきな》だけが金八の利得になったのである。昔と今とは違うが、今だって信州と名古屋とか、東京と北京《ペキン》とかの間でこの手で謀られたなら、慾気満※[#二の字点、1-2-22]《よくけまんまん》の者は一服《いっぷく》頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八はちょっとおもしろい談《はなし》だ。

 も一ツ古い談《はなし》をしようか、これは明末《みんまつ》の人の雑筆に出ているので、その大分に複雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人※[#二の字点、1-2-22]や骨董屋の種※[#二の字点、1-2-22]の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ふうぼう》[=風貌、風采と容貌。姿形]がおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦《から》む愛着や慾念の表裏が如何様《いかよう》に深刻で険危なものであるということを語っている点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董というものについて一種の淡い省悟《せいご》[反省をし悟ること]を発せしめられるような気味があるので、自分だけかは知らぬが興味あることに覚える。談《はなし》の中に出て来る人※[#二の字点、1-2-22]には名高い人※[#二の字点、1-2-22]もあり、勿論虚構の談ではないと考えられるのである。

 定窯《ていよう》[特に北宋時代(960-1279)に栄えた名窯で、随の頃から始まったともされる。白磁(はくじ)にふさわしい白土が得られる土地だそうだ]といえば少し骨董好きの人なら誰でも知っている貴い陶器だ。宋《そう》の時代に定州《ていしゅう》で出来たものだから定窯というのである。詳しく言えばその中にも南定《なんてい》北定《ほくてい》とあって、南定というのは宋が金《きん》に逐《お》われて南渡《なんと》してからのもので、勿論その前の北宋《ほくそう》の時、美術天子の徽宗《きそう》皇帝の政和宣和《せいわせんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。また、新定《しんてい》というものがあるが、それは下《くだ》って元《げん》の頃に出来たもので、ほんとの定窯ではない。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、107-12]水《ゆうすい》[=湧水(ゆうすい)か?]の加わった工合に、何ともいえぬ面白い味が出て、さほどに大したものでなくてさえ人を引付ける。

 ところが、ここに一つの定窯の宝鼎《ほうてい》[鼎(かなえ)は食べものを煮るのに使用する多くが三本足で立った器のことであるが、宝物的作品として権威象徴的に造られることの多い器でもあった]があった。それは鼎《かなえ》のことであるからけだし当時宮庭へでも納めたものであったろう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であった。はじめ明の成化弘治《せいかこうじ》の頃、朱陽《しゅよう》の孫氏《そんし》が曲水山房《きょくすいさんぼう》[曲水とは庭園や山麓を曲がり流れる水のことであるからして、そのような佇まいの山荘などを差す]に蔵していた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつづき合《あい》で、七峯は当時の名士であった楊文襄《ようぶんじょう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゅくけいちょう》、唐解元《とうかいげん》、李西涯《りせいがい》等と朋友《ともだち》で、七峯のいたところの南山《なんざん》で、正徳《せいとく》十五年七峯が蘭亭《らんてい》の古《いにしえ》のように修禊《しゅうけい》の会をした時は、唐六如《とうりくじょ》が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だったばっかりでなかったのである。そこでその定窯の鼎の台座には、友人だった李西涯篆書《てんしょ》[篆書体(てんしょたい)。漢字書体の一つ]で銘《めい》を書いて、鐫《え》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであったろう。そういうスバらしい鼎だったのである。

 ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇《わこう》に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1-2-22]の点で損害を蒙《こうむ》って、次第※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に家運が傾いた。で、蓄えていたところの珍貴な品※[#二の字点、1-2-22]を段※[#二の字点、1-2-22]と手放すようになった。鼎は遂に京口《けいこう》の※[#「革+斤」、第3水準1-93-77]尚宝《きしょうほう》の手に渡った。それから毘陵《びりょう》の唐太常凝菴《とうたいじょうぎょうあん》が非常に懇望して、とうとう凝菴の手に入ったが、この凝菴という人は、地位もあり富力もある上に、博雅《はくが》[物事を広く知っている人]で、鑒識《かんしき》[=鑑識。つまり善悪、真贋などを見分ける力。または、犯罪科学における鑑定のこと]にも長《た》け、勿論学問もあった人だったから、家には非常に多くの優秀な骨董を有していた。しかし孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸《もろもろ》の窯器《ようき》は皆その光輝を失ったほどであった。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定《き》まってしまった。実際無類絶好の奇宝であり、そして一見した者と一見もせぬ者とに論なく、衆口嘖※[#二の字点、1-2-22]《しゅうこうさくさく》[衆口、すなわち多くの人の口から、嘖嘖、すなわち叫ばれるように]としていい伝え聞伝えて羨涎《せんせん》[羨望の涎(よだれ)くらいの意味か?]を垂れるところのものであった。

 ここに呉門《ごもん》の周丹泉《しゅうたんせん》という人があった。心慧思霊《しんけいしれい》[心細やかに思いに霊のこもるくらいの意か?]の非常の英物で、美術骨董にかけては先ず天才的の眼も手も有していた人であったが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1-93-51]《きんしょう》から舟に乗り、江右《こうゆう》に往く、道に毘陵《びりょう》を経て、唐太常に拝謁を請い[こい]、そして天下有名の彼《か》の定鼎の一覧を需《もと》めた。丹泉の俗物でないことを知って交《まじわ》っていた唐氏は喜んで引見して、そしてその需《もとめ》に応じた。丹泉はしきりに称讃してその鼎をためつすがめつ熟視し、手をもって大《おおい》さを度《はか》ったり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、こういう奇品に面した眼福《がんぷく》[変わったもの、めずらしいものを見ることが出来た眼のよろこび]を喜び謝したりして帰った。そしてまた舟を出して自分の旅路に上《のぼ》ってしまった。

 それから半歳《はんとし》余り経《たっ》た頃、また周丹泉が唐太常をおとずれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じような白定鼎をそれがしも手に入れました」といった。唐太常は吃驚《びっくり》した。天下一品と誇っていたものが他所《よそ》にもあったというのだからである。で、「それならばその品を視せて下さい」というと、丹泉は携えて来ていたのであるから、異議なく視せた。唐は手に取って視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色《ゆうしょく》[釉とはうわぐすりのことなので、特定の色ではなく、その作品の器の色具合といった意味]の工合から、全くわが家のものと寸分|違《たが》わなかった。そこで早速自分の所有のを出して見競《みくら》べて視ると、兄弟か※[#「戀」の「心」に代えて「女」、第4水準2-5-91]生《ふたご》か、いずれをいずれとも言いかねるほど同じものであった。自分のの蓋《ふた》を丹泉の鼎に合せて見ると、しっくりと合《がっ》する。台座を合せて見ても、またそれがために造ったもののようにぴたりと合う。いよいよ驚いた太常は溜息《ためいき》を吐《つ》かぬばかりになって、「して君のこの定鼎はどういうところからの伝来である」と問うた。すると丹泉は莞爾《にっこ》と笑って、「この鼎は実は貴家から出たのでござりまする。かつて貴堂において貴鼎を拝見しました時、拙者はその大小軽重|形貌《けいぼう》精神、一切を挙げて拙者の胸中に了※[#二の字点、1-2-22]《りょうりょう》と会得しました。そこで実は倣《なら》ってこれを造りましたので、あり体《てい》に申します、貴台を欺《あざむ》くようなことは致しませぬ」といった。丹泉は元来|毎※[#二の字点、1-2-22]《つねづね》江西《こうせい》の景徳鎮《けいとくちん》へ行っては、古代の窯器の佳品の模製を良工に指図しては作らせて、そしていわゆる掘出し好きや、比較的低い銭で高い物を買おうとする慾張りや、訳も分らぬくせに金銭ずくで貴い物を得ようとする耳食者流《じしょくしゃりゅう》[耳食とは聞いただけで味を判断するという意味で、つまりは他者の説などを判断せずにそれに従うようなことを言う]の目をまわさせていたもので、その製作は款紋色沢《かんもんしきたく》[刻みや紋から色彩の具合まで、といった意味か?]、すべて咄※[#二の字点、1-2-22]《とつとつ》[驚いて悔しがるほどに]として真に逼《せま》ったものであったのである。恐ろしい人もあったもので、明の頃に既にこういう人があったのであるから、今日でもこの人の造らせた模品が北定窯だの何だのといって何処《どこ》かの家に什襲珍蔵《じゅうしゅうちんぞう》[什襲で隠しておくといった意味、珍蔵は、珍しいものを秘蔵しておく意味]されていぬとは限るまい。さて、周の談《はなし》を聞いて太常はまた今更に歎服[「たんぷく」=感服]した。で、「それならばこの新鼎は自分に御譲りを願う、真品と共に秘蔵して永く副品《ふくひん》としますから」というので、四十|金《きん》を贈ったということである。無論丹泉はその後また同じ品を造りはしなかったのであろう。

