九段、うへにさぶらふ御猫は

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一段 うへにさぶらふ御猫は

 上(うへ)にさぶらふ[仕える]御猫(おほんねこ)は、かうぶり[冠を賜って五位の階位を持って]にて名を命婦(みやうぶ)のおとどとて、いみじうをかしけ[かわいらし]れば、天皇がかしづかせ[大切にさせ]たまふが、猫は調子にお乗りあそばして縁側の端(はし)に出でて臥(ふ)したるに、猫のおもり役の乳母(めのと)の馬命婦(うまのみやうぶ)、
「あな、まさなや[行儀が悪い]。入り給へ」
と呼ぶに、無視したまま日のさし入りたるに、猫は相変わらずねぶりてゐたるを、馬命婦がおどすとて、
犬の翁丸(おきなまろ)、いづら。命婦のおとど食へ。驚いて中に入るだろうから
と言ふに、犬はまことかとて、しれもの[愚か者]馬鹿正直に走りかかりたれば、猫はおびえまどひて、御簾(みす)のうちに入りぬ。

 と、馬命婦にとってはうまくいったような出来事だったのだが、おり悪く、朝餉(あさがれひ)のおまへ[天皇の食事をするところ]に、上(かみ)[天皇]おはしますに、この様子を御覧じていみじう[大変]驚かせたまふ。大切な猫をご自分の御ふところに入れさせたまひて、男(をのこ)ども召せば、蔵人忠隆(くらうどただたか)、なりなかというおつとめ役の男らが参りたれば、天皇はお怒りになられて
「この猫を食おうとした犬の翁丸打ち調じて懲らしめた後人の島流しならぬ犬島へつかはせ。ただいま[今すぐに]
と仰せらるれば、仰せつかった男ども集まり犬を狩りさわぐ。馬命婦をもさいなみて[責めて]
猫のおもり役の乳母(めのと)他のものにかへてむ。いとうしろめたし[心配である]
と仰せらるれば、馬命婦は謹慎して御前(おまえ)にも出でず。犬は男どもが狩り出でて、滝口の武士どもに命じるなどして追ひつかはしつ。



 「あはれ、いみじうゆるぎ[揺すって]ありき[歩いて]つるものを。三月三日、節句のおりには頭(とう)の弁[蔵人所の長官]の、柳かづらせさせ、桃の花をかざしにささせ、桜腰にさしなどして翁丸ありかせ給ひしをり、かかる目見むとは思はざりけむ」
などあはれがる。
「御膳(おもの)のをりは、必ず向かひさぶらふに、さうざうしう[寂しく物足りないの意味]こそあれ」
など言ひて、三四日(みかよか)になりぬる。昼つ方、犬いみじう鳴く声のすれば、なぞの犬の[どのような犬の]かく久しう鳴くにかあらむ、と聞くに、よろづの犬[沢山の犬が]とぶらひ見に行く。



 御厠人(みかわようど)なる者走り来て、
「あな、いみじ[ああ、大変だ]。犬を蔵人(くろうど)二人して打ちたまふ。死ぬべし。犬を流させたまひけるが、帰り参りたるとて調じたまふ」
と言ふ。心憂(う)[可哀想で胸が痛む]のことや、翁丸なり。
「忠隆、実房(さねふさ)なんど打つ」
と言へば、二人の行為を制しにやるほどに、からうじて鳴きやみ、
犬の死にければ、陣の外にひき捨てつ」
と言ヘば、私はあはれがりなどする。夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる[驚くほどの]犬のわびしげなる[痛々しそうなもの]が、わななきありけば、私が一人言みたいに
「翁丸か。このごろかかる犬やはありく」
と言ふに、仕えるものが「翁丸」と言ヘど、聞きも入れず。

 女房たちはそれぞれに
「それ」とも言ひ、
「あらず」とも口々申せば、中宮さまが
「右近(うこん)[天皇付きの女房]犬を見知りたる。呼べ」
とて召せば、参りたり。
「これは翁丸か」と見せさせたまふ。
翁丸に似ては侍れど、これはゆゆしげに[気味が悪い、不吉だ]こそ侍るめれ。それにまた、私が『翁丸か。』とだに言へば、喜びてまうで来るものを、呼べど寄り来ず。あらぬなめり。それは、『打ち殺して捨て侍りぬ。』とこそ打った男らが申しつれ。二人して打たむには、はべりなむや」
など申せば、中宮さまは心憂がらせ給ふ。



 暗うなりて、物食はせたれど食はねば、あらぬもの[別の犬くらいの意味]に言ひなしてやみぬる[見なして止めてしまった]、つとめて[翌朝]中宮さまが御(おほん)けづり髪(ぐし)・御手水(みてうづ?・とにかく読みは「みちょうず」)[洗顔]など参りて、私こと清少納言に御鏡を持たせさせたまひてご自分が御覧ずれば、さぶらふに[おそばにお付きしていると]例の犬の柱のもとにゐたるを見やりて、私が
「あはれ、きのふ翁丸をいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ[可哀想なことだ]生まれ変わって何の身にこのたびはなりぬらむ。いかにわびしき[つらい]ここちしけむ」
と、うち言ふに、このそこにゐたる犬のふるひわななきて、涙をただ落としに落とすに、いとあさまし[たいへん驚いた]
「さは、この犬はまさに翁丸にこそはありけれ。昨夜(よべ)はお咎めを受けたので、まるで人間のするように隠れ忍びてあるなりけり」
と、あはれに添へて、をかしきことかぎりなし[いじらしい上に、感慨深いことこのうえない]

 私が御鏡うち置きて、
「さは翁丸か」
と言ふに、ひれ伏していみじう鳴く。御前[中宮さま]にもいみじうおち笑はせたまふ。右近の内侍(うこんのないし)召して、
「かくなむ」[これこれであったよ]
と仰せらるれば、右近ら女房たちも笑ひののしる[おおきく笑う]を、上[天皇]にも聞こしめしてこちらまで渡りおはしましたり。
「あさましう[驚いた]ただの犬なども、かかる心あるものなりけり」
と笑はせたまふ。うへの女房[天皇付きの女房]なども、これを聞きて参り集まりて、翁丸と呼ぶにも今ぞ許されたと思ったのだろう犬は立ち動く。私が、
「なほこの犬の顔などの腫れたる、物のてあてをせさせばや」
と言へば、女房たちは、
「つひにこれをいひあらはしつること」
[ついに犬の素性を明らかにしましたね]
など笑ふに、犬を滅多打ちにしまくった張本人の、ジャイアンみたいな忠隆これを聞きて、台盤所(だいばんどころ)[女房たちの詰め所]の方(かた)より、
「まことにやはべらむ。かれ見侍らむ」
[本当ですか、見に行きましょう]
と言ひたれば、
「あな、ゆゆし。さらに、さるものなし」
[ああ、縁起でもない。そんなもの居ませんよ]
人を使わして言はすれば、
「さりとも、見つくるをりも侍らむ。さのみもえ隠させ給はじ」
[そうであっても、見るおりもあるでしょう。そういつまでも隠してはおけませんよ]
と言ふ。
 さて、翁丸も天皇に与えられたかしこまり[謹慎]許されて、ようやくもとのやうになりにき。なほあはれがられて、あの時、翁丸のふるひ泣き出でたりしこそ、よに知らず[このうえもなく、の意味]をかしくあはれなりしか。人などこそ人に同情を言はれて泣きなどはすれ。しかしまさか、犬がそのような行為をするとは、思いも寄らないことであったよ。

2010/2/3

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