鴨長明 「方丈記」 解説版

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方丈記 前半

注意

 自分の朗読中の思いつきを、そのまま感想文として記したものもあり、学究的な考察とは対極のものもあり、また後日考えを改めざるを得ないであろうものも、ともかくも記し置くばかりなり。

 また、平家物語との関係は、方丈記⇒平家物語のようなので、下に書かれた印象による落書きは、荒唐無稽な点も多し。第一印象時の覚え書きとして、このまま残すものなり。

[朗読1]
 ゆく河のながれは絶(た)えずして、しかも[「そうでありながら」「そのうえ」くらいの意味]ゝとの水にあらず。流れのよどみに浮かぶうたかた[泡沫。水上の泡のこと]は、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。

[河の流れの絶えることなく続くこと、すなわち不変的傾向と、その水は次々に移り変わっているということ、無常的傾向が記される。みやこは常にあるように見えて、そこに生活する人は、つねに移り変わっていくと続く。なかなかに水のみやこであった、京の周辺を流れる、賀茂川などから導いて、みやこへとフォーカスを移すような、今日の映画であれば、そうした手法で開始すべきところではある]

 世の中にある人(ひと)と栖(すみか)と、またかくのごとし。たましきの[玉を敷いたような立派な]みやこのうちに、棟(むね)[屋根のもっとも高い峰の部分]をならべ、甍(いらか)[こちらは瓦屋根の場合の棟を指す、あるいは漠然と瓦屋根を指す]をあらそへる、高き・卑(いや)しき人のすまひは、世々を経(へ)て尽きせぬものなれど、これ[住まいが尽きないということを指す]をまことかと尋(たづ)ぬれば、昔(むか)しありし家(いへ)は稀(まれ)なり。あるいは去年(こぞ)焼けて、今年つくれり、あるいは大家(おほいへ)ほろびて、小家(こいへ)となる。

 住む人もこれにおなじ。ところも変はらず、人も多(おほ)かれど、いにしへ[過ぎ去った遠い過去]見し人は、二、三十人がうち[底本「中」なので「なか」とも読める]に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死に、ゆふべに生るゝならひ、たゞ[底本欠落、諸本により補う]水の泡(あは)にぞ似たりける。[「水の泡」は開始部分に対応。最後の「ける」は咏嘆となる]

 知らず[「底本」では「不知」と漢文に記され、これをもって「知らず」と読ませる。他にも「不愛」と記して「愛せず」などの用法が見られる。「濁悪世」を「濁悪の世」と読むべきという説もあるが、このような漢文表記を発展させた意見である]、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。[仏教的な輪廻転生を込めるも、それは背景にあり、表現された言葉は普遍化されている]また知らず、現世においての仮(かり)の宿(やど)り、誰(た)がためにか心をなやまし、何によりてか、家の姿を誇っては目をよろこばしむる。

 そのあるじとすみかと、無常(むじやう)[無常とは輪廻変遷を繰り返し、常の状態ではずっといられないという事]をあらそふさま、いはゞ、あさがほ[=今日の朝顔]の露(つゆ)にことならず。あるいは露おちて、花のこれり[住人は消えて家は残るを暗示]。のこるといへども、あさひが出た頃に枯れぬ。あるいは花しぼみて、露なをきえず[家は朽ちても主人はまだ健在であるの暗示]。消えずといへども昼には蒸発して、ゆふべを待つことなし[老いを迎える(ゆうべ)事なく死んでしまう。と捉えるか、それは読み過ぎと考えるかは、自由なり]

[この「あさがほ」の取りまとめは、『方丈記』の二つの主題を含むものである。まずは、生涯をまっとうすることなく、災害に見舞われては消えゆく人々のたとえ。朝顔の花は、同じように咲くかと見えて、その花は次々に開き、また萎れてゆくことを繰り返しているという無常のたとえが、みやこの人の営みを外から観察する前半の災害における態度であるとすれば、それは同時に、冒頭の「行く河の水は絶えることなく、しかも同じ水ではない」へと結びつく『方丈記』のメインテーマである。
 一方で、その一つ一つの花の一つの花の枯れ行くさま、露のいのちの消えゆくさまのたとえは、さながら鴨長明の個人的な主観に基づく、生涯の終末を諦観に生きる『方丈記』のエピローグへと向かう立場を込めているかと思われる。後半にいたって「六十の露消えがたに及びて」と表現されるのは、単なるひらめきではなく、冒頭をもとにもたらされた作品構築のなせるわざである。]

安元の大火

 われ[底本、ここのみ、漢字で「予」と記入。他がすべて「われ」表記なので、一般に「われ」と読まれる]、ものゝ心[物ごとの道理]を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋(しゆんしう)[春と秋の繰り返し、即ち歳月。執筆時点、1212年くらいの感慨であるから、1155年生まれとすると十代半ばか。、その頃ものごとの道理を知って以来、ということ]を送(おく)れるあひだに、世の不思議を見ること、やゝ[次第に]たび/\になりぬ。

[若干の考察:
以降、五つの災害が列挙されるが、それは年代順に配列されると共に、後に述べられるところの万物を構成する四大種(しだいしゅ)、すなわち「地水火風」に当てはめられ、地は地震に、水は水害と日照りと疫病、つまりは養和の飢饉に、火は火災に、風はつじ風によって提示され、これに人災であるところの遷都が加えられる。これにみやこに住む人々の心理状態という恒久的な災害が加わって、前半部分が構成されている。
 つまりは、歴史を年代順に追う縦の流れと、それらを併置して、みやこの災害というものを抽象的に、かつ総括的に眺める態度が共に生かされいるが、『方丈記』のアウトラインが『地亭記』からもたらされたものだとしても、それを独自に発展させて、極めてユニークな文学作品へと高めているように思われる。]

 去(いんじ)[「いにし」の略。「さる、昔」、読みは『平家物語』などが参照されている]、安元(あんげん)三年四月廿八日[=西暦1177年6月3日。「廿」は「二十」と同じ。鴨長明当時23歳]かとよ。風はげしく吹きて、静かならざりし夜(よる)、戌(いぬ)の時ばかり[午後八時から九時頃、実際の事件としては午後十時頃だったらしい]。みやこの東南(とうなん)より火出(ひい)できて、西北(せいほく)にいたる。果(は)てには、朱雀門(しゆしやくもん)・大極殿(だいこくでん)・大学寮(だいがくれう)・民部省(みんぶしやう)などまで(うつ)移りて、一夜(ひとよ/いちや)のうちに塵灰(ぢんくわい)[塵と灰。焼失のたとえ]となりにき。火(ほ)もとは、樋口冨ノ小路(ひぐちとみのこうぢ)[樋口小路(ひぐちこうじ)と富小路(とみのこうじ)の交わるあたり。極めて大ざっぱに言えば、みやこの中心に立って、東を向いた方角の、みやこの終わりに近い端の方]とかや[=だとか]。舞人(まひゞと)[諸本「病人」とあり]を宿(やど)せる仮屋(かりや)より、出できたりけるとなん言ひける

[補註
「朱雀門(しゆしやくもん)」は、みやこの南門、羅城門より朱雀大路を北上し、大内裏の入り口にあたる門。
「大極殿(だいこくでん)」は、天皇が政治を行うべき、朝廷の正殿にあたる。しかしこの時すでに政治中心が紫宸殿に移っていた事もあり、これ以後再建されず。
「大学寮(だいがくれう)」は、すでに教育施設として衰退期にあったが、これをもって封鎖される。
「民部省(みんぶしやう)」は、律令制により成立した八省の一つで、財政や租税を管轄していた施設]

 吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇(あふぎ)をひろげたるがごとく、末広(すゑひろ)になりぬ。遠(とほ)き家は煙(けぶり)にむせび、近きあたりは、ひたすら焔(ほのほ)を地(ぢ)[読みは「ち」「ぢ」どちらも可。以下「地」は皆同じ]に吹きつけたり。空(そら)には、灰(はひ)を吹き立てたれば、火[底本には「日」とある。当て字かと思われる]のひかりに映(えい)じて、あまねく紅(くれなゐ)なるなかに、風に堪(た)へず[こらえることが出来ずにの意]、吹き切られたる焔(ほのほ)、飛ぶがごとくして、一二町[平安京の区画単位としての町である]を越えつゝ移りゆく。

 そのなかの人、うつし心[正気、はっきり目覚めている心]あらむや。あるいは煙(けぶり)にむせびて倒(たふ)れ臥(ふ)し、あるいは焔(ほのほ)にまぐれて[目まいがして、混乱して]、たちまちに死ぬ。あるいは身ひとつ、からうじて逃(のが)るゝも、資財(しざい)[資産、財産のこと。「講談社学術文庫」の解説には、家財道具などではないとあるが、『方丈記』においては家財道具も含めて資財と呼んでいるように思われる。特に辻風の章の「家のうちの資財、数を尽くして空にあり」の記述は、資産的な財宝のみが数を尽くして空にありと、わざわざ記したとすればほとんど屁理屈になってしまう。これはあらゆる資産的価値のあるもの、家財も含めて空に有り、なのであって、家財道具を含まないという説は受け入れがたい]を取り出(い)づるにおよばず。七珍万宝(しつちんまんぽう)[下補註]、さながら[そのまま、そっくり]灰燼(くわいじん)[灰と燃え残り。燃えかす]となりにき。その費(つい)え、いくそばくぞ[「いくばく」「いくそばく」どれほどか、どれほどの多さか、といった意味]

[補註:「七珍」つまりは「七宝(しっぽう)」。無量寿経の指すところ、金・銀・瑠璃(るり・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。法華経では少しく異なる。万宝と合わせて、「あらゆる宝もの、価値あるもの」といった意味]

 そのたび、公卿(くぎやう)[中国の三公九卿の制度を元とし、平安時代になって使われるようになった言葉。太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣を「公」、大納言、中納言など三位以上の貴人や、参議の職にあるものなどを「卿」と呼んでいたものが、ひとくくりにされたもの。おおよそ三位以上からなるが、太政官の官職として政治に参加する参議(さんぎ)の職は、四位以上からなれたので、該当者は四位でも公卿となる]のいゑ、十六[時の関白、藤原基房(ふじわらのもとふさ)(松殿・まつどの、とも言う)や、平清盛の長男である内大臣、平重盛(たいらのしげもり)の御所を含む]焼けたり。ましてそのほか、数へ知るに及ばず。すべて、みやこのうち、三分が一(さんぶがいち/さんぶんがいち)に及べりとぞ。男女(なんによ)死ぬるもの数千人(すせんにん)[下補註]、馬牛(うまうし)[「なんにょ」に合わせて「ばぎゅう」と読ませる意見もあり]のたぐひ、辺際(へんざい/へんさい)を知らず。

[補註:底本「数十人」、『平家物語』には「数百人」。例えば公卿の死者数とするは文脈的に不自然。諸本に「数千人」ともあり、底本の「十」は「千」の誤りとの説あれば、それに従う。ただし、語調は「十」の力強さに引かれる。「方丈記」全体の傾向として、和歌的な言葉のリズムへの傾倒が極めて大であり、あるいは実数を犠牲にしてでも、「十」を取ったかと考えたくもなる。]

 人のいとなみ、皆おろかなるなかに、さしも[=それほどに]あやふき京中(きやうぢゆう)の家をつくるとて、宝(たから)を費(つひ)やし、こゝろを悩(なや)ます事は、すぐれて[=非常に]あぢきなくぞ[「あぢきなし」で「無益だ、かいがない、不当だ、面白くない」など]はべる[「はんべる」と読むべきとの意見もあり。「侍る」は方丈記の中で、改まった言い方として効果的に使用されている]

[章の補註:
安元の大火(あんげんのたいか)は、安元三年四月二十八日(1177年6月3日)午後十時頃に出火、翌日の夜にまで燃え続けたという大火災。太郎焼亡(たろうしょうぼう)とも呼ばれ、もっとも大きな損害は、内裏の大極殿の焼失で、以後再建されることはなかった。同年、安元三年八月四日に年号が、治承(じしょう)と改められたのは、この火事の災いが原因である]

治承の辻風(竜巻)

 また、治承四年(じしようよねん)[西暦1180年]卯月(うづき)[陰暦四月]のころ。中御門(なかのみかど)大路と京極(きやうごく)大路の交わるあたりのほど[都の北西の方]より、大きなる辻風(つじかぜ)[大きなつむじ風、大旋風(せんぷう)。今日なら竜巻]おこりて、六条(ろくでう)[=六条大路]わたり[=辺り]まで、吹ける事はべりき[「はべり」すべて「はんべり」と「ん」を入れて発音すべきとの説あり。以下略]。三四町(さんしちやう)を吹きまくる[風が吹き巻きあがるの意味]あひだに、地域内にこもれる[籠もっている、含まれているの意]家ども、大きなるも小さきも、ひとつとして破(やぶ)れざるはなし。

 さながら[そのまま、まるで]平(ひら)に潰れて、倒(たふ)れたるもあり。柱上に掛ける横木の桁(けた)、柱(はしら)ばかり、残(のこ)れるもあり。門(かど)を吹きはなちて、四五町(しごちやう)がほかに吹き落としおき、また、垣(かき)[土屏の上に屋根を乗せた築地(ついじ)のこと]を吹きはらひて、隣(となり)の家と境をとひとつになせり。いはむや、家のうちの資財(しざい)[前出]、数をつくして空(そら)にあり。屋根用のヒノキの皮である檜皮(ひはだ)・屋根を葺く薄板である葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉(このは)の、風に乱(みだ)るゝ[底本「乱るが如し」]が 。塵(ちり)を煙(けぶり)のごとく吹き立てたれば、すべての人はまるで目も見えず。おびたゝしく[「たたしく」と清音に読む]鳴りとよむ[響く、騒ぎ立てる。読み、あるいは「どよむ」]ほどに、人々の叫び声やもの言ふ声も聞こえず。

 かの、地獄(ぢごく)の業(ごふ)の風[悪行の人を地獄にさらう風。また地獄を吹く嵐のような激しい風]なりとも、かばかりにこそは吹かず、とぞおぼゆる[思われる]。家の損亡(そんばう/そんまう)せるのみにあらず。これをとりつくろふ[修理する]あひだに、身を損(そこ)なひ、かたはづける人[片輪(かたわ)づいた人、不具のからだになった人]、数(かず)も知らず。

 この風、未(ひつじ)[南南西]の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。辻風(つじかぜ)はつねに吹くものなれど、かゝる事やある。たゝごとにあらず。さるべきものゝ諭(さと)しであろうかなどぞ[「諭す」は、神仏が告げ知らせる啓示(けいじ)の意味。「さるべきもの」は、相応しい立派なものの意味で、ここでは告げ知らせる神仏を指す]、疑ひはべりし。