 [朗読5]この談《はなし》だけでもかなり骨董好きは教えられるところがあろうが、談はまだ続くのである。それから年月を経て、万暦《まんれき》の末年頃、淮安《わいあん》に杜九如《ときゅうじょ》というものがあった。これは商人で、大身上《だいしんしょう》[「大身(たいしん)」すなわち身分の高い身の上くらいの意味]で、素敵な物を買出すので名を得ていた。千金を惜《おし》まずして奇玩《きがん》をこれ購《あがな》うので、董元宰《とうげんさい》の旧蔵の漢玉章《かんぎょくしょう》、劉海日《りゅうかいじつ》の旧蔵の商金鼎《しょうきんてい》なんというものも、皆杜九如の手に落ちた位である。この杜九如が唐太常の家にある定鼎の噂を聞いていて、かねがねどうかして手に入れたいものだと覗《うかが》っていた。太常の家は孫の代になって、君兪《くんゆ》というものが当主であった。君兪は名家に生れて、気位《きぐらい》も高く、かつ豪華で交際を好む人であったので、九如は大金を齎《もた》らして君兪のために寿《じゅ》を為し、是非ともどうか名高い定鼎を拝見して、生平《せいへい》の渇望を慰《い》したいと申出《もうしだ》した。君兪は金《かね》で面《つら》を撲《は》るような九如を余り好みもせず、かつ自分の家柄からして下眼に視たことででもあろう、ウン御覧に入れましょうといって半分冗談に、真鼎は深蔵したまま、彼《か》の周丹泉が倣造《ほうぞう》した副の方の贋鼎《がんてい》を出して視せた。贋鼎だって、最初真鼎の持主の凝菴が歎服した位のものではあり、まして真鼎を目にしたことはない九如であるから、贋物と悟ろうようはない、すっかりその高雅妙巧の威に撲《う》たれて終《しま》って、堪《たま》らない佳い物だと思い込んで惚《ほ》れ惚れした。そこで無理やりに千金を押付《おしつけ》て、別に二百金を中間に立って取做《とりな》してくれる人に酬《むく》い、そして贋鼎を豪奪《ごうだつ》するようにして去った。巧偸豪奪《こうゆごうだつ》[巧妙な模写で本物を奪ったという中国宋代の逸話より生まれた言葉。言葉巧みにだまし取ったり、力任せに奪うこと。言葉を転じて「巧取豪奪(こうしゅごうだつ)」と言う]という語は、宋の頃から既に数※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》見える語で、骨董好きの人※[#二の字点、1-2-22]には豪奪ということも自然と起らざるを得ぬことである。マアそれも恕《じょ》すべきこととすれば恕すべきことである。

