竹取物語、その二

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なほ、この女見では

 それでもなほ、この女見ないでは、自らのこころ世にあるまじき心地のしければ、
「天竺(てんぢく)[=インド]にある物も、持て来(こ)ぬものかは」
と思ひめぐらして、石作(いしつくり)の皇子(みこ)は、心の支度(したく)ある[配慮の常に行きとどいた]人にて、
「天竺に二つとなき鉢(はち)を、百千万里(ももちばんり・ひやくせんばんり)[非常に遠いの意味]のほど行(ゆ)きたりとも、いかで取るべき[どうして取ることが出来ようか]
と思ひて、かくや姫のもとには、
「今日(けふ)なむ、天竺へ石の鉢取りにまかる」
と聞かせて、三年(みとせ)ばかり、大和の国、十市の郡(とをちのこほり)[奈良の香具山の辺り]にある山寺に、賓頭盧(びんづる)[仏教の聖者たる十六羅漢(じゅうろくらかん)のひとつ]の前(まへ)なる所に置かれた鉢の、ひた黒(ぐろ)[=まっ黒]に墨つきたるを盗み取りて、これを錦(にしき)[=厚手の絹織物]の袋に入れて、贈り物にするため作り花(ばな)の枝につけて、かくや姫の家に持て来て見せければ……
 かくや姫、あやしがりて見れば、鉢の中に文(ふみ)あり。ひろげて見れば、

海山(うみやま)のみちに心をつくし果て
ないしの鉢(はち)のなみだ流れき

[(天竺への)海山の道にまで心を尽くして探したのに、汝(な・なんじ)の石の鉢の無いということに、血のなみだが流れたものです。]

かくや姫、仏の石の鉢ならあるという「光やあるかしら」と見るに、螢(ほたる)ばかりの光だになし。

置く露の光をだにも宿(やど)さまし
をぐらの山にて何もとめけむ

[置く露のひかりくらいも宿さないという小暗(おぐら)き小倉山で、いったい何を求めてきたのでしょうか。(まるで光らないこの石の鉢を求めてきたというの?てんで、いけてない。)]

とて、文を返し出(い)だす。石作の皇子、鉢を門(かど)に捨てて、さらに文を送りこの歌の返しをす。

しら山にあへば光も失(う)するかと
鉢を捨ても頼まるゝかな

[加賀の白山のひかりかがやくような、あなたに逢たがために、鉢の光さえ失われてしまったのでしょう。いまはその鉢を捨てて、恥を捨てて、ただお頼みするばかりです。]

と詠(よ)みて入れたり。かくや姫、あまりのいけてなさに返しもせずなりぬ。耳にも聞き入れざりければ、言ひかゝづらひて[ここでは「言いよどんで」くらいの意味]帰りぬ。かの鉢を捨てて、また言ひ寄りけるよりぞ、思ひなき[or「面(おも)なき」で恥のないこと]ことをば、「はちを捨つ」とは言ひける。

解説

・前に三月で成長し、ここで三年とあるは、今日的感覚で不自然のようにも思われる。競い合いの効果を薄めて、さらに最も短い走り部分の男に三年を与えるのは、作劇的にはマイナスだからである。ただ天竺へ行き戻るためのリアリティーを持たせた設定ではある。ところでかぐや姫に会う順番は、時系列的にはなしに織り込まれているのだろうか。あるいは五番目の燕の巣こそが、もっとも早く済まされたようにも思えるが、すべての男たちがほぼ三年後に順次かぐや姫の前に表れたようにも思われる。いずれにせよ、この三年は五人の男たちがすべてかぐや姫の前に求婚を済ませた頃の設定であり、