[章の補註:
 この「治承の辻風(じしょうのつじかぜ)」と呼ばれる災害は、治承四年四月二十九日(1180年6月1日)で、鴨長明が26歳の時。]

福原遷都

 また、治承四年水無月の頃、にはかにみやこ移りはべりき[治承四年(1180年)六月二日、京から福原へと遷都がなされた。辻風のわずか一ヶ月後の事である]。いと思(おも)ひの外(ほか)なりし[=意外である、思いがけない]事なり。おほかた[おおよそ]、この京(きやう)のはじめを聞ける事[聞かされて知っていることは、くらいで考えた方が掴みやすい]は、嵯峨(さが)の天皇(てんわう)[嵯峨天皇(さがてんのう)(786-842)]の御時(おほんとき)[在位(809-823)]、みやこと定(さだ)まりにけるより後(のち)、すでに四百余歳(しひやくよさい)を経(へ)たり[下補註]。ことなる故(ゆゑ)なくて、たやすく改(あらた)まるべくもあらねば、これを世の人、やすからず[安心でない、穏やかでない]憂(うれ)へあへる、実(げ/まこと)にことはり[道理、もっともなこと]にも過ぎたり。[道理さえも限度が過ぎている、ということ、つまりは常規を逸しているの意]

[補註:平安京への遷都は西暦なら794年、桓武天皇の時代である。810年に嵯峨天皇の時、平城上皇が平城京に遷都を試み失敗した後と考えたものか。これを「薬子の変(くすこのへん)」と呼ぶ。
 詳細を記せば、806年、偉大なる桓武天皇が亡くなって平城天皇が即位。しかし809年に発病。その時、同母の弟である嵯峨天皇に譲位。退位した平城上皇は平安京より前のみやこである、平城京へ移る。ところがやがて二人の兄弟対立が、奈良と京のふたつの朝廷を生みなすかと思われるくらい激しくなり、810年、平城天皇が奈良の都への遷都を宣言。反発する嵯峨天皇とのあいだに、兵を動員するまでの争乱となる。最終的に平城天皇は出家し、平城天皇の愛妃として影から操っていたとされる藤原薬子(ふじわらのくすこ)は毒を仰いで自害、その兄である藤原仲成(ふじわらのなかなり)は処刑された。
 この朝廷によるおおやけの処刑(異論もあるが)が以後行われず、1156年の保元の乱まで停止されていたものが、信西(しんぜい)の意見などにより復活され、源義朝(みなもとのよしとも)の父である源為義(ためよし)などが処刑されることとなるが、ちょうどその頃、鴨長明は生まれている。この保元の乱については、慈円が『愚管抄』の中で、武士の世の到来を述べるなど、同時代人の象徴的な大事件であった。そうであればこそ「薬子の変」以後に、ようやく京のみやこが、安定したみやことなったという意識があったのかもしれない。さらに考察を続けてみる。
 まず、要点を挙げれば、『方丈記』のこの部分が、明確に桓武天皇ではなく、嵯峨天皇の名称を掲げていること。つまりは平安京への遷都(せんと)をではなく、遷都の危機が回避された時代、つまり810年の薬子の変という、遷都の危機が回避された瞬間に焦点を当てたものであるという点。もう一つ、『方丈記』のこの部分が、遷都の失敗による還都(かんと)を含めて、福原へのみやこ移転計画の実行と失敗を述べたものであるという点。これはつまり、二つの事件に、共通項を求めているように思われる。
 もし記述が、「桓武の天皇の御時」とあれば、「794年」の平安京への遷都を指すものと読み解くことが出来る。敢えてそのよく知られた遷都を述べずに、「嵯峨の天皇の御時」と述べるからには、平安京遷都ではなく、薬子の変を述べたものである。しかし一方で、薬子の変の後、都が定まったことを述べたとすれば、福原への遷都は1180年のことなので、四百年ちょっと(四百余歳)にはそぐわない。薬子の変より、四百年ちょっとの時期がいつかと言えば、この『方丈記』の執筆時期以外はあり得ない。つまりは、
「おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨(さが)の天皇(てんわう)の御時(おほんとき)、みやこと定(さだ)まりにけるより後(のち)、すでに四百余歳(しひやくよさい)を経(へ)たり」
という部分だけが、執筆者としての鴨長明の時間軸、すなわち、おおよそ1212年頃の感慨として、わずか二年ほどの差(1212年−810年=400年あまり2年)を「四百余歳」として記している一方で、その後の文脈は福原遷都時代の人々の感慨へと移り変わるという、方針が取られているようだ。つまりは
「今では四百年ちょっとを過ぎてしまったが、そのすこし前の人でさえ、遷都を安からず憂い逢うことは、まったくものの道理というものだ」
といった表現と捉えられる。つまり「これを世の人」の部分、「これを当時の世の人」の省略と考えればよい。]

 されど、とかく言ふ甲斐(かひ)なくて、帝(みかど)[時の帝は、安徳天皇(あんとくてんのう)(1178-1185)]より始めたてまつりて、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)、皆(みな)ことごとく移(うつ)ろひ給(たま)ひぬ。世に仕(つか)ふるほどの人[朝廷に仕えるほどの職を得ている人の意]、誰(た)れか一人、ふるさと[ニュアンスとしては、京のみやこのもと居た場所くらい。京のみやこが長年そこにあったために、まるでふるさとのようになったという暗喩をわずかに込めるように思われる]に残りをらむ。官(つかさ)・位(くらゐ)を得ることに思をかけ、主君(しゆくん)のかげ[この「かげ」は、「恵み」「恩恵」「助け」といった意味が込められている]を頼むほどの人は、一日(ひとひ)なりとも、とく[「疾(と)く」は「早く」の意]福原の新都に移(うつ)ろはむと励(はげ)み、出世の機会としての良き時を失(うしな)ひ、世に余(あま)されて[世の余りものにされて、取り残されて]、期(ご)する所[期待するところ]なきものは、憂(うれ)へながら京のみやこにとまりをり。

 かつては軒(のき)をあらそひしみやこの人のすまひ、日を経(へ)つゝ荒れゆく。家はこぼたれて[「毀つ(こぼつ)」で「打ち壊す」建て直すために行うので、破壊する訳ではない]資材を再利用するために鴨川から流して淀河(よどがは)に浮(う)かび、地(ち)[家を建てるための敷地のこと]は目のまへに畠(はたけ)となる。人の心みな改(あらた)まりて、たゞ武士(もののふ)の用いるような馬鞍(うまくら)をのみ重(おも)くす。高貴な人の乗り物である牛車(うしくるま)をようする人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りやうしよ)をねがひて、東北(とうぼく)の荘園(しやうゑん)を好(この)まず。

 その時、おのづから[たまたま、偶然にの意]事のたより[機会、ついで]ありて、津の国の今の京、すなはち福原にいたれり。所(ところ)のありさまを見るに、その地(ち)ほど狭(せば)くて、条里(でうり)[ます目の道で割る土地の区画のこと]を割るに足(た)らず。北は山に沿(そ)ひて高(たか)く[下補註1]、南は海近くてくだれり。波の音(おと)、つねにかまびすしく[やかましく、うるさく]、潮風(しほかぜ)ことに激(はげ)し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木のまろ殿[丸木で作った仮の殿。新羅への派兵に際して斉明天皇が筑前の朝倉に設けたという宮を指す]もかくやと、なか/\様(やう)[様子、風情]かはりて、優(いう)なる[優美だ、上品だ、すばらしい]かたもはべり。

[補註1:
「その地」から「高く」まで底本に無し。諸本により補う。ただし、極端なまでの省略法を試みたような『方丈記』において、あるいは趣旨は、「南は海近くてくだれり」によって北方はある程度推理され、さらにその後、「内裏は山の中なれば」によって、その推察はまっとうされるので、「北は山に沿ひて高く」といった、直接的な説明をさえ拒んだという可能性もある。続く部分の、要点のみを述べて、次々に移りゆく文章のテンポに対して、「その地ほど狭くて」を含めた場合の、「所の有り様を見るに」以下の説明は、ここのみ詳細過剰の気配もなきにしもあらず。加えない方が作者の意図に忠実な可能性も、十分にあると思われる。
 さらに考えれば、「所の有様を見るに」より続く文章の焦点が、初めは海に近くてうるさく強風に煽られること、二つ目は内裏が山のなかにあって、様子も変わったことにのみ結ばれるのが、そのプロットであったかもしれず。この部分あるいは、プロトタイプの『平家物語』からの引用の様相があり、当初は短縮を極めたものの、あとから「その地、ほど狭くて」を補った可能性も、また後世の鴨長明以外の補筆の可能性もある。(プロトタイプの『平家物語』については下の補註2参照)
 現代語になれた朗読者側から言わせれば、この「その地」以下を加えないものは、いささか結論が急なように感じられ、説明が不十分なように感じられるが、ぎりぎりの説明で切り抜けようとする『方丈記』に於いて、現代人の感覚によって安易に決定すべき事柄ではないのかもしれない。
 最後に結論を述べれば、わたしは学者ではないので、朗読に相応しいように校訂させていただくこととする]

[補註2:
災害の部分『平家物語』に類似の表現あるところがおびただしい。この遷都の部分で一例を上げれば、『方丈記』の
「北は山に沿ひて高く、南は海近くてくだれり。波の音、つねにかまびすしく、潮風(しほかぜ)ことに激(はげ)し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木のまろ殿もかくやと、なか/\様(やう)かはりて、優(いう)なるかたもはべり」
とあるものは、『平家物語』には
「新都は北は山にそひてたかく、南は海ちかくしてくだれり。浪の音常はかまびすしく、塩風はげしき所なり」
さらにまったく違う部分で、
「内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿もかくやとおぼえて、なか/\優なる方もありけり」
とあるなど、一方が一方を引用したのでなければあり得ない類似点が多く見られる。この場合、可能性としてはどちらかが引用した場合の他に、ある共通の資料から共に引用したとも考えられるが、そのような資料のない以上、どちらかが一方を引用したと仮定するしかない。その場合、どちらが元であるかと考えると、ここには記さないが、双方の記述において『平家物語』の方が普通の文章として収まっている一方、『方丈記』においては引用を元にしたようなアクロバットな文章構成が見られるように思われる。一方で、地震の部分など、もし『平家物語』が『方丈記』を元に引用されたら、あのような取りまとめにはならなかったのではないだろうか。「鳥にあらざれば空をも飛ぶべからず」まで至る記述、『方丈記』の方がはるかに具体的で、みやこの状況へと転じているのに、それをばっさり切って、「洪水がみなぎって丘に登っても助からず」などの感慨で「鳥にあらざれば」へと至るのでは、せっかく『方丈記』を中途まで引用した態度を、ばっさり捨てるようにも思われる。さらに『方丈記』が「洪水がみなぎって丘に登っても助からず」の部分を、みやこの事に置き換えているのは、明確にみやこの人々を描きだそうとした鴨長明が、『平家物語』の原形をもとに、再構成したのではないかという疑いも生じてくる。また『方丈記』において「羽なければ空をも飛ぶべからず」とある極めて効果的な表現を、「鳥にあらざれば」とするのも、相互にほとんど共通の表現である部分から類推しても、ちょっと腑に落ちない。というようなことを、すべて総括してみれば、新しい発見があるかもしれないが、ここは保留して、仮に『方丈記』が『平家物語』の原形からの、なんらかの引用をもとに執筆されていると仮定して、次の話を進めることにする。つまりは空想的科学読本みたいなものか。
・『方丈記』においては、五つの災害の部分にのみ、明確に各章すべてに『平家物語』と極めて類似の表現が、組織的に取り込まれているが、その引用の方針は、それを自分の作品とするならば、恐らくは当時であっても剽窃、盗用かと思われるくらいに露骨である。つまりは『平家物語』から引用され続けている、ということを、読み手に悟らせ続けるという目的があったのではないかと思われる。取りあえず、思いついたことを箇条書きしておくが、正直、資料も知識もないので、妄想から逃れられないし、それを乗り越えてまで考察を続けるのはしんどい。つまりはごめんなさい、さようならといったところである。
・『方丈記』の表現の一貫性は、極めて鴨長明の文体であり、例えば彼がなんらかのプロジェクトに基づいて、『平家物語』の表現の発祥の一翼をになったとは考えにくいが、仮にそれが方丈記よりも前の事柄であれば、可能性としてはあり得なくはない。つまり以前自分も参加した『平家物語』の表現を、なかば自分のものとしてここに採用したという妄想である。
・彼は琵琶の名手であり、あるいは琵琶の語りごととも関わりがあっても不思議はない。一方で、後に取りまとめられるべき『平家物語』の表現の部分、部分が、この時期すでに琵琶法師などによって語られていたとするならば、故意にその部分を引用し続けることで、いわゆる言葉としての音楽、のようなものを、この災害部分において目ざしたとも考えられる。
・そうだとしても、その表現に鴨長明も創作者として関わりがあったのか、そうではなくすでに定着した語りごとを引用したに過ぎないのかは、何一つとして分からない。
・ただ言えることは、『平家物語』からの引用は、極めて明確に、一貫して、構成的に災害部分にのみ使用され、しかもそれと分からせることが目的で在ったかのように執筆されているということである。
・ロマンチックな解釈をすれば、やはり和歌の『名月記』、説話集の『発心集』に対して、この『方丈記』は言葉による音楽、ある種の語りごとをめざして、そのようなスーパーテーマを内包して、はなっから執筆されたと思いたくさえなってくる。晩年の鴨長明の三つのテーマこそ、和歌、管弦、仏教であったのだから。これでは、ほとんど小説じみている。証拠もないのに妄想が過ぎるのは、いつものことか。
・またロマンチックな妄想でよいならば、鴨長明は平家物語のプロトタイプのうち、自分が生みなした部分を、『方丈記』の中にオマージュとして込めたのではないかなんて、見方もしたくなってくる。
・また気がついたら加えていくこととする]

 日々にこぼち、川も狭(せ)まいくらいにに運びくだす家[たとえばこのような所にも、運びくだすのは家財道具や書籍、資材などさまざま含むものを、徹底して全体を家にのみ記す方法が見て取れるが、このようなこだわりは、あらゆる所に見られ、家というテーマを動機(どうき)として全体を編み込んでいくような執筆は、極めて周到なプロットに基づいている。単純に思いをつのった随筆などとは次元が違う]、いづくに作(つく)れるにかあるらむ。なをむなしき地[漢語の「空地」の和語化]は多(おほ)く、つくれる屋(や)は少(すく)なし。古京(こきやう)はすでに荒れて、新都(しんと)はいまだならず。ありとしある人[「あるだけのある人」と言ったニュアンスで、「し」は強調の助詞]は、みな浮雲(うきくも/うきぐも/ふうん)の思ひをなせり。もとより[もとから、はじめから]、このところに居(を)るものは、地を失ひて憂(うれ)ふ。今移(うつ)れる人は、土木(とぼく)のわづらひある事を嘆(なげ)く。