 しかし君兪の方では困ることであった。何故《なぜ》といえば持って行かれたのが真物ではないからである。君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だという位のことで贋物を真顔《まがお》で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でもなく温厚の人なので、欺いたようになったまま済ませて置くことは出来ぬと思った。そこで門下の士を遣って、九如に告げさせた。「君が取って行ったものは実は贋鼎である。真の定鼎はまだ此方《このほう》に蔵してあるので、それは太常公の戒《いましめ》に遵《したが》って軽※[#二の字点、1-2-22]《かろがろ》しく人に示さぬことになっているから御視《おみ》せ申さなかったのである。しかるに君が既に千金を捐《す》てて贋品を有《も》っているということになると、君は知らなくても自分は心に愧《は》じぬという訳にはゆかぬではないか。どうかあの鼎を還《かえ》して下さい、千金は無論御返しするから」と理解させたのである。ところが世間に得てあるところの例で、品物を売る前には金《かね》が貴く思えて品物を手放すが、品物を手放してしまうとその物のないのが淋しくなり、それに未練が出て取返したくなるものである。杜九如の方ではテッキリそれだと思ったから、贋物だったなぞというのは口実だと考えて、約束|変改《へんがい》[一度決めたことを変更すること、心変わりすること]をしたいのが本心だと見た。そこで、「どういたしまして。あの様な贋物があるものではございますまい。仮令《たとい》贋物にしましたところで、手前の方では結構でございます、頂戴致して置きまして後悔はございません」とやり返した。「そんなにこちらの言葉を御信用がないならば、二つの鼎を列《なら》べて御覧になったらば如何《いかが》です」と一方はいったが、それでも一方は信疑|相半《あいなかば》して、「当方はどうしても頂戴して置きます」と意地張《いじば》った。そこで唐君兪は遂に真鼎を出して、贋鼎に比べて視せた。双方とも立派なものではあるが、比べて視ると、神彩霊威《しんさいれいい》[神のごとく優れた様子に霊的な威力の籠もる]、もとより真物は世間に二ツとあるべきでないところを見《あら》わした。しかし杜九如も前言の手前、如何《どう》ともしようとはいわなかった。つまり模品《もひん》だということを承知しただけに止《とど》まって、返しはしなかった。九如のその時の心の中《うち》は傍《はた》からはなかなか面白く感ぜられるが、当人に取っては随分変なものであったろう。しかしこの委曲[いきょく・事柄の細かな点]を世間が知ろうはずはない、九如の家には千金に易《か》えた宝鼎が伝わったのである。九如は老死して、その子がこれを伝えて有《も》っていた。

 王廷珸《おうていご》字《あざな》は越石《えつせき》という者があった。これは片鐙《かたあぶみ》を金八に売りつけたような性質の良くない骨董屋であった。この男が杜九如の家に大した定鼎のあることを知っていた。九如の子は放蕩ものであったので、花柳《かりゅう》の巷《ちまた》に大金を捨てて、家も段※[#二の字点、1-2-22]に悪くなった。そこへ付込《つけこ》んで廷珸は杜生《とせい》に八百金を提供して、そして「御返金にならない場合でも御宅の窯鼎《ようてい》さえ御渡し下されば」ということをいって置いた。杜生はお坊さんで、廷珸の謀《はか》った通りになり、鼎は廷珸の手に落ちてしまった。廷珸は大喜びで、天下一品、価値|万金《ばんきん》なんどと大法螺《おおぼら》を吹立《ふきた》て、かねて好事《こうず》で鳴っている徐六岳《じょりくがく》という大紳《たいしん》に売付けにかかった。徐六岳を最初から廷珸は好い鳥だと狙っていたのであろう。ところが徐はあまり廷珸が狡譎《こうきつ》[ずるがしこくよこしまなこと]なのを悪《にく》んで、横を向いてしまった。廷珸はアテがはずれて困ったが仕方がなかった。もとよりヤリクリをして、狡辛《こすから》く[こすっからい。うまく立ち回って利益を得ようとするようなタイプである]世を送っているものだから、嵌《は》め込む目的《あて》がない時は質《しち》に入れたり、色気の見える客が出た時は急に質受けしたり、十余年の間というものは、まるで碁《ご》を打つようなカラクリをしていたその間に、同じような族類系統の肖《に》たものをいろいろ求めて、どうかして甘《あま》い汁を啜《すす》ろうとしていた。その中《うち》に泰興《たいこう》の季因是《きいんぜ》という、相当の位地のある者が廷珸に引《ひっ》かかった。