・「賓頭盧(びんづる)」とは、仏法に帰依した聖者十六人である十六羅漢(らかん)の第一番目、賓頭盧尊者を指す。

石作の皇子と和歌について

・石作の皇子は「心のしたくある人」にて、現実的な男であるから、初めからそんな鉢など手に入る訳がないという、冒険することなき常識、あるいは理屈から出発する。天竺に向かうと述べて三年を掛けて、苦心したものの見つからなかったことにリアリティーを持たせ、山寺の鉢を代わりの贈り物として差し出す。彼は頼みとする「和歌」で彼女の心を掴もうとする。あるいはこの墨の鉢が本物でないと、かぐや姫が察する可能性ぐらいはちゃんと考えている。もちろん丁寧に贈り物の準備をして、本物だと信じて貰えればそれにこしたことはないが、仮に嘘だと思われても、なおかつ活路を開くべく、彼は和歌を周到に準備した。
・彼は「つくしはてても鉢が無いので血の涙が流れた」と歌う。歌の「ないし」には「泣きし」と「石」を掛詞として、鉢の涙には「血の涙」を掛け合わせ、さらに後半に「な」のリズムを織り込むなど、非常に手の込んだこの和歌は、しかしようやく鉢を見つけたというよりは、むしろ鉢がついに見つからなかったことを歌っているように思われる。むしろ正確に述べれば、見つからぬ果てにようやく……と取ることも出来るし、最後まで見つからず……と解くことも出来る。
・もしこの女がこの鉢を本物だと思い込めば幸い、しかし偽物だと分かっても、共に成り立つような和歌を作っている点が、実はこの和歌のもっとも技巧的な所である。同時に、この男の卑怯なところが見事に集約されている。もし偽物だと気が付いた後、なおこの和歌を詠み解けば、
「苦心の末ついに見つけることが出来なかったので、いまはこれまでと、この和歌を仏の鉢の代わりとして、私の想いを今はあなたに伝えるのみです」
と解釈することが出来るからだ。ところがこの口先だけの誤魔化しは、かぐや姫に生理的嫌悪を起こさせたらしい。なぜならかぐや姫は、そもそも鉢を探しに行ったこと自体が嘘で、この男はなんの苦労さえ恋のためにしていないことを、恐らくは女性同士のうわさ話による情報網で、すっかり理解していたからである。「をぐらの山にて」のひと言は、近くから離れずに過ごしたことをほのかに暗示しているように思われる。このすべて筒抜け男の間抜けさがあってこそ、次の車持の皇子が周到に身を隠すはなしが生きてくる。身を隠さなかったからこそ、石作の皇子の嘘はたやすくも破綻し、車持の皇子にはかぐや姫も「負けぬべし」とひととき思いわずらうことにもなるわけだ。もっとも、車持の皇子に「負けぬべし」のひと言は、はなからかぐや姫の心が、わずかなりとも車持の皇子には、会ったように思われもする。

・彼女の返歌は率直に不快感を表しているが、この返歌に動揺した男の浅はかさはぶざまである。鉢を棄てて返す返歌は、ほとんど土下座して妻になってくれと叫ぶほどに浅ましい。「頼まるるかな」には、さすがにかぐや姫も、ぞっとするほどの不快感が湧き出て、もう返事もしなくなってしまった。一方で、読んでいる我々にとっては、鉢を投げ捨てては土下座の歌を詠む皇子の姿を想像して、思わず笑ってしまう(べき)所ではある(はずだ)。この短歌より初めの和歌にひるがえってみると、石作の皇子が必死に考えて作ったであろう和歌は、技巧的であるばかりで、じつに情に乏しい、貧弱の和歌であることが改めて思い起こされる。「ないしのはちの涙ながれき」では、ほとんどおやじギャグとレベルが変わらないではないか。

・和歌を作るのに小賢しいばかりでは、かぐや姫の夫としては不十分である。最後に、「恥を棄つ」と諺化(ことわざか)することによって、このような男にろくなもの無し、というたとえ話にもなっているところが面白い。

・しかし私はむしろ、作者の意図は、技巧的ではあっても、まるで失茶化滅茶化(しっちゃかめっちゃか)の和歌を作る人々を、間接的に揶揄しているようにも思えてくるのである。このような表層的な短歌では、人の心は掴み得ない。つまり彼の短歌が[景+心]の妙をわきまえず、デリカシーに欠けるがゆえに、かぐや姫は彼を見限った、つまり文学的敗北の抽象化のようにすら、この説話は思えてくるのであった。

・和歌と返歌について加えるなら、はじめの和歌で「海山の」と述べるところが「をぐら山」と山に定められ(あるいは見破られ)、かぐや姫を「白山」に見立てて返すなどの関連性と、「小暗い山」に「白い山」(ひかりに満ちた山)を対比させるなど、和歌の伝統にのっとっている。そして「鉢をすてても頼まるるかな」のように、見事に情けない歌を演出している。

2009/01/02
2012/4/27再朗読

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