 道のほとりを見れば、車に乗るべき方々は馬に乗り、衣冠(いくわん)[貴族の勤務用の服装]・布衣(ほい)[狩衣()かりぎぬ。貴族の略服]なるべきは、多くひたゝれ[「直垂(ひたたれ)」武士などの平服]を着たり。みやこの手(て)ぶり[「手振り」つまり「習慣」「慣習」のこと]、たちまちに改(あらた)まりて、たゞひなびたる[=田舎めいた、田舎くさい]武士(ものゝふ)にことならず。世のみだるゝ瑞相(ずいさう)[「前兆」「きざし」の意味。もと、中国では、善いきざしを指したが、この時代の日本では吉凶に関わりなく使用されていたようだ。わざと悪い前兆に対して、皮肉的にこのような言葉を使用したのかどうかは不明である]とか聞けるもしるく[「〜も、しるく」は「〜も、まったくそのとおりで」くらいの意味]、日を経(へ)つゝ世の中うきたちて、人の心も収(おさ)まらず。

[最後の部分、「瑞相と書きけるもしるく」とも取れる。「瑞相なんて記述されることももっともである」の意味。しかし「聞ける」のほうは、「人々が瑞相などと噂し合っているのを聞くのももっともなことで」という意味であり、しかもこの瑞相は、次の文脈に於いて、「人々が瑞相だなどと憂い合っていた事柄は、ついに空しくない結果となってしまい」へと繋がっていく。つまり「瑞相は空しからず」と掛かるので、直接的に「民が噂しあっている話を聞くことももっともである」の方が正解かと思われる。ここだけ「瑞相などと記述されるのももっともである」では文脈が途切れる]

 民(たみ)の憂(うれ)へ、つゐに空(むな)しからざりければ[「空しくはならないで」先に記したように、「悪いきざしだなどと噂したことが現実のものとなって、次々に災害が起こり、それが原因で京の都へと戻った」という文脈かと思われる。ただし、「民が瑞相だなどと言って恐れていた憂いが、ようやく空しくなることはなく、取り上げられることになって」と読み取ることも可能である。当時の表現としての「空し」の用法をあまり知らない、つまりは学者でもなければ、古文への関心もまだ浅いわたしには、どちらであるか、よく分からない]、同じき年の冬、なをこの京に福原より帰りたまひにき。されど、すでにこぼちわたせりし[「一面に壊し渡してしまった」という意味]家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様にしも[「し」「も」は強調の助詞]作らず。

[最後の部分、「いかになりにけるにか」は「に」のリズムでたわむれたものである。さらに「ことごとく」の母音「o」の連続と対置して、「iaiaiieuia」「oooou」と母音の音調の変化を楽しんでいる。この極めて和歌的な執筆態度は、方丈記全体の特徴でもある。簡単なものでは、「冬の木の葉の」の部分の「の」のたわむれなどもある。ATOKなら、怒り出しそうな表現であるが、もとより怒り出す方が間違っている。]

 伝(つた)へ聞く、いにしへのかしこき御世(みよ)には、あはれみ[=慈悲、慈愛]をもちて[底本は「以て」とあるので、あるいは促音で「もつて」とも読める]、国を治(をさ)めたまふ。すなはち、あはれむべき際には、殿(との)に茅(かや)ふきても、人々の労役を減らすために軒(のき)先の茅の並びをだにとゝのへず、人々がかまどを使用する際の煙(けぶり)の乏(とも)しきを見たまふ時は、かぎりある租税としての貢(みつ)ぎ物をさへ許(ゆる)されき。これ、民をめぐみ、世をたすけ給(たま)ふ[漢語「救世」の和訳]によりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて[比較して、比べて]知りぬべし。

[「茅を葺いても軒を整えず」ということは中国の賢き君主の時代とされる、「堯(ぎょう)の帝」の故事の引用であり、「炊煙の乏しいのを見て貢ぎものを免除する」は、仁徳天皇の故事にもとずく]

[章の補註:
福原への遷都は、治承四年六月二日(1180年6月26日)、すでに福原へ移り住み、宋との貿易を進めていた平清盛によって、強引になされた。安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇らの行幸(みゆき)が行われつつ、新都の造営計画が練られたが、上皇はおろか一門の中からの大きな反発が起こり、東国では源氏の挙兵が相次ぎ、治承四年十一月二十三日に京のみやこへの還都となった。]

養和の飢饉

[朗読2]
 また、養和[1181年-1182年のわずかな期間だった]のころとか。久くなりておぼへず[ここを「確かにも覚えず」とする校訂は蛇足の気配あり]。二年(ふたとせ/にねん)があひだ、世のなか飢渇(けかつ/きかつ)[飢えと渇き、つまりは飢饉(ききん)のこと]して、あさましき事はべりき。

[この飢饉にいたって、「久しくなりておぼへず」さらに地震にて「おなじころかとよ」とあるは、ひとつは綿密な構成法に基づくものである。悲惨な事件を婉曲しようという配慮などという、お粗末な情緒主義に推し量るべき事柄ではない。
 まず冒頭、火災に於いて、「安元三年四月二十八日」と日付まで明言され、続く辻風が「治承四年卯月のころ」となり、また地震も「治承四年水無月のころ」と記される。治承の二つは同じ記し方がされ、日付が曖昧となると同時に、それらは月の名称で呼ばれ、「〜の頃」と括られている。重要な点は、冒頭にはまるでニュースのように記されていた事件が、次第に、執筆者の同時代に近づくにつれ、かえってその日時を曖昧にしていく点で、「安元→治承→養和」と歴史的時間軸を下るに従って、その日時を不明瞭にし、まるで物語風な記述へと移すような、ある種の効果が試みられているようだ。
 さて、治承においては「月名+頃」であったものが、さらに養和の飢饉にいたって、「養和のころかとよ」と月の名を落とすのは、数年越しの飢饉を扱ったものであるから当然ではあるが、これを「久しくなりておぼへず」と記すのは、本当に覚えていないわけでも、その悲惨をはばかったわけでもなく、作品構成にもとずく記述法に従ったものと思われる。
 つまりは、具体的な事件を物語風に語ろうとする意図には、『方丈記』自体にとっては二つの意味がある。一つは具体的でありニュース的な前半部分から、後半部分、我が方丈の庵を語った、それも時事的に語ったものではなく、主観的に語った領域へと導くための、いわば客体から主体への変化を導く効果があり、もう一つは、すべての事件を明示するより、それを物語風にすることで、よりみやこの災害というものを、いつの時代か定かでない、いつの時代にも起こりうる、普遍的な災害へと導いていくという効果。この二つを共に全うしているのが、各災害の冒頭部分の記述法ではないだろうか。最後の地震にいたっては、これまでなら記入されてきた「元暦」という年号まで抜け落ちて、「おなじころだろうか……」と表現されるのは、極めて周到な計算に基づいて記されたものである。
 もっとも、切実な問題があった。この養和の飢饉と呼ばれるものに関しては、まず治承4年(1180年)の干ばつから開始され、やがて養和と改元された1181年に大飢饉となり、さらに翌年養和から治承へと改元される頃まで続いていたために、具体的に記すとなると、極めて煩瑣なこととなり、しかもその煩瑣な手続きは、『方丈記』の簡素で選択的な言葉遣いにはそぐわず、作品構成においてプラスに作用しないからである。そもそもこの飢饉は、事件を詳細に記したノンフィクションではなく、後半部分の「方丈の庵」へ導くためのみやこの災害としての、抽象化された災害を述べようとしたものである。当時の記録などを見ると、はじめに不作が起こり、翌年に疫病が起こったという単純なものではなく、あるいは鴨長明は1180年から1182年までの不作や飢饉や疫病などを、再構成して、二年越しの災害へと仕立て上げたのではないかと、思われる節もある。
 彼の災害への執筆が事件を詳細に語るために無い以上、災害が再構築され、その構成に従って取捨選択がなされるように、その記述もまた作品の完成のためにこそ、効果的に取捨選択されている。ここで、このような表現方法が採られたのは、この飢饉の記述を明示しがたいというような消極的な意味も一方にはあったが、鴨長明は逆にこれを利用して、後半部分を導くための武器としていると言えるかも知れない。
 いずれにせよ、これを「思い出したくない」とか「婉曲表現だ」などとかたづけるのは、あまりにも読解力に乏しい、中学生の読書感想文には過ぎないのではないだろうか]

 あるいは春・夏(はるなつ)ひでり、あるいは秋(あき)[諸本によって「秋・冬」とする校訂もあるが、大風洪水は実りの直前にこそ災害となるので、冬を込めるのは不適当かと思われる。「春夏秋冬」さえ揃ってればよいというのは初等に過ぎる]、大風(おほかぜ/たいふう)・洪水(おほみづ/こうずい)など、よからぬ事どもうちつゞきて、五穀(ごこく)[穀物の総称で諸説あるが、『日葡辞書』(イエズス会によって1603年に刊行された辞書)によると「米、麦、粟(あわ)、黍(きび)、稗(ひえ)」が挙げられている]こと/”\くならず。むなしく春かへし[「むなしく春かへし」、底本になし。諸本により補うも、鴨長明の意図かは不明]、夏植(なつう)ふるいとなみありて、秋刈(あきか)り、冬納(ふゆおさ)むるぞめき[「騒ぎ、浮かれ騒ぎ」もともと「そめき」は、種まきや収穫の作業を述べたものらしい]はなし。

[この部分の「春夏秋冬」の扱いは、これらを四つづつ列挙し直すほど間延びしたものではなく、はじめに「春夏あるいは秋」と言い、次に「夏秋冬」と続け、三回を二度繰り返し、合わせて「春夏秋冬」を提示する一方で、前半は災害である「日照り」「大風」「大水」三つを、後半は「植える」「刈る」「収める」の三つをもって表現し、つまりは三度構成されているように思われる]

 これによりて、国々(くにぐに)の民(たみ)、あるいは地(ぢ)[耕作地のこと]をすてゝ境(さかひ)[=国境]を出(い)で、あるいは家をわすれて[漢語の「忘家(ぼうか)」、家をかえりみないこと]、山に住む。さま/”\の御祈(おんいのり/おほんいのり)[朝廷のおこなう祈祷(きとう)の行事]はじまりて、なべてならぬ[一通りではない、並ならぬ]法(のり/ほふ)[密教で術によって願いを成就するための行法(ぎょうほう)のこと]ども行(おこな)はるれど、さらにその験(しるし)[祈りなどの効き目、効果]なし。

 京の習(なら)ひ[生活習慣くらいの意味]、なにわざにつけても、みなもとは田舎(ゐなか)をこそ頼めるに、収穫も絶えて上(のぼ)るものなければ、さのみやは[……ばかりもしていられようか]、みさをもつくりあへん[「操(みさを)を作る」で、「平気なように見せる、体裁を保つ」。前と合わせて、「体裁を取りつくろっていられようか」]。念じわびつゝ[「侘(わ)ぶ」はここでは「悲観する、嘆く」くらい]、さま/”\の財物(ざいもつ/たからもの)、かたはしより[現代語の「片っ端から」くらいの意味]捨つるがごとくすれども、さらに目見(めみ)たつる[注意して見る、目にとめる]人なし。たま/\換(か)ふる物[「偶然に」だが、ここの「たまたま」には「運良く」「ようやく」くらいの意味が込められているように思われる]は、金(こがね)を軽(かろ)くし、粟(あわ)を重(おも)くす[たまたま交換出来たとしても、金の価値は軽く、粟の価値ばかりが重くなる]。乞食(こつじき/こじき)、路(みち)のほとりに多(おほ)く、憂(うれ)へかなしむ声、耳に満てり。

 まへの年[ここまでの記述、1180年の食糧難を記す、続いて1181年には疫病が起こってくる]、かくのごとく、からうじて暮れぬ。あくる年は、立ち直(なほ)るべき[この「べき」は推量の「べし」]かと思(おも)ふほどに、あまりさへ[「あまつさえ」の元となった言葉。(悪いことを差して)「それでさえ大変なことなのに、その上さらに」といった意味]、疫癘(えきれい)[疫病、伝染病]うちそひて[加わって]、まさゞまに[より一層]跡形(あとかた)なし。世の人、みな飢(けい)しぬれば[この「ケイシヌレハ」は諸説有。ここには割愛]、日を経(へ)つゝきはまりゆく[限界に達する、ゆきずまりゆく]さま、小水(せうすい)の魚(いを)の喩(たと)えに適(かな)へり。

 果てには、笠(かさ)うち着(き)[笠をかぶるの意味]、足ひきつゝみ[脚絆(きゃはん)などの、すねにまとう布で、足を覆うこと]、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞(こ)い歩(あり)く。かく、わびしれたる[酷い目にあって訳も分からないようになった]者どもの、歩(あり)くかとみれば、すなはち倒(たふ)れ臥(ふ)しぬ。築地(ついぢ/ついひぢ)[=土塀、公卿などの屋敷そのものを指すこともある]のつら[=側面、]、道のほとりに、飢ゑ死ぬるものゝたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)、世界[もともと「せかい」とは、衆生が住む場所と時間を指す仏教用語である]に満(み)ち/\て、変はりゆくかたち、ありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原(かはら)[京のみやこにとって河原とは、一般に賀茂川(かもがわ)の河原を指す]などには、馬・車(うま・くるま)のゆきかふ道だになし。

 あやしき賤(しづ)[ここでは「醜く身分の低いもの」といった意味]、やまがつ[木こりなどの、山に住む卑しい人々]もちから尽きて、薪(たきゞ)さへ乏(とも)しくなりゆけば、頼むかたなき人は、みづからが家をこぼちて、市にいでゝ売る。一人がもちて出(い)でたる価値(あたひ)、一日が命[その日の命]にだに及(およ)ばずとぞ。