 季因是もかねて唐家の定窯鼎の事を耳にしていた。勿論見た事もなければ、詳しい談《はなし》を聞いていたのでもない。ただその名に憧れて、大した名物だということを知っていたに過ぎない。廷珸は因是の甘いお客だということを見抜いて、「これがその宝器でございまして、これこれの訳で出たものでございまする」と宜《い》い加減な伝来のいきさつを談《はな》して、一つの窯鼎を売りつけた。それも自分が杜生から得た物を売ったのならまだしもであって、贋鼎にせよ周丹泉の立派な模品であるから宜いが、似ても似つかぬ物で、しかも形さえ異《ことな》っている方鼎《ほうてい》であった。しかし季因是はまるで知らなかったのだから、廷珸の言に瞞着《まんちゃく》[あざむくこと。誤魔化すこと]されて、大名物を得る悦びに五百金という高慢税を払って、大ニコニコでいた。

 しかるに毘陵《びりょう》の趙再思《ちょうさいし》という者が、偶然泰興を過ぎたので、知合《しりあい》であったから季因是の家をおとずれた。毘陵は即ち唐家のあるところの地で、同じ毘陵の者であるから、趙再思も唐家に遊んだこともあって、彼《か》の大名物の定鼎を見たこともあったのである。その毘陵の人が来たので、季因是は大天狗《おおてんぐ》で、「近ごろ大した物を手に入れましたが、それは乃《すなわ》ち唐氏の旧蔵の名物で、わざとにも御評鑒《ごひょうかん》[=評鑑。すなわち鑑定、品評のこと]を得たいと思っておりましたところを、丁度《ちょうど》御光来[ごこうらい・他者の来訪に対する尊敬語。御入来とも]を得ましたのは誠に仕合せで」という談《はなし》だ。趙再思はただハイハイといっていると、季は重ねて、「唐家の定窯の方鼎は、君もかつて御覧になったことが御有《おあ》りですか」といった。そこで趙は堪《こら》えかねて笑い出して、「何と仰《おっし》あります、唐氏の定鼎は方鼎ではございませぬ、円鼎《えんてい》で、足は三つで、方鼎と仰《おっし》あるが、それは何で」と答えた。季因是はこれを聴くと怫然《ふつぜん》[怒るさま。むっとするさま]として奥へ入ってしまって久しく出て来なかった。趙再思は仕方なしに俟《ま》っていると、暮方《くれがた》になって漸《ようや》く季は出て来て、余怒《よど》なお色にあるばかりで、「自分に方鼎を売付けた王廷珸という奴めは人を馬鹿にした憎い奴、南科《なんか》の屈静源《くつせいげん》は自分が取立てたのですから、今書面を静源に遣《つか》わしました。静源は自分のためにこの一埒《いちらつ》[埒は物事の秩序、順序といった意味]を明けてくれましょう」ということであった。果して屈静源は有司《ゆうし》に属して追理《ついり》[是非をただして裁くこと]しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿《かく》してしまって、人をたのんで詫《わび》を入れ、別に偽物などを贈って、やっと牢獄《ろうや》へ打込まれるのを免《まぬか》れた。