 あやしき[こちらは「不思議な」「奇妙な」の意味]事は、市に売られている薪(たきぎ)のなかに、赤き丹(に)[深紅色の鉱物として取られる辰砂(しんしゃ)のこと。朱砂(しゅしゃ/すさ)とも言う。硫黄と水銀の化合物である辰砂(しんしゃ)という鉱物は、水銀の精製と、赤色顔料の原料として重要なものだった。朱砂(しゅしゃ)とも呼ばれるが、これを古来日本では「丹(に)」と呼び、その赤色顔料のことも「丹」と呼んだ。錬金術において卑金属を金に換えるために使用されるという「賢者の石」は、水銀と硫黄の化合物との説があり、そこから、この「辰砂」の別名は「賢者の石」とも呼ばれるとか]つき、箔(はく)など所/\に見ゆる木、あひ混(ま)じはりけるを尋(たづ)ぬれば、自らをいかようにもすべきかたなき者、古寺(ふるでら)にいたりて仏(ほとけ)をぬすみ、堂(だう)のものゝ具[「物の具」で調度品を指す。古寺なので仏具など]を破(やぶ)りとりて、割(わ)り砕(くだ)けるなりけり。濁悪世(じよくあくせ)[穢れに満ちた悪い世の中の意味で、末法の世を指す。五濁悪世(ごじょくあくせ)などと言われる。一つの熟語ではなく、漢文訓読風に「濁悪の世(じょくあくのよ)」と読むべきとの意見もあり。あながちに捨つべからず]にしも生まれあひて、かゝる心憂(う)きわざをなん見はべりし。

[極限での人間の本性を明かすのに、悪のみを以てせず、上の盗みに対して、続く部分では人の愛情を訴える。つまり上の部分と続く部分とは対になっている訳だ]

 いと、あはれなる[こころに染み入るような、しみじみと感じ入るような]事もはべりき。
 さりがたき[去ることが難しい、つまりは、離れがたい]妻(め)、男(をこと)もちたるものは、その思ひまさりて深きもの、かならず先だちて死ぬ。その故(ゆゑ)は、わが身はつぎにして、人をいたはしく[気の毒であると/大事にしたいと]思ふあひだに、まれ/\得(え)たる食物(くひもの)をも、かれ[=相手]に譲(ゆづ)るによりてなり。されば、親子(おやこ)あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちける。また、母のいのち尽きたるを知らずして、いとけなき[幼い、あどけない]子の、なほ乳(ち)を吸いつゝ、臥(ふ)せるなどもありけり。

 仁和寺(にんなじ)[京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている(ウィキペディアより引用)]に驪ナ法印(りゆうげうほふいん)[「法印」」とは高いくらいの僧位の一つ。人物については割愛]といふ人、かくしつゝ[「このようにしながら」つまり、今まで述べてきたような様子でという意味]、数も知らず人々の死る事をかなしみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、ひたいに万物の不生不滅をあらわす梵語(ぼんご)の阿字(あじ)[梵語(ぼんご)、すなわちサンスクリット語の、十二ある母音の第一番に数えられる文字。文字の母体とされる所から、仏教においては万物の根源を意味する。また密教に於いて、重要な意味を持つ]を書(か)きて、御仏への縁(えん)を結(むす)ばしむる[仏教用語の「結縁(けちえん)」(仏の道へ入るための縁を結ぶこと)を和語としたもの]わざをなん、せられける。人数(ひとかず)を知らむとて、四、五両月(しごりやうげつ)[四月、五月の両月をの意味]を数へたりければ、京(きやう)のうち、一条(いちでう)よりは南、九条(くでう)より[諸本により「よりは」と補う校訂有り。すべて同じ言いまわしを求めるとは限らず、主観に任せて述べれば、ここは「より」の方が、全体が引き締まる。同一傾向の繰り返しは、局所的マンネリズムを誘発すること有り]北、京極(きやうごく)よりは西、朱雀(しゆしやか)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭(かしら)、すべてあわせて、四万二千三百あまりなんありける。いはむや、その前後(ぜんご)に死ぬるもの多(おほ)く、またみやこ東の賀茂川の河原(かはら)・みやこ東北の郊外にある白河(しらかは)・朱雀大路の西側にあたる西の京[右京。平安京は左右がともに発展せず、左京は栄え、右京は廃れて、荒廃していた。それで周辺地域に含まれている]、もろ/\の辺地(へんぢ)などを加へて言はゞ、際限(さいげん)もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国(しちだうしよこく)[東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海]をや。

[ここに挙げられる区割りは、当時の京のみやこの実際をよくあらわしている。はじめに道で句切った「朱雀通りより東の」つまり左京の部分が、みやこの中心をなす一方、右京は以前より荒涼たる周辺部に過ぎなくなっていた。したがって、右京、賀茂川の河原、郊外の白河などがみやこの周辺部となる]

 崇徳院(すとくゐん)の御位(おほんくらゐ)の時、長承(ちやうしよう)[崇徳天皇の年号。1132年から1135年]のころとか、かゝる例(ためし)ありけりと聞(き)けど、その世のありさまは知らず。眼(ま)のあたりにすれば、めづらか[普通と違っている]なりし事なり。

[章の補註:
養和の飢饉は、治承四年、西暦なら1180年、まず干ばつが起こり、穀物の栽培が極端な不作になることによって、開始される。この1180年というのは、鴨長明の記すところの辻風が起こり、さらには福原への遷都が行われ、以仁王が平家に対して挙兵して破れ、前後して、木曾義仲、源頼朝が挙兵し、平家が富士川の戦いに敗北し、年末、危機的状況の中に平清盛が福原からの還都(かんと)を果たすという、途方もない事件の連続であった。みやこの人にとっては、呪われたような年を乗り越えて、1181年になったら、穏やかな生活が戻ってくるのだろうという、せっぱ詰まった祈りのような思いを、無残に打ち砕いて、地獄へと引き落としたのが、翌年1181年の飢饉であり、これは1182年まで続くこととなった。
 しかもこの疫病の都にあって、政治状況もまた混沌を極めた。まず還都の直後には、奈良の都における平家に刃向かう寺院、すなわち東大寺や興福寺が焼き払われ、多少なりとも宗教心を持つ者は、末の世を実感しただろう。祟りかと思われるほどに、高倉上皇は崩御せられ、悪人の鏡として、みやこ人にささやかれる平清盛が、あの後白河法皇を幽閉し、強引に遷都を敢行し、極言すれば失敗し、諸国の反乱を誘発し、南都を焼き討ちした、あの平清盛が亡くなったのである。(ちなみに、当人の政治的もくろみはともかく、人々に清盛への悪意と敵対心を植え付けた上は、平家の崩壊するのを決定づけた、つまりは壇ノ浦への道筋を生前に取り付けてしまったのは、まさに彼自身の負の功績であると言える。もっともみやこ人にとっては、安徳天皇の結縁としての、天皇家の一員としての意識も広かったと思われるが……さらに考えるのはおっくうなので、これにて閑話休題)
 さて、飢饉から脱線したが、このような状況の中に起こった、みやこの生き地獄とも言える養和の飢饉が、極めて用意周到に、飢饉以外の諸事件を排除して語られている点、『方丈記』の記述の驚くほど周到な選択性を見出すことが出来る。もちろん彼が平家や、政治などの具体的記述を排除するのは、平家が嫌いであるなどという、幼稚な感慨から生まれたものではなく、『方丈記』のテーマ、その執筆態度に従った結果である。ここには平家も出ない替わりに、源氏も出ない、木曾義仲も出ない、武士はもののふ以上具体的なものではない、それが重用なのである。
 おまけ、西暦におけるこの年の、8月のはじめには、カシオペア座の方角に超新星(SN1181)の爆発による星の観測が認められ、吾妻鏡や、藤原定家の『明月記』にも記されている。あるいは鴨長明も、これを凶星として眺めただろうか。]

元暦(げんりゃく)の地震

 また、おなじころかとよ[前に記した通り、明確に日時を知っていたのに、わざと同じころだったろうか、と表現している。ひとつ前にすでに「久しくなりて覚えず」とあるので、こちらも養和の頃だったか、そうでなかったか不明瞭な様相で、「いつのころであったろうか」というニュアンスで提示されたこととなる。特にここにいたって、元号が記されていないことが象徴的である。実際の地震は、元暦二年、すなわち西暦1185年にあった]。おびたゝしく、大なゐ振る[「なゐふる」は地震のこと。「なゐ(大地の意か)」が振ることによるとか]ことはべりき。そのさま、世の常(つね)ならず。山はくづれて、河を埋(うづ)み、海はかたぶきて、陸地(くがち/くがぢ/ろくぢ)をひたせり。土さけて、水湧(わ)きいで、巌(いはほ)割れて、谷(たに)にまろびいる[「まろぶ」は「ころがる」「倒れる」の意味]。渚(なぎさ)こぐ船は、波にたゞよひ、道ゆく馬は、足の立ちどを惑(まど)わす。

 みやこのほとりには、在/\所/\(ざいざいしよしよ)、堂舎(だうじや)・塔廟(たふめう/たふべう)[「堂舎(どうしゃ)」は大きな家「堂」と小さな家「舎」の意味で、大小の建物だが、特に神仏の建造物などを指すことが多い。「塔廟(とうびょう)」は仏像や、釈迦の骨とされるもの、すなわち仏舎利を納める塔]、ひとつとして全(まつた/また)からず[「完全ではない」「無事ではない」。今日の「まったからず」、当時「っ」の促音が発音されていたのかどうかを知らず]。あるいはくづれ、あるいは倒(たふ)れぬ。塵灰(ちりはひ)立ちのぼりて、盛(さか)りなる煙(けぶり)のごとし。地のうごき、家のやぶるゝ音(おと)、いかづち[カミナリ]にことならず。家のうちに居(を)れば、たちまちにひしげなんとす[「拉(ひし)ぐ」で「押し潰される」]。走りいづれば、地われ裂(さ)く。羽(はね)なければ、空をも飛ぶべからず。竜(りよう/りゆう)ならばや、雲にも乗らむ[「竜ならば、雲にも乗らむ」であれば「竜ならば、雲にも乗っただろう」くらいの意味である所を、「や」によって、「もしも竜でこそあったなら、雲にも乗ることが出来たであろうに」と、「羽根がないので、空を飛ぶことさえ出来ない」という前文に応答する叙述に仕上がっている。つまり強調的な疑問形である「や」が無ければ前文と、この文との関係は、づるづるべったりになってしまう。現代文にすれば、「家にいれば、押し潰されそうになる。走り出れば地面は割れ裂ける。羽根がなければ空すら飛ぶことが出来ない。もし竜であったならば、雲にも乗れたものを」というニュアンスとなり、そこをつかみ取ると、この部分は極めて効果的な表現として感得せられる。逆にこの「や」の重みを体得しない限り、叙述が足りないような不足感捕らわれ続けることとなる。それは読者側の読解力の問題でもあり、鴨長明の表現が極限を突き詰めて簡素化されているためでもある。そうしてこの部分のニュアンスを自然に受け止められるようになると、次の結論が、極めて効果的なものとして、置かれていることが分かるだろう]。恐(おそ)れのなかに、恐(おそ)るべかりけるは、ただ地震(なゐ/ぢしん)[下補註]なりけりとこそ覺えはべりしか。

[補註:「地震」原文ここのみ漢字表記。 大福光寺版を正統とするならば、ここのみ「じしん」と読ませるか?、このあたり『平家物語』と類似性が濃い。プロトタイプからの引用か。『平家物語』には「だいぢしん」の読みあり。もっとも次の「振る」と掛けた「なゐ振る」の可能性もわずかにあり]

[「一条兼良版」「嵯峨版」には下の文あり。明らかに、前後の文脈を削ぐものであり、文体・精神共にまるで異なっている。語り口調は、順次説明を加えゆくような初歩的な文脈であるが、情のこもっているのは、あるいは武士への好意者が入れたるもであろうか。もちろん『方丈記』の鴨長明の文体とはまるで異なっている。もっともこれが鴨長明の入れたものか、別人の加えたものか、判別も付かないような学者もいるから、注意が必要である。文学的センスがなければ、どれほど探求しても、失態のない解説は全う出来ないものを……]
 そのなかに、ある武者(むしや/ものゝふ)のひとり子の、六つ七つばかりにはべりしが、築地(ついひぢ)のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなる跡(あど)なしごと[たわいもないこと]をして、遊びはべりしが、にはかにくづれ埋(う)められて、跡形(あとかた)なく、平(ひら)にうちひさがれて、ふたつの目など、一寸(いつすん)ばかりづゝうち出(い)だされたるを、父母(ぶも)かゝへて、声(こゑ)を惜(を)しまず、悲(かな)しみあひてはべりしこそ、あはれに悲(かな)しく見はべりしか。子(こ)のかなしみには、たけき者(もの)も恥(はぢ)を忘(わす)れけりと覚(おぼ)えて、いとほしく[気の毒であり]、ことわりかな[もっともである]とぞ見はべりし。

 かく、おびたゝしく振ることは、しばしにて止(や)みにしかども、その余震の名残(なごり)、しばしは絶(た)えず。世の常(つね)、おどろくほどのなゐ[この部分をもって「なゐ」とのみ発音して地震と表す例と取るのは変なり。この「なゐ」は次の「振らぬ日はなし」に掛けて「なゐ振る」を分割したものに過ぎず]、二、三十度振(ふ)らぬ日はなし。十日(とをか)、廿日(はつか)すぎにしかば、やう/\間遠(まどほ)[間隔が開いてという事]になりて、あるいは四五度、二三度、もしは一日(ひとひ/いちにち)まぜ[一日おきの意]、二三日(ふつかみか/にさんにち)に一度など、おほかたその名残、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

[「一人」「二人」は「ひとり」「ふたり」と読みつつ、「三人」より「さんにん」と読むのが今日でも一般であるように、数字の読み方には幅があり、「一日」を「ひとひ」と読むか、中国からの発音により「いちにち」と読むか、あるいは「ついたち」と読むか、絶対的でない場合も多いことを、参考のために述べておく。それに合わせて、二三日を「ふつかみか」と読むか、「にさんにち」と漢文風に読むかも変わってくる。ついでに「地」を「ぢ」と読むか、「ち」と読むかなど、確定できない場合も多い。外にも「侍り」を「はべり」と読むか、表記されなかったものの発音されたと考えて、「はんべり」と読むかなど、校訂者によって異なることも多い。]