 [朗読6]談《はなし》はこれだけで済んでも、かなり可笑味《おかしみ》もあり憎味もあって沢山なのであるが、まだ続くからいよいよ変なものだ。廷珸の知合に黄※[#二の字点、1-2-22]石《こうこうせき》、名は正賓《せいひん》というものがあった。廷珸と同じ徽州《きしゅう》のもので、親類つづきだなどいっていたが、この男は※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳《しんしん》[官位身分の高い人]の間にも遊び、少しは鼎彝《ていい》書画[「彝」は中国で宗廟(そうびょう)に供え置いた器のことだから、「鼎、彝、書、画」をもって美術品を代弁したもの]の類をも蓄え、また少しは眼もあって、本業というのではないが、半黒人《はんくろうと》で売ったり買ったりもしようという男だ。こういう男は随分世間にもあるもので、雅《が》のようで俗で、俗のようで物好《ものずき》でもあって、愚のようで怜悧《りこう》で、怜悧のようで畢竟《ひっきょう》は愚のようでもある。不才の才子である。この正賓はいつも廷珸と互《たがい》に所有の骨董を取易《とりか》えごとをしたり、売買《うりかい》の世話をしたりさせたりして、そして面白がっていた。この男が自分の倪雲林《げいうんりん》の山水《さんすい》一|幅《ぷく》、すばらしい上出来なのを廷珸に託して売ってもらおうとしていた。価は百二十金で、ちょっとはないほどのものだった。で、廷珸の手へ託しては置いたが、金高《かねだか》ものでもあり、口が遠くて長くなる間に、どんな事が起らぬとも限らぬと思ったので、そこでなかなかウッカリしておらぬ男なので、その幅の知れないところへ予《あらか》じめ自分の花押《かおう》[署名の下に書く判(つまり印、記号)のこと。それだけで自分であることを表すことも]を記して置いて、勿論廷珸にもその事は秘しておったのである。廷珸はその雲林を見ると素敵に好いので、欲しくなって堪《たま》らなかった。で、上手《じょうず》な贋筆かきに頼んで、すっかりその通りの模本《もほん》[模写したもの。または習字などの手本]をこしらえさせた。正賓が取返しに来た時、米元章流《べいげんしょうりゅう》の巧偸をやらかして、※[#「暮」に「日」に代えて「手」、第3水準1-84-88]本《もほん》の方を渡して知らん顔をきめようというのであった。ところが先方にも荒神様《こうじんさま》[三宝荒神(さんぼうこうじん)、竈(かまど)の神。他にも、守護神を差すこともある。転じて女房を差すこともある]が付いていない訳ではなくて、チャント隠し印《じるし》のあることには気が付かなかったのである。こういうイキサツだから何時《いつ》まで経《た》っても売れない。そこで正賓は召使の男を遣《や》って、雲林を取返して来いといい付けた。隠し印のことは無論男に呑込ませたのである。この男の王仏元《おうぶつげん》というのも、平常《いつも》主人らの五分《ごぶ》もすかさないところを見聞《みきき》して知っているので、なかなか賢くなっている奴だった。で、仏元は廷珸のところへ往って、雲林を返して下さいというと、廷珸は承知して一幅を返した。一幅は何も彼《か》も異《ことな》ってはいなかった。しかし仏元は隠しじるしのあり処《どころ》についてその有無を査《しら》べた。不思議や主人の花押は影も形もなかった。ないはずである、廷珸が今渡したものは正《まさ》しく※[#「暮」に「日」に代えて「手」、第3水準1-84-88]品なのであるもの。

 仏元はさてこそと腹の中でニヤリと笑った。ところでこの男がまた真剣|白刃取《しらはど》りを奉書《ほうしょ》[上からの意向を承って臣下が記した命令書。綸旨(りんじ)]の紙一枚で遣付《やりつ》けようという男だったから、これは怪しからん、模本贋物を御渡しになるとは、と真正面からこちらの理屈の木刀を揮《ふる》って先方の毒悪の真剣と切結ぶような不利なことをする者ではなかった。何でもない顔をして模本の雲林を受取った。敵の真剣を受留めはしないで、澄まして体《たい》を交《か》わして危気《あぶなげ》のないところに身を置いたのである。そしてこういうことを言った。「主人はただ私《わたくし》に画を頂戴して参れとばかりではなく、こちらの定窯鼎をお預かり致してまいれ、御直段《おねだん》の事はいずれ御相談致しますということで」といった。定鼎の売れ口がありそうな談《はなし》である。そこで廷珸は悦んで例の鼎を出して仏元に渡した。廷珸は仏元に、より長い真剣を渡して終《しま》ったのである。