 仏教で言うところ、万物を生じさせる「池水火風」の四つの種すなわち四大種(しだいしゆ)のなかに、水・火・風(すい・くわ・ふう)はつねに害をなせど、大地(だいぢ/だいち)にいたりては異(こと)なる変をなさずとあるも、空しきことわりなり[この部分、『平家物語』のプロトタイプからの引用か、今日的には言葉足らずに思えるも、極限の短縮法のなせる業か。一度意を捉えれば、足らずの感も消えゆくものなり →(後に記す)再考すれば、最後の「変をなさず」という言葉自体に、先ほどの「竜ならばや」の「や」にも匹敵する余韻を込めたものではないかと思われる。すなわち「四大種のなかに」と提示して、「大地にいたりては異なる変をなさず」で締めくくると、文章が完結せず、次に「とか聞くけれど……」「とあるものを……」のような完了しない印象が加わるのを、「……」のような表現が存在しないために、同種の余韻をこのように表現したものかと思われる。つまり「なさず」というのは、一見明言したように見えて、その実、言いよどんだような、次の文脈までしばしあいだを保つような効果を目論んだものではないだろうか。そうであるからこそ、例に挙げたような「とあるも、空しきことわりなり」のように、何らかの文章が挿入される印象をもたらし、そのもたらされた印象を深く読み解くことによって、この部分は初めて解釈され、一度解釈されると、その部分を読んでも、きわめてしっくりとその部分を読み通すことが出来るというような効果を、この部分は自覚的に持っているように思われる]。昔、齊衡(さいかう)[文徳天皇の年号。854年-857年]のころとか。大(おほ)なゐ振りて、東大寺(とうだいじ)の仏(ほとけ)のみぐし[首(こうべ)の尊敬語]落ちなど、いみじき[程度のはなはだしいことを表す。「非常に」など。より善事には「すばらしい」「すぐれている」悪事には「大変だ」「ひどい」「怖ろしい」といった意味]事どもはべりけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき[ここでは「にがにがしい」「どうにもならない」と諦めるような感じ]事をのべて、それと共にいさゝか心の濁(にご)り[人のエゴや欲求など]も、薄(うす)らぐと見えしかど、月日(つきひ)かさなり、年経(としへ)にしのち[すなわちこの部分だけは、執筆当時である1212年頃の様相を述べている。すると以前の四百余歳もやはり、そこのみ執筆当時の感慨を述べている可能性は大いにあるように思われる]は、言葉にかけて[底本「事ハ」とあるは、当て字か]、言ひいづる人だになし。

[参考。斉衡二年、五月十一日に地震があり、五月二十三日にその影響か、大仏のあたまが転げ落ちた。]

[おまけ。「角川ソフィア文庫」の『方丈記』三十二ページの最後に、「すなはち、人みなあぢきなき」とあり、「は」を抜いて注もないのは不適切なるべし。底本には「すなはちは」と有るものを。]

みやこ人の心

[いわば、第六の災害として、もっとも恒久的に、継続的にみやこの人々を悩ませるものは、境遇とそれによって引き起こされる心の動きであるという取りまとめになっている。極めて興味深いことにこの部分は、これまでの災害がプロトタイプ『平家物語』からの引用に成り立っていたように、同種の趣向で、つまりそれと相手に悟らせるほどの方針で、慶滋保胤(よししげのやすたね)の『地亭記』からの引用が行われている。するとやはり前半部分はみやこの災いというものを、元になる作品を琵琶で語るような、まるで語りごとのような方針で執筆されたのではないかと、思いたくなってくる。この『地亭記』からの引用は後半に掛けて、継続され、『方丈記』の全体が、『地亭記』へのオマージュ的作品の側面を持っている。]

 すべて[「総じて」「おおかた」の意味]、世の中のありにくゝ[世の中に生存しづらいの意]、わが身とすみかとの、はかなくあだなる[かりそめな、はかない/浮気な]さま、またかくのごとし[補註1]。いはむや、所(ところ)により身のほどに従(したが)ひつゝ、心をなやます事は、あげて計(かぞ)ふべからず。

 もし、おのれが身[=身の程、社会的立場の意味、一般的な「自分自身」の意味ではない]、数ならずして[数えられるべき立場にないということ。極言すれば官位の上位者ではない、という事]、権門(けんもん)[官位の高く、権勢のある家柄、つまりは帝や公卿など高位貴族]のかたはらに居(を)る[仕えている]ものは、深くよろこぶ事あれども[あったとしても(仮定逆説)]、大(おほ)きに楽(たの)しむにあたはず[楽しむことは可能ではない]。なげき切(せち)なるときも、対面を気にして、声(こゑ)をあげて泣くことなし。進退(しんだい)[有力者を前にしての身の処し方、くらい具体的な意味を有するかと思われる]やすからず[一貫して身の程、身分的状況を述べていることに注意すべき。例えば「おのれが身」が、ある種の指向性を持った言葉であることを悟る手がかりとなる]。立ち居(ゐ)[起ち居振る舞いのこと、作法に則った動作くらいの意味で捉えると分かりやすい]につけて、権力者の顔色をうかがい恐れをのゝくさま、たとへばすゞめの、鷹(たか)の巣に近づけるがごとし。

 もし、まづしくして、富(と)める家のとなりに居(を)るものは、朝夕(あさゆふ)すぼき[「すぼし」みすぼらしい/すぼんでいて細い]すがたを恥(は)ぢて、富める人々の顔を見るに付けても、へつらひつゝ出(い)で入る。妻子(さいし)・我が家に雇っている僮僕(とうぼく)[少年の召使い、使用人]の、富める家をうらやめるさまを見るにも、福家(ふけ?/ふくけ?)[これは読み方が不明]の人の、すぼき我が家に対してないがしろなる気色(けしき)[軽んじるような様子]を聞くにも、こゝろ念々(ねん/\)[極めて短い時間、刹那刹那。また一瞬ごとに浮かび変わるこころの動き]に動(うご)きて、時としてやすからず[一時も安らかでない]

 もし、狭(せば)き地に居(を)れば、ちかくの家に炎上(えんしやう)ある時、その災(さい)をのがるゝ事なし。もし、家がみやこの辺地(へんぢ)[へき地、へんぴな所、離れた所]にあれば、用を足すにも往反(わうばん)[往復のこと]わづらひ多(おほ)く、盗賊(たうぞく)の難(なん)はなはだし。

 また、勢(いきほ)ひある者[ここでも社会的立場が述べられている]は、貪欲(とんよく)ふかく、独身(とくしん/どくしん/ひとりみ)[身寄りも、保護者も、住居もない社会的立場のものは。「いきほひある者」に対比。今日の意味での独身者ではない]なる者は、人に軽(かろ)めらる[軽く見なされる、あなどられる]。財(ざい/たから)あれば盗難やら地位を失うなどのさまざまな恐れ多(おほ)く、貧(まづ)しければ、うらみ切(せち/せつ)なり[痛切である]

 人を頼(たの)めば、その身、他の有(いう/う/もの)なり。人をはぐゝめば[世話すれば]自分のこゝろ、その人への恩愛(おんない)[他人への恩顧や愛情へ執着する心、仏教では煩悩の一種として捉えられ、それゆえここに否定的に記されている]につかはる[束縛される]。世にしたがへば、身、苦(くる)し。したがはねば、こころは狂(きやう)せる[「狂ぜる」と読むべきとの意見あり]に似たり。いづれの所を占(し)めて、いかなる業(わざ)をしてか、しばしもこの身を宿(やど)し、たまゆらも[わずかの間でも]心をやすむべき。

[補註1:
この「わが身」はおろそかには出来ない極めて重要なひと言であり、鴨長明は極めて周到に、綿密にこの言葉をここで使用している。後に出てくる「事」もそうだが、極めて抽象的であり包括的な短い単語に、特定の意味を込めて、語っていくという態度が『方丈記』にはあり、表現を極限まで突き詰める傾向と共に、この作品を極めてユニークなものとしている。
 つまり鴨長明は、ここに於いては、「身」を、単なる「身体」とてではなく、直後に提示されるところの、「身のほどに従ひつゝ、心をなやます事は、あげて計ふべからず」の「身の程」、社会のなかに置かれた自分の身体、つまり社会内における自分の身分、社会的地位として使用している。
 すなわちこの「身」は、続く部分では、「おのれが身、数ならずして」として提示され、続くいくつかの例では暗示され(つまり貧しくして裕福なものの隣に住むくらいの身の程、つまり社会におけるみずからの立場にあるものは、といった調子で)、あるいは「独身」として「身寄りも住居もない社会的立場のものは」と使用されるなど、常に社会のなかの「身の程」の意味を込めて使用され、最後のまとめへと至る。最後の部分は、解説を加えるより、現代語訳した方が、簡単なので、以下に意訳を述べると、
「人を頼みにすれば、身の程(自分の社会的地位)は他人によって左右される。かといって逆に、他人を世話すれば、自分のこころは、相手への愛情によって束縛され、結局は穏やかではいられない。世に従って生きれば、身の程(身分、社会的地位)に苦しめられる。従わずに身の程を上げようとあくせくすると、まるで狂わんばかりに心を悩ませることとなる。どのような処に住んで、どのような社会生活を全うすれば、しばらくの間でも身の程を宿らせて(つまり安んじて安定した社会的地位を手に入れて)、わずかの間でも心を穏やかにすることが出来ようか」
という訳で、決して、肉体の代わりに身を使用しているのではない。このような象徴的な言葉によって、作品を構成していく態度は、『方丈記』を極めて密度の高いものにしているように思われる。
 さらにこの「身」は続く部分へと掛かっていく。「わが身」とあるのは、単に「自身」の意味ではなく、しかるべき家を受け継ぐべき社会的地位にあったものが、その後、身の程が衰えて、つまり社会的地位が後退し、ついにそこを留めることさえ出来なかった。という訳だ。もっとも広漠たる「身」の意味に特定の指向性を持たせるのは、その辺りの範囲であり、だからこそ構成も生かされる。そうでなければ、「あるいは身ひとつ、からうじて逃(のが)るゝも」やら「一身を宿すに不足なし」まして「われ今、身のために結べり」などの「身」は、一切使用できないわけになるはずで、この一定期間特定の言葉に指向性を持たせるある種の象徴主義は、他には「事」で使用されるが、実は「彼」とか「これ」が一定の文脈の中でひとつの指向性を持つのと同様の用法であり、指示語のような効果を持っている。そうしてこれは、「又」とか「或は」などを併置していく態度とも関わって、さらに考察すべき事柄かと思われるが、今は行き過ぎる。]

[追加1
 五味文彦著の『鴨長明伝』に、この前半部分と、続く後半部分は異なる時期に執筆され、後半は後になって加えられたものではないかとの説あり。取るべき所大いにあるように思われる。]

方丈記 後半

我が身の遍歴

[朗読3]
 わが身[底本に「ワカゝミ」とあるは間違いか? 「我が上」などの用法可能なるや?]、父方(ちゝかた)の祖母(おほゞ)の家をつたへて、ひさしく彼(か)のところに住む。そのゝち、縁(ゑん)欠けて、身おとろへ、しのぶ[なつかしむ、恋い慕う]かた/”\しげかりしかど[しきりであったけれども。ここの表現、周防内侍の和歌「住みわびて我さへ軒の忍ぶ草、しのぶかたがたしげき宿かな」(金葉集)にもとづく。これより先、和歌の表現とたわむれることままあり]、つひに祖母の家に屋(や)とゞむる事を得(え)ず[底本「ヤトヽムル事ヲヘス」。あるいは「宿とむる事を得ず」か。あるいは「アトヽムル事ヲヘス」の間違いで、「跡とむる事を得ず」とすべきとの説が優位か。大意は変わらず。ディテールの問題かと思われる]。三十(みそぢ)あまり[三十代になったのは、1184年なので、それ以後の事とされる]にして、さらに我(わ)がこゝろと[わたしのこころに沿って、くらいで捉えて良いが、表現としては詳細に吟味すべき部分ではある]、ひとつの庵(いほり)をむすぶ[「むすぶ」は「こゝろ」と対応しているが、解釈としては「庵を構える」くらいで咀嚼しておく]

[興味深いことに、前半に述べられた五つの災害(1177-1185)の時代は、彼が「祖母の家を受け継いで」その後「縁が欠けて」「身が衰えて」ついに立ち去ると、しるされた時代(記述内部に於いては)として捉えられ、ここに三十余り(1185年に於いて31歳くらい)より始まる記述が、五つの災害を引き継ぐ形で、執筆当時の現在へと続く記述となっていく。この現在へと至らしめようとする流れは、方丈の庵を回想しながら、次第に執筆時へと向かい、最後に「両三遍申してやみぬ」という執筆時の回想となって終わるわけだ。あたかも五つの災害は、同時に彼個人の身に降り注いだ、個人的な事件の代用かとさえ思われて来る。そこまで考えていたかどうかは知らないが、極めてユニークな構成ではある。]

 これを、ありし住まひ[つまり「父方の祖母の家」]に並(なら)ぶるに、十分(じふゞ/じふゞん)が一(いち)なり。ただ[この「ただ」底本には無し、続く部分への橋わたし、現代人にはいささか唐突の気味があるので、諸本により補うも、必ずしも必要なものにあらず]辛うじて寝起きするだけの居屋(ゐや)ばかりをかまへて、はか/”\しく[際立っている、相当な/はっきりしている、はきはきしている]屋(や)[屋敷を構成するさまざまな用途の建物のこと]をつくるに及(およ)ばず。わづかに築地(ついひぢ)[屋根付きの土塀]を築(つ)けりといへども、門(かど)を建(た)つるたづき[方法、手段]なし。ただ竹を柱(はしら)として、とりあえずそこに牛車(くるま)を宿(やど)せり。雪降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。ところ河原(かはら)近ければ、水難(みづのなん/すいなん)[「みづのなん」は「水難」を「白波の恐れ」に対応させて読むべきとの意識からか。そうであるならば「水の難(うれへ)」と和語に読むべきとの説もある]も深(ふか)く、白波(しらなみ/はくば)[「白波」は盗賊の例えでもある.「嫌よ張角(いやよちょうかく)」でお馴染みの?、184年の「黄巾の乱」において、その残党の活躍した白波谷にちなむという]のおそれも騒(さわ)がし。

 すべて、あられぬ[とんでもない、あってはならないような]世を念(ねん)じ過(す)ぐしつゝ[堪え忍んで過ごしながら]、心をなやませる事、三十余年(さんじふよねん)[安元の大火の冒頭に「四十(よそぢ)あまりの春秋を」と有るのに呼応。ここでは、執筆時の十年くらい前である、出家前夜の感慨を述べている]なり。そのあひだ、折々(をりをり)のたがひめ[「違ひ目」意に反すること、不本意なこと/失敗]、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春[1204年、数え年にして五十歳の春]をむかへて、家を出(いで)て、世を背(そむ)けり[鴨長明が出家して遁世したという事実を述べているもの]

 もとより妻子(さいし)なければ[若い頃、結婚していた事があるという説もある。資料はない]、捨てがたきよすが[縁、頼り手。具体的には夫や妻・子供など]もなし。身に官禄(くわんろく)あらず[鴨長明はわずか七歳で従五位下を賜っているが、それ以後昇進はなく、位階に相当する官職を得ていないので、給料などなかったので、官禄あらずなのである]。なにゝつけてか執(しふ)をとゞめん。むなしく大原山(おほはらやま)[京都市左京区の北部にある盆地で、出家をしては世を捨てるような人々、遁世の人々の多く住まう所でもあった。つまり遁世仲間が一杯いたと考えると、遁世の概念も少しく変わって見えるだろう。山を付けたのは、人里を離れた所くらいの意味か。ついでにウィキペディアより「大原」について引用しておく。「大原(おおはら/おはら)は、京都市左京区北東部の比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模盆地の名称。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された。かつては山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬とセットで「八瀬大原」とも称された。」以上]の雲に臥(ふ)して[漢語の「臥雲(がうん)」にもとずく]、また五(いつ)かへりの春秋(しんしう)をなん経(へ)にける[大原山に五年間を過ごしたということ。実際は日野に移るのは1208年と考えられているから、五十の春である1204年から四返りの春秋しか経ていないが、数え年だと五年にはなる。あるいは「春秋を経る」という言葉自体、実際の五回の春秋を経過するの意味ではなく、慣用句的に「五年を経過する」の表現に過ぎないか]

方丈の住まい

 こゝに、六十(むそぢ)のいのちの露(つゆ)、消えがたにおよびて[「六十歳(1214年)のいのちの露も、消える頃に及んで」このニュアンスには「六十にもなれば、その露も消えそうな頃に近づいて」という意味を含み、「六十歳も近くなり」くらいの気持ちをもって記されている。六十歳になった訳ではない。冒頭の「朝顔の露」に呼応する]、さらに末葉(すゑば/すゑは)の宿(やど)りを結(むす)べることあり[露が末の葉にやどるように、命の末の頃の庵を得たということ+その庵が小さいものであるということ]。いはゞ旅人(たびゞと)の、一夜(ひとよ/いちや)の宿(やど)をつくり、老(お)いたる蚕(かひこ)の[地亭記に「老蚕(ろうさん)」の言葉有。「年老いた蚕の意味」]、繭(まゆ)を営(いとな)むがごとし。これを、中ごろのすみか[これは「三十余りの庵」のことである。くどくどしい記述が省略されているが、大原山へ出家して後、五年後の住居が『方丈』の庵であり、日野山の奥に移ってからの住居であると考えられる]に並(なら)ぶれば、また百分(ひやくぶ/ひやくぶん)が一(いち)におよばず。とかく言ふほどに[ここでは「これまでいろいろと述べてきたように」くらいの意味]、齢(よはひ)は歳/\(としどし)に高く、すみかは折々(をり/\)に狭(せば)し。

 その家のありさま、世の常(つね)にも似ず。広さはわづかに方丈(ほうぢやう)[一丈四方=十尺四方]、高さは七尺(しちしやく)[大宝律令の定める所の一尺は、約29.6cm]がうちなり。ところを思ひ定(さだ)めざるがゆゑに、地を占(し)めてつくらず。土居(つちゐ)[建物の土台、ここではむしろ建物の骨組み]を組み、うちおほひ[覆っただけの屋根]茅などで葺(ふ)きて、継ぎ目ごとに掛け金(がね)をかけたり。もし、心にかなはぬ事[こころの望まないようなこと]あらば、易(やす)く[たやすく、簡単に]ほかへ移(うつ)さむがためなり。

[移動式の庵が自分自身の発案かどうかは不明であるが、後に出てくる維摩居士(ゆいまこじ)の方丈の住居にあやかったものであると考えられる]

 その運んだ方丈の庵を、あらためつくる事、いくばくの煩(わづら)ひかある。積(つ)むところ、わづかに二両(にりやう)、車(くるま)のちからを報(ふく)ふ[もと「報ゆ」で、受けたことに対してお返しをすること。ここでは車の使用料を払うの意味]ほかには、さらに他(た)の用途(ようどう)[金銭、費用のこと]いらず。

住まいの様子

 今、日野山(ひのやま)[京都市伏見区日野町にあたるが、大原山と同様、山の名称ではなく、日野の山のようなところくらいの意味かと思われる]の奥(おく)に、みずからの姿の跡(あと)を隠(かく)してのち[後に「「今すでに五年を経たり」とあるので、『方丈記』執筆時である建暦二年(1212年)の五年前とすると、承元元年(1207年)、53歳の頃のように思えるが、実際はこの「五年」は数え年での「五年」であり、日野山に移ったのは、承元二年(1208年)と考えられている]、東(ひんがし)に三尺(さんじやく)あまりの庇(ひさし)をさして、炊事のために柴(しば)[山に生える小さな雑木を漠然と差す言葉。これを折り集めて薪などに使用する]折(を)りくぶる[「焼ぶ(くぶ)」は、火に入れて燃やす、くべる]よすがとす[手立てとする]。南[底本「南タケノスノコヲシキ」は、「南に」の「に」を忘れたとするより、わざと省略し、マンネリズムを避けたものと考えたい]、竹の簀子(すのこ)をしき[これは縁側としての簀の子である]、その西に仏前に花や水を供え、仏具を置くための閼伽棚(あかだな)をつくり、北によせて障子(しやうじ)[スライドする障子戸ではなく、衝立としての障子である]をへだてゝ、阿弥陀(あみだ)如来(によらい)[「無限の光をもつ菩薩」(無量光仏)、「無限の寿命をもつ菩薩」(無量寿仏)と呼ばれ、西方にあるという極楽浄土を治める。浄土教においては信仰の中心となる仏]の絵像(えざう)を安置(あんぢ)し、そばに普賢(ふげん)[普賢菩薩。文殊菩薩と共に釈迦の傍らに控え、白象に乗るという]を画(か)き、前(まへ)に法花経(ほけきやう)[仏教伝来以後、極めて重要な役割を担ってきた経典。(いい加減にはしょれば)大衆へ教え諭すという意識の中に生まれた大乗仏教の経典「正しい教えであるところの白蓮の花」を、サンスクリット語から、漢語に翻訳したものが、日本に紹介されたもの。もっぱら鳩摩羅什(くまらじゅう)が五世紀に翻訳した『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)を指す。天台宗に於いて中心経典とされ、国家仏教に於いても重要な経典とされていた]を置(お)けり。東(ひんがし)のきはまった隅に、蕨(わらび)のほどろ[わらびの伸びすぎてしまった穂]を敷(し)きて、夜(よる)の床(ゆか)とす。

 西南(せいなん)[ここも和風に「にしみなみ」と読むべきとの意見もあり]に、竹(たけ)のつり棚(だな)をかまへて、黒き皮籠(かはご)三合(さんがう)[「合」は蓋のあるものを数える際に使う。つまり「黒い皮張りのカゴを三つ」]を置(お)けり。すなはち、和歌(わか)の書・管絃(くわんげん)の書源信(げんしん)の記した仏書である徃生要集(わうじやうえうしふ)ごときの抄物(せうもつ)[抜き書きしたもの、あるいはそこから注釈書の意味。下に補註1]を入れたり。かたはらに、琴(こと)・琵琶(びは)、をの/\一張(いつちやう)を立つように置く。いはゆる、折りたたみの出来る折り琴(をりごと)、柄を継ぎ合わせて組み立てられる継ぎ琵琶(つぎびは)、これなり。仮(かり)の庵(いほり)のありやう、かくのごとし。

[補註1:
 まるで言葉のリズムを音楽に見立てて記した様な『方丈記』を管弦、あるいは琵琶の語りごとの代用とするならば、和歌については『無名抄』として執筆され、往生要集に見られるような仏教への感心は『発心集』となして執筆されたと考えることも出来るだろうか。これらは等しく晩年の鴨長明の遁世人としてのテーマであった]

住まいに於ける生活

 そのところのありさまを言はゞ、南に懸樋(かけひ)[竹やくり抜いた木などで、庭などに架設した人工的な水路]あり。水の流れる口には岩(いは)を立てゝ流れを受けて、水をためたり。林の木[あるいは「の木」は「軒(のき)」の当て字か。あるいは二つを掛けたものか]近ければ、爪木(つまぎ)[薪にするための木の小枝]を拾ふに乏(とも)しからず。名を音羽山(おとはやま)[諸本では「外山(とやま)」音羽山との距離、及び底本の最後に、「トヤマノイホリニシテ」とあることから、「日野の外山」の意味で、諸本に従って「外山(とやま)」とすべきであるという説が、優位かと思われるが、取りあえず朗読は「音羽山」と読んでおくこととする]といふ。まさきのかづら[下補註]、跡(あと)うづめり[「跡をうづめり」と補う校訂もあるが、むしろ「を」を省略しても、わずかに「を」が響くような効果を楽しんだものと考えたい。次の部分を「谷はしげけれど」「西は晴れたり」とせず、あえて「谷」「西」と言い切っているので、この部分も同種の言いまわしかと思われる。この種の言い切りは、この作品の表現法の一つであるのに、それを勝手に補うたぐいの校訂、古今あまりにも多し]。谷は草木のしげゝれど、西は開けて晴(は)れたり。

[補註:藤原定家が生まれ変わり恋人の墓に絡まりついたとの伝承を持つテイカカズラを指すか、あるいは同様に常緑蔓性植物であるところのツルマサキを指すとも言われる]

 西方の開けたれば、観念(くわんねん)[もともと仏教用語で、仏や浄土を一身に念じ眺め取ろうとすること。前文「西晴れたり」に掛かっては日想感、夕陽を眺め西方浄土を描こうとする態度をしめし、次に続く文脈に対しては、広義の観念の意味、優位に籠もれるか]のたより、なきにしもあらず。春は藤波(ふぢなみ)[藤の花が咲き誇りつつ風にたなびいてさながら波のように見えること]をみる。紫雲(しうん)[臨終の際、紫にたなびく雲に乗って西方浄土から迎えに来る仏を指す。そのような雲を眺めることは、吉兆ともされた。喜ばしい雲である慶雲(けいうん)、めでたい予兆をしめす瑞雲(ずいうん)、の代表的なものである]のごとくして、西方にゝほふ[もとは嗅覚より視覚に訴えてひときわ美しい様を述べた言葉。藤の花が咲き誇るという意味]。夏は郭公(ほとゝぎす)[漢語における「郭公」は明確に「カッコー」と鳴く夏鳥、つまり「閑古鳥」などと呼ばれる鳥の事であったが、それが日本に於いては、「ほとゝぎす」と混用されてしまった]をきく。語(かた)らふごとに、死出(しで)の山路(やまぢ)を契(ちぎ)る[下補註1]。秋はひぐらし[特に朝夕、カナカナと鳴く蝉の一種。これが数多く響き渡るさまは、現世とは異なる世界へ迷い込んだような錯覚をさえ催すほど]の声、耳に満(み)てり。うつせみの世[補註2]を、かなしむほど[諸本にて「悲しむかと」と変更する校訂多けれど、この「ほど」は大切にすべき言葉のように思われる。すなわち、「悲しむかと」では単なる比喩として「悲しむように」聞こえてくるに過ぎないが、「悲しむほど」と程度の表現とすると、あのひぐらしの胸を打つような独特の響きが、まるで「嘆き悲しんでいるほどに切実と」心に響いてくるの意味になるからである]聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ[愛する、賞美するくらいの意味]。積(つ)もり消ゆるさま、罪障(ざいしやう)[往生や成仏など、あらゆる全果を妨げる悪い行いのこと]にたとへつべし。

[補註1:死後に向かうという「死出の山」。そこより飛び来たる「死出の田長(しでのたをさ)」とは「ほとゝぎす」の異名である。つまりは、「ホトトギスの鳴き声と語り合うようにして、死後の山へ向かうその山道の道案内を約束するのだ」といった意味]

[補註2:「現なる人」の意味をなせる「現(うつ)し臣(おみ)」から「うつそみ」と変わり、万葉集に「空蝉」「虚蝉」などと記され、やがては「はかないこの世」の比喩として、されにはそれを暗示する「蝉の抜け殻」そのものをも指す言葉と変じたるもの。このあたり、仏教的精神であると同時に、和歌的な表現、季節感を活用している]

 もし、念仏(ねんぶつ)[ここでは浄土教における念仏として、仏を思いつつ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えること]ものうく[「物憂し」で、何となく嫌である、気が進まない]、読経(どきやう/どくきやう)[声に出して経を読むこと]まめならぬ時は、みづからやすみ、みづから怠(おこた)る。さまたぐる人もなく、また、恥(は)づべき人もなし。ことさらに無言(むごん)をせざれども、ひとりだけで居(を)れば、口業(くごふ)[下補註]をゝさめつべし。かならず禁戒[禁じ戒めるべき事・戒律]を守るとしもなくとも、境界(きやうがい)[認知や思想に働きかける六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・身・意)に刺激を与えるべき対象物]なければ、なにゝつけてか破(やぶ)らん。

[補註:身体の動作的な所作に現れるその人の継続的傾向を身業(しんごう)と言い、言語に現れるその人の継続的傾向を口業(くごう)と言い、その人の意思や思想の持つ継続的傾向を意業(いごう)と言う。そのうち社会的に善なるを善業(ぜんごう)と言い、悪なるを悪業(あくごう)と言う]

 もし、過ぎ行く人生という舟のあとの白波(しらなみ)に、この身を寄(よ)する朝(あした)には[この部分、万葉集の満沙弥の歌を改変した「世の中を何にたとへん朝ぼらけ、こぎゆく船の跡の白波」(拾遺集)にもとずく]、岡屋(をかのや)[宇治市五ヶ庄岡屋のあたり]にゆきかふ船をながめて、満沙弥(まんしやみ)[沙弥満誓(しゃみまんせい)、万葉集にその歌を残す。721年に出家するまでの俗名を笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)という]が風情(ふぜい)をぬすみ歌を詠みもしよう、もし、かつらの木を吹き抜ける風、葉をならす夕(ゆふべ)には、白楽天が琵琶を聞きながら『琵琶行(びわこう)』を作ったという、あの中国の尋陽(じんやう)の江(え)を思(おも)ひやりて、源都督(げんとゝく)[源経信(みなもとのつねのぶ)(1016-1097)、公卿にして当代有数の歌人、桂大納言と称される。琵琶の達人であった。百人一首『ゆふされば』の歌の作者]のおこなひを習(なら)ふ。[行いを習って、琵琶を演奏しようという事]

 もし、余興(よきよう)[ここは宴会の余興ではなく、感興すなはち興味を感じるこころのゆとり]あれば、しば/\松のひゞきに、秋風楽(しうふうらく)[雅楽の唐楽に含まれる曲で、四人舞の踊りが付いたもの。それを元にした琴の曲]をたぐへ[「たぐふ」は「並ぶ、添う、連れ立つ」、松に吹く風の響きに合わせて琴を弾くということ]、水の音(おと)に、琵琶の秘曲である流泉(りうせん)の曲[下補註]をあやつる。芸はこれ拙(つたな)けれども、人の耳をよろこばしめむと思ふにはあらず。ひとり調(しら)べ、ひとり詠(えい)じて、みづから情(こゝろ)を養(やしな)ふばかりなり。