 そこへ正賓は遣《や》って来た。そして画を検査してから、「售《う》れないなら售れないで、原物を返してくれるべきに、狡《こす》いことをしては困る」というと、「飛んでもない、正しくこれは原物で」と廷珸はいい張る。「イヤ、そうは脱けさせない。自分は隠しじるしをして置いた、それが今|何処《どこ》にある。ソンナ甘《あま》い手を食わせられる自分じゃない」という。「そりゃいい掛《がか》りというもので、原物を返せば論はないはずだ」という。双方負けず劣らず遣合《やりあ》って、チャンチャンバラと闘ったが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、この鼎を還すまじいさまをしていた。論に勝っても鼎を取られては詰らぬと気のついた廷珸は、スキを見て鼎を奪取《うばいと》ろうとしたが、耳をしっかり持っていたのだったから、巧《うま》くは奪えなかった。耳は折れる、鼎は地に墜《お》ちる。カチャンという音一ツで、千万金にもと思っていたものは粉砕してしまった。ハッと思うと憤恨一時に爆裂した廷珸は、夢中になって当面の敵の正賓にウンと頭撞《ずつ》きを食わせた。正賓は肋《あばら》を傷《きずつ》けられて卒倒し、一場《いちじょう》は無茶苦茶になった。

 元来正賓は近年逆境におり、かつまた不如意《ふにょい》[思いのままにならないこと。また、生活の困難なこと]で、惜しい雲林さえ放そうとしていた位のところへ、廷珸の侮《あなど》りに遭い、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶《うつもん》[心が晴れずもだえ悩むこと]苦痛一時に逼《せま》り、越夕《えっせき》[夕暮れを過ぎて、夜になること。ここでは、人生の夕暮れを越してという意味]して終《つい》に死んでしまった。廷珸も人命|沙汰《ざた》になったので土地にはいられないから、出発して跡を杭州《こうしゅう》にくらました。周丹泉の造った模品はこれで土に返った訳である。

 談《はなし》はもうこれで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い。廷珸が前に定窯の鼎類数種を蒐《あつ》めた中に、なお唐氏旧蔵の定鼎と号して大名物を以て人を欺《あざむ》くべきものがあった。廷珸は杭州に逃げたところ、当時|※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王《ろおう》が杭州に寓《ぐう》しておられた。廷珸は※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王の承奉兪啓雲《しょうほうゆけいうん》という者に遇って、贋鼎を出して示して、これが唐氏旧蔵の大名物と誇耀《こよう》[名誉や美しさなどを盛んに誇ること]した。そして※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王に手引《てびき》してもらって、手取り千六百金、四百金を承奉に贈ることにして、二千金で売付けた。時はもう明末にかかり、万事|不束《ふつつか》で、人も満足なものもなかったので、一厨役《いちちゅうやく》の少し麁鹵《そろ》なものにその鼎を蔵した管龠《かんやく》を扱わせたので、その男があやまってその贋鼎の一足《ひとあし》を折ってしまった。で、その男は罪を懼《おそ》れて身を投げて死んで終《しま》った。その頃大兵が杭州に入り来たって、※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王は奔《はし》り、承奉は廃鼎《はいてい》を銭塘江《せんとうこう》に沈めてしまったという。

 これでこの一条の談《はなし》は終りであるが、骨董というものに附随して随分種※[#二の字点、1-2-22]の現象が見られることは、ひとりこの談のみの事ではあるまい。骨董は好い、骨董はおもしろい。ただし願わくはスラリと大枚《たいまい》な高慢税を出して楽《たのし》みたい。廷珸や正賓のような者に誰しも関係したくは思うまい。それからまた、いくら詰らぬ人にだって、鼎の足を折ったために身を投げてもらったりなぞしたくはあるまい。

[#地から1字上げ](大正十五年十一月)

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青空文庫ファイルについて

底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第六巻」岩波書店
   1953(昭和28)年12月刊
入力:土屋隆
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