[補註:琵琶の秘曲としては、「啄木(たくぼく)」「流泉(りゅうせん)」「楊真操(ようしんそう)」などあり、鴨長明は中原有安(なかはらのありやす)より「楊真操(ようしんそう)」は伝授されたが、「啄木」も「流泉」も伝授されなかった。秘曲は正式に伝授され後継者として認知されないと演奏できない習わしであるところを、「秘曲づくし」のライブを敢行し、事もあろうに「啄木」を演奏してお叱りを喰らったことがある(しばらくのあいだ、都落ちとも言われる)。この事は、鴨長明の卓越した音楽才能と同時に、ロックのたましいを見せつけることとなった。それは冗談としても、ここにやはり伝授されていない「流泉」を演奏すると記すことは、同種の反骨精神をかいま見ることが出来るかも知れない。]

[章の補註:
 この部分、まず自然と観念の叙述により仏教的心境を述べ、そこに至らないときは、満沙弥の風情を習って和歌を詠み、また源都督の行いを習って楽器を演奏しようと続くが、前に提示された「黒き皮籠三合」に治められた和歌・管弦・仏教を展開したものである。しかも和歌を述べたところには、満沙弥の和歌自体を散文化して言葉の遊びをたわむれ、奏楽に於いては自然の響きと調和させつつ語るなど、まるで言葉の音楽を楽しむかのような表現が駆使されている。この構成感とディテールへのこだわりは、他のさまざまな文学作品に対しても、際立っているように想われる]

住まいより出ての生活

 また、ふもとに、ひとつの柴(しば)の庵(いほり)あり。すなはち、この山の山守(やまもり)が居(を)るところなり。かしこ[かのところ、あそこ]に、小童(こわらは)[小さい子供]あり。とき/”\来(き)たりて、あひ訪(とぶら)ふ[問い尋ねる、訪問する]。もし、つれ/”\なる時[「つれづれなる」は暇を持て余している様子を表すが、あるいは「連れ」の意味を掛けたか]は、これを友(とも)として遊行(ゆぎやう)す[遊び歩く、散歩するくらいの意味]

 かれは十歳(じつさい/とを)[「とを」と読むべきとの説、なぜこちらを「十」、と記さず「十歳」と記したのかと考えると、全面的には賛同しかねるが、かといって否定もせず]、これは六十(むそぢ)。その齢(よはひ)離れたる事ことのほか[思いの外]なれど、心をなぐさむる[気持ちを満足させる、紛らわせるの意味]こと、これ同じ。あるいは食用にするために春には茅花(つばな)[茅萱(ちがや)の花]のまだ白くなりきらない若穂をぬき、夏には梨に味の似たる岩梨(いはなし)をとり、秋には山芋の葉の元に付いた零余子(ぬかご)をもり[もぎ取りの意]冬の寒さの残るも初春となれば芹(せり)をつむ。あるいは、すそわ[=すそみ、山のふもとの周囲]の田居(たゐ)[田のある所]にいたりて、稲の落穂(おちぼ)をひろひて、穂を渇かすために束ねて穂組(ほぐみ)[稲を積んで掛けておくためのもの。「稲架(はさ)」「稲架(とうか)」「稲掛け(いねかけ)」などさまざまな呼び名がある]をつくる。

 もし、うらゝかなれば[諸本により「日うららか」とする校訂も有る]、峰(みね)によぢのぼりて、はるかにふるさと[鴨長明の故郷は、すなわちみやこの方角である。田舎を想うのではなく、むしろ田舎から都会を眺めて感慨に耽るような感興か。ただし次に列挙されるのは歌枕ともなっているみやこの郊外である。以下しばらく、地名の説明は割愛]の空を望(のぞ)み、木幡山(こはたやま)、伏見(ふしみ)の里(さと)、鳥羽(とば)、羽束師(はつかし)を見る。勝地(しようち)[名所、景色の良い地]は主(ぬし)なければ、心をなぐさむるにさしさはりなし。

 歩(あゆ)みわづらひなく、こゝろ遠(とほ)くいたる時は、これより峰(みね)つゞき、炭山(すみやま)をこえ、笠取(かさとり)をすぎて、あるいは石間(いはま)に詣(まう)で、あるいは石山(いしやま)を拝(をが)む。もしはまた、粟津(あはづ)の原(はら)を分けつゝ、蝉歌(せみうた)の翁(をきな)[蝉丸(せみまる)生没年未詳。百人一首の「これやこの」の歌で知られるが、無名という琵琶の名器を持ち、巧みに奏したという]が跡(あと)をとぶらひ、田上河(たなかみがは)をわたりて、猿丸大夫(さるまろまうちぎみ)[生没年未詳。三十六歌仙の一人にして、百人一首に「おくやまに」の歌を残す]が墓(はか)をたづぬ。

[このあたりの記述、歌枕と和歌の世界とたわむれている様相]

 帰(かへ)るさには[この「さ」は「とき」くらいの意味]、折(をり)につけつゝ[季節に応じて]、桜(さくら)を狩(か)り、紅葉(もみぢ)をもとめ、わらびを折(を)り、木の実(このみ)を拾(ひろ)ひて、かつは仏(ほとけ)にたてまつり、かつは家づと[家に持って帰る土産のこと]ゝす[底本には「家ツトニス」の「ニ」の横に「ト」と傍書(ぼうしょ)される。修正か。この部分「家づとにす」よりも、「ieuoou」の母音リズムを取って、修正「ト」の方より良きかと思う]

住まいの風情

 もし、夜(よ)しづかなれば、窓の月[たわいもない言葉のようだが、実際は漢語の「窓月」「窓中月」などを大和言葉に開いたものなのだそうだ]に故人(こじん)をしのび、猿のこゑ[猿の声も漢詩にお馴染みの主題]に、袖(そで)をうるほす。くさむらの蛍(ほたる)は、遠(とほ)く槙(まき)[宇治川と巨椋池の間にあった「槙島(まきのしま)」という洲(す)のこと。諸本によって「槙の島の」と校訂するものも有り。幾分くどい説明を、あえて外した表現のように思われるので、採用せず]のかゞり火(び)[このかがり火は、魚を捕らえるためのものだそう]にまがひ[見分けが付かず、見間違える]、あかつきの雨[漢語「暁雨」による]は、おのづから木の葉(このは)吹く嵐(あらし)に似たり。

 山鳥(やまどり)の、ほろ[諸本「ほろ/\と」]と鳴くをきゝても、父か母かとうたがひ[この部分、また和歌とたわむれている。すなわち行基(ぎょうき)の和歌、「山鳥のほろ/\と鳴く声きけば、父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」にもとずくが、これは仏教の六道輪廻の思想による和歌であるという。これほど明確でない引用も含めれば、和歌の慣用句や、ある和歌などから持ち込んだであろう表現は、極めて多く見いだせる]、峰(みね)のかせぎ[「かせぎ」は鹿の古名]の、自分に近く馴(な)れたるにつけても、世に遠(とほ)ざかるほどを知る。あるいはまた、埋み火(うづみび)[炭火を灰の中に埋めて弱らせておくもの。種火として、また余熱として保たれる]をかきをこして、老(おい)の寝ざめの友(とも)とす。

 おそろしき山ならねば、ふくろふの声を、あはれむにつけても、山中(やまなか/さんちゆう)の景気(けいき)、折(をり)につけて尽くることなし。いはむや[「いはむや〜をや」に限らず、最後を断定的な言葉で結ぶ表現、この『方丈記』の中に幾つも有り。ここでは「べからず」で結ぶ]、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限(かぎ)るべからず。

[ひとつ前の章は、和歌の傾向が強かったが、この部分は和歌の領分であるとともに、顕著に音声がクローズアップされて来る。「猿の声」「暁の雨」「山鳥のほろと鳴く」「ふくろふの声」など、音楽的、聴覚に訴える記述を試みている点、管弦的要素を込めた部分であると解釈するのは、すこしロマンチックすぎるか
→あるいは「くらむらの蛍」「かがり火」「埋み火をかきおこす」といったものの、幾つか、あるいはすべては、ある種の音声として捉えられているような気さえしてくる。「鹿」はその鳴き声を持って詠むのが、和歌の常套手段であった。やはり視覚に対して、聴覚の優位が際立っているように思える。]

我がためにのみ

[朗読4]
 おほかた[おおよそ、だいたい]、このところに住(す)みはじめし時[方丈記執筆(建暦二年・1212年の陰暦三月三十日頃)の五年前だと承元元年(1207年)であるが、今日承元二年に日野に移ったと考えられている]は、あからさま[ちょっとの間。しばらくの間]と思ひしかども、今すでに五年(いつとせ)を経(へ)たり。仮(かり)の庵(いほり)も、やゝふるさとゝなりて、軒(のき)に朽ち葉(くちば)[落ち葉の朽ちたもの、腐敗したもの、やがては土へと帰りそうなもの]ふかく、土居(つちゐ)[ここでは、柱の下の土台の所]に苔(こけ)むせり[「むす」は「生える」とか「生まれる」の意]

 おのづから[たまたま]、ことの便(たよ)り[する事のあったついでに]に都(みやこ)この様子を聞けば、この山[日野の外山(とやま)、方丈の庵]に籠(こ)もり居(ゐ)てのち、やむごとなき人[並大抵でない人、すなわち高貴なる人、天皇や公卿などを指す]の隠れたまへるも[お亡くなりになるの意]、あまた[沢山、数多く]聞こゆ。まして、その数(かず)ならぬたぐひ[数えるにもあたらないような一般の人々くらいの意味で捉えておけばよい]たとえ数え尽(つ)くしてこれを知るべからず。たび/\[諸本により「たびたびの」と補う校訂あり。助詞を抜くわざをなんせられける鴨長明なれば、補うには細心の注意が必要である。このか所、「の」があった方が、優れているとは言いきれず]炎上(えんしやう)にほろびたる家、またいくそばくぞ。

 たゞ、仮(かり)の庵(いほり)のみ、のどけくして[のどかであり、静かであり]炎上などの災害の恐(おそ)れなし。ほど狭(せば)しといへども、夜(よる)臥(ふ)す[=寝る]床(ゆか)あり。昼(ひる)ゐる座(ざ)あり。一身(いつしん)を宿(やど)すに不足(ふそく)なし。

 かむな[「寄居虫」(かうな、かみな、かむな)ヤドカリのこと]は、ちひさき貝(かひ)をこのむ。これ、事(こと)[下参照]知れるによりてなり。みさご[タカ目タカ科の鳥で海浜に住み魚を捕らえる]は、荒磯(あらいそ)[荒波の寄せるような磯]にゐる。すなはち、人を恐(おそ)るるゝがゆゑなり。われまた、かくのごとし。事を知り、世を知れゝば、願(ねが)はず、走(わし)らず。たゝ静(しづ)かなるを望(のぞ)みとし、憂(うれ)へなきを、楽(たの)しみとす。

[参照:この「事」は直接的には直前に提示した「この事」にあたる。つまり狭くても眠るだけの床があり、起きているだけの場所のある一身を宿すだけの庵こそが、のどかであり恐れもなく、不足もないという事実を指ししめす。以後、次の「必ずしも事のためにせず」までの「事」は、すべて同じものを指す。ではなぜ「此の事」と記さないかと言えば、同時により広義の意味、普遍的な意味を込めたいがためと思われる。上の文、「事を知り、世を知れゝば」とある「世」が、直接的には「おのづからことの便りに都を聞けば」以後の、「人々の多く亡くなった都、度々の炎上に滅んだ家々」を指すと同時に、広義にはここまで述べてきた世の中の有り様を、明確に内包しているのと同様。次の「必ずしも事のためにせず」の「事」は、より広義の「仮の住みかとしての家」の本分を示すかと思われる。
 これは同時に諸本で、この部分の「事」を「身」に改変しているのは、咀嚼不足による改悪である可能性を示唆していると言えるだろう。]

 すべて、世の人の、すみかを作るならひ、必ずしも事(こと)[直前の参照に記す]のためにせず。あるいは、妻子(さいし)・眷属(けんぞく)[一族、親類]のためにつくり、あるいは、親昵(しんぢつ)[親しい人]・朋友(ぼういう)のためにつくる。あるいは主君(しゆくん)・師匠(しゝやう)、をよび財宝(ざいほう)・牛馬(ぎうば)のためにさへ、これをつくる。

 われ今、身のために結(むす)べり。人のために作(つく)らず。故(ゆゑ)いかんとなれば[理由はどうしてかというと]、今の世のならひ[今の世の常として]、この身のありさま、ともなふべき人[特に妻のこと]もなく、たのむべき奴(やつこ)[従者、使用人、召使い]もなし。たとひ、広(ひろ)く作れりとも、その屋敷に誰(たれ)を宿(やど)し、誰(たれ)をか据(す)ゑん。

なぜならば

 それ、人の友(とも)とあるもの[「友人としてあるもの」]は、富(と)めるを尊(たふと)み、ねむごろ[親切である、丁寧である、むつまじい]なるを先(さき)とす。かならずしも、情(なさけ)あると、素直(すなほ)なるとをば愛せず[底本「不愛」と漢文風に記入]。ただ、絲竹(しちく)[糸の楽器と筒の楽器の意味で、管弦、音楽の意味]・花月(くわげつ)[自然の情緒を象徴]を、友(とも)とせんにはしかじ[「〜に(は)しかず」で「〜に越したことはない」「〜に比べて及ばない」]。人の奴(やつこ)[使用人、人に使われる身分の低い者]たる者は、賞罰(しやうばつ)[気持ちとしては罰はなく恩賞のみを指す]はなはだしく、恩顧(おんこ)[ひきたて、恵み]あつきを先(さき)とす。さらに[「更に+打ち消し」で、「決して、まったく」といった意味]、はぐゝみ[いつくしみ育てる]あはれむ[愛でる]と、やすく[安らかである]静(しづ)かなるとをば願(ねが)はず。

 たゞわが身を、奴婢(ぬび)[「奴」は男の使用人であり、「婢」は女の使用人、つまり下女である。合わせて「奴婢」という]とするにはしかず。いかゞ[「いかがして」つまり「どのようにして」]奴婢とするとならば[奴婢とするかというと]、もし、なすべき事あれば、すなはち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど[「たゆし」は「疲れてだるい」の意味]、人をしたがへ、人をかへりみる[ここは「心に掛ける、世話をする」の意味]よりやすし。

 もし、歩(あり)くべき事あれば、みづからあゆむ。苦(くる)しといへども、馬鞍(うまくら)・牛車(うしくるま)[乗馬と牛車(ぎゅうしゃ)のことを指している]と、心を悩(なや)ますにはしかず。今、一身(いつしん)を分かちて、ふたつの用をなす。手の奴(やつこ)、足の乗物(のりもの)、よくわが心にかなへり。

 身心(しんじん)[=心身(しんしん)、身体と心。下に補註]の苦(くる)しみを知れゝば、苦しむ時はやすめつ、まめなればつかふ。つかふとても、たび/\過(す)ぐさず。物憂(ものう)しとても、心をうごかす事なし。いかにいはむや、常(つね)に歩(あり)き、常(つね)にはたらくは、養性(やうじやう)なるべし。なんぞいたづらに、やすみをらん。人をなやます、罪業(ざいごふ)なり。いかゞ[反語の副詞、「どうして〜すべきであろうか」]、他のちからを借(か)るべき。いいや、借りるべきではないよ。(反語)

「補註:
「角川ソフィア文庫」で「身心の苦しみを知れゝば」の部分を、「身(み)、こころの苦しみを」と読ませるのは幾分か屁理屈めいた解釈の気がする。流布本系の「心又身の」などからひるがえって解釈したとすれば、後の校訂にのっとって原典を改編していることにもなりかねず、「身」が「こころの苦しみを」とするならば、下は「知れば」といきたくなるところではある。ここの意味は、身が心の苦しみを知るのでもなく、心が身の苦しみを知るのでもなく、「心身の苦しみが知られれば」つまり「気づかされれば」で、だからこそ「知れれば」なのではないだろうか。もっとも古文の知識ははなはだ疎し。感想の域を出ず。されどまた、「心が身の苦しみを知れば」という発想自体が、ずいぶん理屈にまさった現代人風の解釈で、鴨長明などはそのような表現はなさなかったのではないか、そのそもこの部分において、「心」と「身」はそれほど離れた存在として語られてはいないのではないかという疑問もある。「使ふとてもたびたび過ぐさず、ものうしとても心をうごかす事なし」の文が、「こころが身の苦しみを」や「身がこころの苦しみを」の応答として、機能するよりも、むしろこの部分においては「心身」、つまり一体化したこころと体の関係を述べているように思えることもある。つまりは続く部分に「わが身ひとつにとりて」とあるのが、体にとってではなく、心身にとってであると言うことと同じことである。時が迫れば、考察はこれにて放置]

 衣食(いしよく/えじき)のたぐひ、またおなじ。藤(ふぢ)[ここでは藤や葛(かずら)などの蔓類を総称したもの]の衣(ころも)、麻(あさ)のふすま[これは寝るときに身を覆う寝具であり、障子や襖(ふすま)とはまた別である]、得(う)るにしたがひて、肌(はだへ)を隠(かく)し、野辺(のべ)のおはぎ[嫁菜(よめな)の古称]、峰(みね)の木の実(このみ)、わづかに命(いのち)を継(つ)ぐばかりなり。

 人に交(まじ)はらざれば、すがたを恥(は)づる悔(くい)もなし。糧(かて)乏(とも)しければ、おろそかなる報(むくい)[粗末な、質素な果報(の結果としての今の生活)、つまり背負った宿業、前世からの因縁が、粗末なものに過ぎないということ]をあまくす[甘んじる、享受する]。すべて、かやうのたのしみ、富める人に対(たい)して、言ふにはあらず。ただ、わが身ひとつにとりて、むかしと今とを[底本「ムカシ今トヲ」。あるいは「uaio,iaoo」の「o」の繰り返しを避けた方が、同母音の連続によって口調が流暢に進むことを配慮したものか。何度も唱え直していると、そっちの表現の方が面白くさえ思えてくるくらいである。されど今は現代語としての分かりやすさに依存して、諸本によって「昔と今とを」と改めておくこととする]なぞらふる[比べる、くらいで考えた方が分かりやすい]ばかりなり。

[「一条兼良本」などには次の文が続けられている、ただしこれにより前後の文脈が途切れるのでいささか不自然なり]
 おほかた、世を逃(のが)れ、身を捨(す)てしより、うらみもなく、恐(おそ)れもなし。命は天運(てんうん)にまかせて、惜(お)しまず、いとはず。身は浮雲(うきぐも/ふうん)になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期(いちご)のたのしみは、うたゝねの枕(まくら)のうへにきはまり、生涯(しやうがい)の望(のぞ)みは、折々(をり/\)の美景(びけい)にのこれり。

つまるところ

 それ、三界(さんがい)[下補註]はただ心ひとつなり。心、もしやすからずは、象馬(ざうめ)[象と馬、インドで貴重な家畜だったので、転じて大切な宝物の意]・七珍(しつちん)[安元の大火にすでに出]もよしなく、宮殿(くうでん)・楼閣(ろうかく)[立派な建物のたとえ]も望(のぞ)みなし[「よしなし」も「望みなし」も得る事が出来ないのではなく、得ても無意味であるということ]。今、さびしきすまひ、一間(ひとま)の庵(いほり)、みづからこれを愛(あい)す[おまけ「愛する」という言葉は、漢語から来て、この頃には使われていた。比較的新しい表現]

[補註:三界唯一心。欲に捕らわれた欲界(よくかい)、まだ物質世界から脱却しない色界(しきかい)・精神作用に生きる無色界(むしきかい)という、人の生き死にするすべての世界は、すべて心よりもたらされるの意]

 おのづから[前出。「たまたま」の意]都(みやこ)に出(い)でゝ、身の乞[次、ツツミガマエの中に「人」を記して、その左に「|」その下に「―」を記して囲った漢字一文字。合わせて「こつがい」と読む。乞食の意味。鴨長明は出家しているので、托鉢(たくはつ)をしてという意味で、現在の浮浪者のように食べ物をあさるものではない]となれる事を恥(は)づといへども、帰(かへ)りてこゝに居(を)る時は、他の人々の俗塵(ぞくぢん)に馳(は)する[世間の煩わしいことどもに走り回る]事をあはれむ[不憫に思う]

 もし人、このいへる事をうたがはゞ、魚(いを)と鳥(とり)とのありさまを見よ。魚は水にあかず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居(かんきよ)[閑静な住まい]の気味(きび)[おもむき、様子]もまた同じ。住(す)まずして、誰(たれ)か悟(さと)らむ。

[「魚と鳥」の部分は、『荘子(そうし)』『陶淵明集』に由来する]

 そもそも、一期(いちご)[一生、一生涯]の月かげ[地上に届くあかりではなく、月そのものを指している。一生という月の運行がそろそろ傾いてということ。月を人生にたとえるのも和歌にその種の表現がある]傾(かたぶ)きて、余算(よさん)[余命、残りの寿命]の山の端(は)に近(ちか)し。たちまちに、三途(さんづ)の闇(やみ)[悪い因縁によって死者が赴くという三つの暗黒世界のこと。つまり鴨長明は、自分の業が深いので、三途の闇に落ちるであろう、と述べているが、わずかに自虐的な諧謔を込めている。かといってユーモア一辺倒でもなく、みずからのこころが濁っているのではないかという、真実の思いもまた抱えている]に向(むか)はんとす。何(なに)の業(わざ)をか[どのような自分の行為を、つまりは回想的に今まで行ってきた行為を]、託(かこ)たむ[自らの境遇を嘆く、ぐちをこぼす]とする。

 仏(ほとけ)の教(をし)へたまふおもむき[趣意、意向、趣旨]は、事に触(ふ)れて[さまざまな事柄に触れるに及んで、くらいで捉えておく]、執心(しふしん)[執着する心]なかれとなり。今、草庵(そうあん)を愛するも、閑寂(かんせき)[「かんじゃく」物静かなこと、ひっそりと寂しいこと、ここではそのような生活の意味]着(ぢやく)するも、仏の教えの障(さは)りなるべし。いかゞ[前にも出たが、反語の「いかが」]、要(えう)なきたのしみを述(の)べて、あたら[惜しむべき、せっかくの]時を過(す)ぐさむ。いいや、過ごすべきでないよ。(反語)

[(本文に関係なし。次へ移るべし)
 諸本に「今、草庵を愛するも、とがとす。閑寂に着するも、障りなるべし」とあるものは、改悪の気配濃厚なり。この部分、「仏の教えの趣旨は、何事にも執心のないように」であるという理由を述べて、「草庵を愛するのも、閑寂に着するのも、障りであるものを」と、その理由から導き出される結論を加え、そうであるからこそ「どうして無駄な楽しみを述べてむなしく時を過ごしていいのであろうか、いいや良いはずがない」と反語による強調をいたるまで、「方丈記」全体の最後のクライマックス(次へと続く)を取りまとめているのであり、全体が一つのまとまりとしての文章を形成しているもっとも重要なケ所である。そして文脈に於いて、「いいや、それで良いはずがない」と結論づけるのは、まさに最後の部分に提示される反語によってである。それにも関わらず、その前に、「今、草庵を愛するのも咎とす」と置くのは、文脈全体の構想を無視して、局所的に、「仏の教えに反するから、草庵を愛するのも罪です」と結論づけることになり、「執心なかれ」に対する答え「障り」へと向かう文章の連続性を断絶する結果となる。誰の改変にせよ、文脈全体の高揚を削ぐものと言わざるを得ない。]

 しづかなる暁(あかつき)、このことわりを思(おも)ひつゞけて、みづから心に問(と)ひていはく。世をのがれて、山林(さんりん)にまじはるは、こゝろを修(をさ)めて、仏の道を行(おこな)はむとなり。しかるを汝(なんぢ)、すがたは聖人(ひじり/しやうにん)にて、こゝろは濁(にご)りに染(し)めり。住(す)みかはすなはち、浄名居士(じやうみやうこじ)[維摩居士(ゆいまこじ)インドの富豪であり、釈迦の在家の弟子。一丈四方を住まいとしたという]の跡(あと)をけがせり[彼の名誉を穢すみたいにして真似ている]といへども、たもつところ[自分が現在保持している精神的な立脚地は、くらいの意味]は、わづかに周利槃特(しゆりはんどく)[釈迦の弟子、十六羅漢の一人。極めて愚鈍であったが、ついに悟りに達した]がおこなひにだに[「だに」=「さえ」]及(およ)ばず。もしこれ、貧賤(ひんせん)の報(むくい/ほう)の、みづから悩(なや)ますか[前世の報いによって、自分が貧賤の宿業を背負い、それに悩まされ続けるものか、といった意味]。はたまた、妄心(まうしん)[俗的な迷いの心。ここでは修業を妨げるさまざまな迷いの心、つまりは自分が述べてきた要なき楽しみそのものによって、ということかと思われる]のいたりて狂(きやう)せるか。

 そのとき、心(こゝろ)、さらに答(こた)ふる事なし[このクライマックスでも助詞をわざと省略した形が使用されている。鴨長明はこれを技法的に駆使して『方丈記』を執筆しているので、安易に助詞を補うのは、とんでもない過ちを犯す可能性を、多大に秘めている。そのところから、校訂作業を始めないと、見るも無惨な出鱈目に陥ってしまうだろう]。ただ、かたはらに、舌根(ぜつこん)[六根の一つ、舌の力]をやとひて、不請(ふしやう)[真に心から願ってるわけでもない、あるいは不承知であるという意味(これを望まなくても訪れる仏の慈悲とする説があるが、全体の文脈から取れないと思う。それだとクライマックスが台無しになる)]の阿弥陀仏(あみだぶつ)[底本「不請阿弥陀仏」であり慣習的に「の」が補われているが、あるいはここも、わざと「不請」と切って、かえって助詞のあるよりも前後関係を深めるという特殊な技法を駆使したものかも知れず。口に出して「不請」と言い切って、さらに続けると「不請(にも)阿弥陀仏」「不請(なことに)阿弥陀仏」といったニュアンスが、かえって強調されるようにも思われる]、両三遍(りやうさんべん)申(まう)してやみぬ。

[(現代語訳)
 その時、心はさらには答えなかった。いまはただ、答えない心のかたわらに、舌のちからを借りて、心のあずかり知らない南無阿弥陀仏を、三回ほど唱えて終わりにしようか。]

[この部分、悟れぬものの嘆きなどではまるでない。精神としてはむしろ、聖にもあらず、俗にもあらず、身をこうもりの、隠棲の人としての自覚、つまり草庵の生活を堪能することも、そこに音楽を鳴らし、和歌を吟ずることも、決して辞める事はない、これが自分のスタイルであると、静かに明言した、実は力強い決意表明の部分であり、これを悲観的や、皮相的にのみ聞くことは、はなはだしい誤りかと思われる。もとより感想に過ぎず。。]

[追考1
 五味文彦著の『鴨長明伝』に、この部分は「南無阿弥陀仏」すなわち「阿弥陀仏に帰依します」の代わりに「不請阿弥陀仏」すなわち「阿弥陀仏の慈悲を求めず」と三回唱えたのだという説あり。これだと「今はまだ阿弥陀仏の力には頼らず」というポリシー宣言にもなるので、きわめて自覚的な意志を持ったクライマックスになる。この説、取るべきところがあるかと思われる。]

[追考2
 法然(ほうねん)の唱えた「専修念仏」、つまり「南無阿弥陀仏」と唱えることにる往生が民衆の間で流行を引き起こしたとき、それが安易なかたちで咀嚼され、また新興宗教めいた同調者を生みなし、伝統的な宗派からは、異教集団のようにさえ見なされたことが、伝統的仏教の中心者である慈円(じえん)の『愚管抄(ぐかんしょう)』にも記されているが、あるいは鴨長明のそれも、「専修念仏」の述べるような「南無阿弥陀仏」と唱えればそれで果たされるような救済は、是としないという意味かも知れず。意味する所は、「口さきだけの仏による救済を求めず」あるいは執筆のクライマックスとしては「ここに安易な救済の言葉にすがることはしない」という意味になるか。]

 時に建暦(けんりやく)の二年(ふたとせ)、弥生(やよひ)のつごもり[1212年、陰暦三月末日]頃(ごろ)、桑門(さうもん)の蓮胤(れんいん)[「桑門」は出家して仏の修業の道にあるもの。「蓮胤」は鴨長明の法名。つまりは「僧の蓮胤」と名乗ったまでのこと]、外山(とやま)[日野の外山]の庵(いほり)にして、これを記(しる)す。

             方丈記

[次に後の人の識語(しきご)あり]
      右一巻鴨長明自筆也
      従西南院相傳之
       寛元二年二月日
            親快證之

2012/9/6

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